2657日目・・・名前の「漢字の変」・・・?・・・「田+斎(齋)?=デンサイ」or「田+齊(斉)?=デンセイ」・・・「デンサイ=傅(伝・傳)差異=典歳・゚典差違」・「デンセイ=傅(伝・傳)世・伝声」・・・「齋・斎(いつき・清める・サイ)・潔斎・斎王・斎戒沐浴・書斎」⇔「齊・斉(ひとしい・束ねる・セイ・うず=渦・へそ=臍=ヘソ=毘・毗=田+比)・均斉・一斉・斉唱」・・・「毘・毗=田+比」・・・「毘佐(ヒサ)・毘連(ヒレン)」・・・田を比べ連なる・・・「田齊(立田・たつた・たつだ・たてだ・タサイ・太齋)」・
「田斉(デンセイ)=戦国時代
↓↑ 紀元前386年
田氏が
姜姓呂氏の
斉(姜斉または呂斉)を滅ぼして建国
国号は斉(齊)であるが
西周・春秋時代の
呂斉と特に区別する場合に
嬀斉・・・嬀=女+為=悪賢い・キ・ギ
↓↑ ↓↑ 「嬀五姓=陳・胡・田・姚・虞」
舜の後裔の
嬀満=嬀滿
(本姓は嬀・胡公満)
は
周の建国時に
武王によって
陳公に封建され
↓↑ ↓↑ 胡公の諡を得た
または
田斉と呼ばれる
戦国時代中期
湣王の頃に東帝を称し
戦国七雄の一
首都は呂斉の時と同じ
臨淄(リンシ)」・・・氵+甾=くろ・くろむ
↓↑ ↓↑
「齊国・紀元前1046年〜紀元前386年
周代、春秋時代、戦国時代初頭に
山東省を中心にした国
周建国に貢献した太公望(呂尚)によって建国」・・・
「南朝の一
479年〜502年
蕭道成(ショウドウセイ)が
宋の譲りを受け建国
建康(南京)が都」・・・
「北朝の一
550年〜577年
高洋が
東魏の譲りを受け建国」・・・
↓↑ ↓↑
「経済(ケイザイ)・在民救済(キュウサイ)」・・・
済=氵+斉(齊)=済む・浄水・濁りがない・清浄
「清水に魚棲まず」だが、太公望の釣り糸に針は無し・・・?
↓↑ ↓↑
「太公望=呂尚(リョショウ)
紀元前1021〜紀元前1000年頃
古代中国・周の軍師
・斉(齊)国の始祖
・都城 営丘
「六韜三略=虎の巻」の著者・・・
本姓は姜氏、支族は呂
姓は姜、氏は呂
字は子牙(牙)、諱は尚
別名「師尚父」
謚は太公・斉太公・姜太公
武成王(760年に唐の粛宗から追贈)
周の師=軍事長官・軍師
元は屠殺人
周に仕える以前は
殷の
帝辛 (紂王)・・・紂(チュウ)=糸+寸=糹+一+亅+丶
異体字「𩋰」
しりがい・馬や牛の尻にかける緒
に仕えていた
帝辛の悪政を嫌い立ち去り
陝西省
宝鶏の・・・・宝の鶏
釣魚台で・・・尖閣諸島⇔釣魚群島・釣魚島・釣魚台列嶼?
陝西省中の宝鶏市の位置は
内陸で海は無い
北緯34度21分 東経107度22分
太公望が釣りをしていたところ
西方の周の
西伯昌 (文王) に出会い
周の軍師として
西伯昌 (文王) の子の
発 (武王) を補佐
殷の諸侯である
方の進攻を防いだ
殷を牧野の戦いで打ち破り
軍功によって営丘(山東省淄博市臨淄区)
を中心とする
斉(齊)に封ぜられ
隣接する
莱の族長の攻撃を防いだ
彼の死後
丁公が跡を継いだ
ーー↓↑ーー
舜の後裔の
嬀満(本姓は嬀・胡公満)は
周の建国時に
武王によって
陳公に封建され
胡公の諡を得た
↓↑
紀元前670年
陳の公子
完が
斉に亡命
↓↑
陳氏(田氏)が成立
陳完
↓↑
陳穉
陳湣
陳須無
陳無宇
↓↑
田開
田乞
田恒
田盤
田白
田悼子
↓↑
紀元前386年
田氏が正式に諸侯
↓↑
太公 前386〜前385・・・太安万侶・太閤
田剡 前384〜前375・・・剡=けずる・するどい・エン・セン
桓公 前374〜前357・・・桓武天皇
威王 前350〜前320・・・懿徳天皇?
宣王 前319〜前301・・・本居宣長
湣王 前300〜前284・・・湣=氵+昬=氵+民+日
異体字「涽・㬆」・・・黄昏
ビン・ミン・ベン・メン
mixed, confused, pity
襄王 前284〜前265・・・譲る・・・高野長英
王建 前265〜前221・・・日本建
ーー↓↑ーー
田 横(デンオウ)・・・田(た・デン)の 横(よこしま・オウ)
他伝 横嶋・邪・王
?〜紀元前202年
干支=己亥
日本=皇紀459年=孝元天皇十三年
中国=前漢=高祖五年
戦国時代の斉王の一族
楚と漢が天下を争った時期
斉国の支配者(王)
兄 の田栄
従兄の田儋
と共に郷里の
狄県で挙兵
田儋が
斉王となった
田儋は
秦の
章邯・・・・章=立つ日の十
邯=甘(あまい・阿毎)の
邑(むら・くに・阝)
に包囲された
↓↑
魏王
魏咎・・・魏=禾+女+鬼
咎=处+口
異体字「𧧖・䛮・皋」
・・・皋(とが)=皐(さつき)?
瑞皐=高野長英=瑞皋
とが・とがめ・とがめる・キュウ
罪・あやまち・とがめ
咎殃(キュウオウ)・咎戒(キュウカイ)
災咎(サイキュウ)
罪咎(ザイキュウ)
天咎(テンキュウ)
を救援し敗北戦死
↓↑
斉王建の
弟である
田假を王に立てが
田栄はそれに激怒
↓↑
田栄も
秦の
章邯に追われたが
楚の
項梁に助けられ
田栄は
田假を攻撃し
田假は
楚に逃げた
田栄は
田儋の子の
従子の
田巿を王に立て
宰相となり
↓↑
田横は将となって
斉を平定
↓↑
楚の
項梁は
秦の
章邯を攻撃しようと
斉の
田栄に救援を求め
田栄は
楚が
田假を殺せば
兵を出すという条件を出したが
楚の
項梁はこれを拒否し
↓↑
秦の
章邯に敗れて戦死
↓↑
項梁の甥の
項羽は・・・項梁→項羽(楚)⇔劉邦(漢)
斉の
田栄を恨んだ
↓↑
楚の
項羽が
秦の
章邯を下し
秦王を殺し
諸侯王を立てた
斉王の
田巿を
膠東王に配置換えし
項羽軍に従軍した
斉王の一族の
田都を斉王に立て
項羽に下っていた
斉王建の孫の
田安を済北王に立てた
項梁の件があった
田栄は王になれず
王になれなかった
陳余と共に
項羽を恨んだ
田栄は
陳余に兵を与えて
趙で反乱を起こさせ
田栄も斉で反乱した
田栄は
田都を
楚に追い払い
田安を殺害
従子の
田巿をも殺害し
自分が斉王となった
↓↑
項羽は怒って
斉の
田栄を討ち破り
田栄は逃亡し
平原県の住民に殺害された
項羽は
斉の城郭を焼き
通過する所を悉く攻め滅ぼし
斉の人間は
項羽に背き
田横が斉の兵を収め
項羽に反撃
漢王の
劉邦が
項羽の
本拠の彭城を落としたので
項羽は斉との戦いをやめて反転
田横は
斉の城を取り戻し
田栄の子である甥の
田広を王に立て
宰相となって政治を決めた
↓↑
漢の将
韓信が
趙を落とし
斉を攻めようとしていたので
斉は
歴山のそばに兵を集めて阻もうとした
漢は
説客の
酈食其を派遣して
斉との同盟を持ちかけ
田横はそれを受け
漢と停戦
しかし
韓信は
斉へ侵攻し、斉の軍を撃破
斉王の田広
と
宰相の田横
は報復として
酈食其を煮殺し
高密へ逃亡
項羽は斉を救うため
龍且
と
周蘭
を派遣したが
韓信に破れて
龍且は
灌嬰の軍勢に討たれ
周蘭は
曹参によって捕獲
斉王田広は
高密から脱出するも捕らえられ
田横は自らが斉王になったが
漢将
灌嬰に撃破されて
梁の
彭越の元へ落ち延び
斉は漢によって平定
↓↑
高祖五年(紀元前202年)
漢王劉邦は
項羽を滅ぼし
諸侯によって皇帝に立てられ
彭越は
梁王となった
田横は殺されるのを恐れ
食客500人と共に
海上の島へ逃亡
高祖劉邦は
田横らが
斉に影響力を持っているのを憂慮し
使者を出して
罪を許すことを約束
劉邦は兄を殺された恨みのある
酈商に対して
田横に手を出そうとしたら処刑すると命じ
田横に伝えた
↓↑
田横は
食客二人と共に劉邦の元へ向い
劉邦のいる洛陽まで30里ばかりの所で
田横は状況をかんがみ
自殺した
食客は
田横の首を劉邦に奉じた
劉邦は
食客二人を都尉に任命
田横を王の礼で葬った
食客二人は彼の墓のそばで自殺
島に残る食客500人を召し出したが
田横が死んだことを知ると
全員自殺
↓↑・・・イスラエルの反乱・・・?
ユダヤ人は
ローマへの納税を拒否
ローマ皇帝の像の刻まれた貨幣を
不使用
反ローマの姿勢を徹底した
ゼカリア(ゼーロータイ・カナイーム)
「熱心党」の過激派が
ローマによるガリラヤ地方での
ユダヤ人殺害
ローマ総督による
エルサレム神殿からの財宝略奪などで
紀元66年
第一次の反乱
マサダにはギリシャ時代に要塞が造られ
これをヘロデ大王が奪い
要塞兼冬の宮殿として大改築
「マサダ=砦」
第一次の反乱ときは
ローマ兵の駐屯陣地
熱心党の
「シッカリ派(短刀派)」の
967名がこれを奪取して立て篭もった
紀元70年
ローマによる神殿の破壊
エルサレム鎮圧
マサダは抵抗
↓↑ ↓↑
マサダの要塞
南北600m
東西の広いところで300mの菱形
北に三段テラス型の宮殿
西にも宮殿
貯蔵庫、ローマ式浴場、貯水装置
「シッカリ」派が占拠し
「シナゴーグ」が整備
周りは二重の城壁で取り巻いた
↓↑ ↓↑
第一次ユダヤ戦争で
ローマに降った
ユダヤ人・・・裏切り者・・・?
反乱しなかった人々
抵抗しなかった人々
無抵抗で殺されていった人々
アウシュヴィッツ
ビルケナウナチス
ドイツの強制絶滅収容所(1940年-1945年)
では反乱を起こさなかった・・・
ナゼ・・・?
・・・無抵抗で無慈悲に
殺されていった人々は
まだ生きていけると考えていたのか?
同じ人間が
同じ人間を殺す・・・?
「敵」の概念とはナニ?
・・・損得利害関係で相対する生物?
・・・怨恨を凌駕するモノ・・・
・・・無慈悲・無字比・・・?
慈悲は無用・・・?
↓↑ ↓↑
ユダヤ側の指揮官・・・?
ガリラヤの
ヨタパタの陥落によって
ローマ軍
ティトゥス・
フラウィウス・
ウェスパシアヌス
(Titus Flavius Vespasianus
39年12月30日〜81年9月13日)
己亥(戊甲壬)比肩正財 胎⇔辛巳
丙子(壬 癸)印綬偏財 絶⇔丁酉
己亥(戊甲壬) 正財 胎⇔壬辰
ローマ帝国の皇帝(在位79年〜81年)
↓↑ ↓↑
モーツァルト
「わたしは、ただ、かんがいています」?
「じゃ、行くけれど」
歌 テレサ・ベルガンサ・バルガス
(Teresa Berganza Vargas
1935年3月16日〜)・・・?
乙亥(戊甲壬)偏財正財沐浴
己卯(甲 乙)偏印正財 絶
辛卯(甲 乙) 正財 絶
↓↑ ↓↑
フラウィウス朝
第2代の
ティトゥス皇帝の軍隊
に投降した
ヨセフスという者が
マサダ
の生き残りの話などをもとに
『ユダヤ戦記
1世紀
ユダヤ人フラウィウス・ヨセフス
によって書かれた
ユダヤ戦争の記録、全7巻』
を記録・・・
↓↑ ↓↑
「ユダヤ人たちは
異教徒の下では暮らせないとし
誇り高い死を自ら選ぶ
陶片に名前を書いたものを籤として引き
当たった者たち
10人が
それぞれのグループの者を刺し殺した
その10人がさらに籤を引き
当たった1名が他の9人を殺し
最後にその1人が
自ら命を絶った
生きながらえたのは
7人の女性と子供だった・・・
砦の攻防後
ユダヤ人の世界各地への離散が加速
↓↑ ↓↑
現在
イスラエル軍
夜にこのマサダの遺跡に上り
片手に銃、片手に聖書を持ち
大地に見える
「マサダは二度と陥落させない」
という
「火文字」を視る?・・・大文字焼き?
「アウシュヴィッツ・強制絶滅収容所
(1940年〜1945年)」
「アウシュヴィッツ第二強制収容所」
「アシュケナジム
ユダヤ系の
ディアスポラのうち
ドイツ語圏
東欧諸国などに定住した人々、その子孫
語源は
創世記10章3節
歴代誌上1章6節
「アシュケナズ」・・阿修(羅)化名字?
(新共同訳
新改訳での表記)
口語訳で
「アシケナズ」・・・足化名事・・・?
と表記
単数形は
「アシュケナジ」・・阿修(羅)化名字?
ーー↓↑ーー
劉備が
曹操に敗れ
孫権に援軍を求め
諸葛亮を派遣した
諸葛亮は
田横の最期を例に挙げて答えた・・・
孫権
「劉豫州(劉備)はどうして
曹操に仕えないのか」
諸葛亮
「田横は
斉の壮士にすぎなかったが
義を守って屈辱を受けず
まして
劉豫州は
漢王室の後裔
・・・
どうして
曹操の下につくことができようか」
258年
諸葛誕が当時
魏を支配していた
司馬氏に対し反乱を起こし敗死した時
その手勢数百は、降伏を拒絶し
「諸葛公のため」と
従容として死んでいった
これは
田横とその食客にも比べられた・・・
戦わずして「自殺」とは
「陸軍中野学校の精神(忍者)」とは異なる・・・
だが、いずれも
「国家組織」を弄ぶ
支配階級に洗脳された「傭兵」である・・・
ーー↓↑ーー
春秋戦国時代
戦国の七雄
七カ国-秦・斉・楚・魏・趙・韓・燕
位置
魏 燕
趙 勃 朝
秦 韓 斉 海 黄 鮮 蝦夷
海 倭・邪馬台
楚
秦( ? - 紀元前206年)
斉(紀元前386年 - 紀元前221年)
燕(紀元前1100年- 紀元前222年)
楚( ? - 紀元前223年)
魏(紀元前403年 - 紀元前225年)
趙(紀元前403年 - 紀元前228年)
韓(紀元前403年 - 紀元前230年)
↓↑
春秋十二諸侯
↓↑
魯=
斉(姜斉)=
晋=
秦=
楚=
宋=
衛=
鄭=
陳=
蔡=
曹=
燕=
呉=
↓↑
戦国七雄
秦 楚 斉(田斉) 燕 趙 魏 韓
↓↑
他+α
↓↑
越 中山 杞 曾 邾 滕 唐 栄 単 沈 莱
英 六 庸 邢 古蜀 西周公 東周公
↓
英国(エイコク)
国姓 偃姓
国都 英(安徽省
六安市
金寨県)
周代に存在した諸侯国の一
皋陶(コウヨウ)
・・・皐=白+=+十+=
さわ・さつき・コウ
さつき=皐月=五月
すすむ・たか
異体字
「皋=白+一+人+十」
「咎・𣽎・睾・臯・𦤗・鼛」
水辺の平らな地・岸・湖畔
「皐」はトンボ(蜻蛉)
ヤゴ(水蟣・水蠆・スイタイ)
の形象に思えるけれど・・・?
・・・司法(裁判)をつかさどる
官吏(司空・司寇)・・・倭寇・元寇?
獬豸(カイチ・シエジー・獬廌)
『論衡(ロンコウ)』・・・後漢時代の
↓↑ ↓↑ 王充(27年〜1世紀末頃)が著した
全30巻85篇(1篇は篇名のみで散佚)
「実証主義」の立場から
自然主義論、天論、人間論、歴史観
など多岐多様を説き
非合理的な
「陰陽五行思想、災異説」などを
「迷信論として批判」・・・?
「儒学批判」は当然だが・・・
「王充の死後2世紀末に
本書が世に出た
蔡邕が
呉(蘇州)で入手
会稽太守の
王朗が同地で一本を発見」
↓↑ ↓↑ ↓↑ ↓↑
・・・時代によって実証出来る範囲は
五感で感知できる範囲のモノであり
広大な宇宙や微細な
原子、中性子などのモノは
それらを発見できる
電子機器の
発明を待たざるえない・・・
「王充の批判」は
五感で直接感知出来ない
モノの変化の諸機能性の
諸作用、諸反作用の
「諸反応」の
認識としての整合性の類推であった
「実証認識」はその枠内にあった・・・
「陰陽五行思想、災異説」も
また
「モノの変化の哲学」であり
その「合理性・実証性」は
観える範囲の
「類推的な科学性的認識」であった
「陰陽五行思想、災異説」は
天地人の観察を根拠にしたモノである
天=宇宙天体の存在と運行軌道の観察
地=地球上の生物、無生物の観察
人=人間社会の相互諸関係の観察
それらの見えない力の類推認識である
「神の存在」
や
「絶対者の存在」は
諸存在の
相互的作用の
動的な初源起動の認識説明の
「代名詞・比喩」であった・・・
「不思議・不可解・奇妙・不気味」
な現象は
今現在生きている
「人間の限界認識の枠内のコト」
でしかない・・・
しかも、
過去的経験と少なくても
「加減乗除」の理屈と
「時間」と「空間」と「距離」の理屈
「共通言語の操作」での事物、事象の
相互情報と相互確認での
その合理的認識理解が無ければ
その合理的知識理解が無ければ
「不思議・不可解・奇妙・不気味」は
個々人のレベルでワンサカであるだろう
「喜怒哀楽」の根源は
「自己存在」の「敵対者」と対峙し
「損得・利害」の
「綱引きの+-」で
「理性」で認識することによってのみ
理解できる・・・
「尊徳」には時間が必要だ・・・
↓↑ ↓↑ ↓↑ ↓↑
テレパシーって、相互理解の手段か?
・・・スマホは誤解とフェイクの道具?
smartphone(スマートフォン)
通話機能以外に
インターネット
スケジュール管理
など多機能を有した携帯電話・・・
↓↑ ↓↑ ↓↑ ↓↑
そして
「敵対者」とは
同時に
「自問自答、自己反省の自己」であり
「自我」
「エゴ(ego)」
「セルフィッシュ(Selfish)」
「わがまま・利己的・自分本位」
である、と言うコトを
敵対、対象から得た
あるいは与えた
「イタさ」の
「自己認識」でもある
・・・
無自覚な
「敵対、対峙者」は
相手の「寛大さ」をいいことに
わがままな
思いあがりで
to be haughty(ホーティ)
高慢な・横柄な・不遜な
have a haughty air
不遜な態度をとる
behaving in a proud unfriendly way
威張ったり
驕ったりする
「つけあがる」・・・
人間は「喜怒哀楽」の草鞋を履く
凸凹な「つけあがり」の
履歴的な生き物・・・
躓(つまづ)かねば気が付かない・・・
躓=足+質=つまずきころぶ・しくじる
異体字
「踬・胝・疐・𨂤・䠦・𨆦・𨆑・柢」
躓顚(チテン)
蹉跌
「奢る者は久しからず」
日本には「平家物語」があるが・・・
人種は問わない「奢る者は久しからず」
↓↑ ↓↑ ↓↑ ↓↑
中國哲學書電子化計劃
「https://ctext.org/lunheng/zh」
『論衡(ロンコウ)』
・・・『後漢書』卷四十九
王充王符仲長統列傳第39
荒唐無稽・唐突
の記録では「獬豸」
姿は大きいものは牛
小さいものはヒツジに似ている
全身には濃くて黒い体毛が覆う
頭の真ん中には長い一角を持つ
一角獣
この角を折った者は死ぬ
麒麟(キリンビールの神獣)に似る
水辺に住む
人が紛争を起すと
角を使って
理が通っていない一方を突き倒した後
そのヒトを食べる・・・
正義や公正を象徴する祥獣となった
獬豸
「豸」=足の無い虫や背中の長い獣を意味
本来は「廌」と書く
「廌」=「法治(灋治)」の「治」と同音
「法(灋)」の正字にも含まれ
中国人は
「法治」の精神を
「獬豸=カイチ」を使って表現
古代中国では法律を執行する役人が
被った帽子(法冠)に「獬豸」が飾られ
「獬豸冠(カイチカン・獬冠)と称した
清の時代の役人の着物にも
獬豸が刺繍されていた
副葬品として
カイチの工芸品を選ぶ人もいた
寺ではカイチの化身として
ヒツジを飼育
↓↑ ↓↑
台湾で「法治」の精神的象徴、「カイチ」
朝鮮半島では
「ヘテ・ヘチ=海駝」とよばれる
羊や牛の姿ではなく
獅子形で
頭に角を持たない
文献上、朝鮮でも一角獣
造形された像は
角がなくなることが多い・・・
↓↑ ↓↑
の後裔によって樹立
春秋時代
楚の付庸国
後
楚の成王によって滅亡
楚の
成王?は
二十六年(紀元前664年)
「六、英を滅ぼした」・・・六国・英国?
ーーーーー
↓↑
「夫れ賢聖、筆を下して文を造るに、
用意詳審なれども(意を用ひ詳しく審れども)、
尙ほ未だ盡くは實を得るべからず。
況んや倉卒に言を吐くをや、
安んぞ能く皆、是ならん。
皆は是なる能はざるに、時人難ずるを知らず。
或いは是なるも、意沉みて見難きに、
時人問ふを知らず。
賢聖の言を案ずるに、上下相ひ違ふこと多く、
其の文、前後相ひ伐つ者多し。
世の學者、知る能はざるなり」
・・・
「專ら、文言の解釈を覚え習うばかりで、
疑問や批判を持つことを知らない」
・・・知っていただろう・・・
批判は権力の弾圧で出来ないコトも・・・
「同時代の人は批判することを知らなかった
・・・ことばが冗長、真意を測りがたいのに
疑問を持つことを知らなかった」
・・・疑問を持つ以前に
知識知力、識字力を与えられなかった・・・
同時代の人の権力、権威批判はあった
・・・同支配階級での叛乱、
クーデターである・・・
ーーーーー
・・・???・・・