405日目・・・今日も「世界の書物」から抜粋・・・無言の声援「百科全書」(ドニ・ディドロ・1713〜1784年)・・・風雨強かるべし・・・第一巻が刊行されえるや否や、案の定、教会勢力(イエズス会士)の攻撃がはじまった。ディドロの唯物論的な立場を「無神論」ときめつけ、「発禁にせよ」とわめきたてた。執筆に協力した進歩派の僧侶は国外へ亡命し、ディドロは投獄され、第二巻は発禁となった・・・

naie2008-01-16

 ・・・悲惨の中の栄光・・・次は「哲学」という項目の一節。これは役にも立たなぬ知識のみに翻弄されて、生きるための原理的認識を獲得できないでいる、現代人への警告ともなっている。
 「最も偉大な哲学者とは、最も多くの事物に理由を考える人のことであり、これによって哲学者の序列は精密に決定される。この手段によれば、もはや博識が哲学と混同されることはない。-----哲学者であることは、たんに多くを見、多くを読んだことでもなく、また哲学、科学、技(芸)術の歴史を知っていることでもない----それらすべては、しばしば不消化な無秩序をしかなさない」
 ・・・現代の情報本位の百科事典を見慣れていると、だいぶ勝手がちがうであろう。ディドロは考えるため事典、行動するための事典をつくろうとした。
  ↑
 ボクのコトバ・・・「百科事典」は平凡社のを古本で全巻を、欲しくて、ほしくて「一万円」でかったが、コンピュータを手に入れてから全然ページを開けることも無くなった。でも、スグ知りたいコトバがあると、目の前にコンピュータがあるのにもかかわらず「事典」を捜して開いてしまう・・・何故、コンピュータで調べないんだか・・・癖って、恐ろしい。
 ボクは「哲学者」の始まりは「天文・天体」を「観測」し、コトバで「体系化」した人だと思っている。漢和辞典で「哲学」のコトバの意味を調べてみるとイイが、「道理を究めるコト」とある。「道」の「理論」とは、道路特定財源で「高速道路建設」の必要性を説く「政治屋・官僚」、建設業者じゃぁないョ・・・ならば、この「
」って、「天体軌道」のことだろう。衛星の月や、惑星の動きのことだろう。これを一生懸命に観察してその「意味」を考えたのが「道士(導師=道+寸+師)」である。「道教」の先生である。
 「フィロソフィー」を「哲学」の日本語の漢字コトバとしたのは「西周(にし・あまね)」である。怪しいョなッ、江戸幕末から明治の「教養人」は・・・
 とにかく「Philosophy」は「事物のあり方」を「考えるヒト」であった。
 「カンガルーKangaroo」はオーストラリア(豪州)に棲息する「有袋類」であるが、これをボクが「哲学」してみると、「カンガルー(かんがるぅ)」は探検にきた英国人が現地人に、彼にとっては初めてみる奇妙な動物を指して「あの動物の名前は何だ?」と訊いたところ「カンガルー」と答えたところから「カンガルー」の名前がついたらしい。
 現地人の「コトバ」では「カンガルー」とは「
知らない」と言う意味であった。日本語の「かんがぅる」が「考え得る」であるならば、まさに「知らないこと」を「考えて意味を与えるコト」である。
 当時のオーストリア現地人のコトバ、「カンガルー=知らない→かんがえる」となるのだが、古代中国の「道士」ならば「漢河宇流」であろうか?・・・「漢河」とは「天の川」のコトであるのだが・・・コジつけぇ〜・・・
 確かにボクは「コジキ(古事記)漢字のオタッキー」だけれど・・・