247日目・・・「英和辞書の草稿発見」・・・!!・・・フ〜ゥンッ・・・ボクの興味のあるモノが次から次って発見されるナンッテ・・・難叢・作・「登美」・発見伝・・・「南総里見八犬傳」・・・「鶴屋南北」じゃなかった、「滝沢馬琴(曲亭馬琴)」だ・・・「八犬伝」・・・「八狗傳」・・・。

naie2007-03-16

 安房アワ・アのワ)の国の城主里見義実の娘「伏姫(伏せるキ)」と犬(狗)の「八房(ハチのフサ)」との間に生じた八つの玉「仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌」を有する八人の勇士の物語。小さい頃に「三町ぱんざ(?)」って言う漫画家のマンガでよんだ。東映時代劇の「中村錦之助」主演での白黒映画でもみたけれど・・・

 参考:以下「ウィキペディアWikipedia)」より抜粋。
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滝沢馬琴
 曲亭 馬琴(きょくてい ばきん)
 明和4年6月9日(1767年7月4日)〜嘉永元年11月6日(1848年12月1日)
 江戸時代後期の読本作者。
 著作堂主人。
 本名、瀧澤興邦(たきざわ おきくに)
    滝沢興邦。
    後に(とく)と改める。

 筆名の曲亭馬琴は、読み方を変えると「くるわでまこと」(廓で誠)、すなわち遊廓でまじめに遊女に尽くしてしまう野暮な男という意味る。なお、現在は多くの本や教科書に滝沢馬琴と書かれているが、これは明治以降に使われるようになった表記であり、本人は滝沢(瀧澤)馬琴という筆名は用いていない。
 江戸深川の旗本・松平鍋五郎の屋敷の用人、滝沢興義の三男として生まれた。9歳の時に父が亡くなり、その翌年に長兄から家督を譲り受け松平家に仕えるが、15歳の時松平家を出て放蕩生活に入った。24歳の時に山東京伝の弟子となり、戯作者として出発した。
 寛政5年(1793)27才の時に蔦屋重三郎の世話で履物商会田家のお百の婿となり、文政7年(1824年)58才まで、飯田町世継稲荷(現・築土神社)下にあった会田家に居住。その後は晩年まで、神田明神下にあった息子の宗伯宅に居住した。
 読本の『南総里見八犬伝』が特に有名で、執筆に

 文化11年(1814年)〜天保13年(1842年)

 までの28年を費やした。最後の所を書いていた頃には老齢と長年の多忙な作家活動のため目が見えなくなっており、息子の宗伯の妻、お路に口述筆記をしてもらっていた。このことに妻のお百が嫉妬し、何かあればお路をいじめていたという。
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 以下はボクの記述・・・

 滝沢興邦
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 後に・・・語爾・語似・誤爾
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 (とく)と改める、とは、
 「興・邦」を「解く・説く・匿・梳く・読・徳」の示唆ではないのか・・・

 1814年6月とはイギリス船シャーロット号が長崎に入港し、江戸幕府箱館松前などの「蝦夷地守備兵」を引き上げた時期、と年表にはある。
 1815年4月とは杉田玄白の「蘭学事始」の発行。「阿蘇山」の大噴火。盛岡・南部藩百姓一揆
 1818年4月は日本地図を作った伊能忠敬が74歳で死亡
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 1826年3月、オランダ商館長にシーボルト随行し参府
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 1837年2・3月に大塩平八郎の乱
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 1841年5月、井伊直弼(亮)が大老
     12月鳥居耀蔵(忠耀)・甲斐守が町奉行
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 1842年6月、書物出版取締令を布く。翻訳本の出版許可制
     10月、女髪結いの刑罰。
     11月、女医師の取り締まり
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 1848年11月、滝沢馬琴が「83歳」で死亡した。滝沢馬琴が生きていた時代とその前後の時代は「鎖国日本」が、頻繁に「西洋外洋船」の来航に不安に揺らいでいた。もちろん、「南総里見八犬伝」にはその日本的状況が伏線となってカタラレテイルのだ。
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 1851年1月、中濱万次郎がアメリカより沖縄に帰国
 1853年4月、アメリカ東印度艦隊6月浦賀
 1860年万延元年1月、「咸臨丸浦賀からアメリカへ出帆
      3月、井伊直弼桜田門外で暗殺される

 そして、2007年3月16日の報道である・・・
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 初の英和辞書の草稿発見
 幕末の通訳らが編さん
 1862(文久2)年に幕府の命で編さんされた日本初の本格的な英和辞書「英和対訳袖珍(しゅうちん)辞書」の草稿や校正原稿が、古書市で発見されたことが15日、分かった。これまで存在が知られておらず、幕末のペリー来航時に通詞(通訳)を務めた「堀達之助」や英学者らによって日本の英和辞書が成立する過程を解明する貴重な資料となりそうだ。
 群馬県高崎市古書店「名雲書店」の名雲純一さんが今年に入って古書市で売りに出されていたのを見つけ、堀の子孫で日本英学史学会の堀孝彦・名古屋学院大名誉教授らが内容などから本物と確認した。
 手書き原稿約20枚は、和紙の左側に横書きの英語、その右側に意味が対応する日本語が縦書きで書かれていた。朱で校正され、「森」など担当者とみられる名前が記されている。
 堀名誉教授によると、英語の「Cassock」の訳は草稿段階では「僧ノ上着ノ名」だったが、初版では「ケサ(袈裟)」となっており、訳語を検討した過程が初めて明らかになった。
(共同) 2007年03月15日 23時33分
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 以下、ボクの記述・・・

 「Cassock」は、
 「僧ノ上着ノ名」だったが、初版では
 「ケサ(袈裟)」

 「袈裟」はカケるモノである・・・辞典によれば、

 けさ(袈裟)

 〔梵 kya 不正色・壊色(えしき)の意〕

 (1)
 インドで仏教者の着る法衣(ほうえ)のこと。
 中国・日本では衣(ころも)の上に左肩から右腋下へかける長方形の布をいう。インドの法衣が形式化したもので、小さい四角の布を縫い合わせて作り、中国・日本では次第に色や布は華美なものが用いられるようになった。
 宗派によって各種の形式のものがある。
 功徳衣。無垢衣。福田衣。忍辱鎧(にんにくがい)。卓衣。
 (2)
 「袈裟懸け」の略。「袈裟カケに斬る」

 「カケル」ことです、ナッ。
 で、小栗上野介は、「咸臨丸」で浦賀からアメリカへ渡航した人物であった。不思議なコトに「小栗家」と「、「日下家」は親戚関係にあるらしいのだ・・・「日下数馬」は「小栗上野介」の母方の伯父・・・以下は

 「近現代・系図ワールド」
 http://kingendaikeizu.net/oguritadamasa.htm

 の「HP」からの抜粋させてもらったモノである・・・「系図」を確認して貰いたい・・・だが、旗本「日下家」とはナニ?・・・
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 会津へ脱出した小栗家の女性たち

 護衛隊は小栗家の三人の女性を護って会津へ向かった。

 夫人道子(30)・・播州林田(姫路市林田町)藩主、建部政醇(たてべまさあつ)の娘。

 上野介の母くに・邦子(63)・・元新潟奉行小栗忠高の妻。
 小栗忠清の実娘でしばらく男子がなかったので忠高を婿として迎える。
 のちに弟、数馬が生まれたので、数馬を日下家へ養子に出す。

 又一の許婚、鉞子(よきこ・15)・・旗本日下数馬(小栗邦子夫人の実弟・日下家へ婿入り)の娘。
 6歳で小栗家の養女となる。
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 以前にも調べた「日下(くさか・玖沙訶)」の「姓」は、「古事記・序文」に初出し、本文の「神武天皇畿内侵攻で敗北した上陸地点「日下」の地名であり、「仁徳天皇」の子供である「大日下王(男)」、「日下王(女)」の物語で、「雄略天皇」のワナにはめられた人物の名前である。そして、「天武天皇」と「持統天皇」の子供「草壁(クサカベ)皇子」である。
 ・・・「神武天皇」の和名は「磐余比古(イワレヒコ)」であった。

 「磐余(バンヨ・イワのアマリ)・・・Banjo?
     ↓ ↓
     ↓ yo=水夫などの掛け声
     ↓ Jo=女の子の名前・恋人
     ↓
     Bam=だます・かつぐ
     Ban=禁制・禁止・反対・批難
     Bang=衝撃音・どんどん、バンバン
     Bang=マエガミの切り下げ
     Van=荷車・前衛・ひ分け器・フルイワケ・翼」

 で、「委の倭の海人の譽」、同音異字の「バンヨ=播与・播預・播輿」ならば、「明石」がある「播磨(はりま・兵庫県南西部)=播州」である。その東の対岸は「淡路島」であり、この島は元は「阿波(あは・徳島県)=粟国・阿州」に属していた。同じ音名の「安房(あは・千葉県房総半島南部)=房州」は「相模(さがみ・神奈川県)=相州」の「三浦半島」と向かい合い、この海峡が浦賀水道であり、江戸(東京)湾
の入り口である。東京湾沿いの三浦半島には観音崎、横須賀、横浜、川崎、江戸と連なっている。「三浦按針」とは「イギリス人」で徳川家康の「顧問」となった「ウィリアム・アダムス」のことである。1600年慶長五年3月豊後(ブンゴ・大分)に漂着したオランダ船「リーフデ号」の船長であった・・・「ブンゴ(豊後)」とは「文語・文誤・文悟」であり、「聞語」、「分語」である。とにかく「按針」は日本国三浦半島に領地を得、帰化人となって「和英辞典」か、「英和辞典」、ソレに類するモノを必要としたハズだ。「エゲレス語=日本語」である。1620年元和六年4月に死亡。1666年は、前年の大地震で死亡者多数、本丸倒壊、大雪災害に続き、水戸、伊予、土佐、伊勢、濃尾が大雨大洪水の災害年で、「千姫」が七十歳で死亡し、「山鹿素行」が播州赤穂に流された年だった。「三浦按針」の混血子孫は、生きていただろう・・・か?
 その後、1613年慶長18年にイギリス使節「ジョン・セリース」が英国王「ジェームズ1世」の書を駿府徳川家康に渡している。
 「日下」の地名は戦国時代には「朝倉」氏の「日下庄」、宮城県白石(北緯38度)の南西に福島県相馬、その延長に「日下石(にっけし)」の地名。「日下石(北緯37度45分)」は福島から真東の延長でもある。「37度30分」には「会津若松」があり、その北方には腰のあるラーメンの旨い「喜多方」、その西に「山都」。その北の「37度45分」に「耶麻郡」の地名がある。磐梯山の西も「耶麻郡」となっている。
 徳川家康が天下をとり、征夷大将軍となった後には「天下」と云う漢字は、武芸、芸能、技芸などの専門職の「天下一=日本一」と言う称号がはばかられて「使用禁止」とされたらしい。その「天下一」の代わりに「将軍=お天下さま」以外には「日下開山」と言うコトバが使用されるようになった・・・お相撲の最高力士の称号としても「日下開山」は使用されたらしい。
 ・・・と言うことは「日本一」とは「日下一=日下開山」であり、「日下=くさか=ひのもと=日本=天下」となる。なるほど「黒田節」は「ひのも〜とぉ、イ〜チィのォ・・・」と唄っている・・・中国の記録には「日本は元、小国。この日本が倭を合併した」とあるのだが・・・「日(ジツ・ニチ)」と「曰(エツ・ヲチ・オチ)」の漢字は類字だが「異字漢字」である。「曰」の造字の「囗」の中にある「一」が「右」に接していないのである。

 日・・・◎
 ジツ・ニチ・ひ・ひざし・ひあし・ひび・か・あき・はる・ひる

 曰・・・
 エツ・ヲチ・オチ・言う・しゃべる・となえる・名づける・よぶ・いわく(いはく)・のたまう・のたまわく・ここに・いわ(は)く・いわ(は)れ

 「曰」の解字は、「口(くち)・囗(くに)」と「L・乚=口気の出る形」の合字とある。「囗=国・國・圀=くに・コク」で「一」ならば「国の壱(いち)」である。邪馬台国卑弥呼のツギの女王は十三歳の「壱與」であった。
 漢字の「L」は「乙の変形」である。「乙」とは、陰陽十干の「甲乙(コウオツ・木兄=きのえ、木弟=きのと)」、南からの渡り鳥の「乙鳥(ツバメ)・燕」、午後22時以後二時間の「乙夜(イツヤ・オツヤ)」、既婚前の「乙女(おとめ)、竜宮城の乙姫(おとひめ)」の「乙(イツ・オチ・おつ・おと・かがまる・まがる)」である。「乙女」とは「処女(ショジョ)・生娘(きむすめ)」と漢和辞典にあり、「乙」は「本を読んでその読み止まりの所に付けるしるし」、「文章の脱字を補う時のしるし」とある。カギ括弧の」の逆字で、釣り針の「L・レ・」・亅(ケツ・カチ・鉤・鈎)」である。釣り針に似ているのはアルファベットの第十番目の「J・j」なのだが・・・「J」の象徴意は「joule(電気エネルギーの単位)・justice(公平・公明・正義・法・判事)」である。

 「L」は英語の「エル」で、ローマ数字の「50」である。「LX」と記すれば「50+10=60・六拾・陸拾」となる・・・「五(ゴ)を拾い」、「壱(イチ)を拾い」、足して「陸奥(むつ)を拾(ひろ)え」となるのだが、「陸奥」は日本本州の東北、最北地方に位置(イチ)し、現在の青森、秋田である。明治元年までは「陸奥」とは「岩代+磐城+陸前+陸中+陸奥」の合体総称であった。
 英語の「L」の象徴は、

 Lady(貴婦人・淑女)
 Late(おそい・おくれる・前の・近頃の)・too late!
 Ltain(羅典・仏蘭西伊太利亜+西班牙+葡萄牙+羅馬丹亜)
 Left(左・「leave」の過去形=去る、出発、別れる、退く
   (許可・葉が出る
 Liberal(字義にとらわれない・自由・自由訳)
 London(倫敦)・
 Lord(神・主人・君主・支配者・領主)

 そして江戸時代の数学者であったらしい「日下誠」、そして幕末、1864年「元治一年」の「七月」に「蛤御門の変」で自刃した長州藩の「久坂(日下)玄瑞」であった・・・・のだが・・・
 「堀達之助」は「高野長英」とまったく同じように獄に繋がれて、江戸の大火で他の罪人と共に牢屋から釈放された・・・違うのは「長英」は逃亡し、「達之助」は逃げず、その後に「英和辞典」作成に没頭したのは故「吉村昭」氏の小説「黒船」に詳しい・・・ペリー艦隊来航時、主席通詞として日本初の本格的な英和辞書「英和対訳袖珍辞書」を編纂した・・・この辞典は長方形で「マクラ」のようだったらしい、のだ・・・「枕詞」、「マクラ掛け」・・・

 「三浦按針=ウィリアム。アダムス」とは「イギリス人」で徳川家康の「顧問」になったのだが、「HP」や文献には彼の「言語生活」の記述は皆無である。「ウィリアム・アダムス」は当初、「ポルトガル」や「イスパニア」の宣教師(バテレン)を通訳として徳川家康と「会話」をしていたらしきことが若干記されているのだが・・・「エゲレス語」の「日本語意味」を彼の周囲の配下の者達に理解させなかったであろうか?
 ・・・ボクは、彼が「英語(単語)」を使用して「帆船」の造船の指揮監督を「日本語の意味」でしたと考えるのだが・・・

 「タンゴ」を「たんご=単語=丹後=端午(五月五日)=Tango=TANG(唐・刀根・刃根・昆布・高音)=ダンゴ」と遊べるのは「蘭学者漢方医」しかいないだろう・・・