755日目・・・「博愛主義」・・・コトバって難しい。「博愛主義者」とは何ぞや?・・・「人種、国家、階級、宗教などの違いを越えて、人類は広く愛し合うべきであるとする主義の人」であるらしい。問題は「人種、国家、階級、宗教」などの違いがあるからこそ、「超えていない」からこそ、「愛するコト」は「無理な問題」なんじゃないか・・・「越えている」ならば、敢えて「博愛主義」などは無用である・・・「国家秩序」と、その「階級秩序」を「人々は超えられていない状況に存在する」から、愛し合う「べき」の「博愛主義の願望、期待」の「

 世の中の人々の「存在論的目的」が「生きて生活するコト自体」である。生活し、命を維持するには「最低限の衣食住」が必要だ。この「衣食住」を確保するタメに殆どの人々は「働く」のだ。その「働く能力」は個々人に「格差」がある。年齢差、体力差、技術差など。そして病気など種々な事情で「働けない人々」もいる。だが、人間は「人間相互関係の社会」で「相互扶助、協同(共同)生活」している。そのプロセスで個々人の「次の目標」が出てくるだろう。
 「最低限の衣食住」とは社会的に「公平な衣食住」である。生きている人々の「意識」の問題としては「最低」も「最高」も許すことが出来ないのさ。どこかのアラブの国では働かなくても、そこの「国民」は「年間300万円(?)支給」されるらしい。それでも、「600万円」もらっている奴がいるとなると許せないのが「人間意識」である。かってのアメリカの70年代、「公民権問題」で暴動を起こした「スラム街」と呼ばれていた「黒人」たちの住居する家は、当時の学生だったボクの安アパートからみれば「高級マンション」であった・・・ただ生きていくだけではない、どのように生きるべきか、何のために生きるべきか・・・それでも取り敢えずは「衣食住の生活物資」をどのように得ていくかが問題となるハズである。最終結論は人々の「社会的公平な生活」である・・・だが「物資」と交換できるモノが「カネ」である。あらゆるモノと交換できる「交換手段」がカネである。今現在は「キャッシュカード」なども利用されている。
 そして、明日や、家族の食い扶持を考えれば、「エンゲル係数」を低くするタメの「余裕」としてのカネの貯金である。「余裕としての欲」が出たら「私有財産法」の下で「自由な金儲け」である。そして、この「自由な儲け方」にも色々アル。
 で、「儲けた金」を「私有財産」として「使用目的」で「慈善」に使用するか、無償、有償の「食糧援助」等に廻すか、豪邸を建築し、宝石を着飾って美女、美男を侍らすか・・・どうかは・・・「自由」である。
 「儲けたカネの一部」を再度、再三、再四、儲けるタメに「資本」投資として廻すのが一般的な「資本主義経済の世の中」。
 「余剰なカネ(儲けの一部)」を廻して、更に「儲け(利益・利潤)」が黒字じゃなければ、一切の「原材料費・人件費・諸経費」は賄えない。
 「博愛主義」を支える「慈善事業運用」も、「食糧援助」も、「投資で儲けた余裕資金」次第である・・・既に膨大な「私的余裕資金」を蓄財している奴ならば、その資金を「博愛主義者」として寄付金、援助金とする人間もでてくるだろう。
 だが「投資資本・資金」があっても、儲かる「市場」がなければ、儲けようとしても、その「投資資本・資金」の行き場は無くなってしまう。市場があっても儲けがなければ、倒産破産するのも「自由」である。
 今現在はダブついた投資資金は「食料・燃料、鉱物などの原材料」に先物買で「現物」に投資されている。世界的、地球規模的に物価は高騰するのは必至である。供給と需要の「情報」が人間の「心理」を左右する。「情報」で金融市場が揺らぐ。人口問題が物価を押し上げるなんてことは、そう、問題ではない。どんな時代でも「インフレ」は「情報」に影響された投機的な「人間心理」の問題である。「投機的な博打」である。「博打」は「双六遊び・囲碁・勝負を争う遊び」と漢和辞典にはある。「博弈=バクエキ=博奕」は「賭博」である。「博愛」と「博弈=バクエキ=博奕→賭博」・・・「亦の人」、「亦(エキ・ヤク・また・もまた・両脇)の廾(キョウ・ク・捧げる・手をこまねく)」とは何ぞや?・・・「博多の人」・・・
 世界恐慌・・・当然、衣食住の保証は「国家単位」では「自国の国民」の生活保障が優先される。だが、保証されるのは「国民一般」としてではなく、「特殊な国民階層」である・・・カネの無い人間が保証されないのはこの世の中ではアタリマエである。
 一般的な「資本主義経済社会」のカラクリでは「食糧援助」を「無償」ではしない。「無償援助」したとしても、「自己に有利」な何らかの「政治的な代償」を期待している。
 思想としての「博愛」も、現実的な救済、救援となれば、モノとカネ次第である。念仏を唱えているだけならばダレも救えない・・・精神力も肉体的体力維持と相互関係にあるから。
 では、どうすればイイのか?・・・究極的には「博愛対象」が存在しない、必要としない「アタリマエの社会」の構築である・・・ムリだろうなッ・・・でも、ナゼ「博愛」が必要なのかを追求すべきである。この地球上では「博愛」されていない人々が満ち溢れているから・・・
 以下は辞典からの「博愛主義」、「人道主義」の抜粋である。
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 philanthropism
 人種、国家、階級、宗教などの違いを越えて、人類は広く愛し合うべきであるとする主義
 a philanthropist
 humanitarianism
 人間愛の立場から人々の福祉を図ろうとする思想態度。
 博愛・平等、人種の尊重、平和・無抵抗主義などを特徴とする。
 ヒューマニズム(人間尊重主義)の一形態。
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 人道主義・博愛主義を指して
 「ヒューマニズム」と言う場合もあるが、
 英語では
 人道主義
 「humanism」と区別して
 「humanitarianism」
 で表すこともある(必ずしも一般的ではない)。
 今日の日本ではむしろこの意味で「ヒューマニズム」が用いられることが多いが、
 上記のように歴史的・哲学的文脈での人文主義者の主張は、
 戦争反対とか、
 「弱者に優しくしよう」といった発想と直ちに重なるものではない。
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 「弱者に優しくしよう」と言ったモノではないらしい。
 で、「博愛」と言うコトバだけれど、
 「博愛主義」の「博愛」の「博(ハク・バク・ひろい・多い・広める・あまねく)」は「博打・博徒」の「博」でもある。そして、「博学・博識・博士・博物館・博覧会」の「博」である。「博愛」とは漢和辞典の意味では「分け隔てなく広く多くの人々を愛す」とある。「博言学」とは「言語学」である。「博狼沙」とは「張良」が「秦の始皇帝」を「鉄錐」で暗殺しようとして失敗した場所であるらしい。
 漢字の「博」の「専(セン・もっぱら・単独)」は「專(叀+寸)」の略字であるらしく、「博」の造りは「十+専(專)」である。「十」は「四方八方・中央」で、「専=專」は「セン・もっぱら」で、「博」の類字に「摶(ハク・たたく・なぐる・とらえる)」がある。
 ・・・「博打・博徒」の「博」が、「博愛」の「博」と重なるのは、この漢字「博」が「摶」や、「束縛」の「縛」と類字するからではないのか・・・「博愛」が「迫害」の結果の思想であるならば、尚更、自己納得である・・・