666日目・・・悪魔の数字である・・・「対」であるものは「善-悪」・・・対象を認識して「コトバ」にすれば、「対(twin)」でないものは無い。「2」はあるモノの「分割」であり、「対極」であり、「表裏・左右・上下」であり、「生物にして雌雄」であり、「人間にして男女」であり、「モノにして2重構造」であり、「空(白紙)と色(色紙)」であり、「空即是色・色即是空」の「感性的対象と認識思惟記憶」である。いよいよのボールを蹴ってのゴールなんぼの「日蘭サッカー決戦の勝敗の日、6月19日→19x6=114」であるなッ。

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 王莽(オウモウ)→「莽」の漢字分解は「丱」+「犬」+「廾」
 永始元年(前16年)
 新都侯に封ぜられる。哀帝が崩じると、哀帝から皇帝の璽綬を託されていた大司馬董賢から璽綬を強奪し、中山王劉衎(平帝)を擁立して大司馬に返り咲いた。
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 「哀帝(アイテイ=姶意訂)」「璽綬=ジジュ=字樹」「大司馬=ダイシバ=大氏葉・大師葉」「董賢=クン権ケン=訓兼」「中山王=チュウサンオウ=注纂負」「劉衎(平帝=ヘイテイ=併訂)」・・・漢字分解もしてみる・・・例→「哀=亠+口+衣」、「璽=爾+玉」、「綬=糸+受」、「薫=丱+重ねる+灬(炎・四足)」は、「賢い」・・・
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 儒学と予言書に基づいた政策を実施する一方、民衆の支持を獲得するためには手段を選ばず、次男の王獲が奴僕を殺したことで罪に問い、長男の王宇を謀略を為したことで獄に送って、共に自殺させている。
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 「王獲=オウカク=王郭・追う郭」、「奴僕」、「王宇=オウウ=王宇(佐)・奥羽・覆う」・・・
 「予言書・預言書」は天変地異の自然現象と天文現象である。
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 娘を平帝の皇后に冊立し、宰衡、安漢公となった後、5年には14歳になった平帝を毒殺、こんどは遠縁の広戚侯劉顕の子・劉嬰を皇太子に立て、自らは「仮皇帝」「摂皇帝」として朝政の万機を執り行った。
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 「劉・嬰」の「嬰(貝+貝+女・みどり・エイ)」は「嬰児=エイジ=英字(イングルッス)」・・・
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 居摂三年(8年)
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 居摂(イセツ=異説)・3年(サンネン=纂捻=纂撚→纂捌)
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 王莽は高祖の霊から禅譲を受けたとして自ら皇帝に即位、新を建国した。この出来事は歴史上で初めての禅譲であり、簒奪に相当する。
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 「霊(レイ=例)」から「禅譲(ゼンジョウ=前条)」・・・
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 太皇太后として伝国璽を預かっていた孝元皇太后王政君は、玉璽受領にやってきた王莽の使者王舜(王莽の従兄弟)に向かって玉璽を投げつけ、王莽を散々に罵倒したと史書は伝える。
 王莽は周代の治世を理想としたが、現実性に欠如した各種政策は短期間に破綻した。また匈奴高句麗などの周辺民族の王号を取り上げ、中華思想に基づく侮蔑的な名称(「高句麗」を「下句麗」など)に改名しようとしたことから周辺民族の叛乱を招きそれを討伐しようとしたが失敗した。
 さらには専売制の強化なども失敗し新の財政は困窮した。
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 ・・・アンタッチャブルのアルカポネなら「禁酒のサケ」、今現在なら「タバコ=JTB」、ちょっと前なら「専売公社の塩」・・・「塩屋」に天下りした高級官僚の高額給料には驚いたけれど。
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 その体制に耐えられない農民の反乱(赤眉の乱)などが続発。
 王莽が南陽郡で擁立された劉玄(更始帝)を倒そうと送った100万の軍勢も昆陽の戦いで劉玄旗下の劉秀(光武帝)に破られ、これで各地に群雄が割拠して大混乱に陥る。
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 「劉玄(リュウゲン=龍と玄武)」、「更始帝=サラのハジメのミカド」・・・「サラ=沙良・讃良=持統天皇」、「始=女+ム(私・邪)+国(口)」・・・音拿(オンナ)の対(つい)・・・
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 遂には頼む臣下にも背かれて、長安城には更始帝の軍勢が入城、王莽はその混乱の中で杜呉という者に殺された。68歳。
 これにより新は一代限りで滅亡した。王莽の首級は更始帝の居城宛にて晒され、身体は功を得ようとする多くの者によってばらばらに分断されたという。
 また王莽の政治について批判的な評価がなされることが多いが、漢朝臣下の時代に自ら定めた「皇帝の即位儀礼」は光武帝以降の歴代の皇帝に受け継がれ、それぞれの即位式に際してはこれに基づいて諸儀礼が行われるようになった。

逸話
 王莽に叛いた翟義と共謀した王孫慶を捕え、太医に解剖させた事がある。
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 「王・孫・慶=オウソンケイ=王尊敬」・・・徳川慶喜(?)、あるいは水戸、尾張の殿様・・・
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 五臓や血管について記録させ、「これで病気の治療法が判る」と言った(『漢書』王莽伝中)。
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 「五臓(ゴゾウ=語造)や血管(ケッカン=欠陥・欠巻→日本書紀30巻+系図の欠巻)」・・・
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 哀章の偽作した預言書を信じ、「王興」と「王盛」と言う名の人物を探させ、門番の王興と餅売りの王盛を公に任命したと言う話がある(王莽伝中)。
 天に救いを求めるために泣き声の悲哀な者を郎(官僚)に取り立てた。このため、郎の数だけで5000人に達したと言う(王莽伝下)。
 ある人が一日に千里を飛び、匈奴を偵察できると言った。王莽がこれを試させたところ、大鳥の翼をつけ、全身に羽毛をまとい、紐でつなぐ仕組であった。この者は数百歩飛んで墜落した(王莽伝下)。
 『周官』と言う書物を元に国策を行ったが、この『周官』自体が王莽が劉歆に創作させたものではないかという説がある。
 日本でも古くから姦臣の代表格として知られていた。『藤氏家伝』大織冠伝が蘇我入鹿の政を「安漢の詭譎」と批判して以来、『平家物語』も趙高・安禄山らと並ぶ朝敵として王莽の名を挙げ(巻1)、木曾義仲の横暴ぶりを王莽に例える(巻8)などした。
 中国では「暴君・王位簒奪者・偽天子が皇位にある時、天変地異が起こる」と信じられていた。
 呉承恩はこの伝承を用いて、西遊記孫悟空が暴れた時期(山に封じられるまで)を王莽の時代と設定した。
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 ”『藤氏家伝』大織冠伝が蘇我入鹿の政を「安漢の詭譎」と批判”
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 「藤原鎌足=藤原鎌子=中臣(とみ・登美)」鎌子」と「中大兄皇子天智天皇・(典智転能生?)」の因縁はサッカーのボール(蹴鞠)がコロコロと・・・大樹の下に転がった処から始まった、らしいのだが・・・
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 「呉承恩=ゴショウオン=語証音」・・・くれ・うけたまわる・おん・・・句例・享け賜る(受け賜わる)・音・・・
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 身長7尺5寸(約173cm)、やせ形で、口が大きく、あごが短かく、大きな赤眼がとび出し、声は大きいがしわがれていた。彼は自己のこうした風采が気に入らず、高いかかとの靴、高くつくった冠、剛毛でふくらませた服を用い、臣下と会う時、ことさら胸をそらし、あごを引いて見下すようなポーズをとったという。また、儀式の際には、ひげや髪を黒く染めて、若く見せようとした。
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 まるで「北の将軍様」だな・・・
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 始建国(しけんこく)は、新の王莽の治世に建てられた最初の元号。9年 - 13年。前年の漢の初始元年12月を正月として始められた。漢字三文字の元号の初出。
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 「始建国(しけんこく)=女+台+廴(インニョウ・エンニョウ・あゆむ・長く行く)+聿」・・・ナガクイク=名臥句意句=拿臥句異句・・・「初=衣+刀」、「始=女+台」、「肇=肈=戸+攵=戸+戈」の違い
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 始建国元年
 漢の孺子嬰を定安公に封じる。周の井田制に倣い全国の土地を「王田」とし、民間奴隷を「私属」と称して共に売買を禁止。貨幣について、契刀・錯刀・五銖銭は漢の劉氏と関わる(劉=卯金刀)として廃止、大泉五十と小泉直一のみ発行。
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 「劉=卯(ウ・うさぎ)・金(キム・かね)・刀(トウ・かたな)」・・・鵜(盧+鳥=鵜野讃良=持統天皇)・・・
 ウサギ(兔・兎・うさぎ)のハナシは「サメ=鮫」、あるいは「ワニ=鰐」に白毛を剥ぎ取られ、蒲の穂で「大国主」に助けられた「ウサギ」のハナシである。「ウサギ=宇佐宜=烏の詐偽・胡の詐欺」で、「鮫(さめ)」=魚(まな)+交(まじわる)=真名(漢字)が交わる」で、「鰐(わに)」=魚(真名)+咢(ガク・直言する)」・・・「ワニ=和邇王仁」は倭に「千字文」を伝えた帰化人である。
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 始建国2年
 銅貨(6),金貨(1),銀貨(2),亀貨(4),貝貨(5),布貨(10)の6系統28種類の貨幣制度を施行。
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 「28」は「古事記」の「稗田阿礼の年齢、弐拾八」で弘法大師空海伝来の「宿曜経の星宿の数、弐拾八」であるなッ。
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 始建国3年、匈奴が北方に侵入。

  新王朝と西暦年号と干支
  始建国  元年 2年 3年 4年 5年
西暦     9年 10年 11年 12年 13年
       九 十  十一 十二 十三→13歳は壱與の年齢
            ↓
            十市は天武と額田王の娘 
干支     己巳 庚午 辛未 壬申 癸酉
               ↓
壬申の乱(672年)

西暦一年=辛酉年・元始元年・平帝
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 光武帝(こうぶてい、前6年 - 57年[1])は後漢王朝の初代皇帝。南陽蔡陽の人。
 王莽による簒奪後の新末後漢初に混乱を統一し、漢王朝の再興として後漢王朝を建てた。諡号光武帝は漢朝を中興したことより「光」、禍乱を平定したことより「武」の文字が採用された。「隴を得て蜀を望む」「志有る者は事竟に成る」「柔よく剛を制す」(『黄石公記』(=『三略』)の引用)などの言葉を残している(『後漢書』本紀1上・下・本伝)。
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 「黄石(キイロのイシ=水戸黄門の意思・意志・遺志)公記」・・・「三略(サンリャク=纂掠→改竄、掠奪)」・・・
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 赤眉軍・緑林軍
 王莽が禅譲により新朝を開くと、周代の政治を理想とし現実を無視した政策を実施したため民心は離れ、国内各地で叛乱が発生し、匈奴・西羌・高句麗周辺諸国・諸族の反感を買った。
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 「赤眉軍(セキビグン=関備軍・関の尾<尾張>軍)・緑林軍(リョクリングン=利抑軍・みどりばやし=水鳥囃→宇治川の平家惨敗)・・・?
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 14年(天鳳元年)・・・テンホウ→天保(日本年号)
 山東の琅邪郡で呂母なる老女が県令に殺害された息子の仇を撃つために私財を投じて数千の徒党を集め、反乱を起こした。呂母は県令を殺害した後に死去するが、一旦集まった軍勢は法が過酷であり賦税が重いことを理由に解散せず、
 18年(天鳳5年)、同郷の樊宗が兵を挙げると合流し一大勢力となった。この軍は敵味方の識別に眉を赤く塗ったので赤眉軍と称されている。
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 「眉を赤く塗ったので赤眉軍」・・・天武と平氏の目印の紐と旗は「赤色」だった。
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 王莽の朝廷軍である太師軍・更始軍は強引な兵糧徴収などで民心を失い、世間では「寧ろ逢うなら赤眉軍、太師軍には逢うな、太師ならまだしも更始軍であれば殺される」と囃される有り様であった。また同時期に王匡が貧民を集結し緑林山を拠点に叛乱を起こしている(緑林軍)。
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 「王・匡(匡=キョウ・ただす=匚+王)」・・王を正す・・・
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 22年(地皇3年)冬、
 劉秀の兄の劉縯(劉+糸+寅=りゅうえん)が挙兵する。最初は思うように兵が集まらずに苦しんでいたが、慎重な性格と評判であった劉秀が参加すると、劉秀の判断を信じ叛乱に参加する者が増えるようになった。この反乱軍は舂陵軍と称されている。
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 「劉=卯+金+刀」+糸+寅=(ウ+キン+トウ+シ+イン)
  ウ+キン+トウ+シ+イン=得・筋等・詞・韻 
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 挙兵時には劉秀は貧しく馬を買うことができず牛に乗っており、緑林軍に合流してから朝廷軍より捕獲した馬に乗るようになったという逸話がある。
 まもなく緑林軍は疫病が蔓延したために、南陽を拠点として新市軍と、南郡を拠点とする下江軍に分裂した。新市軍は南陽の豪族の平林軍(この軍には劉秀の本家筋に当たる劉玄が加わっていた)や劉縯の舂陵軍と連合した。
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 「馬を買うことができず牛に乗っていた」・・・
  馬=ウマ=午=宇摩・・・・・・・・→射手座
  牛=ウシ=丑=主=おさ=長=訳語田→牡牛座
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 後にこの連合軍が下江軍を再度吸収、劉縯が淯陽で官軍を打ち破った。連合軍が南陽宛城を包囲した後、新皇帝を擁立すべく新市・平林軍の部将らが協議を行った。
 劉縯擁立の動きもあったが、実績のある有能な人物を擁立すると自らの勢力が弱体化することを恐れた新市・平林軍の部将らはこれを却下し、凡庸な人物と見做されていた劉玄が更始帝として擁立されることとなった。
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 「劉玄」が「更始帝」・・・
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 23年(更始元年)夏、
 更始帝討伐を計画した王莽は洛陽から100万と号する(戦闘兵42万、残りは輸送兵)軍を出発させた。しかし王莽は軍事の知識・経験に乏しく、朝廷軍は63派の兵法家を同行させる、猛獣を引き連れるなどの常識外れの編成を行った。
 王莽軍は劉秀が拠点としていた昆陽城を包囲・攻撃した。劉秀は夜陰に乗じ僅か13騎で昆陽城を脱出、近県3千の兵を集め、昆陽包囲軍と対決する。王莽軍は総大将が数千を率いて迎撃したが、劉秀やその部下の奮闘により王莽軍に大勝した(昆陽の戦い)。
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 昆陽城=コンヨウジョウ=混用条(帖)
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 昆陽の勝利に前後して劉縯も宛城を落城させている。これにより縯秀兄弟の名声は高まり、その名声を恐れた更始帝は両者への牽制を始める。
 劉玄即位に反対していた劉縯の部下が、更始帝により官位が授けられた際に固辞したため、更始帝はこれを反逆として誅殺しようとした。この時、劉縯は部下を擁護したため、更始帝はこれを口実として劉縯をも殺害した。
 この事件に際し劉秀は宛城に到着すると、更始帝に兄の非礼を謝罪し、また周囲が劉縯の弔問に訪問しても事件については一切語らず、自ら災禍に巻き込まれるのを防いでいる。
 昆陽・宛県での結果を知ってそれまで傍観していた地方の豪族が次々と更始帝軍に合流し、更始帝軍は短期間で一大勢力と成長した。更始帝軍は洛陽と長安を陥落させ、更始帝は洛陽、長安へ遷都する。洛陽が都城とされていた時まで、劉秀は更始帝と側近達に昆陽での戦功と劉縯の弟であることから危険視され、中央から出ることが出来なかったが、河北へ派遣する適当な武将がおらず、大司徒劉賜が「諸家の子独り文叔有って用いる可し」と推挙したために赴任を命ぜられた。これによって劉秀への監視が解かれ、長安に遷都した更始帝の朝政が乱れ民心を失うことで、劉秀に自立の機会が与えられることとなった。
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 「宛・県」・・・宛てる件
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 河北転戦
 23年(更始元年)冬、
 劉秀は河北へと向かう。河北で劉秀が邯鄲を離れ北上した際、邯鄲で王郎が漢の成帝の落胤であると称し挙兵、劉秀の首に10万戸の賞金を掛けて捕えようとした。そのため劉秀は勝g禹、王覇、馮異ら僅かな部下を率いて河北を転戦することとなった。
 それは厳しい行軍となり極寒の中馮異が薪を集め勝g禹がたき火をし豆粥や麦飯で寒さと飢えをしのぐ状態であったと伝えられている。
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 「邯鄲」の夢・・・
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 その後は王郎を拒否し劉秀の庇護を求める信都郡の太守任光とその配下の李忠と萬脩、和正郡の太守邳彤らが劉秀を迎え入れ、地方豪族の劉植、耿純が陣営に加わる。
 これにより任光、李忠、萬脩、邳彤、劉植、耿純は後世に雲台二十八将として名を連ねることとなった。
 劉秀は王郎の配下で10余万の兵を持っていた真定王の劉楊(『漢書』に拠る。『後漢書』は、「劉揚」に作る)への工作を開始し、劉楊の妹が豪族の郭昌に嫁いで産んだ娘、すなわち劉楊の姪の郭聖通(後の郭皇后)を劉秀が娶ることで、劉楊を更始帝陣営に組込むことに成功した。
 こうして王郎と対峙する中、精鋭の烏桓突騎を擁する漁陽郡と上谷郡が劉秀側につき、後世の雲台二十八将とされる呉漢、蓋延、王梁(以上漁陽)、景丹、寇恂、耿弇(以上上谷)らを派遣して劉秀と合流した。
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 「烏・桓・突・騎」・・・からす・むくろじ・つく・またがる
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 これにより勢いを増した劉秀軍は王郎軍を撃破、24年夏には邯鄲を陥落させ、王郎は逃走中に斬死する。
 劉秀の勢力を恐れた更始帝は、劉秀を蕭王とし兵を解散させて長安に呼び戻そうとしたが、劉秀は河北の平定が完了していないとこれを拒否し、自立する道を選択した。その後は銅馬軍なる地方勢力軍を下し、その兵力を旗下に入れた劉秀軍は数十万を越える勢力となった。
 即位
 25年(建武元年)
 河内の実力者となった劉秀は部下により皇帝即位を上奏された。幽州からの凱旋途中において2度までは固辞したが、3度目の要請には「之を思わん」と返答、『赤伏符』という讖文を奏上された4度目の要請で即位を受諾し6月に即位、元号建武とした。
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 「元号建武」→鎌倉時代の「建武の中興」
  建武の中興、
  鎌倉幕府滅亡後の1333年(元弘3年/正慶2年)6月に
  後醍醐天皇が「親政」
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  語対語転納(能生)
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 この年、更始帝は西進してきた赤眉軍に降伏後殺害される。その赤眉軍長安やその周囲を略奪し、食糧が尽きたことにより山東への帰還を図った。
 27年(建武3年)、
 光武帝(劉秀)の派遣した大司徒勝禹・征西大将軍馮異は赤眉軍攻撃を行う。一旦は敗北した馮異は、その敗れた軍を立て直して赤眉軍を撃破、西への退路を絶ち、東の宜陽で待ち構えていた光武帝軍は戦うことなく、兵糧の尽きた赤眉軍を下して配下に入れた。
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 「馮(冫・氷=こおり・ヒョウ)+(馬)」が「異(ことなる)」
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 30年(建武6年)
 山東を平定、
 33年(建武9年)
 隴西を攻略し隗囂は病み且つ餓えて死し、継いだ子の隗純を降伏させ
 34年(建武10年)、36年(建武12年)
 蜀の公孫述を滅ぼしここに中国統一を達成した。

 統一後
 光武帝は洛陽を最初に都城と定め、長安を陥落させた後も、荒廃した長安に遷都することなく洛陽をそのまま都城とした。
 漢王朝を火徳とする光武帝は洛のサンズイを嫌い、洛陽を雒陽と改めた。
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 「サンズイを嫌い」・・・「氵=水=サンズイ=纂図意」を「嫌=女(おんな)+兼(かねる)」・・・
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 前漢末以来の混乱で中国は大いに疲弊し、前漢最盛期で約6千万人となった人口が光武帝の時代には2千万ほどに激減していた。この対策として光武帝奴隷解放及び大赦を数度にわたって実施、自由民を増加させることで農村の生産力向上と民心の獲得を図った。通常は農業生産に従事させ有事には兵となす屯田兵も多用し、生産と需要の均衡が崩壊したことによる飢饉や、辺境への食料輸送の問題を緩和した。また周辺諸国、特に匈奴に対しては懐柔策を取り、王の号を小国にも出し、戦乱を避け国力の回復を図る方針を採用した。
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 「奴隷解放」、「大赦」、「自由民」、「農村の生産力向上」、「民心」・・・(日本国)民主党の党首の政策?・・・参議院選
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 特筆すべき対外政策としては40年(建武16年)に交趾(ベトナム)で漢の支配に反抗した徴姉妹の反乱が起こるが、伏波将軍の馬援を派遣してこれを鎮圧している。
 57年(建武中元2年)
 倭奴国の使者に対し金印を授けている。これが江戸時代に志賀島で発見された漢委奴国王印だと考えられている。
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 「徴姉妹」、「伏波将軍」、「馬援」
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 56年に建武中元と改元
 封禅の儀式を実施、天下に皇帝としての存在を強く印象付け、その翌年に崩御している。
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 二十八将軍
 『後漢書』列伝12に「中興の二十八将、前代には天界の二十八宿に対応したという考えもあるが、はっきりとは分からない」とある。
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 「二十八宿」→宿曜経・弘法大師空海密教高野山景教
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 元々は明帝が永平年間に、前代の名臣列将に感じて、洛陽にある南宮の雲台に二十八将の絵を描かせたのが由来である。故に雲台二十八将と呼ばれる(雲台には、その後4人が加えられて三十二将となる)。これは光武帝の即位時に、主君を盛り立てた建国の将臣中から二十八人を、親族外戚を除いて選んだものである。また、耿弇、耿純、劉植と親・兄弟・従兄弟で功臣を輩出しても代表一将で、一族が重ならないように選ばれているようである。
 二十八将軍で、挙兵以前から面識があるのは勝g禹、朱祜の2人だけで、他の26人は運命であるかのように自らの地位や地盤を放棄して馳せ参じてきた。みな忠節を全うし、光武帝と対立したものはいなかった。戦場に散ったもの、病没したもの、統一後に文官に転身したもの、兵士を返上して進んで引退したもの、少ない常備軍を率いて将軍として働き続けたものなど、みな戦場で馬を並べて命を共にした戦友として、志を最後まで違えることはなかったのである。
 そのため星座の二十八宿にも擬せられ、正史たる『後漢書』にも二十八宿説が記載されることとなった。なお、この二十八将を論じた『後漢書』の文章は『文選』巻50・史論下に「後漢書二十八将伝論」として収められている。
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 「28」→「日本書紀・第28巻・天武天皇
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 二十八将軍(序列順)
 勝g禹、呉漢、賈復、耿弇、寇恂、岑彭、馮異、朱祜、祭遵、景丹、蓋延、銚期、耿純、臧宮、馬武、劉隆、馬成、王梁、陳俊、杜茂、傅俊、堅鐔、王覇、任光、李忠、萬脩、邳彤、劉植。
 雲台三十二将(二十八将軍に以下4人を加える)
 李通、竇融、王常、卓茂

 名将馬援がここに入っていない。二十八将は建国の将軍なので入らないのは当然なのであるが、雲台の三十二将にも入らなかったのは、馬援の娘が明帝の皇后となったため避けたのである。
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 「馬援」・・・邪馬台国への援助・婆を援
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宗室
后妃
光武皇后・郭聖通
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 「郭聖通」・・・郭務悰(忄宗)は「日本書紀・第27巻・天智天皇中大兄皇子
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光烈皇后・陰麗華
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 「陰麗華(インレイカ)」→引例の加・寅例の化
  寅=トラ=虎・・・天武天皇
 
 「『漢書』天文志は劉秀誕生の後に「牽牛星」の近くに彗星が70日間も輝いたことを記録し、『後漢書』天文志は陰麗華が没する直前に「織女星」の近くに大きな流星が現れた」らしい・・・「七夕」は「シロサギ」で、「シロウサギ」であるな。
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子(ねずみ=鼠)・・・・改竄
東海恭王劉彊(母は郭皇后)長子
沛献王劉輔 (母は郭皇后)次子
済南安王劉康(母は郭皇后)五子
阜陵質王劉延(母は郭皇后)七子・・・岐阜は織田信長の命
中山簡王劉焉(母は郭皇后)十子

楚王劉英(母は許美人)三子

明帝劉荘  (母は陰皇后)四子
東平憲王劉蒼(母は陰皇后)六子
広陵思王劉荊(母は陰皇后)八子
臨淮懐公劉衡(母は陰皇后)九子
琅邪孝王劉京(母は陰皇后)十一子
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 ・・・・?・・・?