2479日目・・・ドカ雪でダウン・・・「冊府-元亀(サップ-ゲンキ)」・・・「sup=What's up?=ヨッ!、ヤぁッ!、調子、ドウだいッ!」、「sup=What's up?=ヨッ!、ヤぁッ!、元気かッ!」・・・「sup=少しずつ食べる・飲む・夕食を食べる・…を夕食に食べる」・・・「ゴクリと(〜を)飲む・飲み物のひと口・ひと啜(すす)り(of)」・・・「比訳(ひと)綴(つヅ)り?」・・・「バンメシを喰う=to sup・take supper・eat one's supper」・・・「メシ、クッテルか

 「冊府-元亀(サップ-ゲンキ)」?
 「冊府=サクフ=詐句附・差句附・作句附」の
 「元亀=ゲンキ=言(語)記・諺(語)記・原(木)器・源(氏)基・源(氏)記・原(発)基・弦(蔓)樹・元(日本書)紀」・・・
 「弦=つる・いと・お・つる・ふさ・ゲン・弓のつる・いと・琴などの楽器に張った糸・半月に欠けた月の直径・直角三角形の斜辺・円周上の二点を結ぶ直線・病人の脈で弱くかつ急で弓の弦のように震える打ち方・夫婦の縁」・・・「つる=水流=水脈・・・筋(すじ)の脈」・・・
ーーーーー
 類書=類=米+頁(page)
    書=聿+日(曰)・・・ヨ=右手
     「画=畫=聿+田+一」
          聿=肀+二=𦘒+一=筆
            掃除⇔箒(帚・ほうき)
                 帚=ははきぎ=箒木=帚木
 「肀=ヨ+l」
 「聿=肀+二」
 建=廴+聿=たつ・たてる・たける・ケン・コン
             倭建=大和建=日本建=やまとたける
   廴=えんにょう・いんにょう(廴)・いんぶ(廴部)
   ↓↑延 繞
     「廴=フ+又・丆(面・靣)+又」・・・
          石=丆+口
          万=丆+𠃌
            丆=「斧・斤・戉・鍬・鋤・鉏・耜」の
              柄(ヱ・ゑ・エ・え)の形象の
              様に視える・・・
              古代九州王朝は「磐井=石井」
             「磐余比子(彦)」=神武天皇
   ↓↑         ↓↑
         527年(継体二十一年)
         磐井の乱(イワイのラン)
         「ヤマト近江(?)」の
         毛野の朝鮮半島南部への出兵を
         筑紫君-磐井(筑紫国造)が阻んだ・・・
   ↓↑         ↓↑
        「岩倉具視=いわくらともみ=意和句等斗摸視」
        「大久保(大窪)利通」
         らが、「朝鮮出兵征韓論)」を阻んだ
   ↓↑     ↓↑
        「岩倉具視
         文政八年九月十五日(1825年10月26日)
         〜
         明治十六年(1883年)七月二十日)
         雅号は対岳
         謹慎中の法名は友山
         補職・位階・ 勲等
         贈太政大臣正一位大勲位
         維新の十傑の1人
         ↓↑
         1909年10月26日
        「安重根=安應七=安多黙」
        己卯・壬申・戊子(午未=空亡)
             申(己・壬・庚)
             劫財・偏財・食神
             ⇔三合壬偏財格
         庚戌・己卯・庚寅・・・33歳or30歳?
         1879年9月2日=30
            ↓↑
            1876年9月2日=33
         丙子・丙申・癸酉(戌亥=空亡)
            申(己・壬・庚)
           ⇔三合壬劫財
         が
         前韓国統監の
        「伊藤博文」を暗殺
         ↓↑
         1910年(明治43年)8月29日
        「日韓併合に関する条約」
        「1910年(明治43年)8月22日に
         韓国併合条約は漢城ソウル特別市)で
         寺内正毅統監と
         李完用首相により調印され、
         29日に裁可公布により発効し、
         大日本帝国大韓帝国を併合」・・・
ーーーーー
 桂・圭=ケイ=彐=ケイ=硅・恚⇔恙・羗
 彐=豚の頭の意。「⺕」・本は「彑」・片仮名の「ヨ」
   新字体
   「彐」は
   右手の意味をなす「⺕」の同形となった
  (書尹争聿隶健事など)
   「彔」は、日本の新字体
   中国の新字形
   「緑=绿」
   「録=录)」
    と「录」にされ
   「彗」の下の「⺕」の字は
   「雪」のように「ヨ」とされた
   「ヨ」は「與(新字体の与)」

 彑=彐=⺕=ヨ
   当(あたる)・・・當・中る
   彖(ぶた)・・・・豚
   彗(ほうき)・・・彗星
   彘(いのこ)・・・猪
   彙(はりねずみ)・針鼠・蝟
   彝(つね)・・・・宗廟に供える祭器・彝器(イキ)
            のり(法)・つねに守るべき不変の道
   彝(イ)=彑+米+糸+廾
   彜(イ)=彑+米+分+廾
        六彝=雞彝、鳥彝、黃彝、虎彝、蟲彝、斝彝
   㣇(怪獣)=㣇はたたりをなす獣の象形
         杀=㐅+朩
           異体字・櫱・殺・㣇
   𢑽=那・・・「古文の那の字(字彙補)」の 異体字
   ヨ不不
   ヨ不不
    ↓↑
 丆=面↓↑
 不=丆+ト=一+イ+丶=一+ノ+ト
   面ト 初めのイはテン イチのト
   面目 イ=彙・意 点 壹 の占
            天 壹與の遷都
   石斧(丆+ト)・石戉(鉞)での
   木・石を割り砕いての占(卜占・吉凶)?
   キセキ=奇石・輝石・軌跡・奇蹟・奇跡・鬼籍
 ↓↑
 桂小五郎木戸孝允・・・木戸の曙・・・
 ↓↑
 桂太郎(かつら たろう)
 弘化四年十一月二十八日(1848年1月4日)
 丁未・壬子・乙巳(寅卯空亡)
  〜
 大正二年(1913年)十月十日
 癸丑・壬戌・甲子
 ↓↑
 長州藩士、陸軍軍人、政治家
 陸軍大将
 従一位大勲位功三級公爵
 諱は清澄(きよずみ)
 幼名は寿熊、左中
 号は海城
 元老・井上馨とは義理の親子関係
 児玉源太郎
 川上操六
 とともに
 「明治陸軍の三羽烏
 ↓↑
 ドイツ兵制を学び
 陸軍建設に尽力
 三度組閣
 日英同盟締結
 日露戦争
 韓国併合
 など
 1913年(大正二)
 憲政擁護運動に批判されて辞職
 ↓↑ 
 山口生まれ
 父は萩藩士
 戊辰戦争に従軍
 明治三年(1870)ドイツ留学
 明治八年(1875)ドイツ公使館付武官
 ドイツの軍政の調査・研究に従事
 明治十一年(1878)
 帰国
 後、
 山県有朋
 の下で兵制・陸軍官制の改革
 明治十九年(1886)
 陸軍次官
 日清戦争(1894)で
 第3師団長
 第2代台湾総督
 東京防禦総督
 第3次伊藤内閣の陸相
 第1次大隈・第2次山県・第4次伊藤
 各内閣でも留任
 後、
 西園寺公望と交代で首相
 日英同盟締結
 日露戦争
 日韓併合
 などを主導
 元老として内大臣
 再び首相
 憲政擁護運動により退陣
 ↓↑
 幼字を寿熊・左中
 後、太郎と改め
 総理大臣を三回務め
 大正二年(1913)歿、67才
 ↓↑ 
 明治三十四年(1901年)
 首相就任
 日英同盟を締結
 日露戦争で日本を勝利に
 ↓↑
 元治元年(1864年
 禁門の変
 七月に世子
 毛利元徳の小姓役
 第二次長州征伐では志願し
 石州方面で戦う。
 ・・・石見(いわみ)国の異称
    令制国の一つ。山陰道に属す
    島根県西半部
    石見国
    国司が管する石見国
    大化改新後に設置
    斉明三年(657)条に初見(日本書紀
    駅として
    波祢(はね)・託農(たくの)・樟道(くすち)
    江東・江西・伊甘(いかみ)
    駅は郷と同じ行政単位
ーー↓↑ーー
 桂小五郎
 1833年
 長州藩藩医であった
 和田昌景の長男
 和田小五郎
 身体が弱く、
 長生きしないとされ
 2人いた姉に婿養子が入り
 小五郎は
 八歳で家の向かいにあった
 桂家に養子
 桂小五郎と名乗る
 ↓↑
 「木戸孝允」と名乗る
 「木戸」姓は
 第二次長州征討前に藩主の
 毛利敬親
 から賜ったもの
 「孝允」という名は桂家を継いだ時からの諱を
 東京招魂社(靖国神社)を創建した時に
 公的に使用するように決めた
ーーーーー
 ・・・また、跳んだ・・・
 建=廴+聿=たつ・たてる・たける・ケン・コン
 延=廴+ノ+止(丄ト)・・・丄=上
         ↓↑
     「廴」の漢字は
     「彳(辻⇔𢌗・交叉路)の漢字」を変形させ
      長く引き延ばした「廴」の指事文字
      偏旁の意符としては道を歩くことに関する
     (説文解字)・・・
     「廴」は「ろ・3」に「乀」を重ねた様にみえるが?
     「乀=フツ・ホチ・左より右へ戾る・舟が左右に揺れる
        「乀」は「舟のpaddle or row」にもみえる・・・
        「竿(さお)・櫂(かい・橈)・櫓(ろ)」
         練り櫂が発展して艪(ロ) 「軒=梠」
          ろ=呂⇔背骨の連結・長い・呂律
           「おと・とも・なが・ふえ・リョ・ロ」
            呂=口+ノ+口=接吻・kiss?
              国+ノ+国=同盟・併合?
ーー↓↑ーー
 古事記
 ↓↑
 自其處發、
 到
 當藝野上之時、
 詔者
 「吾心恒念、
  自虛翔行。
  然今
  吾足不得步、・ワレの足、歩くをえず
  成-當藝・・・たぎ
    當藝・・・たぎ
    斯玖。・・しく
  (自當下六字以音)。」
  故號其地謂
  當藝(たぎ)也。・・・・当藝=トウゲイ=陶芸・等芸
              芸(ウン)?or藝(ゲイ)?
              香草・芸能・技芸・藝術
  自其地、
  差少幸行、
  因甚疲衝、
  御杖稍步、・・・稍(ヤクヤク・ショウ)
  故號
  其地謂
  杖衝坂也。・・・・・・杖衝坂(ジョウショウハン)
  到坐
  尾津前一松之許、
  先御食之時、
  所忘其地
  御刀
  不失
  猶有、
  爾御歌曰、
  袁波理邇・・・・・・袁波理邇(をはりに)
  多陀邇牟迦幣流・・・ただにむかへる
  袁都能佐岐那流・・・をとのさきなる
  比登都麻都・・・・・ひとつまと
  阿勢袁・・・・・・・あせを
  比登都麻都・・・・・ひととまつ
  比登邇阿理勢婆・・・ひとにありせば
  多知波氣麻斯袁・・・たちはきましを
  岐奴岐勢麻斯袁・・・きぬきせましを
  比登都麻都・・・・・ひととまつ
  阿勢袁・・・・・・・あせを
  自其地幸、
  到
  三重村之時、
  亦詔之
 「吾足、
  如
  三重勾而甚疲。」・・三重勾=サンジュウコウ
              勾玉=曲玉⇔音譜♪
              勾(コウ・ク)=勹+ム
  故、
  號
  其地
  謂三重。
  自其
  幸行而、
  到
  能煩野之時、
  思國以歌曰、
  夜麻登波・・・・・・・やまとは 
  久爾能麻本呂婆・・・・くにのまほろ
             句似之眞保賂葉
  多多那豆久・・・・・・たたなづく
  阿袁加岐・・・・・・・あをかき
  夜麻碁母禮流・・・・・やまごもれる
  夜麻登志・・・・・・・やまとし
  宇流波斯・・・・・・・うるはし
ーー↓↑ーー
 帇=康熙字典中的解释
   帇=肀+巾=ジョウ
   唐韻=尼(ニ)輒(ィ)切(qiē・チィエ)
       輒=すなはち・たやすく・チョウ・ジョウ
   音は聶(ショウ・ジョウ・ささやく)
   說文・手之疌巧也・・・疌=肀+ト+人
              睫(まつげ・睫毛・眉睫)
              啑(おしゃべり・喋)
              捷(はやい)
              婕(みめよい)
   六書正譌・从手持巾・言其易・亦作疌
   六書正義・疌=手足
 律⇔律令・旋律
 隷⇔奴隷・隷属
 隶・逮⇔(逮捕)
 肅・粛⇔(粛清)
 灵(靈・霊)
 畫=画
 盡=尽
 康=鮟鱇・・・「康=庚+米」で、「隶」ではない?
        「家康⇔广の水(氺)を手の「肀=柄杓」で
            匊(すくう)」だろう・・・
        「松平・水野・徳川・・・」
            水野氏=清和源氏を称する氏族
            ↓↑
          康⇔广=岩屋・崖を利用した洞窟の住居
 妻=十+ヨ+女       隶=肀+氺(水)
              ヨ=與・かく・かつぐ・与
                二人で両手を掛て持ちあげる
            ふで・のべる・おさめる・すばやい
            聿=筆
            イチ・イツ
            筆・述べる・修める・記録する
「昼=晝=書+一」
    ↓↑
   「冊府=類書」・・・百科事典の如く
    ↓↑
    各種の書籍より
    一つ、ないしは複数の部門の資料を集め
    分類順または韻順に編集し
    検索の便をはかった
    中国や日本古来の参考図書
    一種の百科事典
    ある書物と内容の類似する他の書物を指して
   「類書(たぐい=比の書)」と呼ぶことがある
 ↓↑    
 『冊府元亀(サップゲンキ)』
 北宋
 王欽若・・・王、欽(金欠)の若
 楊億・・・・ヤナギ(十八日昜)のイは意(立日心)
              昜(ヨウ)≠易(エキ・イ・ヤク)
               日+一+勿≠日+易
       昜=あがる・太陽がのぼる・太陽
         ひらく・開放する・とびあがる
       易=かえる・やすい・やすし・占う
       ヤナギ=柳=簗木(やなぎ)の罠の
             億=おく=澳に・・・
                  魚=まな?漁(ゴ・ギョ)
 らが
 真宗
 『歴代君臣事迹』編纂の勅命により
 景徳二年(1005年)
 〜
 大中祥符六年(1013年)・・・祥=天からの知らせ
                 めでたいしるし
                 符瑞・祥符
                 瑞祥・吉祥
 八年を費やし完成
 真宗
 「古来のあらゆる記録を集めた書物
 (「冊府」=古代の書物を蔵した役所
  「元亀」=古代の占卜に用いた大きな亀)」
 の意を込めて
 『冊府元亀(サップ-ゲンキ)』の名を賜った
       サップ=sup=What's up?=What's up?
 北宋の四大類書のなかで最も大部
 巻数は1000巻
 分類は31部1104門(実際は1116門)
 歴代の制度沿革を総合的に記した
 歴代会要の性格を有している
 主に
 『史記』から『旧五代史』までの
 十七の正史がもとになっており
 史料的価値を評価しない見方もあるが
 特に唐・五代に関しては
 後世散逸した実録なども用いており
 詳細に採られた
 詔勅文・上奏文などには
 本書によってのみ確認できる史料も多く
 唐・五代の研究には欠かせない重要史料
 五胡十六国時代
 散逸して伝わっていない
 『十六国春秋』を利用した可能性が高く
 また
 『魏書』の様に後世一部が欠けた
 正史類を補うものでもある
 通常の類書
 経・史・子・集
 の広い範囲にわたって内容を収めるが
 本書は
 『君臣事迹(クンシンジセキ)』の名の如く
 経・史・子に集中して
 歴代(太古〜五代)の皇帝・宰相・官僚
 の政治についての事績を集めて分類し
 それぞれ年代順に配列
 門数は従来
 「一千一百四門」とされてきたが
 実数は
 「1116門(従来の計算方法でも1106門)」
 各部にはそれぞれ
 「総序」がつく
 全31部の構成
 ↓↑ 
 帝王、閏位、僭偽、列国君、儲宮、宗室、外戚、宰輔
 将帥、台省、邦計、憲官、諌静、詞臣、国史、掌礼
 学校、刑法、卿監、環衛、銓選、貢挙、奉使、内臣
 牧守、令長、宮臣、幕府、陪臣、総録、外臣
 ↓↑
 刊本
 真宗に上呈された鈔本(手書き本)は
 広く臣下にも見せるべしとの上意により
 天禧四年(1020年)
 北宋初刻本が完成
 輔臣に賜与された
 景祐四年(1037年)
 御史台にも1セットが下賜
 これら北宋本は早くに散逸
 南宋に入り
 再刻が試みられた
 現存するものには2種類
 何れも
 四川でおこなわれ
 南宋蜀刻本
 と言われる
ーー↓↑ーー
 1013年
 干支=癸丑
 日本=長和二年
    皇紀1673年
 中国
 北宋 =大中祥符六年
 遼  =開泰二年
 大理国=明啓四年
ーー↓↑ーー
 魚山・・・魚山(まな・サン=やま)⇔「眞名・耶麻・邪馬」纂
 大原寺・・大源字・代(題・臺)源氏?
 勝林院
 本堂・・・本同
 長和二年(1013年)・・・1+0+1+3=5・五・語・吾・呉・漁
 円仁・・・猿人・円陣
 より数えて
 九代目弟子の
 寂源・・・邪句言?
 により
 法儀・・・法木・箒・帚・伯耆・方氣・法規・放棄
 声明
 念仏三昧
 の
 根本道場として建立
 別名
 『問答寺』とも
 『証拠堂』とも
 「阿弥陀堂」とも呼ばれている
 ↓↑ 
 寂源により建立された本堂
 数多の火災、洪水により破損
 修復再建
 江戸時代初期
 徳川家光の代
 春日局・・・斎藤福=三代将軍徳川家光の乳母
           明智光秀重臣斉藤利三の娘
           名は福
           丹波
           美濃の豪族稲葉正成の後妻
           後、三代将軍徳川家光の乳母
           寛永二十年(1643)歿、65才
 の願により
 お江の方・・・江(ごう)=小督(おごう)=江与(えよ)
        位階は従一位
        浅井長政の三女
        母は織田信秀の娘・市(織田信長の妹)
 崇源院の菩提のために再建
 縁起が高欄の擬宝珠(ぎぼし)に刻
 享保二十一年(1736年)正月
 火災により焼失
 お堂は
 安永七年(1778年・徳川家治の頃)
 再建
 縁起が刻まれた
 擬宝珠もこの時のもの
 屋根は
 椹板(さわらいた)で葺いた
 「柿葺き(こけらぶき)」
 柱、梁など
 軸組、床板など
 すべてが
 欅造り(けやきづくり)・・・欅(キョ・槁・槻)=木+與+手
 ↓↑
 大原問答
 法然上人が
 顕真法印
 (第六十一代天台座主)の招きにより
 大原の
 勝林院において
 浄土の宗義について交わされた論議
 顕真法印が主催となり
 法然上人を中心とし
 天台証真
 高野山明遍
 笠置寺貞慶
 東大寺重源
 などが集まり
 一昼夜にわたり
 法然上人に
 12の難問が投げかけ
 問答では
 「どうすれば迷いの境地より脱し
  悟りの境地に入ることができるか」
 の問いに対して
 法然上人は
 「成仏はむつかしいけれど
  往生は易しい。
  仏の願力を強縁としてにより
  有知無知を論ぜず、
  持戒破戒を選ばず、
  迷いのままに往生できる」
 と答えた
 「念仏を称えて往生をとぐべきことは
  理解できても
  この心が静まらないのは
  如何すれば」
 の問いに
 「煩悩は起これども
  本願力で往生を得る。
  人間ありのままの
  すがたで救わるる道が
  称名念仏である」
 と答えた
 (阿弥陀仏衆生を救う近い
  四十八願中で特に
  第十八願を指し
  王本願という)
 ↓↑
 法然上人は
 凡夫往生の道
 機根比べは
 学問上の問題ではなく
 「現に今、自身はどうなのか、
  そしてどうするのか。
  この事実の前にはいかなる理論も通じず、
  一歩を譲らなければならない」
 と説いた
 法然上人が
 念仏によって
 極楽へ往生できることを
 はっきりと示した・・・・?・・・曖昧な答えを示した
 その時
 本尊の
 阿弥陀仏がまばゆい光を放って
 その主張が正しいことを証明・・・?
 どんな人でも・・・・・・・・・・ドンナ人でも骨になる
 極楽浄土へ
 生まれ変われると知った・・・・・骨、つちくれ、塵
 聴衆たちは
 大変喜び・・・・タイヘン、アキラメテ?
 三日三晩、
 断えることなく
 念仏を唱え続けた・・・とサッ・・・
ーー↓↑ーー
 亀の字の元号
 元号 元号開始 元号開始時の天皇
 霊亀(715〜)  元正天皇
 (左眼白く、右眼赤し。
   頸に三公を著し、背に七星を負)
 神亀(724〜)  聖武天皇
 (白亀・赤目)
 宝亀(770〜)  光仁天皇
 (白亀)
 文亀(1501〜) 後柏原天皇
 (『…一曰神亀、ニ曰霊亀、三曰摂亀、四曰宝亀、五曰文亀
   …(爾雅・釈魚)』
 元亀(1570〜) 正親(おおぎ)町天皇
ーー↓↑ーー
 玄武=玄冥=真武大帝=旋亀(センキ)=元亀=大亀
 ↓↑
 武(たけし・ム・ブ)
   止 (foot・to walk・to stop) + 戈 (spear)
   to stop violence=止戈為武
 と
 冥(くらい・ミョウ・ミャウ・メイ)・晦冥(カイメイ)
 の漢字が同じ発音? 
 玄武は水神の名・・・水(壬・癸)の神・・・ミズ能登
 唐代に成立した
 「酉陽雑俎・支諾皋下」
 朱道士者
 太和八年・・・「太和八年」・・・
 ↓↑      太和(タイワ)・・・やまと?
         南北朝時代北魏
         孝文帝の治世に使用された元号
         477年正月〜499年12月
         大和(ダイワ)・・・やまと?
         唐の
         文宗の治世に使用された元号
         827年旧2月〜835年旧12月
 ↓↑      ↓↑
     7世紀後半〜701年(大宝元年
     国号が「日本」と定められた
    「夜麻登(やまと)は国のまほろば〜」
     万葉仮名
    「夜麻登」
    「山常、也麻等、夜末等、夜万登、八間跡」
     古事記
    「山跡」
    「夜麻登 迹迹日百 襲姫 」
              襲=おそうorかさねる
         迹=辶+亦
           跡(繁体字正字)=蹟(別字)
           あと・足あと・セキ・シャク
           行迹・事迹
           車の跡=わだち=轍=軌跡
           垂迹(スイジャク)
           本迹(ホンジャク)
           おこない・行為・書きかえ
    「ヤマト トトヒモモソヒメ」
            百=もも=髀・桃・腿・股
            百舌(もず)・百足(むかで)
     日本書紀
    「倭(ヤマト)」
    「野麻登・椰麽等・夜麻苔」
 ↓↑
 太和八年
 よく廬山へ行き、渓流で憩うと
 束ねた綿の如き蟠蛇が忽然と現れ
 空腹になると巨大な亀に変わり
 山を練り歩いた。
 これを
 玄武
 という
 ↓↑
 天亀水神
 四象
 二十八宿
 梢晩の「礼記・曲礼」
 「前に朱鳥、後ろに玄武、左が青龍、右が白虎」
 孔穎達
 「朱鳥、玄武、青龍、白虎は四方の星座の名」
 漢代の緯書
 「尚書考霊曜」
 「二十八宿天元気、万物の精也。
  故に
  東方は角、亢、氐、房、心、尾、箕の七星座
  形は龍の如し、故に左青龍
  南方は井、鬼、柳、星、張、翼、軫の七星座
  形は鶉(ウズラ)の如し、故に前朱雀
  西方は奎、婁、胃、昴、畢、觜、参の七星座
  形は虎の如し、故に右白虎
  北方は斗、牛、女、虚、危、室、壁の七星座
  形は亀の如し、故に後武
 ↓↑
 「真武大帝」
 「隋の煬帝の時代に多く語られ
  玉帝は自身の三魂の一つを
  楽国皇后に与え
  悪を嫌い世を正し
  位を捨てて山に入り修行し
  空を飛べるようになって
  北方を鎮め
  号を玄武、玄武の名を真武と改め
  皇帝家の聖祖となった
 ↓↑ 
 中国の夏王朝を興した
 禹の父親の名は
 「鯀(コン)=魚+系」・・・魚=まな・ギョ=真名=漢字
 字は「玄冥」で
   「玄武」とした・・・
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 元亀(ゲンキ)
 日本元号の一
 永禄の後
 天正の前
 1570年〜1573年までの期間
 天皇正親町天皇
 室町幕府将軍は足利義昭
 ↓↑
 永禄十三年四月二十三日
 (ユリウス暦1570年5月27日)
 戦乱、災異のため改元
 元亀四年七月二十八日
 (ユリウス暦1573年8月25日)
 天正改元
 ↓↑
 義昭は自らが将軍に就任した際
 元号
 「元亀」と改元するべく朝廷に奏請
 (『言継卿記』永禄十二年四月八日条ほか)
 織田信長
 将軍権威の復活
 正親町天皇の在位が続いている
 と反対
 義昭は朝廷を説得するために
 下行費用の名目で5000疋もの
 朝廷への献金を実施
 (『康雄記』同4月6日条)し
 織田信長
 朝倉氏討伐に出陣した
 4月23日、改元を実行
 ↓↑
 信長は信長包囲網の中で
 『信長公記・巻六』によると
 元亀三年(1572年)九月
 足利義昭に提出した
 十七か条の意見書で
 「元亀の年号、不吉に侯間、
  改元然るべしの由、
  天下の沙汰につきて、
  申し上げ侯」
 と改元するよう申し出
 足利義昭
 追放後に
 改元を実行させた
 織田信長にとって
 「元亀」の年号は不愉快だった・・・占いを嫌った?
 ・・・「合理主義者」だった?・・・
 ↓↑
 『毛詩』の
 「憬彼淮夷、
  来献
  其琛(珍宝)、
  元亀
  象歯、犬賂南金」
 と
 『文選』の
 「元亀水処、
  潜竜蟠於沮沢、
  応鳴鼓而興雨」
 から。
  勧進者(推薦者・お勧め人)は
  式部大輔
  高辻長雅・・・七歳で文章得業生
         五条為康(為学の子)の急死を受け
         北野の長者
         元亀・天正の両元号の勘進者
         後に第十四代征夷大将軍
         義栄の勧進
        (『言継公記』永禄九年十二月二十一日条)
         天正八年一月二十日
         権大納言に任ぜられるが
         八か月後に66歳で急死
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 元亀元年(1570年)
 6月28日(7月30日)・姉川の戦い
 8月26日・野田城・福島城の戦い
 (織田信長石山本願寺との
  10年余に亘る抗争の発端)
 元亀二年(1571年)
 2月〜4月
 甲斐国の武田氏による
 大規模な三河遠江侵攻
 5月
 織田信長
 伊勢長島の一向一揆攻め
 12月17日
 甲相同盟回復
 9月12日
 織田信長
 延暦寺を焼き討ち
 (元亀の法難)
 元亀三年(1572年)
 5月4日
 島津義弘が真幸院にて
 伊東軍3,000を300の寡兵で破る
 (木崎原の戦い)
 7月
 織田信長
 近江に
 浅井長政を攻める
 秋、
 甲斐の武田氏による西上作戦発動
 三河の徳川領を北・東の2方面から同時侵攻
 12月22日
 徳川家康
 遠江三方ヶ原の戦い
 武田勢に大敗
 元亀四年(1573年)
 2月
 三河野田城
 武田信玄に降伏
 4月
 武田氏
 西上作戦の途上で
 三河から撤退
 甲斐へ帰国
 信玄は帰途の信州で死去
 7月
 織田信長
 足利義昭を放逐
 室町幕府の滅亡
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 ・・・「元亀=ゲンキ=元気・原器・源基・原基・言記」・・・