197日目・・・続『熱い国』の行方・・・”シバ・ナイポールの小説を中心に・青木保(大坂大学教授)・「一、アイデンティティとアムネシア」”・・・に関してのボクの批判的考察・・・

 ・・・「新国家」を「怖れ」てきたのは「教養」もあり生活もソコソコの「中間層」で、ごく一般的な「普通の人」であった。彼等はその「社会的存在」として「文字」が読め、その「文字」を理解することが出来た。そして「社会的状況」の「情報」を、その「知識」で「判断できる存在」であった。
 だが、「新国家を怖れた」のは「中間層」としての「普通の人々」であったが、その「新国家の指導者達」が「怖れた」のは「教養中間層」であった。
 「新国家の指導者達」とは「教養」も「知識」も「判断力」も「普通の人々」と変わらないレベルの人間だった。ただ、チガウのは「新国家」の「権力を握ったインテリ」だった、と言うコトである。しかも、世界情勢、国際情勢の中での自分自身の「存在価値」を「新国家内」で位置づけれる人間であった、カモ。もちろん、「権威者」、「権力者」、「独裁者」はその「政敵」を敏感に嗅ぎつける能力のある人物で、「政敵」、あるいは潜在的に「政敵」になるだろう人間達、「同次元の教養」を有する人間達をイチバン恐れざるを得ないのだ。その人間が「教養中間層」の「普通の人々」なのである。近代国家の形成は「知識人」である「普通に判断できる人々」を膨大に犠牲にするのだ。彼等は「特殊な利害関係」としての「思想」では「洗脳できない存在」、「普通の生活者」としての「現状維持」としてのゴク自然な「倫理、道徳的存在」であるからだ。すなわち、「普通の人々」とは「殺さない=殺されない」、「盗まない=盗まれない」、「騙さない=騙されない」、「差別しない=差別されない」でその生活現状を「社会共同体の内」で保持しようとしている人々である。
 だが、「近代国家形成」に於いて「国家権力者」、イギリスが、フランスが、アメリカが、そしてロシアが、中国が、日本が国内の「普通の知識人」を怖れ、「弾圧・排除」した。そして、第二次世界大戦後の植民地から解放された「第三世界」の「新国家」の権力者が・・・膨大な「普通の教養人」とその付随者を虐殺した。
 「アムネシア」とはコレである。
 そして付随者とは、付和雷同者である。そして「権力者」に取ってイチバン禦しやすいのが「識字率の低い無教養層」である。ただただ「生活」するタメになんとか「既成の権力者の判断」にしがみ付いている人々であった。「国家」とはこのレベルの人々を組織化した「国家」でもある。
 「アイデンティティ」とはコレである。
 「新国家形成時の普通の人々」は現在の「日本的中間層」とはチガウのである。かって、生活空間、居住場所として国境枠組みされた「明治新国家」や、第二次世界大戦後の植民地から独立した「新国家の教養中間層=普通の人々」と、現在的な日本的状況の視点から観た「日本国内の普通の人々」とはチガウのである。ナニがチガウのか・・・「国家権力者」のムキ出しの「暴力的虐待、虐殺」に於いてである。そして、明治国家は「科学技術=合理思想」と同時に「アイデンティティ」として、命令服従絶対の「国民皆兵」の「支配階級思想=皇国思想」を「教育=修身」として、学校教育、尋常小学校の低学年から「洗脳」した。

 今現在の日本人一般はその識字率、教養に於いて、知識に於いて世界的に最高である。かっての明治国家、あるいは江戸時代、鎌倉、平安、奈良時代に於いてさえも・・・識字率、文字知識に於いて「自由」に、「曖昧」に理解、操作するコトに長けていた・・・そして、今現在の言論、出版、インターネット、あらゆる「情報交換の自由」、「価値判断の自由」が「将来・未来」にも永続的にアルと思っているらしい・・・そして、「アル」はずである・・・だが、「日本人」は「命を維持する」と言うコトに時代時代の「生殺与奪の権力者」に迎合することに於いては他の諸民族に例をみないホドに「自由」、「柔軟」に対応した。「武士道」、「貴族のプライド」などは「日本居住地区の住民の大半」であった人々には無縁のモノであったのだ。理不尽に暴力支配されようとも、その立場は「他人事」で、「野次馬」だったのだ。「関が原」では天下分け目の合戦を弁当持参でサッカー見物よろしく観賞していた。「下関戦争」では上陸して来た英仏連合海兵の砲台撤去を手伝った。武士階級の支配者に属するモノは支配者の倫理道徳、「農・工・商・穢多、賤人」はその「価値基準」からは「自由」であった。
 これが「アムネシア」である。
 そして「戦国時代」の「下克上」の暴力は、その「階級昇進」を個々人に「自由」に解放していたのだ・・・素性の知れない百姓が関白太政大臣に、山奥から出てきたキコリが将軍になれたのサッ。

 階層、階級を貫く「一般的な価値基準」、例外もあるが殆どの「日本人」の生活上の「信念」はゴク「自然体=生命維持」としての「延命・寿命・終命」であり、その前提での共同体内、共同体外との「妥協」であった。今現在もそうである。
 近隣諸国、「同盟諸国」の状況次第ではその支配階級の「国家の存立」は「自由=無秩序」を許さないモノとして立ち現れてくる。「国家秩序」は「支配階級利害」の「自由」だけを渇望するからだ。
 これが「アイデンティティ」とと言うモノである。
 そして、今現在の「日本的国家状況」は「日本国家の指導者達」の「新国家=新秩序」形成は揺れて過去への「普通の国家」に、ぶれ返そうとしている。
 で、ボクが言いたいコトは、「シバ・ナイポール」の「政治小説」に登場させられている女主人公の「ディナ」の立場なんだけれど、また、気分次第で明日にスルかな・・・「アムネシア」じゃなかったらネッ。