2482日目・・・随分と混乱・・・「印恵=いにえ=五十瓊殖」・・・印紙や印税の問題・・・?・・・・印鑑詐欺・・・「篆書体(テンショタイ)」の印鑑を捺印されて、後日、これ、ワタクシの「印章の姓名」ではありません、って云われても・・・「印鑑証明」・・・「漢委奴国王=かんのわのなのこくおう=漢委奴國王=カンイ-ド-コクオウ・カンイ-ヌ-コクオウ)」の「印」・・・「奴=ド(漢音)・ヌ(呉音) 」・・・漢の「イヌ=委奴」・・・「漢に委(ゆだ)ねる奴(やつ)」・・・「漢のイヌ」って・・・「鶏鳴狗盗(斉・孟嘗君=靖郭

ーーーーー
 ↓↑
 懿徳天皇十七年(前494年・丁未) 第四代天皇
  会稽山の戦い(前494年・丁未) 大日本彦耜友(書紀)
               (おほやまとひこすきとも)
                 大倭  日子鉏 友(古事記
               「すきつみ=耜友=鉏友」?
              耜(耒㠯)友=鉏(金且)友
                 㠯=イ=以・已(すでに)
                         素手に?
                鋤(金+助)罪?
 懿徳=懿=壹+次+心・・・壹(壱・臺・台)與(与・ヨ)
    徳(トク)
    よい・りっぱな・うるわしい
    特に、「女性の徳」をほめる語・・・懿徳天皇は女帝?
    懿業・懿親・懿績
    懿旨(イシ)・懿(うるわ)しい・懿(よ)い
 孝霊天皇十一年(前280年・辛巳) 大日本根子彦太瓊(書紀)
               (おほやまとねこひこふとに)
                 大倭根子日子賦斗邇(古事記
     十二年(前279年・壬午) 第七代天皇
 ↓↑      ↓↑
 孟嘗君
 ?〜    紀元前279年・壬午)
 戦国時代の四君の一人
 姓は嬀(ギ・女+爲)・・・嬀=わるがしこい・キ・ギ
 氏は田
 諱は文
 諡号孟嘗君・・・嘗(な=甞・舐)める君(きみ・クン)
 ↓↑     臥薪嘗胆(ガシンショウタン)の訓
        会稽山の戦い(前494年・丁未)
        呉王-夫差(在位・前496〜前473)
        VS        孝昭天皇三年戊辰
        越王-勾践(在位・前497〜465年)
 ↓↑               孝昭天皇十一年丙子
 斉の威王の孫           観松彦 香殖稲(書紀)
                (みまつひこかえしね)
                 御真津日子訶恵志泥(古事記
                 第五代天皇
ーーーーー
 神武天皇
 01年 02年 03年 04年 05年 06年 07年 08年 09年 10年 11年 12年
 BC660年   ↓↑              BC650年 BC649年
 辛酉 壬戌 癸亥 甲子 乙丑  丙寅 丁卯 戊辰 己巳 庚午 辛未 壬申
 ↓↑↓↑   ↓↑
   BC659年 BC657年
 ↓↑    ↓↑
       開化天皇
       41年
       BC117年
       甲子
       ↓↑
       崇神天皇
       41年
       BC57年
       甲子
       ↓↑     ↓↑
 垂仁天皇         ↓↑
 29年  30年       ↓↑
 BC1年 AD1年 2年 3年 4年
 ↓↑           ↓↑
 庚申  辛酉 壬戌 癸亥 甲子
 皇紀
 660年 661年
ーーーーー
 古事記では
  御眞木入 日子印 恵  命
 (みまきいりひこいにえのみこと)
 日本書紀では
  御間城入 彦 五十瓊殖 天皇
 (みまきいりびこい にえのすめらみこと)
  瀰磨紀異利寐胡
  美麻紀伊理毘古
ーーーーー
 大毘古命、
 罷往
 於
 高志國之時、・・・高志=こし・・・高句麗・高麗・金王朝
            =越・古史・超し・虎視・輿
 服腰裳少女、・・・なんで
         「服=ふく=伏・副・吹く・葺く・附句」
         「腰裳(こしも)の少女」?なのかは
         「こし=越・古史・超し・虎視・輿」
          の組み立てで視えてくるカモ・・・
 立山代・・・・・・建てる、サンダイ・・・
 之・・・・・・・・シ
 幣羅坂・・・・・・へらさか・・・兵ら叛?
 而
 歌曰、
 美麻紀伊理毘古・・・御真木入日子
 波夜・・・・・・・・はや
 美麻紀伊理毘古・・・御真木入日子
 波夜・・・・・・・・はや
 意能賀袁袁・・・・・おのがをを
 奴須美斯勢牟登・・・ぬすみしせむと
 斯理都斗用・・・・・そりととよ
 伊由岐多賀比・・・・いゆきたがひ
 麻幣都斗用・・・・・まへととよ
 伊由岐多賀比・・・・いゆきたがひ
 宇迦迦波久・・・・・うかかはく
 斯良爾登・・・・・・しらじと
 美麻紀伊理毘古・・・御真木入日子
 波夜・・・・・・・・はや
 (古事記
ーー↓↑ーー
 九月丙戌朔甲午、・・・九月九日
 以
 大彦命
 遣北陸、
 武渟川別
 遣東海、
 吉備津彦
 遣西道、
 丹波道主命
 遣丹波
 因以詔之曰
 「若有不受教者、
  乃舉兵伐之」
 既而
 共授
 印綬
 爲
 將軍。

 壬子、・・・九月二十七日
 大彦命、・・オオビコノミコト
 到於
 和珥坂上、・ワニサカノウエ・・・和仁・和邇・話似・鰐・王仁
       大和国添上郡
       奈良県天理市-和珥(わに・カニ
 時有
 少女、・・・
 歌之曰、・・
 ↓↑
 一云、
 大彦命・・・大=おほ ・ダイ・・・太・対・碓・台・他意
       彦=びこ ・ゲン・・・比後・庇護・肥後・比護
       命=みこと・メイ・・・見事
 到
 山背平坂、・・・山背(山城)の平坂
         奈良の北の
         般若寺坂から
        「木津」の間?
 時道側有・・・・ジドウソクユウ
         事同 素句有(云う・謂う)
 (ときにみちのそばに)
 童女・・・
 歌之曰、・・・
 ↓↑
 瀰磨紀異利寐胡-播揶・・・美麻紀伊理毘古⇔御真木入日子
 (みまきいりびこ-ばや)
  瀰=氵+弓+爾・・・山水の弓形の事=隈の様な所の流れ?
 ↓↑ ながれ・ながれる・ひろ・みつ・わたる・ひさしい
    とおい・いよいよ
    あまねし・や・いや・わたる
    海女子偲・鰥・厭(嫌・射矢・委也)・渉(渡る・亘る)
         鰥=寡婦・鰥夫=やもめ
    ミ・ビ・「瀰漫=蔓延・はびこる」・・・
 ↓↑         ↓↑
            万延=安政の後、文久の前
               1860年1861年
           『後漢書・馬融伝』
           「豊千億之子孫、歴万載而永延」?
            金銀交換比率の国際相場
            金の量目を大幅に減らし
            万延小判等の発行(幕末の通貨問題)
 ↓↑         ↓↑
            小栗 忠順
            文政10年6月23日(1827年7月16日)
            丁亥(戊・甲・壬)
            丁未(丁・乙・己)
            丁卯(甲・ ・乙)
            戌亥=空亡  丁⇔乙・強旺格
            〜
            慶応4年閏4月6日(1868年5月27日)
            戊辰(乙・癸・戊)
            丁巳(戊・庚・丙)
            癸丑(癸・辛・己)
            ↓↑
            父は小栗忠高
            母は小栗くに子(小栗忠清の娘)
            妻は「建部」政醇の娘、「道子」
       嘉永二年(1849年)
       播州
       林田藩の前藩主
       建部政醇の娘・道子と結婚
       子は「国子(小栗貞雄妻)」
       養子(とりこ)は「鉞子」
       従妹の
       鉞子(よきこ、
          父・忠高の義弟、日下数馬=庄次郎の娘)
       鉞子の許婚として駒井朝温の次男・忠道を養子
       忠道は高崎で斬首された
            ↓↑
            勘定奉行江戸町奉行外国奉行
            通称は又一
            日米修好通商条約批准の
            使節として渡米を命じられる
            安政七年(1860年
            日米修好通商条約批准のため
            米艦ポーハタン号で渡米
            地球を一周して帰国
            万延元年(1860年)十一月八日
            目付から外国奉行に異動
   ↓↑                       
   磨=みがく・マ⇔磨=广(ま-だれ)は
           ハヤシ(囃)の中のイワ(イシ)
           わっしょい=祭りの掛け声
           ワッショイ=和通背負
           和通緒(初・書・祥)意
           倭連所為
           そいや=添いや・副いや(叶う・実現する)
    紀=糸+己=キ・・・書紀・紀伊紀年法紀伝体
     異=田+共=ことなる・イ・異伝・異人・異邦・異国
      利=とし・リ・・・利用・利害
       寐=ねる・ねむる・ビ・寤寐(ゴビ)・夢寐(ムビ)
         寝る・眠る
        胡=えびす・コ・ウ・胡人(コジン)・恵比須
          夷子・蛭子・戎子・蠻・惠比壽
         播=まく・バン・ハ・播磨・播種・撒播
           条播・伝播
          揶=からかう・はぐらかす・ヤ
            揶揄(ヤユ)
  
 飫迺餓鳥塢・・・・・飫=飠+夭=あきる・さかもり・ヨ・ヲ
 (おのがをを)     厭聞飫聴・厭飫
 (おのがウを)     食夭迺食我鳥土烏
                 鵞鳥=ガチョウ=画帳
 志齊務苔・・・苔(こけ・ダイ)=艹+ム+口=moss(モス)
 (しせむと)
 農殊末句志羅珥・・・「農、殊、末句、志羅、珥」?
 (ぬすまくしらに) 竊(窃・ぬす)まく知らに
           かすめ取る⇔盗窃=セットウ=接頭
          「農殊末句=ぬすまく」?
 比賣那素寐殊望 ・・・比賣、    那素寐、殊望
 (ひめなそびすも) 比較売(瓜)、茄子び、殊に望む   
 ↓↑
 一云
 「於朋耆妬庸利・・・意冨(いふ=if=畏怖=移付・言ふ)
 (おほきとより)  木戸(伯耆国・妬=女石⇔石見国)?
 ↓↑        庸利=租庸調=税利・・・傭兵
           庸=广+聿(肀二・𦘒一)+冂
             労役税
             労役の代わりに布などを納めるもの
             平凡・普通
           庸=日本律令制の租税の一
             年十日の歳役の
             代納物(布が主、米・塩・綿など)
             養老令
             正丁(成人)で布二丈六尺と規定
             調とともに農民による運脚が義務
             中央では
             仕丁・衛士などの食糧(大粮)
             土木事業の経費などに使用
 ↓↑          ↓↑
 ↓↑          中国、隋・唐
             税で徭役の代償となる布帛
             賦役
             丁男の正役を
             年間20日
             閏年に22日
             首都近傍の一部を除き
             大部分の丁は役に徴発されることなく
             1日当り絹3尺
             (あるいは麻布3尺7寸5分)
             の割で
             絹6丈(または麻布7丈5尺)を納め
             これを
             庸とした
             庸は調と一括徴収され
             庸調と連称
             貨幣流通がなお限られ
             高額取引に
             多く絹が使われ
 ↓↑          諸税の中心的存在であった・・・
  于介伽卑氐・・・・・・・
 (うかがひて)・・・弖・手・氐・弟・て
  許呂佐務苔・・・・・・・
 (ころさむと)
  須羅句塢志羅珥・・・「塢=十+一+烏=ウ・オ
 (すらくをしらに)     どて・小さな堤
               砦(とりで)・小城・塹壕
               邑里(むらざと)・村落
  比賣那素寐須望」・・・比較売り、茄子備、周防国
 (ひめなそびすも)   山口県東部・防州
 (日本書紀)      周芳(すは・須和・諏和)
 ・・・いくら古代の万葉仮名の「日本語翻訳」でも、チョッと無理なんじゃぁなかろうか?・・・「比賣那素寐須望=姫なすび(遊び)、すも」・・・「な-そ」は禁止の副詞「な」と呼応した「そ」だが・・・「なそび」は「名素備」・・・「名そび(誘)」・・・誘惑する・・・
ーー↓↑ーー
 於是、
 大毘古命思恠、
 返馬、
 問
 其少女曰
 「汝所謂之言、何言」
 爾
 少女答曰
 「吾勿言、唯爲詠歌耳」
 卽
 不見其所如而忽失。
 (古事記)」
 ↓↑
 於是、
 大彦命
 異之、
 問童女
 「汝言何辭」
 對曰
 「勿言也、唯歌耳」
 乃
 重詠先歌、
 忽
 不見矣。
 ↓↑
 大彦乃還而
 具以狀奏。
 於是、
 天皇
 姑
 倭迹々日百襲姫命
 聰明叡智、
 能識未然、
 乃知其歌怪、
 言于天皇
 「是
  武埴安彦
  將謀反之表者也。
  吾聞、
  武埴安彦之妻
  吾田媛
  密來之、
  取倭香山土、
  裹領巾頭而
  祈
  曰『是倭国之物實』
  乃反之。
  物實、(此云望能志呂・ものしろ)。
  是以、
  知有事焉。
  非早圖、
  必後之。」
 (日本書紀
 ↓↑
 故
 大毘古命、
 更還參上、
 請於天皇時、
 天皇答詔之
 「此者爲、
  在
  山代國
  我之庶兄
  建波邇安王、
  起
  邪心之表耳。
 (波邇二字以音)。
  伯父、
  興軍宜行。」
 卽
 副
 丸邇臣之祖・日子國
 夫玖命
 而遣時、
 卽於
 丸邇坂居忌瓮而罷往。
 於是到
 山代之和訶羅河時、
 其
 建波邇安王、
 興軍待遮、
 各中挾河而、
 對立
 相挑、
 故號其地謂
 伊杼美。
 今謂
 伊豆美也。

 爾
 日子國
 夫玖命乞云
 「其廂人、
  先
  忌矢可彈。」
 爾其
 建波爾安王、
 雖射不得中。
 於是、
 國夫玖命彈矢者、
 卽射
 建波爾安王而死。
 故其軍悉破而逃散。
 爾追迫其逃軍、
 到
 久須婆之度時、
 皆被迫窘而、
 屎出懸於褌、
 故號其地謂
 屎褌。
 今者謂
 久須婆。
 又遮其逃軍以斬者、
 如
 鵜浮於河、
 故號其河謂
 鵜河也。
 亦
 斬
 波布理
 其軍士、
 故號其地謂
 波布理曾能。
 (自波下五字以音)。
 如此
 平訖、
 參上覆奏。

 故、
 大毘古命者、
 隨先命而、
 罷行高志國。
 爾自
 東方所遣
 建沼河別
 與
 其父
 大毘古共、
 往遇于相津、
 故其地謂
 相津也。
 是以各
 和平所遣之國政而覆奏。
 爾天下太平、
 人民富榮。
 於是、
 初令
 貢
 男弓端之調、
 女手末之調。
 故稱其御世、
 謂所
 知初國之御眞木天皇也。
 又是之御世、
 作
 依網池、
 亦作
 輕之酒折池也。
 天皇御歲、
 壹佰陸拾捌歲。
 戊寅年十二月崩。
 御陵在
 山邊道勾之岡上也。
ーーーーー
 またこの御世に大毘古命(オオビコノミコト)をば
 高志道(コシノミチ)に遣はし、
 その子建沼河別命(タケヌナカワワケノミコト)をば
 東の方十二道に遣はして、
 そのまつろはぬ人等を和平しめたまひき。
 また日子坐王(ヒコイマスノミコ)をば
 旦波国に遣はして、
 玖賀耳之御笠(クガミミノミカサ)、
 こは人の名なり、を殺さしめたまひき。
 かれ、大毘古命 高志国に罷り往きし時、
 腰裳服せる少女、
 山代(ヤマシロ)の
 幣羅坂(ヘラサカ)に立ちて歌ひて曰はく、

 御真木入日子はや
 (ミマキイリビコ)
 御真木入日子はや
 己が緒を
 盗み殺せむと 
 後つ戸よ 
 い行き違ひ 
 前つ戸よ 
 い行き違ひ
 窺(ウカカ)はく
 知らにと
 御真木入日子はや

 御真木入日子よ
 (ミマキイリビコ=祟神天皇
 御真木入日子よ
 (ミマキイリビコ)
 オノレの命を狙っている奴が
 入れ違い、行きかい、
 様子を伺っているというのに
 何も知らないで
 御真木入日子よ
 (ミマキイリビコ)
ーーーーー
 「五十日(いか)」
 「五十鈴(いすず)」
 「五十=い・いい・いか・いき・いお・いそ・いわ」
ーーーーー
 伏羲(ふっき・ふくぎ)
 古代中国神話に登場する神または伝説上の帝王
 宓羲・包犠・庖犠・伏戯
 伏義、伏儀とも
 三皇の一人
 姓は風
 兄妹または夫婦と目される
 女媧と共に
 蛇身人首の姿

 黄河から現れたのは龍馬
 洛水から現れたのは亀
 河図や洛書は
 それらの背にあった文とされた・・・
 以後
 河図は龍図または龍馬図
 洛書は亀書
 とも呼ばれる

 宋代
 河図洛書は
 図像と解され
 陰陽を表す
 黒点と白点の数によって示された
 朱震は
 『漢上易伝』において
 劉牧が伝えた
 河図洛書を収録し
 楊甲も
 『六経図』
 大易象鈎深図においてこれを収めた
 ただし彼らは
 九数図を河図、
 十数図を洛書
 としていたが
 朱熹
 と
 蔡元定は
 『易学啓蒙』において
 十数図を河図
 九数図を洛書
 とし
 朱熹周易本義』の巻首にも掲載
 彼らが
 十数図を河図にしたのは
 繋辞上伝にある
 「天地十数」の記述にもとづく
 五行生成の数と合致し
 九数図を洛書にしたのは
 八卦を八方に配した
 九宮の数に合うのを
 朱熹の考えた
 伏羲の易(先天易)
 と
 文王の易(後天易)
 の分別によって分類したため・・・
ーーーーー
 慶雲(ケイウン)
 新羅
 金憲昌が用いた
 私年号
 822年
 新羅
 第41代
 憲徳王の
 14年(822年)3月
 王族の
 金憲昌は
 父の
 金周元
 が王位につけなかったことを不服として反乱
 熊州(忠清南道扶余郡)を拠点とし
 朝鮮半島南西部を占拠
 国号を長安
 年号を慶雲元年と宣言
 同月のうちに反乱は平定
 慶雲年号は廃止
 『三国史記
 巻十・新羅本紀第十・憲徳王紀(十四年三月)
 熊州都督
 憲昌
 以
 父
 周元
 不得為王、反叛。
 国号長安
 建元慶雲元年
ーーーーー
 因幡・稲波・印旛・印場・印波・・・
 印旛沼干拓
 千葉県(下総国)北西部にある
 印旛沼干拓事業

 享保9年(1724年)
 平戸村(八千代市平戸)の
 染谷源右衛門が着手したが失敗
 天明年間(1781年〜1789年)
 老中
 田沼意次の時に計画
 工程の3分の2まで進捗したが

 天明6年(1786年)7月の大洪水
 田沼の失脚により中断
 江戸後期
 老中
 水野忠邦
 天保の改革の一環として
 開削事業が企図
 幕府財政基盤の再建を目標とした
 改革後半の

 天保14年(1843年)
 勘定奉行
 鳥居耀蔵を責任者として
 沼津藩、庄内藩鳥取藩、秋月藩、上総貝淵藩
 の5藩に御手伝普請が命じられ
 印旛沼から江戸湾
 水路を開削する
 印旛沼堀割工事が行われた

 印恵(いにえ)=御真木入 日子 印恵  命
        (ミマキイリヒコ イニヱノミコト)
 恵那に隣接するのは
 瑞浪市
 中津川市
 加茂郡
 八百津町
 白川町
ーーーーー
 ・・・鶏鳴狗盗=ケイメイクトウ=慶明苦闘(句等・句読・句問う・苦等)・・・