400日目・・・「世界の書物」のつづき・・・四百・四〇〇・肆百・・・「τετρακοσιοι(テトラコシ)」・・・fourhundred(社交界の人々・上流人士)・・・よんひゃく日目・・・「読む釈」カモ・・・
巨人による巨人伝説・「ガルガンチョワ物語」・・・耳から生まれた話・・・再生への希求・・・作者はラブレー・・・(聖書の)福音主義はいうまでもなく、教会や制度を二の次とし、直接聖書にふれて信仰を体得せよという教義であって、ラブレーの思想的立場がよくあらわれている。
さて、「ガルガンチョワ」の物語は、前半に主人公の奔放な成長振りを描き、後半は彼の国とピクロコルという国との戦闘を描く。戦争の原因は小麦煎餅を売る、売らないの口論からである。・・・
最後に彼は功績のあった修道士に対し、テレームに僧院を建ててやるその正門には「この内に入る無かれ、偽善者の徒、似非信者、老猿和尚に、めそめそ坊主・・・」といった数十行の銘文が記されて・・・テレミートたちに遵守を要求される法規は、ただ「欲するところをおこなえ」という一項目だけであったと言う。
ボクのコトバ・・・読んだ事が無いし、そんな「ガルガンチョワのハナシ」などは知らなかったが、筋はなるほど・・・「ラブレー」は反骨、反体制の人だったんだ、と言うことはワカった。
志を述べる歌・「唐詩選」・・・山青く花咲きさかり・・・もともと中国の詩の本質は”志”であると思うので、叙景よりも「たづなをまぐる(紆)こと誠に学ぶべきも、己れに違うはなんぞ迷いあらざらんや」(陶淵明)とか、「丈夫、たまたま念あり、事業は窮まる年なし」(韓愈)とか、「丈夫かならずまさに知己有るべし、世上の悠々安んぞ論ずるに足らん」などと言うものに眼を吸い寄せられることが多い。
・・・君を思えでも見えず・・・この「君」は「月」をさす。
娥眉山月の歌
李白
・峨眉山月半輪状
・影入平羌江水流
・夜發清渓向三峡
・思君不見下渝州
・・・(李白の詩友)、孟浩然が広陵に旅立つのを見送った詩(黄鶴楼送猛浩然之廣陵)の評に「語近くして情遥かなり」というのがあるが・・・・
ボクのコトバ・・・「詩の本質」は「志」ばかりではないのは前提ナンダロウけれども、その眼前、思いの状景を「ダレかに伝えたい」と言う「意思・意志」であることはに間違いない。それにしても「漢詩」を「漢字文字」で観れば、日本人のボクにとっては「暗合」だョッ。「君」がどうして「月」なのかも・・・「古今の絶唱」らしいが、ここにボクは「人生の志」を発見できない、が。
杜甫(トホ)、李白(リハク)、王維(オウイ)がこの「唐詩選」に編纂された代表詩人であるらしい。
詩人の名前の同音の音名の漢字をとって「都保(トホ)」、「裏葉句(リハク)」、「王維=王の維持、維新」・・・
江戸時代の教養人が古今の「今」ならば、「王政復古」・・・アレコレ妄想して、「月」は「旅立つ友人の比喩」なら「君」は「月」なんだろう、ナッ・・・以下、上の歌のボクの滅茶苦茶な変換訳・・・
我、備(そなえる)、纂の下の度(たび)
慶(慶喜)、入、兵、羌(西洋人)、江(江戸)に流れる
臥、尾(尾張)、纂(編纂)の下の図、版の臨、帖
世、捌、清(清朝)、傾向、纂の教(経・今日)
思う君、布権、下喩、州(日本)
マァ、「漢字解釈はアソビ」・・・
博学な女神の胸に・「随想録(エセー)」・・・モンテーニュ・公表し得ない思想・・・性の欲望について、女にだけ抑制を強いるのは大きな誤りであると、モンテーニュは考えていた・・・彼の判断によれば、こと恋愛ないし性の問題に関して男が女に教える事はほとんどない。「ヴェスヌス(美と恋の女神)みずから彼女達に教えたのだ」という、ローマの詩人ウェルギリウスのことばを弾いて彼はいう。「自然・青春・健康・等のよい教師たちが、絶えず彼女達の心の中に吹きいれる知識なのだ。彼女達はこれを学ぶまでもなく、彼女達みずからこれを産むのである」・・・死の直前まで加筆・・・モンテーニュに迫ることは一つの”試み”である。それは人生そのものが一つの”試み”にすぎないという認識を、読者に対して迫るものである。
ボクのコトバ・・・なるほど、ボクも人生、趣味で生きている・・・イヤッ、「生きていること」が「ボクの趣味」なのであるらしい・・・かな・・・「ボクの趣味」が「生きているコト」なのかな・・・
旅立ちへの不安・「ハムレット」・・・「死は眠りに過ぎぬ」
・・・「生きるべきか、死ぬべきか、それが問題だ」
・・・To be or not to be
・・・: that is the question
・・・明治の初期には
「アリマス、アリマセン、ソレハナンデスカ」
「死ぬるが増すか、生くるが増すか。思案するはここぞかし」
「ながらふべきか、但し又、ながらふべきに非ざるか」
「世に在る、在らぬ、それが疑問じゃ」
「生か死か、それが疑問だ」
・・・しかも、ハムレットは、思弁型にありがちな、優柔不断な人物である。
・・・種本は「デンマーク史」・・・ハムレットが不思議に人を魅きつけるのは、一面において行動派でもあるからだ・・・たしかに勇猛果敢ではなく、むしろ陰険なのであるが、それを救うのが彼の妥協を斥ける精神、死への洞察力なのである。
・・・他人の無意味な行為を目にしたとき、彼はおのれの行為も無意味だと悟る。生か、死か、それが疑問で無くなるのは生も、死も、無意味になる瞬間をおいてほかにない・・・
ボクのコトバ・・・「無意味になる瞬間」を生きて他人には話すことができないんじゃないの。
人間は無意味かどうかを連続的に確認、再確認し続けるのさッ。
本人が生きている限り「無意味なモノは何もない」し、本人が死んでも、他者、或る人にとっては「無意味なモノ」としてアルモノでは無い。「疑問」無く、意味がアルのさ・・・
狂気の愉しさ・「ドンキ・ホーテ」(セルバンテス)・・・憂い顔の騎士・・・ことわっておくが・・・これを”精神障害者”としたならば、たちまち「ドン・キホーテ」の本質は見失われてしまう。文学的創造における”狂”とは、平板な現実に活力をもたらし、同時にその歪みを映す鏡としての作用をもつものである。
・・・閑暇な読者へ・・・どこかでスレちがっているこの珍問答のおかしさはともかく、ここには観念世界に生きる人物と、地上的な生活者の見事な対比が見られる。にもかかわらず、この二人には共通点がある。夢を追求することに、人生の意義をみとめるという態度である。崇高な夢と卑俗な夢との落差は大きいが、一人の人間はたいていこの二つを合わせ持っている。
ボクのコトバ・・・「崇高な夢」と「卑俗な夢」との「落差は大きい」とは、この本の著者の判断基準がソウ、思っているだけなんだろう・・・ナッ・・・「夢の落差」は無いのさッ。夢自身は本人自身のモノだから・・・
まだ、あるんだ・・・やめとこうッ・・・
自然と人力・「天工開物」・・・五穀を尊ぶ・・・200年間の愛没・・・
理性の解放・「方法序説」・・・精神の自叙伝・・・異端審問の時代に・・・
考える葦・「パンセ」・・・美しい普遍性・・・爪先を向けよう・・・
遠き人生の旅・「天路遍歴」・・・鋳掛屋の名作・・・120ヶ国に翻訳・・・