198日目・・・続々『熱い国』の行方・・・シバ・ナイポールの小説・「アイデンティティ」と「アムネシア」・・・に関してのボクの批判的考察・・・
「集団的アムネシア」とは「過去の出来事や伝統」を「記憶喪失」することであった。それらの「記憶」を禁じられることも含め、ボク的に考えれば、ある地域の人間集団の大人達を「抹殺=集団虐殺=GENOCIDE」されるコトである。
そして「新国家形成」に関連して必然、発生とされてくることが「IDENTITY」ならば、その現実的状況は、生き遺された「子ども達」が両親、親族集団の「慣習・伝統・言語」を切断され「新たな思想」で「洗脳=養育されていく」と言うコトである。
最近では、分解したユーゴスラビア連邦、コソボの「民族浄化」では、双方敵対関係にあって生き延びさせられたのは「幼い子供」と「女性」だけであった。「異民族女性」が産む子供は「混血」であっても、将来的には「アムネシア化」され、味方の「IDENTITY」を有する「半同族」となるからだ。
第二次世界大戦のドイツヒトラーは自己民族の「IDENTITY」の手段としてユダヤ民族の壊滅を謀り、虐殺した。ヒトラー、ドイツだけではない、その同次元の立場はイギリス、フランス、アメリカ、ロシア、ヨーロッパ全土の人々の大半が、「ユダヤ人の存在」を「伝統的嫌悪感」をもって「アーリアン民族」の大枠の「IDENTITY」で「排除」される事を期待していた。
ユダヤ教も、イスラム教の分派シーア派もスンニ派も、キリスト教の分派カトリックもプロテスタントも根源的には「旧約聖書の一神」である。歴史的には「虐殺」の連続であった・・・「アムネシア=IDENTITY」としての。
オスマントルコ帝国のスルタンは誘拐した「白人キリスト教徒の子供達」を「エリート」として育て上げ、側近階級とした。
大陸中国の「アムネシア」願望とは中国(清王朝)への西欧諸国からの侵略である。第二次世界大戦後の中国新国家形成の「IDENTITY」とは折衷された「民族主義+共産主義」であった。その現実的な折衷を精算しようとしたのが2000万人規模のリンチ虐殺を招いた「文化大革命」であった。スターリンも毛沢東も粛清、暗殺と言う手段で「アムネシア・IDENTITY」を「仲間内」でやったのだ。秘密警察を駆使して。しかも「文化大革命」は「紅衛兵=子供」を操作するコトによって。片手に「毛沢東語録」を持った「紅衛兵」も、カッテの「革命」を担った貧農、農奴、民衆にとっても、「忘却する対象」がなんであるのか感知するところではなかった。彼等の未来的な毛沢東の思想的イメージは「富豪・大地主・都市資本家・帝国日本」から解放され、「自作農」と「賃金労働者」になるコトだったし、「紅衛兵」の「毛沢東語録」も「人民の解放」だった・・・だが、いかに指導部が「共産主義・社会主義」を掲げようとも、対諸国家間、国際市場経済に影響され、国内現実生活が商品市場を媒介にして動かざるを得ない所では、儲け、蓄財、利益の人間諸関係での利害は「国家民族主義=一国社会主義=全体主義」の「思想、観念のIDENTITY」にならざるを得ないのである。現実には中国は「労働階級」としての「観念」が空中に浮いて漂う「官僚階級社会=共産党階級序列社会」である。根っこは変形した「市場資本主義国家」である。いまや、中国共産党幹部は「戦後日本型資本主義国家政策」を必死に研究、模倣しようとしているのだ。
カンボジアの「クメール・リュジュ」は、まさに教養階級全員の虐殺と言う意味で「アムネシア」は実行された。
北朝鮮の「アムネシア」とは「韓国」であり、「アメリカ」である。そして、日本は北朝鮮国家としての「IDENTITY」のテコである。その「IDENTITY化」は戦前の「大日本帝国」である。
そして、戦後の日本は戦前の「大日本帝国=明治国家」をアメリカ占領によってコロッと「アムネシア」しようとしてきたのだが、「忘却」するモノが「一般大衆」によってはアイマイなのだ。「IDENTITY」は自ら形成して来たモノではなく、「武士」では無い、単なる「被支配者」として付和雷同する自分自身に「上」から与えられるベキモノだったから・・・「アムネシア」したくても、その「思想」は仮のモノだったのだから。
そして、「IDENTITY」は今現在、「日本国憲法」であるハズだが、混沌と渦巻きだしたのだ。この「日本国憲法」を忘却しようとする「アムネシア」が・・・
で、ボクが言いたいコトは上述したコトではない。昨日も最期に掲げた「ディナ」と言う女性のコトなのだが・・・この女性、「ディナの不安」についてのコトなのだ・・・「神」を信じない、と言うことを「クヤマ人のコトバ」に託して彼女の姉に言ったコトが父親に知られてしまった・・・
「クヤマ人は死んだら、天国にも地獄にも行けない。私達には天国も地獄も無い。肉も骨も墓の中で腐ってしまうだけ。私達には何も残らない。跡形にも無くなるだけのコト」
・・・「私達には何も残らない」と言う「私達」とは、ナンだろう?・・・「生きているワタシには」なのか、「死んでしまったワタシには」なのか・・・