201 日目・・・続「価値観」について・・・「価値観」とはナンだろうと昨日、考え、書いたが・・・”一般的には「あるヒト」にとって、「あるモノ」に対する「使用・効用・有用・利用」としての「考え方」であろう。”、と・・・。

 ・・・あんまりにも人々は「神」、あるいは「神々」、そして「仏」、「天使」や「悪魔」、「天国」、「地獄」をその「使用価値のあるモノ」として利用して来た。
 そして、本当に「利用価値」として「使用」したのは諸々の歴史上に記録され登場して来た「指導者=命令者=権力者=支配者」であった。この「指導者」本人が意識的にか、無意識的にか、「集団」を引っ張っていくには都合のイイモノであったのだ。集団の「指導者」のみならず、追従したすべての人間が自分自身が仕出かした「出来事の責任」を転嫁できるモノとして、「神・神々・仏・天使・悪魔」を発見したと言うよりも「発明」したのだろう・・・「蘇えり」も、「千年王国」も、「輪廻・転生」も悪くは無いのだけれども、これらの「使用価値のある発明」の源泉、根源は「生きているコト自体」と言うことだ。「生きている今現在の生命=生活活動」の諸状況が、その「使用価値観」を必要としたモノ、必要とされているモノ、なのだ。
 アンタやオレが、生まれてきて、今現在、「死」をどのようなモノか、と考えているのは「他人の死」や、あるいはペットの死を現前に経験して、あるいは本や、新聞、TV、ラジオの間接的な情報からかも知れない。
 人間は「自分自身の死自体」の経験からは絶対的に「死」を経験できないし、知ることが出来ない存在なのだ。
 アンタの知っている「」とは、「他者の死」である。自分と同じように、肉体として息をして笑ったり、怒ったり、涙を流して悲しんだり、苦しんでいたり、呻いたり、痛がっていたり、お喋りしていたり、勉強したり、ケンカしたり、仲良くしたり、イジメたり、イジメラレたり、考え込んでいたり、寝たり、起きたり、歩いていたり、走ったり、食べたり、トイレに行ったり、活動していた、動いて存在していたあらゆるモノが、そのスベテの「ウゴキ」を止めてしまう「存在」になってしまうのだ。
 「死」とはアンタ自身の「死の経験」ではない。「他者の死」である。
 そして、「死後の世界」をどのように考えるかは、アンタの勝手だけれど、ネッ・・・「死」に対してイロンなコトを考えて、結果、「自殺で死ぬ」のも、生きるのもアンタの勝手だ・・・「死後の世界」は、その「死後の世界」で考えたほうが現実的だ。「生きている間」は「生きている自分自身の使用価値」を考えればイイ・・・「生きて己の死の使用価値」を考えても悪くはないケドねッ。現実の世界や、世間、他人、そして自分自身のコトに関して「知る時間帯」は「死の寸前」までがリミットだから。それまで「自殺の使用価値」をどおしようが、アンタやオレの自由である。

 かての歴史上に存在した「奴隷」や戦争で負けた「捕虜」には自分自身が自分で決定できる「生死の自由」はなかった。「生殺与奪の権利」は他人の手中にあった。「家畜」にはモチロン、「生死の自由」はない。「ペット(愛玩動物)」にも同様に無い。
 キリスト教が「彷徨える子羊達」と、例えている人間に「自殺を禁止」しているのはナゼだろう?・・・「自殺」を敢えて「禁止」と言うことは、人間だけが意識的に死を実現できる存在だからだ・・・「自殺」されて困るのは「神」ではない・・・「自殺」されて「使用価値」として「損」するのも、「得」するのも「神」ではない・・・「自殺者」に関係する生き残っているヒト達の「価値」、あるいは「価値観」である。迷惑するヒトもいれば、喜ぶヒトもいる。
 今現在、自分自身の「生きているコトの使用価値」は自分自身で決めるのだから。
 「武士」に「切腹するな」と言えないのはナゼだ?・・・彼等には「切腹の理由」があった。「心中天の網島」の男女には「心中の理由」があった・・・「生きている使用価値」、「使用価値観」の問題である・・・ダレがこれを「美意識」なんかに祭り上げてしまったんだろう・・・
 子供達に「自殺するな」と言うなかれ・・・苦悩している人々に「自殺するな」と言うなかれ・・・
 「命の使用価値」、「命の使用価値観」を問え・・・