サボッて七拾五日目です・・・ヤァ〜ッ、サッカ〜ァ、疲れるね。十八日の日曜日の夜・・・だったけれど・・・中国ではTV観戦中に突然死をした人もいたとか・・・

 「テポドン二号」に燃料注ぎ込まれて発射か、なんて言うニュースも。
 人間の「感情」って、「まだ経験していない結果以前」に「不安・恐怖」と「希望・楽天」になるんだよね。そして「結果」は「事実」だから「事実」として認めざるを得なく、「不安・恐怖・希望・楽天」なんかよりも、「結果の現実に居直」ってしまうんだよね。なったモノは仕方が無い、って。「次ぎ」があればイイんだけれど、それが「終り」ならば諦めるより手はない。

 「事実」を「事実」として認めたくないヒトもいるらしいけれど、多分、そのヒトの有する「情報」が不確実なのか、そんなハズはない、言う別な「理屈」で「事実」を否定するんだ。

 殴られる「痛さの恐怖」は殴られる「前」に醸し出されるモノだけれど、殴られたら「事実」としての「結果の痛さの程度」を感じ、「確認」するより他はないから・・・で、「肉体的な痛さの事実」よりも「痛いカモ知れ無い」と言う「精神的な不安」のほうが人間にとっては「辛い」かもしれない・・・

 で、「テポドン二号」に関しては「イスラエルの人々」の「立場」や「心構え」は凄い、と思うのだ。何時でも「敵」に「殺されるカモ知れ無い」と言う教育(洗脳)された「心構え」と「覚悟」の「立場」・・・ムカシの「日本国民」にはあったカモしれない「死」に対する「覚悟」・・・「戦争中」は・・・気持ち的には「自分自身の命」に対する「不安」と「緊張」の連続のようにみえるけれど、「日常生活」はそれらに「楽天」と「弛緩」も混在していたハズだ。戦場と銃後の生活は分離されていたからね・・・それが銃後の日常生活も「生死の危機」に晒されたんだから気持ちの「楽天・弛緩」なんか吹っ飛んでしまったのに違いない。
 イマもムカシも「日常生活の事実」はお変わり無しで、人々の「命の危険」は「日常茶番」なんだけれど、「気持ち」は「他人事」みたい・・・「サッカーゲーム」の「勝ち負け」にはヤカンのお湯のように共感の「一喜一憂」に沸いているんだけれど・・・