430日目・・・2008年2月25日月曜日・・・で・・・昨日はNHKの「ワールドニュース」での世界的な人間の投機による「食糧危機」、そして、「女の道」を生きる「篤姫」の覚悟を観、TV番組の映画、「盗作(?)」をテーマした「ジョニー・デップ」の「シークレト・ウインドウ」を観た・・・これまで書き込んできた「ボクのブログ」は、辞書、百科辞典や、ニュース記事、あるいは他者の「記録」も「引用コピー」し、それとは「区別」しながら書きたい放題書き込んで、「430日目」となった。だが、自分以外の他のモノを読むと、結構、

naie2008-02-25

 きっと、「日本人」は「アイウエオ」の50音も、「ン」の一音も、発声、あるいは文字に表現したら「罪(?)」に問われるのに違いない・・・人間の発生した古代の昔から近代、現代、最近も「新たなコトバ」の「発明の連続」で満ち溢れている。
 ・・・習字も習作も、そして「和歌・小説」に於いても、日本文化は「本家採り」などと言う「盗まれる」のも「盗む」のも「学ぶ(まねぶ=真似ぶ)」が基本である。
 「芥川龍之介」の作品の「本筋」は殆どが「今昔物語」からの「コピー」である。近代人に重ねられている価値観を問い直しているところが面白い。
 「ユーゴー」の「あぁ、無情(レ・ミゼラブル)」も、他人のモノからの「盗作」らしいが、「オリジナル作品」よりも「オレのコピー作品」の方が格段素晴らしい、と自画自賛したらしい・・・
 学校の授業料も払えず、学校にも行けず、学校にも行かず、「学校の教科書」を丸暗記するヤツは自分自身の「脳みその中に盗作」している、と言うことなんだろうか。「教科書」にも「著作権」があるようだけれど、「義務教育」と言っても「学問」を「商品」としてカネで買わなくちゃならない「世の中」・・・
 で、「交換日記」ではない、不特定多数の他人にもみられちゃう「ブログ日記」って、何ナンだろう?、と思う。
 自分自身の「過去的記憶の再確認」なのか、複数の他人への自分からの「メッセ−ジ」なのか、あるいは、ある意図的目的を持った「虚偽内容を含んだプロパカンダ」なのか、ある特定な人との個人的な「相互情報交換」と、双方の「論戦手段の文字空間の場」なのか、すべてであるだろう・・・
 そして手の平に乗る「携帯電話」はもはや、「コンピュータ」機能をそなえた、それ以上そのものだ・・・
 で、主語や目的語、述語がアイマイで、「同音異字漢字」や「同音異義コトバ」の多い日本語の「メール文字」の危険性は直接的に相手の顔の表情がみえない、声の感情的抑揚が聞こえない「即・直」な「視覚文字そのもの」の理解からの判断だから、記された文章を理解するにあたって「文字そのものの理解のレベル度」と、文脈の「前後関係の文字判断」をしなければ、かなり読み手の「誤解」を含んだ意味理解になるだろう。
 書き手、読み手の「誤解」も問題だが、読み手の「曲解」となると、お手上げである・・・だが、「ブログ日記」を書きこむ人は、当然、その記した「日記」を読むであろう人の「誤解」、「曲解」も、「無理解」も「前提」である。
 これは「公開されるであろう国語文章」の「宿命」である。
 特に「階級社会のコトバの意味判断」はどんな状況、場面であれ、「馬」であれ「鹿」であれ、「莫+迦」は「支配階級のコトバ」である。「ウマシカ」は「巧し掛・旨し卦」の「得魔施禍」、「午魔詞化」す、だろう・・・?

 映画「シークレット・ウインドウ」は「スティーブン・キング」の原作・・・らしい。
 この映画に対する「映画制作」の「物語構成上」の批判、批評が結構あるらしい・・・「虚構」であっても「物語の展開の結末」をすべては主人公の「精神病的な幻覚でした」は、ないだろう、ッて言う。

 中学生時代だったか「アガサ・クリステイー」の「推理小説」に「物語、小説の事件展開を叙述していた語り手の医者」が、実は「犯人」でした、と言うのを読んだコトがある。「犯人」を「物語の登場人物」で見つけようとしても見つかるハズが無い。語り手が犯人とはネッ。アレに似ている。こんな「推理小説」、馬鹿、馬鹿しいと思ったけれど、発想はスゴク面白い、とは思った。
 「シークレット・ウインドウ」、最初から事件のあるプロセスまで、観客にみせられた映像部分が、実は主人公の「精神異常の幻覚」の物語で、結末が「事件の事実」ですョ、と言うハナシ・・・
 それよりも「小説の作品」を巡る「おまえ、盗作しただろう」と迫られる主人公と、「おれは、オマエに盗作された」と迫る相手の問題がボクには面白かった。
 この主人公を脅かす相手は、主人公が「幻覚」によって創り出した自分自身の「分身」でもあるわけだが、前半の映画の中では「実在の人物」のように登場し、「小説の結末が気に入らないから、訂正しろ」と迫ってくる。主人公、敵役は、二人の別人の役者が演じている。後半から主人公の役者が二人を演じているのだが、映画は「独り芝居」のような印象を観客に与え続けていく。
 結果的に「映画前半に登場する二人の人物の一人」が、一個人である主人公の内面に潜む「二重人格・精神分裂症」が創り出した幻覚の一人であるコトが明らかになってくる。このプロセス部分は映画監督が精神分裂症になったのか、制作編集上の不手際な説明不足か、あるいは意図的に観客の混乱を狙ったんだろう、カモ。
 前半の登場人物を別個な二人としなくても、とは思う。
 とにかく、主人公の「内面の精神的葛藤」が、出来上がった「完成された物語(盗作とされた作品)」が気にくわなかった。しかも、その「結末部分」を「修正」したかったのだろう・・・
 自分が犯した「事実としての犯罪」を、自分自身自体がなにをしたかも忘れてしまう「忘却」と言う文字に期待して「合理化」するか、ハッキリ「記憶」として、それが「非合理的」なモノとするかを、したかったんだろう・・・
 「三浦事件」の「真相」はワカラナイが、「日本の裁判」で決着がついた「27年前の事件」である。
 「27年間」、忘れたくないのは、「当事者本人」ではなく、「日本の警察」でもなく、「アメリカのエフ・ビィ・アイ」であったらしい。
 「犯罪」とは限らず「人間の思考」は「嫌なコトを忘れてしまいたい」と言う「願望」で生きているらしい。

 「楽しいコト」は忘れたくても、忘れない。
 「苦しいコト」も忘れたくても、忘れられない。
 ならば、当然、
 「忘れたいコト」は忘れるなッ。

 自分自身が遭遇した、あるいは起こしたであろう事実、事件の「忘れたい願望」が「躁鬱症」とか「分裂症」の要因である・・・「忘れたい願望のベクトル」とは、未だ意識的に「曖昧にしておきたいとのベクトル」である。だが、事実としての記憶はフィに表に浮かんだり、底に沈んだりするモノである。
 事実、事件をハッキリと認めてガッチリと記憶した方がイイ。
 そして、自分自身の「価値判断の基準」は何かを今一度問い直したほうが「身命のタメ」である。
 生きているうちは「自分」も「相手」も、イイ意味でもワルイ意味でも、「生きている」、「生かしている」、「生かされている」と言う「葛藤の連続」である、と言うコトだ。
 何のタメかは「生きていないヒト」は考えない、だろうから。
 「生きている人間」でも、他人からの裁判、判決、評価で納得して生きようとするのは「人間」じゃナイ、ッ。
 「人間」は「自己葛藤」と「自己反省」、その「自己苦悩」のスエに、それでもヨシと「居直」って、喜怒哀楽、尚且つ、苦悩しながら生きていく存在であるハズ・・・人生に二度はナイ・・・あると思うならば、生まれ変わった時にアッタ、と思え。

 ボクの書いた「実験小説(碧き眼の人形)」は
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紺碧の眼1
    ↓以前に書き込んだモノの「家頁」です
けぺらマガジン目次 

 前半(A)から後半部分の「二つ(B&B”)に分かれた異なった物語の部分」が並行して書かれている。そして「異なった二部分」が「結末(C)」に連結させてしまっている、のだが。

 A→B →C
 A→B”→C