2477日目・・・「粋=米+九+十」は「粹=米+亠+人+人+十」・・・「裴粋」って?ナニ・・・「裴=非+衣」は「布袋=ぬのぶくろ・嚢・橐・囊・ナップサック(knapsack)・リュックサック(rucksacka・ rucksack)・ザック(Sack)・ランドセル(オランダ語の ransel・背嚢)」・・・「オオクニヌシ」が担いだ袋は頭陀袋(ずだぶくろ)?とは思えない大きな袋・・・「非+α」って結構あるけれど・・・「悲・斐・棐・蜚・翡・輩・蠔」・・・「『日本書紀(巻第二十二)』・十五年…秋七月 戊申朔庚

 「蠔=亠+非+𧘇(衣)・異体字は裴・裶・声符は非・俳・䩁・屝・ 排・痱・腓・誹・霏・𡌦・鯡・悲・㹃・𦋛・𧕿・𨛬・匪・餥・徘・斐・𥇖・菲・䠊・靡・婓・扉・琲・翡・䤏・厞・騑・悱・棐・緋・蜚・輩」・・・「吾輩は・・・デアル」・・・
ーーーーー
 渤海国
 振(震)国が成立
 ↓↑
 698年
 大祚栄によって政権が樹立
 668 年
 唐が高句麗を滅ぼした後
 営州(遼寧省-朝陽)に
 強制移住させられた
 高句麗人や靺鞨人
 たちが、
 漢人都督を殺害し
 営州を捨てて
 元の(吉林省-敦化=渤海の初期の都)に移住
 渤海
 ↓↑
 712年3月9日・・・「古事記・序文」上奏(奏上)
 和銅五年正月二十八日
 ↓↑
 713年・・・・・・地誌(風土記)編纂の官命
         大隅国を新たに設置
 唐の
 玄宗皇帝が・・・長安城内
         化度寺の無尽蔵院(三階寺院)を破壊
 大祚栄
 「渤海郡」王の称号を与えた
 ↓↑
 第二代王
 大步芸(步王)
 ↓↑
 737年
 第三代王
 大欽茂
 が即位
 762年
 唐は郡王から国王号を
 大欽茂に与えた
 ↓↑
 818年
 第十代
 大仁秀
 が即位
 ↓↑
 一蹶不振(イッケツフシン)=再起不能
 萎靡不振(イビフシン)=萎靡して振るわず
 椀飯振舞(おうばんふるまい)
 大盤振舞(おおばんぶるまい)
 金声玉振(キンセイギョクシン)=全て整っているもの
 振臂一呼(シンピイッコ)=自分自身を奮い立たせること
              奮起歓声
 立居振舞(たちいふるまい)
 起居振舞(たちいふるまい)
 発蒙振落(ハツモウシンラク)=極めて簡単なことのたとえ
 竜驤麟振(リュウジョウリンシン)=勢力旺盛
 ↓↑
 震恚・震怒・震域・震央・震撼・震駭・震悸・震恐
 震悚・震慴・震懾・震怖・震驚・震懼・震眩・震源
 震災・震死・震粛・震悚・震慴・震懾・震怛・震旦
 震度・震怒・震恚・震悼・震蕩・震盪・震盪・震蕩
 震動・震怖・震服・震幅・震雷・震慄・威震・遠震
 ↓↑
 祚=礻+乍・示+乍
   さいわい・しあわせ・ソ
   天から授かった幸福
   天子の位
   年
   初代の人が切り開き
   後世に伝えた国の福運
   祖先から伝わる王朝の君主の位
   天からくだされる幸福
   福祚
   天子の位
   皇祚・聖祚・践祚重祚・帝祚
   天祚・福祚
   門衰祚薄=一族の勢いが弱くなって
        幸運に見放されること
 祚=示+乍
    「乍=木に斧を入れた様・切り開くの意
       祖先が切り開き伝えられた
君主の地位
 強震・驚震・激震・軽震・地震・弱震・制震・大震
 耐震・本震・微震・免震・余震・雷震・烈震・震霆
 震天
 震天動地・震天駭地・震天駭地・震天動地
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 則天武后
 (623〜705.12.16)
 武徳六(623年)〜神龍元年十一月二十六日(705.12.16)
 永徽二(651年)五月、再度入宮
           入宮前懷孕、
           入宮後生下兒子李弘(652〜675)
 永徽三(652年)五月、二品昭儀
 永徽六(655年)十月 武則天皇后
 ↓↑
 王朝   武周
 在位期間 690年10月16日
      〜
      705年2月22日
 都城   長安
 姓・諱  媚娘→武照(武曌)
 諡号   則天大聖皇帝
      則天順聖皇后
 生年   武徳七年一月二十三日
     (624年2月17日)
 没年   神龍元年十一月二十六日
     (705年12月16日)
 父    武士彠・・・彠=尋(ヨエロ寸)+蒦(艹隹又)
 母    楊夫人・・・楊=木(十八)+昜(日一勿・易+一)
 ↓↑
 「太平公主(タイヘイコウシュ・おほのたいら?)」
       太(おほの)・平(たいら)
 665年?〜713年
 唐の皇帝
 高宗の娘
 母は武則天則天武后
 「公主」は皇帝を父に持つ皇女の命名
 太平公主は父母ともに皇帝
 『全唐文(清代1814年)』の記録では
 本名は
 「李令月」
 麟徳二年(665年)
 高宗の末の娘として生まれる
 八歳
 「太平」の号を授けられた
 武則天は娘の太平公主を寵愛
 吐蕃から公主の降嫁の願いを拒否
 ↓↑
 681年
 薛紹(城陽公主の息子で従兄弟)
 に嫁して二男二女を生むが
 夫は皇族・李沖の謀叛に連座し獄死
 ↓↑
 684年1月3日〜2月26日
 中宗(高宗の七男・母は則天武后
 即位後、54日で廃位、荊楚に流刑
 当初は「周王」
 後に 「英王」
 に改封
 姓・諱は李顕
 諡号は「大和大聖大昭孝皇帝」・・・?
     大和(やまと)
       大聖(おほひじり)
         大昭孝(おほあきたか)皇帝」
          ↓↑
          孝昭天皇の上下逆配置文字
      懿徳天皇五年〜孝昭天皇八十三年八月五日
      第五代天皇
     (在位は孝昭天皇元年一月九日〜八十三年八月五日)
     「観松彦香殖稲天皇日本書紀
     (みまつひこかえしねのすめらみこと)」
     「御真津日子訶恵志泥命(古事記)」
 ↓↑
 同母弟の李旦(睿宗)が即位したが
 684年2月27日〜690年10月16日
 ↓↑
 690年
 武攸曁
 に嫁いで二男二女を生む
 ↓↑
 母の武則天が垂簾政治
 母の相談役として
 武則天政権の一翼を担う
 ↓↑
 690年
 母は皇帝に即位
 武周王朝
 母が病に倒れた後
 母の愛人であった
 張易之
 張昌宗
 兄弟が専横
 ↓↑
 武則天・・・
 705年2月22日退位〜705年12月16日死亡
 武則天の寵愛者
 張易之・昌宗兄弟を除くために
 神龍元年一月二十四日(705年2月22日)
 宰相
 張柬之は
 中宗(高宗の七男・母は則天武后
 を
 東宮に迎え
 兵を発し張兄弟を斬り
 武則天
 則天大聖皇帝
 の尊称を奉ることを約束し
 退位させた
 中宗(高宗の七男・母は則天武后)が復位し
 国号は唐
 武則天自身は太后
 太平公主
 武三思
 などは権力維持
 706年(神龍二年)5月
 乾陵に高宗と合葬
 ↓↑
 武韋の禍
 宰相
 張柬之により
 武則天は退位
 唐王朝に復帰
 張兄弟と組んでいた
 従兄弟の
 武三思が
 張柬之を失脚させ
 安楽公主(中宗と韋皇后の娘)と結び
 ↓↑
 710年
 不倫の暴露を恐れた
 安楽公主・・・中宗の娘・母は韋皇后・本名を李裹児
        武三思の子、
        武崇訓に下嫁
        武崇訓の死後
        安楽公主は
        武延秀と私通を重ね
        後に武延秀へと嫁いだ
 が
 韋后・・・・・韋=なめしがわ
          わらかくした動物のかわ
          韋革・韋脂・韋帯
          韋駄天・韋陀天
          韋編(イヘン)
          韋編三絶(イヘンサンゼツ)
 と組んで
 中宗を毒殺・・・娘と妻に毒殺された・・・
 韋后が
 温王
 李重茂(殤帝)を擁立して傀儡としたが
 太平公主
 甥の
 臨淄王だった
 李隆基(玄宗)と謀り
 韋后・安楽公主とその一族を誅殺
 ↓↑
 710年7月25日
 隆基(玄宗)の父の
 相王
 李旦(睿宗、太平公主の同母兄)を即位させ
 皇妹として
 太平公主の権勢は頂点
 万戸の封を与えられ
 所生の男子3人もそれぞれ王に封ぜられ
 一族も高位高官を占めた
 宰相の
 姚崇・張説
 を左遷させ専権を極め
 今度は
 皇太子・隆基(玄宗)と対立
 ↓↑
 712年9月8日・・・・和銅五年
 睿宗が皇太子・隆基(玄宗)に譲位
 皇帝(玄宗)と
 太平公主の対立激化
 太平公主玄宗の廃立を謀るが陰謀が露顕
 ↓↑
 713年=癸丑・・・・和銅六年
 先天二年、開元元年
 皇帝自ら兵300余を率いて公主一派を倒し
 公主に死を賜った
 玄宗の独裁体制が確立し
 「開元の治」
 へ・・・
 ↓↑
 和思-趙-皇后(?〜675年5月7日)
    ・・・和思=倭思う趙(走肖)
    「趨(はし)ること趙(おそ)きなり(説文解字)」
     遅いこと
    「猶ほ超騰のごとし(穆天子伝・北征趙行の注)」
     速いこと
     超と通じ、超える・・・越える
     形声で声符は「肖」
    「肖=似る・象(かたど)る・ショウ」
 中宗の皇后
 中宗(李顕)の
 英王時の正妃(后追、和思皇后)
 父の
 趙瑰は
 括州刺史へ左遷
 同時に
 母の
 常楽公主(高宗の十九番目の娘)も
 随行厳命。
 越王
 李貞
 挙兵謀反。
 武則天
 常楽公主(趙瑰は夫・中宗の和思皇后の母)
 承諾のもとの謀反と断じ
 謀反は失敗
 興に遭って弾劾
 夫、
 趙瑰は監禁され
 常楽公主は
 「虺(まむし・キ・カイ・ケ)=兀+虫」
 と改姓され
 公主夫婦は辱めに耐えらず獄死
 ↓↑
 娘の
 「和思皇后」趙氏は
 「中宗の妃(和思皇后趙氏)」
 京兆、長安人。
 祖は趙綽、
 武紱中以戰功
 至右領軍衛將軍。
 父は趙瑰
 母は高祖の女、
 常樂公主、
 歷遷左千牛將軍。
 中宗、為英王時、納后為妃。
 既而妃の母、公主、得罪
 妃亦坐廢
 幽死於內侍省。
 則天臨朝
 瑰為壽州刺史
 坐與越王
 貞連謀被誅
 公主亦坐死。
 神龍元年
 贈后謚為恭皇后
 贈瑰左衛大將軍。
 及
 中宗崩,
 將葬於定陵
 議者
 以
 韋后得罪
 不宜祔葬
 於是
 追謚后
 為
 和思
 莫知瘞所
 行招魂祔葬之禮。
 太常博士
 彭景
 直上言
 「古無招魂葬之禮
  不可備棺槨,置轀鬻京。
  宜據《漢書郊祀志》
  葬黃帝衣冠於橋山故事,
  以皇后禕衣於陵所寢宮招魂,
  置衣於魂輿,以太牢告祭,
  遷衣於寢宮,
  舒於御榻之右,
  覆以夷衾而祔葬焉。」從之。
 ↓↑
 常楽公主 (?〜688)
 高祖の十九女
 下嫁
 趙瑰。
 娘は
 中宗李顕の
 英王時、
 正妃(后追、和思皇后)
 趙瑰は括州刺史へ左遷。
 同時に
 常楽公主
 随行厳命。
 越王
 李貞
 挙兵謀反。
 武則天
 常楽公主承諾のもとの謀反と見。
 謀反は失敗
 興に遭って弾劾
 常楽公主の
 夫、
 趙瑰を
 監獄。
 常楽公主、改姓“虺(まむし)”
 公主夫婦は辱めに耐えらず
 獄中自殺。
 ↓↑
 趙瑰 (?〜688)
 高祖の十九女
 常楽公主の夫
 ↓↑
 趙氏王妃(?〜675)(崔漫莉)
 母は高祖の第十九女
 常楽公主(?〜688)
 父は趙瑰(?〜688)
 李顕(中宗)が
 英王時の英王妃。和思趙皇后。
 和思順聖趙皇后。
 中宗(李顕)の趙夫人。
 京兆郡
 長安の人。
 武后(則天武后)に
 憎まれて幽閉
 父の趙瑰は
 括州に左遷
 趙氏は牢に入れられ
 護衛が煙突から数日煙が出ていないことを知り、
 覗いたところ、死体がすでに腐敗
 中宗が崩じたのち、
 韋后が廃殺されたので、
 趙氏が
 皇后の尊号(和思)を
 加えられて弔われた。
ーーーーー
 ・・・中宗の諡号は「大和大聖大昭孝皇帝」で、次男には「懿徳太子(李重潤)」の名前を有する人物も居る・・・
 李 重潤(リジュウジュン)
 683年〜701年
 初名を「李重照」と称したが
 武則天の諱を忌諱して
 「李重潤」と改名
 中宗と韋皇后の間に生まれ
 誕生直後に
 「皇太孫」に封じられたが
 中宗が廃位され
 「房州」に流されると、
 「李重潤」も皇太子(皇太孫)を廃された
 聖暦年間に中宗が皇太子に復位すると
 「李重潤」は
 「邵王」に封じられた・・・
 「701年(大足元年)・・・「大足=大迹」?・・・継体天皇
  永泰郡主
  李仙螵、
  魏王
  武延基とともに
  張易之、
  張昌宗
  に関し謀議を行ったとして
  武則天により死を賜った」
 「706年
  中宗が即位
  自殺に追い込まれた
  李重潤を悼み
  懿徳太子・・・懿徳天皇
         綏靖天皇二十九年
         〜
         懿徳天皇三十四年九月八日
         日本の第四代天皇
         在位
         懿徳天皇元年二月四日
         〜
         懿徳天皇三十四年九月八日)
         和風諡号
         「大日本彦耜友天皇日本書紀
         (おおやまとひこすきとものすめらみこと)」
         「大倭日子鉏友命(古事記)」
  と追封し、
  皇太子の格式で改葬し
  乾陵・・・「乾=十日十乞」?
  に埋葬
  死去に際し、
  正妃を娶っていなかったため
  中宗は
  国子監の
  裴粹の早世した娘との
  冥婚を行い合葬」・・・
 「裴=たちもとおる・ハイ・ヒ・ベ
    衣服が長くひらひらとするさま
    左に右にとそれて、歩き回る
    衣服の長いさま・裴裴
    たちもとおる・ぶらぶら歩く・裴回・徘徊」
 「裴」は「long sleeve=長袖」ってコトだろう・・・
 「振り袖
  a long (hanging) sleeve
  着物
  a long‐sleeved kimono」・・・
ーーーーー
 ・・・「裴・世・清」・・・ゴミ袋・・・ふくぶくろ・・・カミぶくろ・・・