「四柱推命」の宇宙、天体・太陽エネルギーと地球エネルギーの相互作用・相互媒介作用論。

 命式上で「生年月日時」の各「干支」そのものや、「天干」と「天干」の「干合」や、「支」と「支」の関係である「沖・刑・破・害」、あるいは「方合・三合・支合」を「理論的」に考えるならば、各年月日時の「天干」の力量や、各「支」の「蔵干」の力量を「数字」で考えねばならない。
 これは一年、「365・25日」とし、一日を「十二刻」とし、これを天体上の太陽の運行軌跡(黄道360度)の推移期間を一年=24等分、一年=72等分、一日=12等分して、その期間に太陽が降り注ぐエネルギー=「気」の「質(十干)」と、地球がその「質」を受ける「配分量(十二支)」の相互関係を考えねばならない、と言うことである。
 「月支」の場合、その「支」に載る「天干=気」を強い影響を与える「太陽エネルギーの質」とし、これが、その月の「支=蔵干=地球・大地・諸生物としての反応する受け皿の気」にどれだけの「天干」のエネルギー量を受け取ることが出来る「限定枠」があるか、どうかと言うことである。
 「天干=太陽」の「質量」は無限であるが、これを受ける「支=地球・諸物質・諸生物」は、その受容量を自ら限定しているのである。「支」は大地=地球のエネルギーで、この地球上に諸生物は存在している。いわば、運命学で「天地人」といわれるモノの「人」は

 天=太陽・・・→人=人間←・・・地=地球

 太陽と地球のエネルギーのサンドイッチになった中間に存在する。
 「中間」と言っても宙ぶらりんに浮いているわけではなく、大地に足と根を張って、種によっては塩水、淡水の中で、「生物」は双方の大枠の影響の中で「生物」たらんとしている。

 太陽の天体における運行軌跡は黄道として円周360度、コレを区分して

 立春(三時)315度
 春分(六時)  0度
 立夏(九時) 45度
 夏至(十二時)90度
 立秋(十五時)135度
 秋分(十八時)180度
 立冬(二十一時)225度
 冬至(0時)270度
 
 としている。0度〜45度〜・・・の幅であり、その日数期間である。

 365÷8=45.625の日数区分期間である。そして、二十四節季の365÷24=15.208、七十二候の365÷72=5.069の日数区分である。これは地球に対する太陽の位置関係である。この位置関係が「六十干支」での年月日時の一サイクルの「天干」と「地支」の「気=エネルギー」の配分関係に於ける相互作用となっているワケである。
 「月の始まり日(節入り日)」と「一ケ月の期間(日数)」を、そして「四季節(春夏秋冬)=3ケ月×4=12ケ月」と、四季の最期の日数期間の「土用期間」を、そして「一日の時間区分(十二刻)」である。
 「十干」は太陽エネルギー=「気の質量」であり、十二支はそのエネルギーの質(十干)に反応する地球側の受容配分許容量である。十二支の一支は更に「初気・中気・本気」に細分されている。

     天干  地支 蔵干
      ↓    ↓  ↓
 甲子=甲・・・→子(壬・癸)
       \
 乙丑=乙→丑(癸・辛・己)
       / /
 丙寅=丙・/・→寅(己・丙・甲)
       /
 丁卯=丁・・・・→卯(甲・乙)

 地球に「注がれる質量(天干)」であり、これに反応作用する地球そのものと、地球上の諸々の生きた物質=生物の受身としての「受容量の枠=日数」である。コレは各月支内の蔵干=「初気・中気・本気」の配分日数がその「受容量の枠」となっている。コレを基準にして「年月日時の地支蔵干の受容量の枠」も定められている。
 以上のことから命式の「各天干」の質量はそれ自体としては「無限」であるが、「命式天干」上で力量を与えるならばどの「天干十干」も等量で、「質量=1」である。
 この天干の現実的な「質量」の受け入れを決定しているのが「支蔵干の配分日数」なのである。命式上の「生月支」がそれ自体、特別強いわけではない。数字で言えば「天干=1」が「地支の日数分」の強さを有することになる。
 「生月支」の「強弱」は「年・月・時」の「天干=1」が、「生月」、あるいは「生時」の「十二支」の「各蔵干の一」と「同気=同類の十干」で反応作用しているかどうかにある。

 例   天干   地支蔵干
     ↓     ↓↓↓
    年天干=◇
    月天干=□ ◇□☆○、あるいは(◆■★●)
    日天干=☆
    時天干=○ ◇□☆○、あるいは(◆■★●)

    (◇□☆○)と、(◆■★●)の違いは同一五行の「干」の「+ -」である

 一般的には「四柱推命学」では「透干の有無」、「根の有無」と言われているものである。生月支の蔵干は本人の「格式=人生傾向」のカナメであるから「有」であることが望まれる。
 「運命学上」の「干支」の「天干」が「天(時)・地(場所)・人(対人関係)」の「気」の相互作用を「啓示」する「天(時)」のエネルギーの根拠である。
 「大運」の「干支」を「年月日時」の外的な「行運」と同じようなモノと考えがちだが、「命式の月支」を基点にする「大運」は己の内にプログラムされた「体内時計」である。しかも「大運期間=十年間」を「干と支」に分けて「干=5年」、「支=5年」等と考えるのも「理論」から逸脱しているモノだ。たとえば、「大運=丙寅(己・丙・甲)」ならば「天干=丙」が「地支蔵干=寅(己・丙・甲)」の「初気=己」、「中気=丙」、「本気=甲」のこれら三区分期間の強弱で決定すべきであるのだ。目安の数値は、一ケ月=寅支=30日間とするならば、

 寅の「初気=己=5日間」、
   「中気=丙=9日間」、
   「本気=甲=16日間」

 となる。「大運天干=丙」を支えている「寅支=十年間=30日間=一ケ月」は、

 (5/30)×10 =1.666年間・・ 初気=己
 (9/30)×10 =3年間・・・・ 中気=丙
 (16/30)×10=5.333年間・・・本気=甲

 となり、大運の天干「丙(火)」が強くなるのは「中気=丙(火比和火)」、「本気=甲(木生火)」の期間となる。「初気=己」は「丙(火)生己(土)」で弱いのである。逆に言えば「己(土)」を強めているのだ。

 もし、数値で命式のそれ自体のある年月日時「天干」に「個別的に特別な力量」が有るモノとするならば、「天干」が隣接しての「合去」、「剋去」、あるいは「地支」が隣接しての「沖去」、「合去」の「理論」は成立根拠のないモノとなる。
 天干隣接の「合・去」と、地支隣接の「合・沖」は「同質量」のぶつかり合いの「エネルギーの相殺」である。
 当然、推命学上では、「命式」での隣接した「支」同士の「沖去・合去」と言うことは「支」に載る「天干」の土台がないといことであり、「天干」に反応する「受け皿」がないと言うことであり、その「支え」がないと言うことである。
 「空亡・天中殺」理論も「支」が「空」して「亡い」のであるから、この「支」に載る「天干」のエネルギーは役に立たないし、意味をなさないと言うことである。またこの「空亡・天中殺」支が「支合・沖・三合・方合」する時には「支」が手をつなぎ、その「根」を張るのであるから、これらに載る「同気の天干」は活躍する場を与えられたことになる。

 「大殺界(?)」とか「天中殺(?)」とかは、これらの「理論的条件」を踏まえた上で、其の出来事と運勢的な「吉・凶」が起こるのであり、平面的なものではない。しかも「大殺界(?)」とか「天中殺(?)」とかは「四柱推命学」の「生日干支」が基準であるから其の論理は「生日」と「生時」のサイクルに限られることになる。

 干支は十干と十二支が組み合わされた太陽と地球の相互エネルギーの60循環のサイクルであるから「日の十二支」と「日の枠内の時間の十二支の落とし穴」である。

 で、この関係は「数理上」の十干と十二支を「十干」のサイクルに合わせたら「十二支」の「二支」が「アマ」ってしまう、その部分である。
 「年月のサイクル」に「空亡」は太陽と地球の相互関係のエネルギーに根拠がないモノである。ましてや「大運」にあろうはずがない。

 「中国の文献」には日本で流行っている「大殺界(?)」とか「天中殺(?)」の事などは一言も述べられていない、と批判するのは別の意味からナンセンスである。「悪い意味」でその「大殺界(?)」とか「天中殺(?)」の「干支時期」を経験した人々はこれらを売り物にしている「占い師」のコトバを100%、自分の経験に引き寄せて「明日」を信じてしまうのに違いない。
 どちらにしても「大殺界(?)」とか「天中殺(?)」とか言う連中、「ウラナイ屋」は「他人の運」を盗んでいる連中である。

 「四柱推命学」がアキラカにするのは「自然」と「社会・家族関係」のかかわりの中で生きている己個人の「過去・現在・未来」の出来事、「運勢の吉凶」の可能性であり、「未来」としての現実的な「実現性」ではない。現在に於いて「未来完了としての推理」であり、「事実」はすべて「過去的な結果論」である。今日の「予測」は、明日にならなければその「当否」はワカラんのさ・・・未来が視えたノストラダムス本人自身は別らしいが、結果としてその「事実」を確認出来るのは凡人だけ。多分あんたも凡人だろうから自分の「眼」と「耳」と「感触」を確信するしかない。だが「占い」とは「決定論」である。
 過去を「命式上」で反省し、今現在、その認識結果としての「明日」の「意識的な対処」と「覚悟」を「示唆する学問体系」であるカラだ。
 だがヒトにとって「不安・悩み」を払拭するべく「自己反省」のきっかけとなる「手段」、そして、その未来に対する「決断・決心」の「手段」は「ウラナイ」なんかでなくともイイわけである。モチロン、「大殺界(?)」とか「天中殺(?)」でも全然、カマワナイわけだが。

 生きモノの「安心立命」は、「明日」をこの俗世間で生きるかぎり、今現在、其の延長の明日の起こるべき可能性的な事実から逃げられないと言う「覚悟」から出来るのである。「天国」へ逝く覚悟もイイし、「地獄」へ逝く覚悟もイイが、「覚悟」は今現在、生きているアナタの問題である。
 「運命学の星」はアナタの「宿命」を明らかにするカモしれないが、その「運命」を如何に生きるかはアナタの問題に属するワケだ。