603日目・・・前回の日常生活ではパンにもカネにもクソにもならん「ハーバード大学白熱・スコラ論議」の「功利主義論議」なんだけれど、Wィッキペデェア百科事典には次のような記述があったので・・・抜粋してみた・・・

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 社会全体の幸福を重視するという発想は古来からあるが、功利主義を体系化したのはベンサムである。
 ベンサム功利主義は、古典的功利主義とも呼ばれ、個人の効用を総て足し合わせたものを最大化することを重視するものであり、総和主義とも呼ばれる。「最大多数の最大幸福」と呼ばれることもあるが、正確には「最大幸福」である。この立場は現在でも強い支持があるが、一方で、さまざまな批判的立場もある。
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 「社会全体の幸福を重視するという発想」の「幸福」って「抽象概念」だけれど、「気持ちの問題」のことなのかな?・・・「幸福感」なら「感じること」だろう・・・「幸福」にも色々な「修飾語」がつくコトバとおもうんだけれど。「・・・のような幸福」って・・・「ダレダレは幸福そうにみえる」って、も・・・「形容詞」や「副詞」がつくけれど、「幸福の内容」は色々だョねッ・・・「武士は喰わねど高楊枝」って「幸福感」なのかね・・・で、「幸福」ってコトバを支えている基盤は「その日の衣食住(形而下?)」の確保だろうなッ・・・「食わなくてもイイ・寝なくてもイイ・トイレに行かなくてもイイ」ッて、言っている奴もいるけれど、一週間も経てば、当人の「コトバの維持」でも「実体の維持」は無理だろう・・・「セックスしなくてもイイ」っていう奴は「体力」がないか、その「お相手」がイナイ奴だろう・・・「タバコやサケ」を飲まなくてもイイって言う「健康な奴」はカネがないか、好き嫌いの問題なんだろう。それとも、その精神と肉体に及ぼす「効用、効果」の無知、あるいは未経験な奴に違いない。どっちにしても健康維持で生きて行く分には無くても関係ないものだろうけれど、「アヘン戦争」では「イギリス人社会全体の幸福」になったのか、どうなのか・・・「最大多数」の「多数」は「貴族(支配)階級」での「枠内の多数」だった。
 「今現在、その日の衣食住の確保」・・・「人間が生きていく最低限の衣食住」の「維持確保」が必要だ。「日本国憲法」にも記されているんじゃないかな。でも「ホームレス」はいるよなッ。
 で、この「ホームレス」にもピンからキリまであってね、「ホームレス」そのものに「幸福感」を持っている奴もいる。なんせ彼の持っている「貯金通帳」には「2000万円」以上の数字が記されているんだから。見せびらかして、その「数字」を見るときの彼の「陶酔したような幸福感に浸っているような表情」・・・これって、ピンなの、キリなの?・・・これはホームレス仲間「みんなの幸福」ではないらしいし、「みんなの憎悪、羨望、嫉妬」で、「みんなの希望・失望」でもあるらしい、その「記録された数字」は「ミンナの夢(妄想)」だから・・・黒澤明映画の「どですかでん」の「食中毒で死んだ父子」は「幸福」のように見えたけれど、なッ・・・で、ホームレスの彼、何回も狙われたらしいけれど・・・結局、どっかに逃げたらしい?・・・夜の街角のコンビニの横には毎晩毛布に包まってラジオの音楽を聴きながらタバコ(銘柄はピースらしい)とサケを飲んでいる別な「ホームレスのオジィさん(オジジさん?)」がいるんだけれど・・・夜は寒空だったけれど「不幸そう」には見えない、んだけれど・・・「ミンナ」がオジさんの周りに座り込んで同じレベルでサケとタバコを吹かしたら「幸福感」に浸れるカモ、なんだろう・・・
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 功利主義においては効用は比較可能であると仮定される。ベンサムは快楽・苦痛を量的に勘定できるものであるとする量的快楽主義を考えたが、J.S.ミルは快苦には単なる量には還元できない質的差異があると主張し質的快楽主義を唱えたが、快楽計算という基本的な立場は放棄しなかった。
 20世紀には快楽計算を放棄した選好功利主義が登場した。ヘアやシンガーがその代表と目される。
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 数字で「快楽・苦楽を量的にカンジョウ」だなんて、この「ベンサム」も「ミル」も暇で「快楽・苦楽」計算に「幸福感」をカンジていたんだろう・・・「損得感情」の「損得勘定」・・・
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「最大多数の最大幸福」がベンサムから続く功利主義のスローガンであるが、この幸福を快楽と苦痛との差し引きの総計とするか選好の充足とするかで、次の二つに分けられる。
 快楽主義型(幸福主義型)功利主義
 選好充足型功利主義(選好功利主義
 また、最大幸福原理を個々の行為の正しさの基準とするか一般的な行為規則の正しさの規準とするかで、次の二つに分類される。
 行為功利主義
 規則功利主義

 行為功利主義と規則功利主義
 両者は功利原理(利益=善)の対象が異なる。前者は行為が利益をもたらすか(「それをすれば利益があるか?」)を基準にし、後者は「規則」(「皆がそれに従えば利益があるか?」)を基準にする。
 例えば、
 「行為功利主義」では
 「貧しい人が子供のために食べ物を盗む」のは
 子供が助かるからかまわないとし、
 「規則功利主義」では
 「子供のためなら食べ物を盗んでもよい」
 という規則があれば窃盗が横行して治安が悪くなるからいけない、とする。
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 「社会科学」の「科学」とは「人間」が「コトバで作り出したルール(相互約束・相互規範)」のコトを「明らかにするモノ」である。「人間←約束→人間」で、「やくそく」とは簡単に図示すれば、
 「人間←約束(コトバ)での関係→人間」
  を
 「個人(諸個人)←社会共同体の約束関係→個人(諸個人)」
にまで押し広げたモノであり、「約束」とは「法律・道徳・倫理」での「社会規範(社会的ルール)」である。
 「コトバの約束」とは「人間」が作り出したモノである。そして、この「コトバの約束」は「実行・行為」に於いて「まもるベキもの」としたのである。「ベキもの」であるから「守るか、守らないか」は「絶対基準」では無く、その時の、その状況での「相対基準」なのである。
 「欧米人」や「中東人」一般が信仰しているらしい「神」と「神のコトバ」は「絶対」と「彼ら人間」は考えているようだけれど、どうやら彼らの共同体の指導者とその配下の人々は歴史的に結果はどうであれ「最大多数の最大幸福」を願ってか、どうか、この「絶対約束」には「罰則」があるにもかかわらず「絶対」とはしてこなかった。そして「絶対の神」も、半ば諦めたのか「絶対の約束」とは言わなくなった。「罰則」なんか、なんのその、「人間の方」が守らないんだから「絶対約束」の意味が相互に無意味になった。で、「神」の方が「人間」に未練たらたらなのである。「人間=全人類」は「破滅」することなく、未だにしぶとく生き残っているから・・・
 「殺される」ために「殺人」をした、「それがどうした」と言う「通り魔殺人」には「罰」としての「死刑」は意味が無い。多分、彼は簡単に「死刑」で自分自身が「死ねる」と思っているからだろう。
 「罰」としての「自己存在の消滅の間際の死刑のイメージ」が軽いんだろう・・・重労働の末、裸で市中引き回し、そして公開の場で油鍋で煎り殺す・・・これが、究極的な「最大多数の最大幸福」を願う「コウリ主義」なら、ねっ。
 「ある種の人間」は「絶対の神のルール=自然界の法則性」に反逆、反抗、挑戦してきているのさ・・・自然科学的には「神の絶対力」、社会科学的には「神の絶対権威」を盗み出すコトに・・・「TVの太田総理」は「そんなことドぅでもイイじゃないのッ」て「爆笑」もさせないで言っているけれど、何億円もの「豪邸」に棲むらしい・・・「無自覚な最大多数の最大幸福」は「最大幸福を願っている自覚的な最小少数」の者らしいから・・・
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量的功利主義と質的功利主義
 量的功利主義とは異なり、質的快楽主義では快楽の種類による質的な区分を求める立場を取る。
 後者の代表者であるJ.S.ミルは、
 「満足した豚よりも満足しない人間であるほうがよい」
 と語っている。なお、ミル自身は求められるべき精神の快楽を、狭い利己心を克服した黄金律(他人にしてもらいたいと思うように行為せよ)に見出すよう主張した。
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 「満足したブタよりも満足しない人間であるほうがよい」だって?、お前がどうして「ブタの満足度」がわかるんだよッ。「ブタ」になったのかね「J.S.ミル」はッ・・・「満足度」って「充分に腹いっぱい喰えた」ってコトなら「餌の量」と「旨さの質」か・・・だとすればヤッパ「ミル」は「満腹のブタ」を観ながら「自分自身は腹を減らしていた(?)」んだな・・・「精神の満足度」だもの、痩せ我慢しやがって・・・「黄金律」・・・彼の時代でも、今現代でも「無理」なんだろう・・・他人にしてもらいたくないことばかり、他人にしているんだから・・・ホットきゃイイかも、「小さな親切、大きな迷惑」、「大きな親切、大きな迷惑」・・・「死ぬにも、生きるにも」・・・ダレか援助してくれるんだろう・・・なッ。
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他の理論・思想との関係
 利己主義は、功利主義とは日常的にはあまり区別されないが、倫理学においては功利主義は「万人の利益」となることを善とする立場を指し、「私利」のみを図ることをよしとする利己主義とは異なるとする。
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 ホトケさまの教えはエライョなッ・・・芥川の「蜘蛛の糸」は「お釈迦の教えから」かなり外れているョ・・・「最大多数の最大幸福」でもなく「一人の幸福」でもなかったんだから。
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 リバタリアニズムは、功利主義を基本理念とした政治思想である。
 アメリカにおいて幾分保守的・伝統的政治姿勢とされるが、保守からは革新的政治姿勢と見なされてもいる。
 「国家こそ盗人」であり、反国家・市場(経済)偏重を旨とする特徴的な思想を展開する者もいる。
 ときにグローバリズムと態度が共通するが、リバタリアニズムは税金の浪費につながると戦争を否定する点にみられるようにグローバリズムとは異なる。

 功利主義への反駁、攻撃は多方面からなされている。
 政治学の場面ではロールズやロバート・ノージックら社会契約論の系列からの批判がある。
 倫理学の場面では義務論や徳倫理学功利主義とならぶ有力な説である。
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 そうですかね・・・人間が作り出した「ルール」は確かに「最大多数の最大幸福」は人間が「社会共同体」として自覚して追求してきたモノであるだろう。だが複数の地域に複数の共同体がある。「バベルの塔の破壊」以来、コトバが、言語がバラバラになってしまった。共通する「理解すべき約束のコトバ」が理解されなくなった。「共同社会内部のコトバの意味」も「共同体の支配者のコトバ」になってしまった。「相互理解での約束のコトバ」は「一方的な命令のコトバ」となってしまった。
 「マニ・フェスト」・・・「約束のコトバ」は「約束しないコトバ」となってしまった。「マニ」の語源は「魔尼」にあるらしい・・・Manichaeism・・・
 ・・・「日本国憲法のコトバ」もね・・・「最大多数の最大幸福」の「コトバと実践、実行、行為」の「マニ」の・・・犠牲にはなりたくナインだけれど。