199日目・・・ダレかさんの所に貼り付けちゃったモノを改作・・・個々人の時々の「心の状況」を推し量るのは難しい・・・「心」も自然界の春夏秋冬の営みと同じく、その変わりようが緩慢で、激しく、その切っ掛けはナンであれ、ダイナミックに展開するから・・・その時の確信もすぐ打ち砕かれてしまう・・・「文字化された心の状況」説明も、その紙面に貼り付けれられた固定化したモノにも思えるし。


 つきなみに・・・「現実的な時間の経過」だけが、自分の内面に癒しとして、希望として、怒りとして、怨みとして、あるいはアパーシーとして、虚無として「結果論的」に移り気で「アイマイな解決」をしてくれる。そのプロセスはダレでも経験する「躁鬱」としての「心の時間帯の連鎖、連続」である・・・人間精神に「躁鬱」は必要な本質なんだ。そして求められているのは、そのバランスなんだろう。
 「感情の流れ」に「固定的な解決」なんてないんだろな。決まり決まった「理屈」は「心情の流れの防波堤」にはならないし・・・「アキラメ」って、「諦める(感情的に)」と「明らめる(理性的に)」の漢字が当てられているけれど、「アキラメ切れない複雑なモノ」なのカモ・・・
 自分自身を周りからイジメラレナイ、あるいは自分自身をイジメナイ方法・・・さっさと寝て、夢であることを「自覚」し、夢の中の世界を彷徨うこと・・・ただし、夢を視ると言う「自覚」は自分にとって「快楽の実現・願望の実現」を期待している自分自身であること。
 夢の状況内容が天国で天使に会おうが、地獄で悪魔に会おうがが、「恍惚」に漂って、彷徨っているなら〆たモノである・・・

 イヤなのも、タノシイのもその殆どが「人間諸関係」・・・
 自分自身が対象とする「人間の分析(実体分析=心理・心情=信条・感情)」は難しいネッ・・・その前にナゼ、今現在の「自分自身」が「相手の気持ち」を知りたいんだろうか、を考えてみる必要があるんじゃぁないかな・・・当然、「自分」と「相手」との「関係」で、「アル問題」が起こっているからだ、とは思うけれど、相手との対峙している「自分自身の問題」だよね。
 「自分自身」が「相手」に対する「対処方法(目的)」を知りたいからだよね。
 「自分」と「相手」の「問題」は、「自分」と「相手」のとりまく「環境、状況」でもある、と思うナッ。そして、双方の歩んできた「経験性(時間・履歴)」が凝縮された結果としての対決で、その自分自身の結論(納得)を得る、と言う。

 ABC     →← GHI←・・とりまく人間、環境
 ↑↓      ↑↓
 自分の経験→問題←相手の経験
 ↓↑      ↓↑
 DEF →←  JKL←・・とりまく人間、環境

 人間は「目的」を持ったら、相手や複数の人々と「心理的駆け引き」をしながら「現実的な利害関係」のバランスを取りながら「目的を実現」させるタメに動き出すハズ。で、自分自身の「目的自体」がアイマイで見えない場合もある・・・「頭の中での整理」が必要だ。
 「自己分析」も「対象分析」も自分自身の「コトバ」で、さッ。自分自身の「分析能力」の「レベル」は「コトバ」での知識と「経験的な直観」だけれども・・・この「直観」は単なる「感」としての「直感」ではなく、「直感=体感・五感」を含む、生まれてから経験したスベテの「感情・知識・思惟」が即応的に、対象、状況に対して「判断」を下す、と言うコトだ。身体で覚えているモノ、あるいは「技能」として既に自分自身が獲得してしまっているモノ、あるいは「条件反射」として「反応習性を獲得」してしまっているモノ、だ。

 そして、一般的に「心理」と言われるモノは「理性(理屈)」と「感情」の入り混じったモノである、と思う。だから、コレラの二つは「区別」する必要がある。

 「理性(合理的理屈・信念・信条・思想)」
  と
 「感情(気分・好き、嫌い・快、不快)」

 「理性」とは相互の共通言語の意味を与えられた「客観性のコトバ」だけれども、実際には対峙する相手との関係で、その相互理解の同次元の「意味レベル」が踏まえられていない「主観的」な場合が多い。
 「相手のコトバ」と「自分のコトバ」の「意味」が甚だ異なっているか、微妙に異なっている。あるいは180度、逆、と言う場合もある。自分自身を二重化し、自分(コトバ)と相手(コトバ)との比較で、その「差異、区別性」を踏まえる必要がある・・・自分も相手もドウイウ意味で言ってんだろう、って。

 「心理分析」・・・現実には、この双方の「複雑に入り混じったモノ」を「基礎」に、自分自身の「コトバ」や「行動」を「テコ」として相手や状況に対応する、と言うことだ。しかも、問題は自分自身の相手に対する「主観的な判断=思い込み」で・・・
 そして「心理分析」と、「行動分析」は「区別性」が必要である。

 けれども、現実的には相手がドンナに「理性的なコトバ・紳士、淑女的な行為」を見せようとも、ほとんどが自分の「感情心理(スキ・キライ)=快・不快」を軸にして対応してしまう。本質的には人間は「感情」の「好き、嫌い」でほとんど動いている、らしい・・・
 だから「自分自身の好き、嫌い」の「基準」が「何」であるかを先ずは「ハッキリ」させる必要があるだろう、ナッ。
 自分自身の「損得勘定」と考えればイイ。この「損得」には「感情」としての「好き、嫌い・快、不快」も含むものとして。気分が良くなれば「得」、気分が悪くなれば「損」・・・
 「モノ」としての「プレゼント」には誰でも「ワルイ気」はしないだろう。クリスマスプレゼントでも、バレンタインのチョコレートでも・・・?・・・モチロン、心のこもった・・・「ただのモノほど怖い」って、欲しくない人も世の中にはいるらしいけれどネッ。「コトバ」としての「プレゼント」は、その「意味理解」に於いて自分自身にとって「最上」でもあり「最悪」でもある場合があるのは当然である。

 とにかく、「自分」と「相手」との「価値基準(理性・感情)」の違いの「区別性」を踏まえて、相手に対する「対応方法(目的)」とするに違い無い。
 意識的な「目的設定」には「協力・妥協・拒否・無視」等があるとは思うけれど、「結果としての目的成就のレベル」は・・・「?」である、カナッ、明日のコトはワカランのさっ・・・いずれにしても「ソレでヨシ」、と言う「自分自身の居直り」と、相手にも自分にも「優しさ」があれば、人間、強くなるカモ・・・ネッ。
 「タロットカード」では、以下のモノになるんだけれど、ナッ。
      ↓
 参考:http://www1.odn.ne.jp/~haa98940/taro1.htm