94日目・・・デス・・・太古の昔から「人間の知識の源泉」は「日常生活」と「日常生活をとりまく自然の変化」だった。「音声言語」を「文字言語に組織化」した時にはサラに「知識」は増大していった。経験的な「知恵」はその「理由」を知らずとも「how to」として蓄積されていった・・・「ソウやれば結果はコウなる」と言った段階のモノである。「何故ソウなるのかの理屈の段階」ではない。

 「知識」は「知恵」として経験的に習得した「技能の内容説明」である。この「技能」に理屈をコトバで「体系」を与えたモノが「技術」である。「技術」とは「技能の内容」の「コトバの意味説明」である。だから「技能」は「知恵」の段階で、「技術」は「コトバの知識」である。
 「知識(コトバ)」で習得した「技術」は即、普遍的な「実践技能」とはならない。個々人の様々な「実践的な技能レベル」は異なっているのだ。アタリマエだよな、「知っているコト」が個々人の実践では「能力」としての「ウマイ」か「ヘタ」の「技能的な差」は歴然だからだ。
 「コトバ=技術=学問」では説明し切れないモノが「技能(能力)の範疇」にあるのだ。「頭」で覚えるコトと、「体」で覚えるコトにはこの「差」があるのだ。
 「コトバ」で知るコトには「限界」があるのさ・・・「宗教」も「科学」もその「限界のあるコトバ」で説明されている。そして人間は「宇宙」も「自然界」もその「限界のあるコトバ」で「知識の集積」として「認識」しようとしてきたのだ。
 「自然科学=自然」ではない。もちろん「社会科学=社会」ではない。「自然科学=コトバ(記号・図式も含む)で認識された自然のあり方」であり、「社会科学=コトバ(記号・図式も含む)で認識された社会のあり方」である。

 「星占術」はその「学問」としては「天文学」が「基礎」である。「天文学=自然科学」である。だから「天文学」としての「認識知識」がなければ、人間の存在に影響関係すると言う「太陽・月・星」の「運行配置」を知らなければ「占星術」はその「学術」とはならないのである。
 そして人間は「天文学=暦」として、その「暦の流れそのもの」が人生に何かしら影響を及ぼすと考えるようになったのだ。この「暦」は地球を中心にした僅かな数値変化する天体現象観測の「固定化」だから時代によって「天文測量の数値変化=認識」によって変えられるのさ。
 「科学≠天文学≠暦≠占い≠人生」はまったく異なるものモノである。各々が別個の「認識思想体系」なのである。それらの区別性とその関連性を見出すのも「思想(コトバ・観念)」なのだ。
 そしてかなりアイマイな「言語体系」を複雑に重ねて人間の「日常生活」は営まれ、しかも「言語範疇」から乖離した「不可知」なところで個々人の「経験的な人生」は動いているのだ。
 この個々人の人生はその危機的状況に遭遇し、経験した時に「宿命」とか、「運命」とかの「星=命」を認めざるを得ない「観念思想」を抱きながら生きているらしいのだ・・・「the theory of evolution」は生物学的に「進化論」と訳されているが・・・「variation」、「development」、「progress」・・・存在するモノはすべて「過程的循環変化する」と認識した方がいいだろう。スベテの「変化」の根源は「宇宙の存在」そのものであるのは言うをまたない・・・

 「四柱推命学」に於ける基本概念が「エネルギー(気)」の相対関係としての「変通星」であるところがナルホド、だッ、ワールドなのだ・・・「変化して事物の意味が通じる」ところの「思想」なのである。