338日目・・・8月29日・・・NHKの「クローズアップ現代」・・・信じられないようなアメリカでの「125人もの冤罪者」の無罪放免はDNA鑑定結果によるものであるらしい。・・・司法制度に問題があるのか?・・・陪審員制度?・・・警察の逮捕取り調べ?・・・死刑判決を受けて11年後に「無罪放免」・・・レイプ犯人にされた「冤罪者」は「被害者の思い込みの証言」によるものだった・・・とにかく、「125人」の人々が「死刑」から救われ「自由の身」になったわけだが、既に「死刑執行」された無罪の人々は一体全体何人?いたのか

 8月31日・・・「人間らしさってなに?」・・・NHKTV番組「爆笑問題の日本の教養」・・・人間によって造られた「人間型ロボット」が「人間」に近づくとは「何を意味するのか?」・・・「大田総理」が「デカルト」の「われ思う故に我あり」と、「ニーチェ」のその「デカルトの命題」を疑う「哲学」をチラッと曖昧に言っていた。彼の「ニーチェの曖昧さ」はおいといて、多分、「われ思う故に我あり」では無く、「われ、認識するが故に我の存在あり」だろう・・・さらに、この言葉をボクなりに補足すれば「われ、対象存在を認識するが故に、我の存在を対象存在との諸関係で思惟、意識する」となるだろう。
 ついでに、「人間らしさ」とは生物として発生した時点から「現在的な人間」として形成されてきた「プロセスとしての結果すべて」であるだろう・・・「多様化した言語」を有して、その「言語すべて」を実現しようとしているのが「人間」で、生物としては原生動物を含めた「他の動物」とはあまり変わらない「存在」である、ようだ。
 少し前には日本に上陸し、「日本蟻」を駆逐していく「アルゼンチン蟻」の番組をTV番組でやっていたが、「社会的生活をするアリ」の存在とたいした違いはないし、あるいは蜜蜂を含めた「蜂の存在」ともたいした違いはないように思える。
 「違い」があるとしたら「人間」は「実現」しそうも無い「妄想・幻想・想像」をも「言語」で「思惟・思考」する「存在」である、と、言うぐらいである。さらに言えば、「生死の意味」を考え、「自然界の弱肉強食」を「法的」な「善悪」の「悪」と考えたい存在であるらしい、のだが・・・。

 9月2日・・・NHK「ダーゥインが来た」・・・すごいなぁ〜ッ、「日本蜜蜂の生態」・・・巣分かれの後の新しい「女王蜂」としての死活を賭けたタイトルマッチの戦いは、数匹の女王蜂候補としての資格のある同士での戦い。女王蜂の寿命は「3年」、働き蜂の寿命は「1ヶ月」、そして交尾の相手の雄蜂も「1ヶ月」。しかも、交尾時期の雄蜂の天敵は「ツバメ(燕)」・・・日本蜜蜂は「杉の木一家」・・・むかし、「手塚治虫」の漫画で「女王蜂と蜜蜂の分蜂」をアナロジーした「女の戦い」を読んだことがある。

 9月3日・・・ボクの幼少年期から高校二年生まで住んでいた故郷に行ってきた。昔は2、3万の人口の街であったけれど、とにかく街を歩いている人々が見当たらない。家は結構モダンな造形の形をしていてヘェ〜ッて思うのだがココで暮らしていた家々の風景はほんの少し。鉄道も駅も無い・・・自然だけはウッソリと緑に彩られていた。この街を貫く直線道路からは何処からでも見えるカムイの山も見えた。ボクが捨てられていたらしい「三角山」もあったし、蜜柑箱に入れられて捨てられていた、と言う橋もあった。卒業した中学校の跡地には工場らしきモノが立っていた。

 9月4日・・・ジェット機は墜落もセズ、今回も傷害保険の掛け金2000円を損した・・・とにかく、ボクはまだ生きている「義務」と「権利」が「カミ」から保障されているらしい。
 降り立ったココは相変わらず蒸し暑い場所だけれど・・・また帰ってきた、なッと・・・