200日目・・・「価値観」について・・・

 連続的とは言えない欠航した日もあるけれど、200日も「文字霊日記」をカキ続けている自分自身、暇だったんだろうな・・・
 「価値観」とはナンだろう・・・一般的には「あるヒト」にとって、「あるモノ」に対する「使用・効用・有用・利用」としての「考え方」であろう。
 「使用価値」は「道具(手段・梃子)としてのモノ」に対する便利さ、機能性、有効性としての是非の評価、考え方である。平たく言えば「あるヒト」にとってその「ある道具」が「役にたつ」か、「役にたたない」か、あるいはどの程度「役にたつのか」の評価、考え方である。だから個々人の「あるモノ」に対する「価値評価」は様々である。で、「価値観」として、

 「宇宙観」、宇宙のあり方
 「世界観」、世界をあり方
 「人生観」、人生の生き方
 「家庭観」、家族のあり方
 「恋愛観」、男女の関係のあり方
 「結婚観」、結婚生活のあり方
 「女性観」、女性のあり方
 「男性観」、男性のあり方

 「歴史観」、事件、出来事の視方
 「科学観」、物質、生物のあり方
 「宗教観」、神、天使、悪魔、霊魂など
 「表現・芸術観」、美醜、調和など
 「教育観」、子供の養育、養育の仕方
 「医学観」、病気と治療のあり方

 など等を「どのように考えるか」の「個々人の観方」が沢山ある。つまるところ、スベテが現在的に生きている状況、環境の中で「個々人の生活観=衣食住」に関連しているモノである。
 モウ少し言えば、「あるヒトの使用価値」としての「対象」に対する状況、環境の中での「モノの評価の観方」である。観方、考え方の「価値の是非、評価の是非」の「基準」は「個々人の使用価値」となる。個々人の「使用価値」とは「損得の考え方」である。
 あらゆる「固まったモノの観方・考え方」とは「信条・思想」である。

 ・・・と言うことは、「あるヒト」個々人にとって、モノもヒトも「使用価値の損得勘定」としての「対象」、と言うことか・・・悲しいカナ・・・で、これは「理屈」であって、モノ、ヒトに対する「情緒・感情」を考慮には入れていないのだが、現実的には「情緒・感情」の「喜怒哀楽」、「快=不快」もこの「使用価値」には組み込まれている。だから「損得感情」もバロメターとしての目盛りの位置も含まれているのだ。価値があってよかった時は心は「喜楽」、価値が無かった時には「怒哀」するのである。
 「社会(人間共同体の諸関係)に対する価値観」は一般的に「思想=社会思想」と言われているが、人間の対象であるあらゆるモノは「価値観」として「思惟・認識・判断」とされるモノなのである。そして、この「社会(人間共同体の諸関係)」の今現在、最上とされているもの、「社会思想=人間共同体の諸関係の考え方」が取り敢えずは「民主主義(民主主義思想)」がイイ、と考えているのに過ぎない。
 なぜ、今現在「民主主義」がイイのか・・・?・・・「民主主義」としての「使用価値」はナンなのか?・・・社会的個々人がその諸関係で「対等・公平」として「利害関係が一致」する・・・からなのかな・・・「対等・公平」の「基準」となるモノはナンダロウ?・・・「生活環境・生活状況=衣食住=生活手段」としての「使用価値」である。

 で、この「政治思想」である「民主主義」はどのように護られるのか?・・・「衣食住」の「対等・公平」レベル堅持の「社会制度=社会システム=法律」である。この「社会システム」は可能だろうか?・・・今現在、殆どの「産業先進国」では「民主主義制度・民主主義体制」と言う「法治国家」と言われている。「民主主義システム」と言われているが現実的には、その「衣食住」は「対等・公平」でもない。現在的には「格差社会」は現前とあり、更に極端に両極化に向っている・・・「民主主義の使用価値」として、機能していないし、効用していない。ナゼだろう?
 「民主主義」としての「使用価値観」を個々人が自覚していない、と言うコトらしい。
 「自由主義」と言う「価値観」がある。そして「自由+民主主義」と言う重なったコトバがある。「自由主義」と「民主主義」の「価値観」は同列ではない。「自由主義」とは「市場経済=商売=物流交換」に於ける「価値概念」である。自由にモノを売買でき、自由にモノを蓄積、処分できる、と言う「思想」である。そして、自分自身の「労働力」を売る事も、他人の「労働力」を買う事も「自由」である、と言う「思想=考え方」である・・・売れるヒトもいれば、売れないヒトもいる。買うヒトもいれば、買えないヒトもいる・・・個々人の「使用価値」次第で決定される「枠内の自由」である。
 ・・・そして、この「自由」に交換された「使用価値物」は「財貨価値物」として、結果、形を変えた「交換手段」として「蓄積」されたのである・・・「金の蓄積」・・・そして「
資本」と、なった。
 文明社会、共同体と他の共同体、農村と都市の「分業」として、その双方を媒介する「流通市場」があれば「商業資本」はどの時代にも決済手段として、交換手段として「貨幣=金」として、「財産」として「商才のある個人」に偏って「蓄積・管理」されたのだ。
 だが、「流通市場外」で「蓄積された財貨」がある。この「財貨・資本」はどうして蓄積されたモノなのだろう・・・暴力、武力で威嚇、恐喝、そして強奪されたモノである・・・強奪された財貨は、強奪した財貨の蓄積となる。そして、「国家(君主・王)」は「自然、土地から生活手段」を得ていた農民から「剰余生産物」として「強制強奪」し、管理、分配した・・・「税金」である。そして、「国家の権力者」、あるいは「徒党集団」として、その配下の人々を組織化し、「他の国家」や、「他の共同体」と武力衝突(戦争)するコトで・・・領土を確保し、人々を捕虜とし、それらを国家の財貨=富として「蓄積・管理・使用・分配」する「権利、権力」を確保したのだ。
 「余剰財貨」はどの時代でも「資本」である。
 そして、「商業資本」、「産業資本」、「金融資本」を莫大な「私有財産」を握ったものがあらゆるヒトとモノの「自由」を得るのである。これが「自由主義」である。
 「みんなの民主主義」は「みんなの自由主義」ではない。それらの「主義=思想」は異なるのデアル。「自由主義経済市場」の「大枠」には「個々人の民主主義」は存在し得ないのだ。

 どのような「制度」も、人々の「組織」として、階級、階層、序列化して組織化されるのだ。
 共同体であろうが、国家であろうが、その枠内の団体、会社、企業、家族であろうが、「軍隊」であろうが、「組織」は目的性(使用価値)を持った時代的状況に即した「分業、協業、連携」集団である。

 「民主主義」としての「組織共同体」の可能性は「商品流通市場」の「管理」、「資本の分配」の「管理」であるが・・・「近代化=産業化・技術革新化」が「民主主義」を保障するモノではない。
 そして、産業資本時代に登場して来た「労働階級」が「民主主義」を保障するものではない・・・「近代産業国家」に於いて「労働階級」は「資本階級」と「対」で登場して来たのだ。
 「民主主義」とは「近代技術産業」が生み出したモノ(文明機器)を「文化的に大衆、大量消費」することで保障されるモノではない・・・
 では「民主主義」とはナニによって保障されるのか・・・みんな「バカ」になればイイのである・・・「バカ正直」・・・に・・・
 「殺さない」、「盗まない」、「嘘つかない」、「差別しない」・・・生きているスベテの人間を「洗脳」するんだ・・・ムリかな・・・