249日目・・・ボクは「Y(女性)」さんと出遭った時から随分と日本最古の記録文書であるらしい「古事記の漢字のヨミ方」に執着してきたのだけれども・・・切っ掛けは、彼女が高校生時代に使用していた漢和辞典、「大修館・新漢和辞典」をプレゼントに貰った時からだった・・・ヒェ〜ッ、既に「二十年近く」も・・・「光陰矢のごとし」である・・・

 自分自身の人生、最早興味のアルコトはないし、「ヤルコト」がないんじゃないのかって・・・チガッタ・・・ヤルコトは腐るほどあった・・・時間もワガママにその「ヤルコト」に費やしてきた。
 で、「字源物語(漢字が語る人間の文化・加藤道理(明治書院・平成十一年12月7日発行・定価1500円)」と「続・字源物語」の本、二冊、1600円を例の古本屋で買って読んだ。面白かったけれど、「字源の考え方」がボクと「加藤道理」先生とは違う。
 「加藤道理」先生は「色」の漢字を「象形文字」から面白く説明している。たとえば、

 「色」は女性のしゃがみ込んだ姿の後背(巴)を、男性が抱え込んで(刀)、性交をしている文字

 と説明されている。
 ボクの考え方は「刀(トウ・かたな)」で「巴(ハ・ヘ・ともえ・ヘビのトグロ巻き・渦・尾っぽ)」に合体させた文字として「既に完成した漢字の分解」の意味から追求したモノであって、「象形文字=甲骨文字」の「形象」から追求したモノではない。
 だが、「色」が「色情・情欲」の唯一の象形文字の完成漢字となると、「色即是空・空即是色」の羅列漢字の意味が俄然、具体的なイメージにも見えてくる。ボクはこれらの意味を「色=認識」、「空=存在」として考えてきたのだが・・・ムラムラ・・・フゥ〜ッ・・・ダョ・・・コマッタ・・・
 ボクの考え方は「字解・解字」のすべてではないが「出来上がった文字の偏旁冠脚」等の「分解」から、それらの「意味」で追求したモノである。しかも、新旧の「漢字」もマジエテ。タトエバ

 「色」は「刀」と「巴」
 「大」は「一」と「人」
 「田」は「囗」と「十(一+I)」

 「眞」は「ヒ」と「乚(乙)」と「目」と「ハ」
  ↓
 「真」は「十」と「目(囗+二)」と「一」と「ハ」

 として、「一」の意味は「いち・ひとつ・はじめ」、「人」の意味は「ひと・にん」として・・・「目」の意味は「め・メ」として・・・そして、これらの「音訓」の「同音異字」の「め=女・芽・眼・雌」の意味としても。加えるに「メ」の類字としての「X・十・ナ・〆」の意味として・・・も。

 だから当然にも「加藤先生」の解釈からはかなりの距離があり、その「意味」の採り方は「ヨコシマ」で、「邪道」である。
 ボクも「学問」として「白川静」先生のように「甲骨文字」から追求したかったのだが、なんせ、本屋でも、古本屋でも「白川先生」の書籍や辞典が高額だったし・・・「大修館・新漢和辞典」の「諸橋轍次」先生は漢和辞典編集にどうもアソンデイルらしいので、ボクは「古事記」を読みつつ「諸橋」先生の「アソビ(?)」を彼の「漢和辞典」の中に発見しつつ、「アソビ」として追求するコトにした。
 すなわち、「古事記」に「使用」されている「漢字」をその「象形=甲骨」文字の「字源」の意味と、「漢字音(亞・亜・ア)の訓(あ・あまねし)の意味」だけとしては無理だな、と考えるようになったワケである。

 で、「字源物語(漢字が語る人間の文化」の著者「加藤道理」先生からは、興味深く学ぶことが沢山あった・・・「加等道理」である。
 加藤先生は「孟子(軻・子輿)の性善説」と「荀子(況)の性悪説」の対比に於いて、「荀子」は必ずしも「性悪説」を説いたわけではないことをおっしゃられている。

 本能=情欲←抑制←偽(イ)=人為(理性)

 本能を抑えて理性で表面を繕う行為、作為とは、「荀子」は「心理学者」である、ナッ。確かに「礼儀」、「道徳」には「人為」としての「教育」が必要だ・・・「偽(いつわる)」の意味もナルホド・・・「何時悪」、「逸悪」で、「一話留」である・・・カナ。