416日目・・・今夜も「世界の書物(紀田順一郎著)」からの抜粋・・・「ポー」です。紀田氏が・・・ただ一つのの効果・「ポー物語集」とタイトルを掲げ・・・「貧しき作家達・・・ポーは40歳で死んだ。処女詩集「チムールその他」が匿名で出版されたのは18歳の時であるから、作家歴は22年間ということになるが・・・マークトウェインは印刷工やs水先案内を経て作家となったが、それだけで喰えず、出版社を経営している。・・・そしてポーは雑誌編集者として糊口をしのいでいた。」と、記している。そして、ポーは「いかなることがあって

naie2008-01-30


 ・・・ジャーナリズムの要求・・・推理小説の元祖となった「モルグ街の殺人」で、彼が設定したテーマは「分析的能力」である。今日の推理小説と異なるところは、このテーマのために他の要素・・・センセーショナリズム・・・が抑制され、ほとんどがフィクションの体裁をとった論文となっていることである。探偵役のジュパンは”分析する機械”であって、キャラクターとか人間性を与えられていない。この感覚は「黄金虫」や「マリーロジェ失踪事件」にも窺うことができる。単一な効果の前には、ホームズのようなキャラクターの創造は有害無益だったのである。そこに、この作品が後世の推理小説と根本的に異なるゆえんがある。
 彼(ポー)によれば分析能力は分析を許さないものである。・・・単なる観察や推理は誰でもできる。しかし、最終的に問題となるのは観察者の質である。必要なことは、まず何を観察すべきか、それを知るコトである。
 ・・・彼(ポー)は「覚書」の中で雑誌出版の盛行についてふれ、「雑誌の増加は、現代の傾向、即ち、人が嵩ばったものの代わりに簡潔な、急所を掴んだもの、一口に言えば、論文代わりにジャーナリズムを要求するようになったことを、示すものである」と言っている。
 ポーの短編は約70編。そのほとんどが雑誌に連載された。文学の方法論と新しい媒体の性格が見事に一致したところに、ポーの幸運もあり、また見方によっては不幸もあったかも知れぬ。
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 ボクのコトバ・・・ポーの「黄金虫」は昔、子どもの頃にラジオドラマで聴いたのだったか、小学校の先生が「物語」をオハナシで聞かせてくれたモノだったか忘れたが、アイマイであるが、それがボクのポーに接した最初の記憶である。・・・ナゾとき、ワクワクした・・・その後読んだ「黒ネコ」にはなにか異様さを感じた。ボクの「モウ君」も「黒ネコ」だった。
 「黒ネコ」は少年時代、マンガ雑誌の付録だったと思うが、漫画家の「横山光輝」が描いたモノがあった。喫茶店だったか、スタンドバーのネオン、名前が「黒ネコ」って描かれてあった。マンガ原稿締め切りに追われ、タバコのニコチンとコーヒーのカフェイン中毒になったノイローゼーの「マンガ家」が「黒ネコ」の幻視に悩まされるといった、ストリーだった。
 あのマンガの「シナリオ」は「手塚治虫」のモノ的だったみたいに思うけれど・・・「横山光輝」さん、タバコの火の不注意で亡くなったのは去年(?)だったかな。
 とにかく、今現代も、色んな雑誌が氾濫している。
 そして「情報伝達機器」は1970年代には考えられなかった「コンピュータ」、その延長線上に「携帯電話」がある・・・そして、かっては「印刷文字コトバ」で情報を伝える「ジャーナリスト」、「Journalism」は、「音声」の「ラジオ」に、そして「動画」の「TV」に取って代わられるコトを怯え、今現代は「コンピュータ・携帯電話」に侵食されているコトを怯えているようだが、旨いグワイにその都度「居場所」を替えて生きているようだ。
 そして「文字コトバ」は小さな箱の中で新たな形を装って再興を果たしている。
 しかも、発信者も受信者も完全に「相互情報通信」の時代のようであるが「若者同士」のコトだろう。
 ・・・膨大な情報の氾濫、ボク自身にとっての重要な情報があっても、その「情報」を意外と自分自身、正確に把握して無いし、理解されたモノとしてはいない。そして興味の対象にもなっていないモノがドッサリあるみたい・・・
 しかも、これら「情報資本」を握るものモノが「風聞、風票」を流して人々の心理を操っているようだし、受け取る側は操られているようだ・・・その「本質」はあまり変わっていないのだろ。
 「飲酒運転」の「法律」、撲滅キャんぺぃーん・・・アンだけやっていても、発信している「役人」、「警察官」の「飲酒運転」での違反事故の記事が目に付く・・・
 それに、今日(1月30日)のニュース、輸入「中国産の餃子」中毒・・・「牛丼」・・・かっても、今も「アメリカ産の牛肉」は危険じゃなかろうか・・・ソレに比べたらカワイイのは「コロッケ」や、「赤フク」・・・まだ喰っても死なないだろ。かって、ソ連(ロシア)では、あのチエルノヴィリ原発事故があった。放射汚染がされている食物を解かっていながら今現在、食べている人々が存在する。「甲状腺ガン」で明日死ぬかもしれないコトよりも、今日、今現在、生きているコトを維持するタメには「放射能汚染物」を食べザルを得ない・・・かってのアメリカは「プルトニューム」を人体(同国アメリカ人)に直接注入して実験観察をしていた、が・・・実験していた医者の方も若くして死亡していた。

 「単なる観察や推理は誰でもできる。しかし、最終的に問題となるのは観察者の質である。必要なことは、まず何を観察すべきか、それを知るコトである。」
 ・・・この「観察者の質」の「質」とは何か?・・・「社会的な立場」・・・、じゃぁ、「立場」って何?・・・「社会的な生き方」・・・じゃぁ「生き方」って何?・・・「生きている間」は、死ぬまで「生きているモノ同士」が、お互いが助け合って生きていくコト・・・なの?・・・「法的な年金」、「法的な生活保護」・・・「法」で決められなくても、「お互いが助け合って、生きて行ける世の中」・・・「観察して」、知っているだけではダメなのは言うまでも無い。「法」を知っていても実行されない「法」なんて・・・
 目の前で倒れている人がいたら・・・コンビニにアンパン買いに行く途中、その場に、さっき、「TV画面」でみた、食べる物を買えず、たたずんでいる「痩せこけた子どもを抱いたアフリカ、アジアの難民のお母さん」がいたら・・・TV画像をみていた時と同じ態度をとれるだろうか・・・自分の生活に忙しく、自分の視野には入っていないかも・・・「鳥インフルエンザ」の危険が報道されても、今現在は「相互依存関係」は無いから・・・「医者」も「感染可能のボクも、アンタも」・・・無自覚な「C型肝炎患者」も・・・
 それに、「サッカー」や「ハンドボール」を観戦する人も・・・今現在は、インフルエンザや毒入り中華料理の国の「北京」に行きたいと思ってんだろう、ナッ。