22日目デス・・・弐拾弐日メ・・・念爾メ出数・・・

naie2006-04-16


 昨夜は映画「マトリクッス」を観て、アサごろに夢で続編を視たけれど・・・忘れた。
 「レオ」と「トリニティ( Trinity )」・・・ジャングル大帝の「レオ」と「レイナ」の物語・・・どうやら世界は「救世主」を待ち望んでいるらしい。
 「預言」の内容はカミから預かった「コトバ」で、「予言」の内容はヒトが自然界の時間的な未来認識した「決定論」である。
 映画の主人公レオが「予言者の宣託」に振り回されて行き着いたところは「選択」であった。「決定論」であれば、「選択」もその決定された「範疇枠内」にあるハズだが・・・「バグ」が発生し、「決定」を阻害し、予期せぬ方へと分岐対立・・・サラにまた、「選択」・・・「洗濯」してしまえばイイのに・・・
 「マトリックスの網目の世界」は「コンピュータでプログラムされたの虚構の世界」で、その実体の世界は「ネブカドネザル」の「戦艦の中」と「海底の現実世界ザイオン」にあるらしい。その両者を繋ぐモノが「旧式の電話回線」らしく、最新の「携帯電話」でない。
 「歴史」を変えたのは「ターミネーダー」ではお母さんの「サラ」だった。旧約聖書の「サラ(サライ)」は「アブラハム(アブラム)」の子供「イサク」を産んで「歴史」を変えたのだ・・・「イサク」を産んだ「サラの年齢は90歳」で、「アブラハムの年齢が100歳」だから「人間の事実としての歴史」は変えられてしまったのだ?・・・男の肉体を持つ「アブラハム」が100でも可能性はある。が、女性の「サラ」が「90歳」ではネッ?・・・ありうるかな?・・・突然変異の「開経(メンス)・再経」が。「アブラハム」自身も心中では「サラは既に閉経なのに、ナッ」って笑ってその疑問をカミに言ったのだが。「サラ」自身も心中で「私は衰え、主人も老人であるのに、私に楽しみなどありえようか」と、笑って言ったのだ。「楽しみ」とは「行為」のコトだろう・・・
 で、「旧約・創世記・17章」ではカミから「アブラム」は「アブラハム」と名を変えよ、と言われ、「サライ」は「サラ」に名前を改めよ、と命じられたのだ。
 その名前「改変」を命じられた「理由」が「お前を多くの国民の父とスル、からである」、「お前の子孫から国々の王をがでる、からである」・・・イマイチ、「国民の父」、「彼の子孫が国々の王」となるコトが何故、名前の改変になるのか、私には理解できないのだが・・・理由があるハズである・・・「言語学的」な・・・

 「アブラム」→「アブラハム」・・「ハ(葉)」が加算
 「サライ 」→「サラ」・・・・・「イ(異)」が減算

 日本語では「アブラハム→油、食む」である。
 日本語では「サラ→皿・沙羅・更」である。

 他の言語ではドウカ?・・・ギリシャ語では
 「油=λαδι(ラディ)・食む=τρωω(トゥロォ)・φαω(ファオ)」、
 「皿=πιατο(ピヤト)」
 「沙羅=μετξι(メタクスィ)」
     ↓
    「μεταψραζω(メタフラーゾ)=翻訳」
 「更(さらに・そして)=και(ケ)
  変更=αλλαζω(アラーゾ)」

 で、
 「συναγωγη(シナゴギ)=ユダヤ教会」だが、日本語の漢字では「品語義」か、「科語義」、あるいは「支那語義」・・・「詞名の語義」だろう?
 「油」が「石油」なら「πετρελαιο(ペトレーレオ)」を「食む」である。
 「さらい」が「浚い、攫い」で、「拉致誘拐」なら今現時点(トラ=τωρα)の問題で、言う(レオ=λεο)である・・・これが、「ニホンゴ」・・・
 「弐拾弐日目」・・・出諏・・・