2570日目・・・「日本史上の名前の変?」・・・「稗田阿礼(退きの卑の伝・蛙例、鴉令?)」、「太安萬侶」、「都怒我阿羅斯等=つぬがあらしと=都怒賀阿羅斯止」、「現人神=あらひとがみ=荒人神」、「磐鹿六鴈=いわかむつかり・磐史化睦掛理?」、「本牟智和気命=ほむちわけのみこと=品牟都和気命=ホムツワケノミコト=誉津別命(ホムツワケノミコト)」、「誉田別尊=ほむたわけのみこと=誉田別命=大鞆和気命(おおともわけのみこと)=応神天皇」、「筑紫磐井=つくしのいわい=竺紫君石井(つくしのきみいわい)」、「豊聡耳=上

 「鶏口となるも牛後となるなかれ」
 「鶏頭牛尾」・・・日本語熟語に替えたモノ?・・・「竜頭蛇尾
 「寧為鶏口無為牛後(寧ろ鶏口と為るも牛後と為る無かれ)」
  (史記蘇秦伝)
 戦国時代、秦、楚、斉、燕、韓、魏、趙
 蘇秦
 秦王に他の六国と同盟を結ぶ連衡策
 不採用され
 燕王らに合従策(六国が連合して秦と対決する策)を説いた
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 「祝詞(のりと・シュクシ)」
  及び
 「寿詞(よごと・ジュシ)」・・・
 「大倭根子天皇」・・・
 「根子」は、山城根子・浪速根子の類から、大田々根子
  に到るまで、ある地方の、
  神人の最高位に居る者の意味・・・
 「祝詞(のりと)
  と
  寿詞(よごと)とは、相互関係にある・・・
  根本は神よりのりくだすことばである・・・
  よごとは、臣従を誓ふ者が
  其氏族の守護霊を捧げて
  長者の齢を祝福する意味の詞であつた
  だから、
  寿詞ヨゴトは、
  実は
  齢詞ヨゴトである」・・・
 ↓↑
 「あきつみかみ
  あめのしたしろしめす
     大倭根 子(ネコ)天皇
       コンシ=懇志・今史・今詞
       コンス=公司・艮州
       コンス=艮州・坤州
       コンズ=混亠(音)
       ね こ=猫・根っ子
       根=十一艮
         子=一了(始終)・了一(終始)
 「持統天皇の和風諡号
  高天原   廣 野姫  天皇
 (たかまのはらひろのひめのすめらみこと)
  大 倭  根子-天之 廣野 日女尊
 (おほやまとネコあめのひろのひめのみこと)」
 「十二月二十六日
  大内山陵(天武天皇陵)に
  太上天皇合葬」
 ↓↑
 七  代 孝霊天皇 大日本根子(ネコ)彦-太瓊尊
 八  代 孝元天皇 大日本根子(ネコ)彦-国牽尊
 九  代 開化天皇 稚日本根子(ネコ)彦-大日日尊
 二十二代 清寧天皇 白髪武広国押
           -稚日本根子(ネコ)天皇
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 ・・・
 「先づ
  彦五瀬命を生みたまふ。
  次に稲飯命
  次に三毛入野命
  次に狭野尊
   (サノノミコト)。
  亦は神日本磐余彦尊
   (カムヤマトイワレヒコノミコト)
  と号す。
  狭野と所称すは、是、年少なくまします時の号なり。
  後に天下を撥ひ平げて、八洲を奄有す。
  故、復号を加へて、
    神 日本  磐 余 彦  尊
   (カムヤマト イワレ ヒコノミコト)
 と曰す」 
 ↓↑
 狭野神社
 第五代
 孝昭天皇の時代
 神武天皇が誕生した地
 (高千穂峰の麓の皇子原)に創建
 数度の霧島山の噴火により社殿焼失
 遷座の繰り返し
 慶長十五年(1610年)
 現在地に遷座
 薩摩藩主島津氏の崇敬で
 社殿改築・社領の寄進
 明治六年
 県社に列格
 大正四年
 官幣大社宮崎神宮の別宮に指定
 ↓↑ ↓↑
 1898年からは
 高木兼寛・・・高木 兼寛(たかき かねひろ)
 ↓↑     嘉永二年九月十五日(1849年10月30日)
        〜
        大正九年1920年)4月13日
        海軍軍人
        最終階級は海軍軍医総監(少将相当)
        医学博士・「ビタミンの父」
        男爵
        東京慈恵会医科大学の創設者
 ↓↑    「脚気(かっけ・beriberi)」の撲滅に尽力
           脚気ビタミンB1不足で発症
           本症は多発神経炎、浮腫(むくみ)
           心不全脚気心、脚気衝心)を三徴とする
       「江戸患い」=脚気での病状
 ↓↑    高木神=『日本書紀』で「高皇産霊尊
           『古事記』で「高御産巣日神
                 (たかみむすびのかみ)」
            と記録
       葦原中津国平定・天孫降臨の際には
       高木神(たかぎのかみ)という名で登場・・・
 ↓↑   「高木兼寛」は「高木神」になった・・・???・・・
 が宮崎神宮の大造営と同時に
 神武天皇ゆかりの
 狭野神社の社殿の改修
 第二次大戦後
 独立神社
 昭和51年(1976年)
 神社本庁別表神社に列格
 霧島六社権現
 霧島神宮、東霧島神社
 狭野神社
 霧島東神社、霧島岑神社
 夷守神社は
 霧島岑神社へ合祀・・・夷守?
 ↓↑
 夷守=ヒナモリ(卑奴母離、比奈毛里、鄙守、比奈守、夷守)
 3世紀〜4世紀頃の
 邪馬台国の国境を守備する軍事的
 長の名称
 後に地名、駅名、神社名等
 ヒナモリの「モリ (守)」はカバネ・・・
 ↓↑
 夷守=ヒナモリ・北九州や東北にあって
    朝鮮や蝦夷の防衛に当たる者
     ↓↑
    標高300m内外の
    シラスや礫(れき)層の台地
    南部は霧島火山群
    北部は九州山地
    東と西は丘陵性の山地が
    都城盆地、加久藤(かくとう)盆地との境界
    古くは
    夷守(ひなもり)といわれた辺境守備の地
    延喜式
    夷守駅の名が記録
    近世は薩摩藩に属し
    島津氏は地頭を置いて管轄
 ↓↑
 『魏志倭人伝』に
 邪馬台国に属する北九州の
 対馬国一支国、奴国、
 不弥国の
 副官に
 「卑奴母離(ヒナモリ)」と記録
 ↓↑
 日守(ひもり)神社
 ↓↑
 『和名抄』
 越後国頸城郡に
 「夷守郷」を収め
 現在は
 新潟県妙高市に「美守(ひだもり)」
 新潟県上越市には
 美守村が存在・・・
 美濃国厚見郡(現在の岐阜県岐阜市茜部本郷)に
 比奈守(ひなもり)神社
 3〜4世紀頃
 飛騨(ひだ)人に対する守備隊が駐屯した・・・
 卑奴母離
 は役職名
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 狭=狹
 狭=犭+夹=犭+夾=狭
   せまい・せばめる・せばまる・キョウ(ケフ)
   間隔や範囲がせまい
   狭隘 (キョウアイ)・狭軌・狭義
   狭窄 (キョウサク) ・狭小
   心にゆとりがない
   狭量・偏狭
   狭霧(さぎり)・狭山 (さやま)・狭間 (はざま) 
 ↓↑
 狭=犭+夹=犭+夾=狭
 狭域・広狭・狭隘・狭量・狭霧・手狭・狭小
 狭間・狭窄・狭軌・狭義・狭視野・狭帯域
 狭端体・狭心症・狭鼻猿類・血管狭窄・視野狭窄
 狭軌鉄道
 cramped・narrow・contract・tight
 窮屈な・狭い・契約
 ↓↑
 夾(キョウ)=人が両脇に人をかかえている形
       ものを挟む
 ↓↑
 「挟=旧字体は挾」
    夾=はさむ・ さしはさむ・キョウ
      さしはさむ
      夾撃
      挟=はさまる・まじる・夾雑
        たすける・夾輔(キョウホ)
        夾撃(キョウゲキ)・夾纈(キョウケチ)
ーーーーー




 えなが=柄長=巧み鳥
     エナガ(柄長、学名:Aegithalos caudatus)
     スズメ目エナガエナガ
     エナガ科は世界で7種類
     コウライシマエナガ(高麗島柄長)
     島柄長は北海道、サハリンに分布
ーーーーー
 狭
 犭+夹
 犭+二+丷+人
 犭+一+一+丷+人
 犬=犭(いぬ・けものへん)
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 狭筵(さむしろ)
 源氏物語関係の文献にしばしば現れる
 源氏物語の「巻名」
 「狭筵・狭席」など
 仮名表記の場合も多い
 宇治十帖に含まれる巻の異名、並びの巻・・・
 巣守や桜人等と同様に
 現行の54帖に含まれない・・・
 外伝的な巻の一つ・・・
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 「狭・峡・挟」は印刷文字で
 「狹・峽・挾」
 「狭・峡・挟」の字体で書いた・・・書体文字
 ↓↑
 峡=峽
 挟=挾
 狭=狹
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 アジサイ
 『万葉集』では
 「味狭藍(あじさい)」
 「安治佐為(あじさい)」
 「阿豆佐為(あじさい・和名類聚抄)」
 「七変化」、「八仙花」とも
 ↓↑
 漢字表記の
 「紫陽花」は
 詩人白居易
 別の花に付けた名・・・
 源順がかん違いでこの漢字をあてた・・・?
 「紫陽花の
  八重咲く如
  やつ代・・・・八代・八津城・奴白?
  にをいませ・・匂いませ・丹負いませ・尼追いませ
         荷負いませ・尼甥ませ・弐追いませ
  わが背子・・・背子は背反の子?・・・橘奈良麻呂の変?
                    橘諸兄の子の乱?
  見つつ思はむ(しのはむ)
 (橘諸兄 万葉集巻20 4448)」
 橘諸兄
 初名は葛城王(葛木王)
 臣籍降下して
 橘宿禰
 のち
 橘朝臣
 敏達天皇の後裔
 大宰帥美努王の子
 母は
 県犬養橘三千代・・・・後に藤原不比等と結婚
 光明子光明皇后)は
 異父妹
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 答本 忠節(とうほん ちゅうせつ)?・・・虎の巻き・あんちょこ
 ↓↑              「安直(アンチョク)」が変化
 ?〜天平勝宝九年七月4日?(757年7月24日)
 医師・位階は外従五位下
 ↓↑
 天平勝宝九年(757年)六月
 忠節は
 紫微内相
 藤原仲麻呂
 に対する謀反計画へ
 大伴古麻呂が加担し
 小野東人を勧誘したことを知り
 忠節はこの計画について
 右大臣
 藤原豊成に報告
 豊成からは
 謀反加担者に教戒を加えて
 仲麻呂を殺害したりしない旨の回答を得た
 この経緯を薬の処方を訪ねるために
 忠節の元を訪れた
 巨勢堺麻呂に話したところ
 堺麻呂から
 藤原仲麻呂に密告
 謀反の動きを知りながら
 通告しなかったとして
 橘奈良麻呂らによる謀反の一味とみなされ
 7月2日に
 仲麻呂の命令を受けた
 高麗福信
 に追われて
 小野東人とともに追捕され
 左衛士府に拘禁
 ・・・獄死・・・(橘奈良麻呂の乱
ーーーーー
 ・・・???・・・