371日目・・・「星の沈むアッチがわ」・・・「塩が滴る国づくり」・・・はボクの「小説のタイトル」・・・江戸時代の「天文学者」、「蘭学者」は「コジキ(古事記)」で繋がっていると言うのがボクの妄想・・・「シーボルト事件」なんだけれど、その時代的な状況は「知識の渇望」がムンムンしている。その妄想根拠は以下の時代的な流れに登場する人物達である。「参考文献」から抜粋してみると、

地球


 「天文研究塾」の「先事館」
 1780年頃(天明年間)「麻田剛立(あさだ ごうりゅう・1734-1799)」が大坂の本町に「天文暦学」の研究塾、「先事館(せんじかん)」を開塾。

 研究スタッフ
 高橋至時(たかはし よしとき・1764-1804)。大坂城警備の同心
 間 重富(はざま しげとみ・1756-1816))。質屋で豪商
 足立信頭
 西村太沖
 等が中国文献によるヨーロッパ天文学を研究、天体観測。

 「麻田剛立(綾部=あやべ正庵)」・・・現在の「大分県の杵築(きづき?)」で御殿医。脱藩して大坂で開塾。「麻田(あさだ)」は変名。

 大坂には当時、町人の学習熱「懐徳堂」も「中井竹山」、「履軒」の兄弟で経営されていた。
 「麻田剛立」が研究していたのは「暦象考成」、中国の暦法書、イエズス会宣教師が伝えた「プトレマイオス天文学」がもとになったヨーロッパの古典天文学
 1792年、「間重富(はざま・しげとみ=カン・チョウフ)」が『暦象考成・後編』の研究。地球中心説をとりながらケプラーの楕円運動理論(チコ・ブラーヘ説とケプラー理論の折衷)。「高橋至時(シジ)」は実地の天体観測をした。

 「三浦梅園」は「麻田剛立」の学友で、師は剛立の父で儒者の「綾部安正」。「三浦梅園」は哲学を追求。歴史上、同名の人物に1600年に豊後(大分)に「リーフデ号」難破で漂着した「三浦按針(ゥイリアム・アダムス)」が存在した。彼は相模に領地を徳川家康からもらった。
 「懐徳(カイトク)堂」の高弟「山片蟠桃(やまがた ばんとう)」は豪商で、「山片蟠桃(サンペン・バンチョウ)」は『夢の代』を著作し、その内容は「合理主義思想」で宇宙観が説かれ、太陽中心説、地球外生命説、恒星は太陽と同じ天体で人間が住んでいると論じた。

 「寛政暦」
 1795年、「高橋至時」と「間 重富」が江戸幕府に呼び出され、「高橋至時」は天文方。「重富」は「天文方御用」に就任。
 「至時」と「重富」は1797年にヨーロッパ天文学(ラランデ暦書)を基礎に「寛政暦」を作成した。
 天文方という専門職についた「高橋至時」は代表著作『新修五星法』を上梓。「ラランデ暦書管見」ノートを残して1804年、41歳で死没。
 「高橋至時」には

 「高橋景保
 「渋川景祐」

 という二人の息子がいた。両人とも天文方の職を継ぎ『ラランデ暦書』の研究は弟の「景祐」が翻訳を完成させ、「天保暦」が成立。

 「古事記」の発端の「国造り(地図作り)」は「塩の雫」から始まるのだが。「塩」とは シーボルト事件で「高橋景保」が逮捕され、拷問され獄中で殺されるのだが・・・「判決(沙汰)」の前に死んだ。その死体は「塩漬け」にされ、「判決後」に処刑(死罪)処分された。
 シーボルト事件とは「伊能忠敬」の「日本地図」の国外流失事件である。
 興味のある人は以下のHPに渡来してみて・・・

 http://www1.odn.ne.jp/~haa98940/fanin/pura2/kojiki55.htm