668日目・・・昨日(6月20日)、NHK教育番組、最終回の「サンデル教授(?)の思想の結論」、「人間」としての「哲学的生き方の結論」が・・・左右上下に揺れ動く人間の「信条、心情、新条、進上、身上」の、「ホワット・マイケル?」だったニャン・・・多様化する人間の「思想」に於いては常時日常性の問題を「原則」に立ち帰って「弁証的(ギリシャの論争方法)」に「問い返すコト」だった・・・ボクが理解している「自然-弁証法・唯物-弁証法」とは違うんだけれど、「W・マイケル」、それが「おニャンコ共同体で思想の多様化の中で

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 1977年に、アメリカのナチス党は、ナチスによるユダヤ人大虐殺の生存者の多くが住むイリノイ州スコーキで、デモを行おうとした。
 市がそれを拒むと、ナチス党は裁判所に訴えた。スコーキ市が公共の場での憎悪発言を禁止したことは許されるだろうか? 見解の分かれる発言の価値について評価することなしに、この質問に答えることは可能か?

 人間は受胎と同時に人間となるのだから、中絶は殺人となると信じている人がいる。
 一方、女性には自分自身の体に関する判断をする権利があるのだから、中絶は合法であるべきだと主張する人もいる。
 あなたはどう思うか?
 中絶は合法であるべきか?
 どのような条件であれば中絶は認められるべきか?
 中絶が殺人となるかどうかをという論争を避けて、中絶が合法であるべきかどうかを決めることはできるか?

 同性愛は不道徳であり、それゆえに、同性結婚は許可されるべきではないと信じている人がいる。
 一方誰もが平等に扱われる権利を持っているのだから、同性結婚も許可されるべきだと主張する人もいる。
 あなたはどう思うか?同性結婚は合法であるべきか?
 同性愛の価値について判断することなく、この質問に答えることは可能か?
 結婚の目的は生殖であり、それゆえに、同性結婚は許可されるべきではないと信じている人がいる。
 結婚の目的は、性別に関係なく、大人の間の愛情ある関係を称え、促進するものだから、同性結婚も許可されるべきだと主張する人もいる。
 結婚の目的と意義について判断することなく、同性結婚についての立場を擁護することは可能か?
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 上の文章で、「TVの白熱教室」とはチョット異なって、抜けている部分は「国家」が「法」として「介入できるのか、否か」である。
 いかなる「国家」も「階級(利害)国家」である。「階級」とは何か?「利害関係が約束されている社会組織」である。では「利害関係」とは何か?「個々人、個々の共同体組織、団体に於ける損得諸関係」である。財物に於いても、精神感情に於いても「得をする人」と「損をする人」の「諸関係」である。
 「あること」に対して「みんなが得する」、「みんなが損をする」と思っている「運命共同体的観念=死ぬも生きるも一緒」との「約束のコトバ」で成り立っている「共同体・組織・団体」である。
 「思い・気持ち」は「勝手」であるが、
 事実、実際、現実は「あること」に対して「ある特定の人、ある特定の組織が生活上(生活財=衣食住+余暇+余裕)に於いて得する」、「ほとんどのみんなが生活上(生活財=衣食住+余暇+余裕)に於いて損をする」ところの「共同体・組織・団体」である。
 「国家=国民」とは現実的に「利害損得の人々の諸関係」から成り立っている。
 「国民」とは様々な階層分化の人々からなっている人々のコトであるが「国家の法秩序の規制下」にある人々である。
 では「国家の法秩序」の「基本法」とは何か?
 「基本法」とは「私有財産権」である。
 その「枠内」で人々の「損得利害諸関係の生活秩序」がある。

 1)「得する人々」とは、高級官僚の特権と、その天下り会社の利益に属する人々。そして代議員の巨額な年収と特権を行使でき、その代議員と、その選出母体の特権的利益を共有している人々である。

 2)「一番得する人々」とは・・・働く人々を雇い、生産、流通市場からの「儲けの管理権」を有し、その雇用した全ての人々に「儲けの部分」から「原資・源泉」の「賃金、給料を分配権利を有する人々」で、「資本」として「利用の約束事=法」をよく知り、「お金の使い方を知っている人々」である。
 時には「資本」の利用に失敗もするが・・・

 3)「一番損する人々」とは、「源泉徴収」として「税金」を盗られ、その「税金の配分恩恵」から排除されて生活をしている人々である。

 4)「1)2)3)」の人々は「各国家」の「領域内」で「損得諸関係の生活」しているが、「世界の国家間の諸関係」の地球規模の中で「損得諸関係の生活」している。
 サッカーの「ワールドカップ」は「国家間の競技」である。「平和な戦争」である。そして「国家間の協議」での開催である。「得する人々の狭義の教義」で世界の人々、「地球人」を巻き込んでいる・・・「狭義の教義」とは「儲け」である。開催の理由は「得する人々の世界秩序の維持」、「損する人々の運命共同体としての幻想、夢の意識の組織化」である。
 「南アフリカ国家」の人々の「経済貧富の格差(ドウ国籍黒人間の)」は日本などとは比べものにならない。

 人々が「諸市場」を媒介にして「儲けるコト」が「道徳的・法律的」に「悪い」と言うことではない。「正義云々・善」と言うことでもない。
 「善・正義・道徳」、「自由」、「法」・・・その「揺れ=試行錯誤=行きつ戻りつの相互の自由な議論」の源泉は「私有財産権」と言う「観念」にある。
 「W・マイケル」の「コタエ」は、ムカシも、今現在の諸社会、団体、組織も「私有財産権」を「基盤」に「観念的な約束事のコトバ=みんなの得であるはず、と言う運命、宿命としての共同幻想と思い込んでしまっている」と言うところにある、ニャン。