2489日目・・・バレンタイン・デイ・・・企てが発覚して対立する・・・カカオ・・・

ーーーーー
 日本書紀雄略天皇)・・・雄=ナ+ム+隹
              略=口+十+夂+口⇔「田=狩+各」
 ↓↑
 夏
 四月
 甲午朔・・・「甲午=コウゴ=交互・向後・口語」のハジメ
       「甲午=きのえのうま=木+午=杵
          =木(気・記・紀)の
           柄(重)の
           午(旨・甜・馬・宇摩)」
 天皇
 欲
 設
 吳人、
 歷問
 群臣曰
 「其共食者、誰好乎」
 群臣
 僉曰・・・僉=㑒=みな(皆)・セン
 ↓↑    =人+一+口+人+口+人=亼+吅+从=亼+㒭
     異体字は𠑲・㑒
    「そろう・まとめる・ひきしめる」
     の意を有する派生字
     倹(儉)=イ+僉=生活をまとめ引き締める
     剣(劍)=僉+刂=両刃がともにそろう「ツルギ=刀」
     嶮=山+僉=小高い山々が集まっているさま
     険(險)=阝+𠂎𠂎僉=邑の地形が小高くなっているさま
     検(檢)=木+僉=木簡をそろえ、比較し調べる
     瞼=目+僉=まぶた(目の上下の開閉作用する蓋)
     臉=月(肉)+僉=肉の千切りをそろえる
     簽=竹+僉=竹簡をそろえ、比較し調べる
     験(驗)=馬+僉=馬をそろえ、乗り比べ、比較
 ↓↑  鹸(鹼)=鹵+僉=うわずみを集める・石鹸
 ↓↑              灰汁(あく)
 「根使主可」・・・・根使主が可=べき=冪・冖・よろしき・・・
 天皇、卽命
 根使主
 爲
 共食者、
 遂於
 石上
 高拔原、・・・高を拔く原・・・?・・・項葉通源
                    考え抜く葉の等
 饗
 吳人。
 時、
 密遣・・・・密偵
 舍人、・・・舎人(写人・社人・亀山社中海援隊)を派遣
 視察
 裝飾、
 舍人
 復命曰
 「根使主
  所著・・・著=あらわす・いちじるしい・つく・つける
         チョ・チャク・ジャク(ヂャク)
         書物を書きあらわすこと
         その書物・著書
         明らかである
         顕著=ケンチョ=建著・謙著・・・
         書きつける・書物にあらわす
         著作・著者・著述・著書・著録・共著・編著
         書物
 ↓↑
  玉縵、・・・・玉縵
  大貴最好。・・大貴最好=碓記再校・再起・佐伯・再考・再興
         大紀   小碓      空海
  又
  衆人云、
  前迎使時
  又亦
  著之」
 於是、
 天皇
 欲
 自見、
 命
 臣連
 裝
 如
 饗之時、
 引見
 殿前。
 皇后、
 仰天
 歔欷(キョキ)、
   ・・・すすり泣く・声を立てず、鼻をすするようにして泣く
      歔欷(キョキ)、欷泣(キキュウ)
      啜(すす)り泣き
      ・・・α+叕⇔綴(テイ)・敠(タツ
      泣きながら体を震わせ、あえぐ様子
      噎(むせ・イツ・エツ)び泣き
      噎泣き
      ・・・噎=口+壹(壱⇔臺・台・䑓)
      歔泣・嗚咽・欷泣・噎泣
      歔=すすりなく・キョ
      洟啜り=ハナすすり・・・鼻水をすする
      啜泣・むせび泣き・咽び
 啼泣
 傷哀。
 天皇
 問曰
 「何由、泣耶。」
 皇后
 避床
 而
 對曰
 「此
  玉縵・・・たまかづら
  者、
  昔
  妾兄
  大草香皇子、
  奉
  穴穗天皇
  勅、
  進妾
  於
  陛下時、
  爲
  妾
  所
  獻之物也。
  故、
  致疑
  於
  根使主、
  不覺(フカク)
  涕垂
  哀泣
  矣」
ー↓↑ーー
 天皇
 聞驚大怒、
 深責
 根使主、・・・坂本(龍馬)は物事をやりそこなった?
 ↓↑    「天皇擁立」?、or「暗殺」で
       「久坂(日下)」と対立、or 裏切った・・・?
        ↓↑
        楫取 美和子(かとり みわこ)=杉 文
        楫=木+咠=かじ(舵)・こぐ(漕)・あつめる
              シュウ・ショウ
        取=耳+又
        元、久坂玄瑞の妻 
        天保十四年(1843年)
        〜
        1921年(大正十年)九月七日
       「杉百合之助(常道)」の四女
        サンヒャクゴウ之タスケル(とこみち)?
        キの彡、百を合し、シを助(且力)ける
        「文」と名付けられた
        叔父の
        松下村塾創立者
        「玉木文之進」・・・玉の木の文、之、進
        から1字をとって
        与えられた名前
        吉田松陰の妹
        久坂玄瑞に嫁ぎ
        禁門の変
        久坂が自害して未亡人(22歳)
        後に実姉(寿)の元夫で
        群馬県令や貴族院議員を歴任した男爵
       「楫取素彦(小田村伊之助)」と再婚
       楫取素彦=小田村伊之助が
       玄瑞の遺稿や文に宛てた書簡21通をまとめて
 ↓↑   「涙袖帖」と題した・・・?
       涙(ルイ)袖(シュウ・ジュ)帖(チョウ)
 ↓↑      ↓↑
 ↓↑    和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)
 ↓↑   「塙 保己一(はなわ ほきいち)」の
 ↓↑   『群書類従(666冊)』
       ・・・・・666=丙寅年
         天智天皇五年
         唐=乾封元年・・・「乾=戌亥」を封じる
         唐の高宗が泰山で封禅の儀
         高句麗の泉蓋蘇文、死没
            666年2月2日
           (天智天皇四年十二月二十三日)
         定恵(藤原鎌足の長男・不比等の兄)
         学僧(643年〜)死亡
 ↓↑      ↓↑
         令狐徳棻(レイコトクフン)
         唐の歴史家(583年〜)
         本貫
         宜州華原県
        (陝西省
         銅川市・・・銅川市=ドウセンシ=同撰史
         耀州区)・・耀州区=ヨウシュウク=用集句
         唐初
        「梁、陳、北斉北周
         及び
        「隋の正史」の修訂を奏請
         龍朔二年(662年)
        「金紫光禄大夫」となる
        『周書』の主編者
         太宗即位を奏請する書を募り
        「宏文殿に四部の書を聚めて
         群書は二十余万巻・『唐会要』宏文館」
        「創修撰之源、徳棻より始まるなり
        (趙翼《二十二史箚記》)」
        「二十四史
         徳棻が貢献したものは
        『梁書・陳書・北斉書・周書
         隋書・晋書・南史・北史』
         の八部・・・
 ↓↑     ↓↑
      『続群書類従(1885冊)』
          ・・・1885=明治十八年乙酉
         漢城条約1885年1月9日
         日本と李氏朝鮮の間で締結
         「漢城」=朝鮮の首都ソウル特別市
              甲申政変後の日朝間の講和目的で
              井上馨
              朝鮮側全権大臣
              金弘集
              との間で締結
         天津条約1885年4月18日
         甲申政変での日清両国の
         事後処理と緊張緩和のために
         伊藤博文李鴻章(中国)が締結
             1885年12月22日
         太政官制度廃止・内閣制度創設
         伊藤博文
         初代内閣総理大臣就任
         (第1次伊藤内閣)
         中国光緒10年11月16日〜光緒11年11月26日
          朝鮮高宗22年・開国494年
       保己一は版木を制作させる際
       20字x20行の400字詰めに統一
       現在の原稿用紙の基本様式となった
 ↓↑     ↓↑
 ↓↑    ヘレン・ケラーは幼少時より
 ↓↑   「塙保己一を手本にしろ」と母親より教育された
 ↓↑    ↓↑
 ↓↑   「伊藤博文」が
      「塙次郎」を暗殺???
      「伊藤博文、九段坂付近で塙次郎を暗殺」
      「渋沢栄一
       塙二郎を暗殺したのは
       伊藤博文
       と
       山尾庸三であることを公表」
      「春畝公追頌會編『伊藤博文傳』
       第四章 勤王攘夷(下)
       曩(さき)に
       安藤信正
       坂下門外に・・・・「坂下=さかもと=坂本」?
       要撃せし激徒の
       斬奸状に、
       廃帝の故事を取調べたる一箇条ありしが、
       その取調の任に当りし者は、
       国学者
       塙次郎(忠宝)なることが判明した。
       ここに於いて、公(伊藤)は、先づ
       山尾庸三と共に国学入門と称し、
       塙を
       麹町三番町の住宅に訪ね、
       その面貌を見定め置き、
       1863年?・・・西暦1863年2月9日(グレゴ)
                西暦1863年1月28日(ユリウス)
       文久二年十二月二十一日の夜、?
       塙が他所よりの帰宅を待受け、
       その住宅附近に於いて
       国賊と呼びかけ、
       これを斬殺した。
      (『伊藤博文傳』上巻、73頁、昭和15年
       旧字をあらため、括弧は補足したもの)」
       以上は
      「世の中おもしろい・凡人の記録」
       から抜粋添付
   ・・・『伊藤博文』は
      「孝明天皇」の
      「攘夷」を擁護したのか?
       それとも
      「孝明天皇」を
      「廃帝」にしたかったのか?
 ↓↑    ↓↑
       塙忠宝(はなわ ただとみ)=塙次郎
       文化四年十二月四日(1808年1月1日)
       〜
       1863年・・・・・・・・2月10日?
       文久二年十二月二十二日?
 ↓↑    塙保己一の四男
 ↓↑    ↓↑    ↓↑    ↓↑
       伊藤博文
       文久三年五月十二日
            1863年   6月27日
       井上馨の薦めで海外渡航を決意し
       井上馨・遠藤謹助・山尾庸三
       野村弥吉(井上勝)
       らと共に
       イギリスに渡航
       荷物は文久二年(1862年)発行の
      『英和対訳袖珍辞書』1冊
       九月二十三日
       ロンドン到着
       留学中に
       イギリスと日本との国力の差を痛感
      「開国論」に転じる・・・?
       それまでは
      「攘夷派」だった?
      「攘夷派」なのに何故、
      「イギリス留学」なのか?
       伊藤博文は既に
      「塙次郎暗殺」以前から
      「開国派」だった・・・?
      「塙次郎暗殺」は別の理由・・・?
      「塙次郎は
       朝廷(孝明天皇)に対する
       徳川将軍家
       権力優位の根拠を模索していた」・・・?
      「孝明天皇」の
      「廃帝画策」そのもの為には
      「幕府+朝廷」の
      「合体」イデオローグになりかねない
      「塙次郎」が邪魔だった・・・?
      ・・・故郷が「東北奥羽」だと漏らしていた?
      「明治天皇」とはダレだったのか・・・?
       1852年11月3日(嘉永5年9月22日)13時頃
       〜
       1912年(明治45年)7月30日午前0時43分
        壬子(壬・ ・癸) 壬子(壬・ ・癸)
        庚戌(辛・丁・戊) 丁未(丁・乙・己)
        己巳(戊・庚・丙) 丁未(丁・乙・己)
        庚午(丙・ ・丁) 庚子(壬・ ・癸)
          戌亥=空亡
      「伊藤」と「岩倉」、1912年7 月30日
      「桂」、「井上」、「坂本」に訊いてみたい・・・
      そして、何故、
      「藤原顕昭
       『袖中抄』・・・袖中抄(ショウチュウショウ)
               歌学書・二十巻・藤原顕昭
               文治年間(1185〜1190)成立
               万葉集から堀河百首ごろまでの
               歌集・歌合から
               約300の難解な歌語を
               抄出・解釈したもの
       の記録
       「陸奥には
        つぼのいしぶみ・・・ツボのイシブミ
       (漢字表記では    経絡(経穴)の医師文?
        「壺の碑」)
        という石碑があり
        蝦夷征討の際に
        田村将軍(坂上田村麻呂
        が矢筈を使って
       “日本中央”
        という文字を刻んだものである」
        との根拠から
      「明治九年の天皇の東北行幸に際して
       宮内省から青森県
      “つぼのいしぶみ
       発見の要請」があったのか・・・?
 ↓↑    ↓↑    ↓↑    ↓↑
 ↓↑    元治元年(1864年
       伊藤博文
       三月
       米英仏蘭4国連合艦隊
       長州藩攻撃情報を知り
       井上馨と共に急遽帰国
       六月十日
       横浜上陸後
       長州藩へ戻り戦争回避に奔走
       英国公使オールコック
       と
       通訳官アーネスト・サトウ
       と会見
       八月五日
       4国連合艦隊の砲撃により
       下関戦争(馬関戦争)が勃発
       長州の砲台が破壊
       伊藤は戦後
       宍戸刑馬=高杉晋作・・・古事記を延々と述べた?
       の通訳として
       ユーリアラス号で
       艦長クーパーとの
       和平交渉
       藩世子・毛利元徳へ経過報告し
      「攘夷派」の暗殺計画を知り
       高杉と共に行方をくらました
       この和平交渉において
       高杉は
       孝明天皇
       と
       徳川家持将軍が
       長州藩宛に発した
      「攘夷実施の命令書」
       の写しを
       アーネスト・サトウに手渡し、
       責任を「朝廷と幕府」に転嫁
       各国は
       賠償金を
       江戸幕府に要求するようになった
 ↓↑    ・・・
 根使主
 對言
 「死罪々々、
  實臣之愆」
 ↓↑ ・・・「實臣」?⇔「眞臣」?
       「広沢 眞臣=初名は直温・障岳・向山
        婿養子となって
        波多野金吾」?
       「藩の軍政改革に参画
        桂小五郎や久坂義助の下
        京都詰の事務方として尽力
        慶応元年
        四月四日、藩命によって
        広沢藤右衛門と改名
        五月六日
        広沢兵助と改名
        慶応二年(1866年)八月末
        第二次征長の講和交渉で
        幕府側の
        勝海舟
        安芸厳島で交渉
        坂本龍馬薩摩藩
        五代才助とも会談し
       「商社示談箇条書」を作成
        木戸の代理人かつ同僚として奔走
        慶応三年(1867年)十月
        大久保利通らと共に
        討幕の密勅の降下にも尽力
        維新政府の発足後
        参与や海陸軍務掛
        東征大総督府参謀
        後、
        内国事務掛
        京都府御用掛
        参議を歴任
        戊辰戦争
        米沢藩
        宮島誠一郎と会談して
        会津藩「帰正」の周旋を建白させる
        木戸と同様に
        寛典論者・・・情けある寛大な法的な処置論者
        明治二年(1869年)
        復古功臣として
        木戸や大久保と同じ
        永世禄1,800石を賜り
        民部大輔や参議の要職を務めた・・・
        明治四年(1871年)一月九日
        東京府麹町富士見町私邸での宴会後の深夜
        刺客の襲撃によって暗殺・享年三十九
        明治十七年(1884年
        嫡子
        金次郎に伯爵が授けられた・・・
 ↓↑  ↓↑ ↓↑
     愆=衍(エン)+心
     あやまる・あやまち・ケン
     物事のやりそこない
     あやまち・心得違い・やりそこない
     しくじり・とが(咎)
 ↓↑  食い違う・しくじる・やりそこなう
 詔曰
 「根使主、
  自今以後、
  子々孫々八十聯綿、
  莫預群臣之例」・・・莫預=無預=あづかるコト無し
 乃
 將欲斬之、
 根使主
 逃匿、
 至於
 日根造・・・日根造⇔神日本磐余彦が
       紀伊熊野から大和に入る途中
       日根野の地に神を祭り戦勝を祈願
       日根⇔肥後の根っ子は鹿児島島津だが?
       詐化元の龍馬は島津の西郷を頼った?
 稻城・・・1889年(明治二十二年)4月1日
      東京都中南部
      多摩川中流南岸の低地から多摩丘陵にまたがる市
      矢野口・東長沼・大丸・百村・平尾・坂浜
      の各村が合併し、
      神奈川県南多摩郡稲城村が成立(町村制の施行)
      中国ーチベット
      稲城
      香格里
 而
 待戰、
 遂爲
 官軍見殺。
 天皇命有司、
 二分子孫、
 一分
 爲
 大草香・・・大日下(久坂・草加・草香・草薙・匂坂)
 部民
 以封
 皇后、
 一分
 賜
 茅渟縣主・・・茅渟(ちぬ)の縣主
        天渟中原瀛真人=天武天皇大海人皇子
        和泉国沿岸の古名・大阪湾の東部、堺市から
        岸和田市泉南郡にかけての湾岸部
 爲
 負嚢者。
 卽
 求
 難波
 吉士
 日香々
 子孫
 賜
 姓
 爲
 大草香部吉士
 其
 日香々等
 語在
 穴穗天皇紀。
 事平之後、
 小根使主(小根使主、根使主子也)
 夜臥
 謂人曰
 「天皇城不堅、
  我父城堅」
 天皇
 傳聞
 是語、
 使人
 見
 根使主宅、
 實如其言、
 故
 收殺之。
 根使主・・・根=十+八+艮
 之後
 爲
 坂本臣、・・坂本=士+反+本・・・士が反するもと
 自是
 始焉。
 ・・・「根使主」を滅ぼすのに随分と時間がかかっている・・・で、「根使主」の後、なぜ、「坂本臣」になったのかが「?」・・・
  ↓↑
ーー坂本臣の「たまかづら」の隠匿がーー
       瑞(たま)化聨?
    久坂玄瑞 桂(かつら)の隠蔽がばれる?
  ↓↑
 「バレる=晴れる・・・雲が無い空」?
 「露見・露顕」・・・「発覚」
 「江戸時代には
  「破(ば)れる」と表記
   他に
  「顕(ば)れる」
  「暴(ば)れる」
  「晴(ば)れる」
  といったような表記も存在」・・・
  「・・・(あそバレる・いバらレる・よバレる・くたバレ)」
 「バレル=樽(たる)
      体積の単位
      イギリスで36ガロン
      アメリカで31.5ガロン
      石油の場合は
      1バレル=42ガロン・159リットル
      バレル〜ドル・・・石油原油価格の相場61ドル?
               灯油価格1,586円/18リットル
               (2018年2月26日時点)
      樽(たる
      ドイツ語: Fass
      フランス語: tonneau
      英語:barrel・cask)
      円筒形の容器
      洋樽=樽板+鉄の輪の箍(たが)
         胴の側面は中央部が
         膨らんだ円筒形
         日本で一般的なものは
         鎌倉時代末から室町時代初期
         ごろに出現した
         結樽(ゆいだる)
      樽=十+八+尊=十八の尊
      尊=みこと=三言=巫女頭=美琴
      尊=みごと=視語訳=見語訳=見事
      尊=みごと=三五十=巳語図・己誤図
      尊=巳午斗(みごと、ミゴト)
   「ミンマ(巳午=南南東)の日」=愛媛県
    十二月の「巳の日」に
    その年に亡くなった人のための
    正月を祝う行事
    中・南予では「ミンマ」
    東予では「タツミ」
    行事が行われるのが
   「巳と午」、「辰と巳」の日・・・
    十二(子)月の「巳の日」は「坎日」
   「坎=穴・窪(くぼみ)・八卦で☵の形
      水・月を表し、北の方角」
   「樽」と「桶・槽」は混同されるが
   「鏡=かがみ=鑑(金+監)」と称する
    蓋(ふた・亠)が
    あるものが「樽(たる)」
    ないものが「桶(おけ)」・・・
    かがみ=加賀見・各務
        加々見・加々美=母の美を見る
    かがむ=屈む・僂・跔・・・佝=巫女
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 バレン=馬連、馬簾、波連などの当て字
     朝鮮語
     マーリョツ(馬のタテ髪でつくった刷具)
     の転訛・・・が、語源は不明・・・
 ばれん=馬簾
     纏 (まとい) の周囲に房のように垂れ下げた
     細長いラシャや厚紙、革などで作った飾り
     印刷で、点線の連続する罫線 (けいせん)
     目次を組むときなどに使用
 バレン=撚(よ)り紐(ひも)などを
     渦巻きにした芯 (シン) を皮で押さえ
     さらに竹の皮で包み滑りをよくしたもの
 バレン(The Burren・愛=Boirinn)
     アイルランド共和国クレア州北西部の
     カルスト地形である
     アイルランド語
     Boirinn=大きな岩の意味
 バレン(ballen=ドイツ語
     handballen=親指の付け根のふくらはぎ
     reiber(ライバー)=摺るモノ
     lederballen(レダー・バレン)
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 770年・百万塔陀羅尼経
 舎人=とねり=倌・訳音(錬・涅)理
 舎人(とねり・シャジン)
 皇族や貴族に仕え
 警備や雑用などの従事者・役職
 ヤマト王権時代には既に存在した名代の一つ
 トネ=刀禰・刀祢・利根・刀根・登根・戸根
    などと起源は同じ
    古くは川や船など水運に従事・・・?
   「刀禰(とね⇔トウミ=渡海)」
    なら水軍将軍、海人、海部の
    刀持ち・護衛の側近だろう・・・
    「等禰直=とねり=舎人直」
    大王の身の回りの世話を受け持つ舎人
    召し使い・家来(けらい)
   「との(殿)い(入)り」の音変化・・・
    天皇・皇族の身辺で御用を勤めた者
    律令制
    皇族や貴族に仕え、護衛・雑用に従事した
    下級官人
    内舎人 (うどねり)
    大舎人・東宮舎人・中宮舎人
    などがあり
    貴族・下級官人の子弟などから選任
 舎人親王=676〜735・天武天皇の皇子
      日本書紀の編纂の主宰
      養老四年(720)完成
      藤原不比等の死後
      知太政官事となり
      死後
      太政大臣を贈
      子の
      大炊王
      淳仁天皇に即位し・・・後、淡路廃帝(ハイタイ)
                 舎人親王の七男
                 母は当麻老の娘・当麻山背
                   タマおゆ  タマやましろ
                         タマやませ
                 当麻=たぎま?-の-やましろ
                 當麻=トウマ?
                 娘は安倍内親王=山於女王で
                 磯部王の妃、石見王の母
     「崇道尽敬皇帝」が追号された
      ぬば玉の 夜霧ぞ立てる 衣手の
      高屋の上に たなびくまでに
      (万葉集・巻九)
      ぬばたま=射干玉
          =あやめ科の植物
        菖蒲=あやめ=殺め・危め
      檜扇(ひおうぎ)の種子
      丸くて黒い
      うばたま・むばたま・ぬばたま
     「黒・夜・夕・宵・髪」などにかかる
     「射干(シャガ)」→シャガという植物
     「射干→野干⇔「犭+干=犴=豻=野犴」
      インドで「ジャッカル」
      日本で「キツネ」   
 学ぶ=まなぶ=真似奉(部・伏)
 写経=シャキョウ=社共
 写真=シャシン =捨身
 972〜983年・成都大蔵経出版
 985年・斎(大周)燃・・・再燃・西念
 大蔵経の請来(招来)
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