425日目・・・150兆円・・・この金額の札束を数えるとしたら、ナニを例えにそのイメージをすればよいのか・・・2008年2月11日月曜日・・・「建国記念日」・・・東京新聞も中日新聞も同じ系列にある新聞社らしけれど、その記事、「週刊・政治塾」・・・「年金積立金のナゾ」・・・「ナゾ」があるわけではない・・・
150一兆円、でも「安心」遠く・・・
100年後ほぼゼロに?・・・◎国の予算の2倍・・・
この記事を読んで「オカシイ?」と思うのが、先ず「制度改正で減少」の「減少」はナニを意味しているのか前文の記事からして「年金積立金の減少」を言っているらしいのだが、
「積立金を少しずつ使うことにした」、
同時に
「年金に税金を使う量を増やしました」・・・?・・・
1)積立金を「使うこと」にした
2)年金の「支払い」に「税金」を使うようになった
1)に「主語」が無い。2)に「理由」が無い。これでは「塾生」はワカランぞな、もし・・・塾生を「理解」させたいならば、自分達だけが「知っている前提」で記事にするなッ。
1’)ナニに使って「減った」のか?
・・・「年金支払い」に使って年金積立金が減った
それとも、支払い以外の別モノに使った?んだろう
2’)税金で「支払い年金」を賄った
・・・税収が膨大にあって?「支払い年金」にあてた
それで、「年金積立金」が増えた
1”)子どもが減る
・・・保険金を納める人間が減少・・・積立金減少
2”)年寄りが増える
・・・「税金投入」効果が薄れる・・・何故?
年金受給者が増えて「積立金が減る」のはワカルが、
「税金投入効果が薄れる」説明にはなってイナイ
そもそも「積み立て年金」と言う概念規定は何か?
この「論理」が「おかしい」のはドコか?・・・1”)2”)で、この記事は”税金投入効果はしだいに減り、「約百年後」にはほぼ底をつきます”と結論、結果を直結してしまっている。
「年金支払い」に何故「税金投入」がなされたのか?、そして「税金投入の効果」が何故薄れていくのか?・・・税金による「年金支払」の「効果」とはナンであったのか?・・・そしてこの「税金投入効果」が何故、1”)、2”)になるのか?・・・子どもが減少して「税金・税収」が減少すると言う意味なのか?
年金の支払い金額の「能力」はダレが考えてもある・・・「年金積立金150兆円」もの金額である・・・何故「100年後」の「100年」を考えなければならないのか・・・今現在の生活状況の安定を考えずして100年後もあったモンじゃないだろう・・・そして、この記事は、
「(100年後に)積立金がゼロになったらどうでしょう(?)」、
「その瞬間に年金制度が終わる(のか?)」
と反問しながら、
「積立金がゼロになっても、毎年の(支払い年金額)と(年金)保険料(の掛け金)を同じ額にすればいいのです」
と「こたえ」をだし、さらに
「年々の人口の動きによって保険料や年金の額が変わり安定感がなくなってしまいます」
と言っている。「安定感の問題」なのか?、それも「100年後」の「安定感」である。問題は「100年後」ではなく、「今現在の安定感」である。
誰が望んでいるのか?・・・今現在生きている「年金生活者」である。「100年後」を言って、「今現在、安定」しているのは「政治屋」と「国家官僚・地方官僚」の「役人」だけである。「国会議員の年金」はドウナッタ?
どうも、この記事の論理展開が「オカシイ」のはこの記事を書いた人間も「ヨクわかっていない」らしいのか、それとも「塾生(年金保険料支払い者と受給者)の混乱」を狙っているのカモ。
150兆円とは
150、000、000、000、000円
「15」に「0」が「13」である。
・・・そして、論理が「国会議論の二種類の意見」にずらされていく。
「二種類」の一・・・
「(年金は)もっと大胆に使うべきだ」の「使うべき」は何に使うのかの「目的語」が欠けている。多分、補われるコトバは「年金支払いに使うべき(?)」なのだろうが・・・さらに、何故「若い人達の負担が減る」のか、の説明がない。
「二種類」の二・・・
「積立金を有利に運用すべきだ」・・・「うまく運用すると、利益も増えます」と言いながら
「2007年4月〜6月」は「運用で二・四兆円の利益」
「その後の三ヶ月間は株の値下がりの影響を受けて一・六兆円も損をしました」と言っている。
「年金は運用」されているのに「二種類の議論」とは・・・「議論」された結果が「運用」なのではないのか?
「年金積立金が運用されて利益」があがるならば「少子化」は関係ないだろう。「年金積立金が運用されて損」しても「少子化」は関係ない。
「老後の安定」は「年金」なんかじゃぁないのさッ・・・生活費による「安定感」なんかは、どの時代でも「不安定感」と表裏一体で、まさに「感」で、「感覚・感情」である。「老人の生活安定」ではなく、「国民全体の安定」が「老後の安定」をもたらすのだ。
「国家」は「年金の個別的受け取り金額支払い」で「国民個人」の安定を考えるよりも、目に見える、手で触れる「揺りかご」から「墓場まで」の「社会的福利厚生、医療施設」とその「人材」を税金で賄えばイイ。
今現在の「国家官僚の役人組織」は、まさに「家族安定」、「揺りかご」から「人材教育」、「天下り」、そして「墓場まで」を「税金」でその「組織員の保障」しているではないか。その「生活保障」のほとんどは「国民の税金の管理・分配」からなっている。しかも、国家の各組織は「遊興費」までもコレで賄っている。
今ある(?)、「年金積立金」の
150000000000000円
の「0」になるまでの「運用」は「博打」としての「株券・証券」ではなく、そして「厚生労働省役人組織内」ではなく、今すぐに、全共同体としての「福利厚生、医療施設」とその「人材・人件費」に使うのが一番である。
「年金」がチャラになったら本来の「税金」で「揺りかご〜墓場」までを賄えばイイ。その延長線に100年後はある。
「カネ」は「国家」に溜めおかれるとロクな形で使われるコトはない。「国家」はヨクバリで、博打の胴元と変わるところはない。そして「国家」に「品格」などは無いのである。そもそも「品格」とは「序列順位」である。「上品」と「下品」はその順位の巾に必要なものだが、「格差社会の品格」の基準は「カネの余裕」の有無でしかない。「階級国家の品格」は「階級社会の社会保障」にある。
そして、150000000000000円の使い方にある。