667日目・・・日本代表サッカーの正念場・・・強豪と言われている各国代表チームも・・・たいしたことはない・・・「厭な予感」がピ〜ンときたのはTVでのサッカー解説者らしい「セルジヲ某」とか言う奴の声を聞いた時だ。チームが不利になっていてコッチの気持ちがグランドの選手と重なって一生懸命になっている時に、彼の解説は何時も気持ちにミズをさすような「マイナーなコトバ」ばかり。ボクがTVで日本チームのサッカーを観戦する時にアイツが「解説」で出てくる時は「日本」が勝ったタメシがない・・・だったらお前がグランドでヤレェ

 昨日の書き込みも、一昨日の書き込みも「書き込んだモノ」を亦、不手際から消してしまって、何を書いたのか、何を書き込みたかったんだか、ボケ、ッ。
 ・・・「光武帝」登場する以前の「新王朝・王莽」の「始建国・元年〜13年」の「始建国・13年(癸酉年)」の記録された出来事に関してだったんだけれど・・・「ウサギ(兔・兎・ウさギ)」の物語・・・忘れた・・・思い出したの追記すれば「建武13年・光武帝・西暦37年・丁酉年」に「白兎(ハクト・ヒャクト)を瑞兆として献じる」とある・・・朝鮮半島の形は「ウサギ形?」・・・百都・壱百頭・珀徒・飛躍・非役・秘薬・秘鑰・碑訳・・・秘訳
 「東郭逡(トウカクシュン)」と言う足の速い「うさぎ」と「韓子盧(カンシロ)」と言う足の速い「犬」が中国の斉国にいて犬が兎を追いかけ、「山を三度巡り」、「山を五度登り」しているうちに兎も犬も斃れてしまった。そしてそこにやって来た猟師が二匹の獲物を簡単に手に入れた(「斉国・淳于髠」)と言うハナシである。似たような物語には「漁夫の利」と言うコトバもある。それに「まちぼうけ」と言う「兎が木の根っ子(切り株)にぶつかって死んだのに味しめ、他日も木の根っ子の側で待ち構えていた」と言う童謡がある。「コロリ、転げて、木の根っ子」である。「同じ柳の下には何時も泥鰌はいない」と言うコトのハナシである。

 東・郭・逡(トウカクシュン)→東に郭は逡(逡巡)
   ↓逡巡=しりごみ・あとじさり・ぐずる
   ↓   詞理語診・後の字去り・具図留
   郭の務は悰(心宗)=郭務悰←日本書紀第二十七巻天智

 韓・子・盧(カンシ・ロ)→「諫死・看視・環視」の鷺(さぎ)
 ↓                       ↓
 ↓     干支(漢詩)の賂(まかない)=詐欺・詐偽
 韓の子は盧=韓は新羅・・・盧=盧+鳥=持統天皇
     ↓          ↓  
     盧+鳥=鵜=始末鳥=鵜野讃良
 
 「於菟(オト)」が「虎」の意味する中国語の漢字表現だった。日本人なら「オト」は「音(オン・イン)」だろう。「虎(コ)=とら=寅(イン)」。羽をツケた虎は「天武天皇」だった。それとも「オト=尾都=尾張尾州」の「名古屋(名古野・那古野・名児耶)」か、九州の「名護屋」だろう。「加藤清正」は元は「尾張の人」で、「城郭、城造り」の名人で、熊本城主、そして「トラ退治」で有名だが・・・尾張名古屋城の最後の殿様は「写真家」の「徳川慶勝」であった。
 ウィキペディア百科事典によれば、九州の「名護屋」は
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 ”「名護屋城(なごやじょう)」は、肥前国松浦郡名護屋(現在の佐賀県唐津市鎮西町名護屋)にあった城。豊臣秀吉文禄・慶長の役に際し築かれた城。”
 とある。亦、
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 旧東松浦郡
 唐津藩の城下町を前身とし、佐賀市に次ぐ人口規模を有する佐賀県第二の都市。唐津湾に注ぐ松浦川河口を中心に市街地が形成されている。唐津神社の秋季例大祭である唐津くんち特別名勝の虹の松原、呼子朝市などで有名で、広大な面積に多数の観光資源を有する。
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 「松浦」の姓を有する人物に「松浦武四郎」がいる。
 松浦 武四郎(まつうら たけしろう、1818年3月12日(文化15年2月6日) - 1888年2月10日)は江戸時代、幕末から明治時代にかけて活動した日本の探検家である。
 雅号は「北海道人(ほっかい・どうじん)」。
 蝦夷地を探査し、北海道という名前を考案した。
 松浦家は、肥前国平戸の松浦氏の一族で中世に伊勢国へ来たといわれている。 
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 県都のある佐賀都市圏とは歴史的・文化的観点から馴染みが薄く、比較的福岡都市圏との馴染みが強い。
 また魏志倭人伝に記述のある末盧国(まつろこく、まつらこく)は唐津市の所在する東松浦半島に所在したとされており、古墳時代初期に造られた日本最古級の前方後円墳の一つとされる久里双水古墳や国の史跡である葉山尻支石墓群や谷口古墳、横田下古墳など数多くの遺跡も遺され、当時の繁栄がうかがわれる。
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 「末盧国(まつろこく、まつらこく)」・・・「まつろわぬ奴」って?
 「佐賀(サガ)」・・・「相模(さがみ)」・・・「さがみに噛みに噛み、噛み砕いて」・・・「古事記」では「須佐之男」と「天照大神」の喧嘩と和解の一節・・・
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 相模国さがみのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった国の一つで、現在の神奈川県。相州。
 延喜式での格は上国、遠国。
 「相模」の「模」の文字、律令時代の国印には「莫」の下に「手」を配した文字「摹」が使用され、手へんの「摸」による「相摸」とするのが本来の表記である、らしい。
 以下、ウィキペディア百科事典より、さらに抜粋・・・
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 相模(神奈川)
 7世紀に成立。相武(さがむ)国造の領域(相模川流域、県中央部)と師長(しなが)国造の領域(酒匂川流域と中村川流域、県西部)を合したとされる。
 さらに、「ヤマトタケルの子孫」、「鎌倉別(かまくらわけ)」の支配する鎌倉・「三浦」も加わる。
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 「三浦按人」=ウイリアム・アダムス←1600年←関が原の戦
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        豊後(ぶんご)に難破漂着
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       「豊=ゆたか・とよ・ホウ・フウ・ブ」
       「豊=豐=礼の古字=レイ・ライ」
 「豊」=大きいたかつき・杯の台・厚い・太い・満ちる・肥える・実る・しげる・多い・富む・盛ん・易の離下震上(盛大なかたち)・・・
 豊臣(とよとみ)
 豊葦原(とよあしはら)
 豊聡耳皇子(よとみみのみこ) =上宮之厩戸豊聡耳命 (うへつみやのうまやとのとよとみみみこと)=厩戸皇子聖徳太子
 「豊」=曲+豆=曲がった豆・・・勾玉(まがたま)の形
      ↑  ピ−ナッツ・隠元豆・えんどう豆
  「はやぶさ」が到着した小惑星「いとかわ」

 豆の鞘は殆ど曲がっているけれど、ラッカセイ=「絡・加・姓」である。絡めて加える姓・・・
 ラッカセイ(落花生、学名:Arachis hypogaea)は、マメ科ラッカセイ属の一年草
 別名はナンキンマメ(南京豆)、方言名は地豆(ぢまめ、ジーマーミ)、唐人豆(とうじんまめ)、異人豆(いじんまめ)など。
 中国語は花生。福建語は土豆。英語名のピーナッツ、peanutは日本では食用とする種子を指す場合が多い。ground nutともいう。
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 相模(神奈川)
 なお、もとは武蔵国と一つだったという説がある。賀茂真淵や『倭訓栞』には、身狭(ムサ)国があり、のち身狭上・身狭下に分かれ、語の欠落などでそれぞれ相模・武蔵となったとする。
 本居宣長は『古事記伝』で、佐斯(サシ)国を仮定し、佐斯上、佐斯下と分かれ、そののち相模・武蔵となったという。
 しかしこれらの説は、武蔵国がかつては毛野(群馬県・栃木県)地域と一体であったとする考古学の成果と合わない。
 国名の語源は不明。前身とされる身狭上(ムサガミ)・佐斯上(サシガミ)が由来とする真淵や宣長の説もあれば、古代この地域の産物であったカラムシ(苧・麻布などの種)が訛った「ムシ」に由来するという説や、「坂見」の転訛(箱根の坂の上から見える地域)という説なども存在し、定説が確定できなくなっている(『神奈川県史』通史編1)。
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 佐賀(九州)
 律令制では現在の唐津市域全域が肥前国松浦郡の一部に含まれ、『肥前国風土記』によると「松浦郡、郷一拾一所、里廿六、馬伍(うまや)所、烽捌所」とある。
 また、現在の鏡山に当たる山は「襟振峰は郡の東にあり」と記されているから、郡衙は、鏡地区にあったと推定される。
 松浦の語の由来は明らかでないが、神功皇后紀(『日本書紀』巻第九 気長足姫尊)摂政前記夏四月の条に
 「松浦県に至り、願い事をしてから釣り糸をたれると鮎が釣れた。珍しきものと言ったことを、その所の人が名付けて梅図邏(めづら)国という。今松浦というは訛りなりと」(大意)
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 「鮎」=「魚(まな=真名)」+「占」・・・「漢字(真名仮名)で占う」 
 「珍しきもの」・・・「梅図邏(めづら)」・・・「梅の図」・・・「梅」は「徳川光圀」?・・・「大日本史」・・・「メズラ」は「女面」かも・・・「眼通ラ」・・・「ラ」は「亂=乱」の漢字の左の造りに「見」を合字したもので、意味は「うれしげに見る・詳しく見る・ついで(序で)」である。
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 と説明している。また、末盧国の「まつら」がそのまま地名となったともいわれる。万葉集には鏡山、玉島川松浦川の情景が詠まれている。
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 「末盧」の「盧」は「盧+鳥=ウ」・・・「鵜(う)=弟(おと・ダイ)+鳥(とり・チョウ)」・・・音採り・台帳(台長)・・・ウ野讃良=持統天皇(字統・字問・・・ジトウの同音異字は多い・・・)
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 平安時代からは肥前国府による統治となったが、国司政治が緩みだした平安期中頃には松浦地方各地の豪族が連合体としてこの地を支配し、松浦党と呼ばれた。
 現在の唐津市を含む東松浦郡西松浦郡の地域は上松浦郡と呼ばれ、波多地区(唐津市北波多・伊万里市南波多)を拠点とする波多氏が最大の勢力だった。
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 「波多」・・・「秦」・・・「始皇帝の末裔」・・・「葉多」
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 一族はそれぞれの所領の地名を名乗り、ほかに相知氏、佐志氏、呼子氏などがいた。
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 相知・・・あいち→愛知
 佐志・・・さし →指し
 呼子・・・よびこ→予備子・四尾の子(拠)
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 また、拠点として波多氏の岸岳城(鬼子岳城)や獅子城などの城が築かれた。
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 岸・岳・城(鬼子岳城)や獅子・城
 ガンガク
 きし    キシ    シシ=ライオン
 吉士・ガク(鰐=ワニ=和邇
 吉師・ガク(学・楽・「額=客+頁」・臥句)
    岳(タケ=他家・長・炊・竹・武・茸・嶽)
    茸=キノコ
    嶽=舅の意味がある。岳父=ガクフ=楽譜・学府
 「御・嶽・山=おん・たけ・さん」とは、
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 御嶽山(おんたけさん)は、長野県・「木曽郡」・木曽町、王滝村岐阜県・「下呂市」・の境目にある火山である。木曽御嶽山や御嶽ともいう。
 御嶽山(おんたけさん、みたけさん、みたけやま、みたきさん、みだけやま、おたけやま)の名前で全国各地あるが、
 「佐賀県」・杵島郡江北町にもある山で、読みは「おたけやま」と呼ばれているらしい。
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 戦国時代には竜造寺氏の侵略を防ぐなどしていたが、豊臣秀吉九州征伐を開始するとこれを出迎え従った。
 豊臣秀吉
 1591年(天正19年)朝鮮出兵文禄・慶長の役)の拠点として名護屋地区に名護屋城を築城した。
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 「天正(テンショウ)19年」・・・「典正・拾句・捻(撚)」
 「文禄・慶長の役」・・・「文・禄(ブン・ロク)・慶・長(ケイ・チョウ)の役(エキ・ヤク)」・・・文禄の訳、傾聴の訳・・・
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 1593年(文禄2年)には寺沢広高唐津藩を与えられ、上松浦地方の統治を始めた。
 唐津は古くから大陸への要所だったといわれることもあるが、「唐津」の地名が記述などで現れるのはこれより後である。
 またこの年には秀吉の怒りをかった波多氏が滅ぼされたが、地元民の同情から岸岳末孫の祟りの話がいわれるようになった。
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 「波多氏が滅ぼされた」・・・言葉・多い・滅
 「岸岳・末孫の祟りの話」・・玩楽・松(松平)孫のタタリ
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