501日目・・・「あつき壁のセマキ部屋」・・・「NHK・ETV特集・シリーズBC戦犯2」・・・「中国オリンピック閉会式」の裏斜め番組の夜の10時からの番組(S)だった・・・「国家命令→戦争参加→殺人→敗戦≠終戦→捕虜→国際裁判→処刑=死刑」・・・「厚き壁の狭き部屋」とは・・・敗戦日本軍人が捕虜収容された東京「巣鴨プリズン」の牢屋のコトである・・・今日は21歳であった海上自衛隊三曹の「自殺」の裁判判決があった。「上司のイジメ(?)」が「自殺の原因」である、と裁判判決があったのだが・・・その国家倍賞は350

 敗戦後、「BC級戦犯」と言われる「日本の人々」は「国家間戦争」で「殺人」を「犯した罪」で「巣鴨プリズン」に収容され、「処刑=死刑」されていった。
 その一人の「日本陸軍の一兵卒」の・・・「戦争犯罪人」としての「死刑判決の理由」・・・
 アメリカ空軍のB29爆撃機が日本国内無差別爆撃をし、その後、九州山地に墜落。そして墜落B29爆撃機アメリカ兵搭乗員が日本軍に捕虜になったのである。
 そして当時「日本陸軍の一兵卒」だった人物は、捕虜となった「アメリカ兵士」を「弓矢」での処刑(殺人)を上官から命令され、「処刑執行」した・・・「弓矢」で・・・当時、軍隊ですら武器弾薬も少なく、稀少で、貴重だった。しかも、民間人は「タケヤリ」で上陸してくるだろう敵兵をやつけることを真剣に訓練させられていた。
 これが「日本兵」だった彼が、敗戦後、「戦争犯罪者」として巣鴨プリズンに収容され、アメリカ軍軍事法廷の判決で「死刑(合法殺人)」にされた理由である。
 国家間の「戦争」とは、「国際的合法、公認の殺し合い」である。アメリカのB29爆撃機搭乗員は当時の「日本人一般人を空から爆弾をばら撒いて無差別爆撃=殺傷」したのである。そして「日本軍」に捕虜となって、当然にも「日本国家の陸軍の命令」として「陸軍一兵卒」に「処刑」されたのである。「戦争に於けるルール」は「軍人同士の殺し合い」らしいけれど、武器を持たない一般人を巻き込まない「国家間の戦争」などとは現実的にも、歴史上に於いてもありえない。「国内戦争」に於いては尚更である。
 彼は当初、自らのアメリカ兵処刑実行を「自分自身の意図」ではなく、「日本国軍人」として「国家の、上官の命令」に従ったまでであると、その「アメリカ軍人の処刑(殺人)の責任」を当然のように考えていた・・・国家国民、一族郎党、家族、天皇陛下のタメ、と。
 だが「壁厚き狭き部屋」の巣鴨プリズンに戦犯として収容されている間に、「殺人命令の実行」を「軍隊=国家の責任」ではなく、彼自身の「人間個人」としての「殺人責任」であった、と考えるようになったらしいのだ。
 なぜ、あの時、「上官の殺人命令」を拒否しなかったのか、と・・・。自分自身が「拒否出来なかったのはナゼなのか」と・・・
 当時、一般日本国民を無差別爆撃したB29の搭乗員は「鬼畜アメリカ兵」なのである。「日本国家」と「アメリカ国家」の国家間戦争(公認殺人)である。敵である一般市民を爆撃した「殺人アメリカ兵」を捕虜にして「処刑=死刑」にするのは当然であった。そして「捕虜になったアメリカ兵」も当然、爆撃前には撃墜され、捕虜になったら死と言う覚悟で日本上空に飛来していたハズだ。「アメリカ国家の勝利のタメ」に・・・
 だが、日本軍一兵卒の彼は、「厚き壁狭き部屋」の中で、そもそも「戦争」は何のタメ、誰のタメの「殺人」なのかを・・・その「殺人命令」を彼に強いた、「実行」させた、その「国家」とは何か(?)を問い返し、彼が「殺人命令を拒否」出来なかった「理由」を考えたのだ。
 ・・・拒否出来なかった理由は簡単である。命令を拒否すれば、「非国民」であり、彼自身の「命の保障」はなかったからである。
 「非国民」には「生存権」はないからである。それ以前に「国民」には「自由に生きる権利」がなかった。「自由に死ぬ権利」もなかった・・・「自由に生死を選択する権利」がなかった。「生殺与奪」は「国家」に握られていた・・・その「国家」とは何か、をBC戦犯として巣鴨プリズンの「壁厚き狭き部屋」で彼は考えたに違いない・・・
 敗戦で軍隊は解体され消滅し、「日本国憲法」は「軍備放棄・戦争放棄」をしたハズだったが「警察予備隊自衛隊」が、かっての「帝国日本軍隊」の残党を寄せ集めて「疑似軍隊組織」をつくってしまった。そしてコッソリと「朝鮮戦争」にも「日本国憲法違反」の「機雷掃海艇」としても派遣していた。「民間下請け企業」としてアメリカ軍の傘下で戦争協力していた。
 当然にも巣鴨プリズンに「収監」され、「国家的犯罪を追及」していた「BC戦犯」であった人々は「自己存在」に「混乱」したに違いない。
 その時代を生きて戦争を経験し、戦後のドサクサ、曖昧を体験して来た「日本人」は80歳以上の老人ばかりである。
 オリンピック期間は、国家間、国際間での「模擬戦争」、「疑似戦争」だった・・・かも・・・選手は「国家の疑似軍隊」として「参加」し、巨大な「鳥籠」を、その場を「擬似戦場」として、「擬似戦争=競技」をし、その「勝利、負利」の意味も考えるコトなく「戦い」を終えたのかも・・・
 「目的」はひたすら「勝利のタメ」、「金メダル獲得のタメ」に肉体的技術、体力的な限界を追求し、一致団結し、我慢忍耐の精神力を追求し、そして、競技の勝敗結果で「国家と、国民の全体の感情、感激の期待に応える」と言うわけだ・・・勝って国威発揚、負けて臥薪嘗胆・・・この「目的と期待」は「国家の軍事組織」と「国民」の関係に滑らされてスグにも利用され、「戦争殺人を合理化」する危険性を孕んでいる。
 その・・・「国家機構」とは「役人の組織」である。「国民」とはある「国境領域内」で「職業には貴賎なし」と言われ、「役人」も含めての、イロイロ、様々な種類の職業に就き、高低収入の階級、階層に分化した、ゴッチャ混ぜに住んでいるイッパ一からげにした人々の呼称である。
 「国家組織」は「階級社会=格差社会市民社会」の上に胡坐をかき、その「秩序、維持」を守るべき「戸籍管理、住民監理」とそれに基づいた「税金の収奪と分配」をその職業とし、「収奪金の一部」で生活をしている「官僚序列の組織」である。
 「国民」とは「市民社会私有財産法」の枠の中でのみ「個々人の自由な職業の選択」、「自由な雇用関係」、「自由な市場売買契約」が許され、資産を増やすのも、博打で破産するのも「自由」な存在である。
 この「自由」は「人間諸関係の生活」に於けるあらゆる「需要と供給の枠内」に縛られている「選択の自由」なのである。
 「真なる自由」とは「観念領域の妄想」にしか存在しない。その「妄想」すら「脳機能」次第である。脳がボケては、この「妄想」すら「不自由」になるのだ。
 そして、「主権在民」であるはずの主権者、「国民=市民=庶民=自由民」が国家機構に介在できるのは「選挙」によって「政治屋」になり、「立法権」の場を与えられる時であるのだが、それも、「政治屋」になったとたん、自分が属する「階級社会の秩序」を私的な損得利害に絡めて「立法」するヤツばかりなのだ。
 「市民社会」では、「オリンピックのアスリート」は「メダル=栄誉=月桂樹」獲得だけで、あるいはその「獲得目的」だけで生きて行けないのは当然である。スポンサーが援助してくれるか、資産家でない限り、「現金」を稼ぎ出さねば、その「日常生活」は無理だろう・・・
 アスリートも「軍人」も、戦える現役時代は、そう長くは無い。そして、「国家秩序の中」で「生活保証の無いメダル」を握り締めて追憶の時期を過ごしていく。
 「東京オリンピック」で夢をみた一般国民は、「年金手帳」の「生活保証の無い数字」をみながらボケていくのかも・・・