708日目・・・「ローマの休日」って、「モンテスキューのローマ盛衰原因論・第六章・あらゆる民族を征服するためにローマ人のとった統治について(世界の名著・モンテスキュー・中央公論社・昭和47年7月発行)」によれば「戦争準備期間のコト」なんだけれど・・・大資本家の女王陛下様、王女さま・・・確かに「ヘップバーン」の「ローマの休日」は個人・国家・自由・制約・ジャーナリスト・戦争・階級関係・男と女の関係の「約束・契約・条約」がテーマだったかな(?)・そして古代「ローマの約束」とは「約束を破るコト」だった・・・「シ

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 25歳でボルドーの高等法院の参事官となる。1716年、伯父の死により、モンテスキュー男爵の爵位ボルドー高等法院副院長の官職を継ぐ。しかし実務面には関心がなく、1721年には『ペルシア人の手紙』を匿名で出版。1726年、37歳で辞職。以後、学究生活に入る。1728年1月、アカデミー・フランセーズの会員に選出された直後、4月から諸国遍歴の旅に出る。1731年に帰国。1734年、『ローマ人盛衰原因論』、1748年、『法の精神』を出版。
 イギリスの政治に影響を受け、フランス絶対王政を批判し政治権力を分割し、均衡と抑制による権力分立制の基礎を築いた。
 法とは「事物の本性に由来する必然的な関係」であると定義し、権力を分割しない統治形態による法からは政治的自由が保障されないと考え、執筆に20年かけたといわれる著作『法の精神』で、権力を立法・行政・司法に分割する三権分立論を唱えた。
晩年は視力の減退に悩まされた。そんな中『百科全書』のために「趣味論」の執筆に取り組んだが、完成することなく1755年2月10日にパリで逝去した。
 社会学の父 (pères de la sociologie) と考えられている。
 『ペルシア人の手紙』の一節では非キリスト教国の出生率の高さを離婚を許容しているためとし、また「夫婦相互の愛情に何よりも寄与するのは離婚の可能性である」と述べた箇所がある(女性の離婚権のみを主張)。
 彼の肖像は旧フランス・フランの200フラン紙幣に描かれたことがあった。
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 ・・・と、サッ・・・「事物の本性に由来する必然的な関係」って、「事物」ってナンだろう?・・・確かに「事物」って、「200フラン紙幣の肖像画」だものねッ。日本の「壱万円札」は「福沢諭吉」だけれども「学問のススメ」は「蓄財と博打のススメのコト」なんだろう。