2476日目・・・「大久保利通(文政十三年八月十日(1830年9月26日)〜明治十一年・(1878年5月14日)」・・・「大窪・大凹・小久保・Ohkubo」・・・「おほくぼ・緒(御・於)補句模」・・・

ーーーーー
 1830年9月26日     1878年5月14日
 庚寅          戊寅
 乙酉(庚・ ・辛)     丁巳
 乙未          壬辰
 辰巳=空亡
ーーーーー
 窪地=くぼち=久保地・・・大久保
 ↓↑
 洼=氵+圭(たま・ケ・ケイ)
   異体字=窪=宀+八+氵+圭(土土・十一十一)
   洼=くぼむ・くぼみ・くぼまる・エ・ワ
   洼
   地勢・地面が落ちくぼんでいる・低い
   凹・窊
   这个地方太洼了=この場所は地勢が低すぎる
   眼眶洼进去了=目がくぼんだ
   (宀儿・穴)土地、地面の陥落、陥没地
         2016年11月8日午前5時15分ごろ
         丙申(己・壬・庚)
         戊戌(辛・丁・戊)
         辛卯(甲・ ・乙)
         庚寅(己・丙・甲)
         福岡市博多区のJR博多駅前道路陥没
   水洼儿=水のたまったくぼ地・水たまり
   落ちくぼんだところ・凹・窊
   洼 wā 凹陷的地方
   水洼儿・洼子・低凹・深陷・洼地
   眼眶洼进去
   ・・・陥没=カルデラ・・・


 ↓↑
 渤海・・・渤海湾は潮の干満の差が大きい
      黄海渤海
      ユーラシアプレートの東端の
      引っ張りよって引き裂かれた2つの海
      6500万年〜4000万年後に形成
      現在も渤海黄海は急速に拡大
      渤海の形成
      地質学的に
      陸地の一部である渤海黄海
      残留盆地と呼ばれるいくつかの
      小さな盆地が元の土地の
      真ん中に存在
      朝鮮半島は元々中国大陸に接しており
      北東に引っ張られて沿海地方に接近し
      大陸と接続・・・?
      ・・・日本列島も大陸の一部だった・・・
      領土で国家の利権を争っている人間どもを
      マンモスはお前たち、まだ、殺し合いを
      ヤッテンのかって・・・嗤っているカモ・・・
 650年・・・新羅独自で用いていた
       年号(太和四年)を廃止し・・・「太和=大和」
       唐の年号を用いた       おほの和(な)ぎ
       唐の年号「永徽元年」を用いた?
 663年10月(天智二年八月)
 白村江の戦い
 ↓↑
 672年7月24日〜8月21日(天武天皇元年6月24日〜7月23日)
 (ユリウス暦
 壬申の乱
 ↓↑
 振(震)国・・・・「振(震)国=シンコク・ふるくに」
           振興・振子・振盪=震盪・振動・振幅
           振鈴・不振
           地震・震動・震霆=電霆・雷霆
 振(震)国が成立
 ↓↑
 698年
 大祚栄によって政権が樹立
 668 年
 唐が高句麗を滅ぼした後
 営州(遼寧省-朝陽)に
 強制移住させられた
 高句麗人や靺鞨人
 たちが、
 漢人都督を殺害し
 営州を捨てて
 元の(吉林省-敦化=渤海の初期の都)に移住
 渤海
 713年・・・712年3月9日・「古事記
     (和銅五年正月二十八日)
 唐の
 玄宗皇帝が
 「渤海郡」王という称号を与えたことに由来
 称号支配地域と地理的存在地名にズレ・・・?
 地理的な「渤海湾」の由来は
 「海底火山噴火・地震津波・竜巻」・・・
 「渤海湾は潮の干満の差が大きい」・・・
 渤海国は「渤海湾」には面していない・・・?
 ・・・北方民族の「契丹(キッタン)=遼」によって滅ぼされた
 使者が
 崔忻(訴・サイキン)・・・崔(山隹)忻(忄斤・心斤)
 その崔忻が建立したと言われる
 旅順の
 「鴻臚井の碑」がある
 石碑は日露戦争の戦利品で
 皇居内に収められてある・・・?
 ↓↑ 
 渤海
 第二代王
 大步芸(步王)
 「大土宇を斥(ひら)く
  東北の諸夷、畏れこれに臣す(新唐書)」
 黒水-靺鞨
 720年(養老四年)・「日本書紀
 726年
 渤海の領土を通って
 唐へ使者を派遣
 軍事顧問としての唐の役人の派遣を要請
 渤海
 「必ず是、唐家と謀を通じ、
  腹背より我を攻めるなり」
 と危惧し
 727年
 日本へ遣使を派遣
 唐から新羅
 渤海征討の命令
 新羅
 729年(天平1)2月・長屋王の変
 733年
 渤海攻撃するも
 征討は失敗
 突厥は内紛
 735年
 唐に謝罪し朝貢再開
 737年
 第三代王
 大欽茂
 が即位
 ↓↑
 749年8月19日・孝謙天皇 〜758年9月7日
 (天平勝宝元年七月二日 〜天平宝字二年八月一日)
 764年11月6日・称徳天皇 〜770年8月28日
 (天平宝字八年十月九日 〜神護景雲四年八月四日)
 恵美押勝の乱(764年9月5日〜9月11日〜10月17日)
  天平宝字八年旧九月十八日・天平宝字八年十月壬申条?
 706年          〜764年10月17日
 (慶雲三年)      〜天平宝字八年旧九月十八日)
 阿倍仲麻呂・・・養老元年(717年)八月二十日
         第九次遣唐使派遣決定
         養老二年(718年)出帆
 698年(文武天皇二年)  〜770年(宝亀元年一月)
 ↓↑
 735年(天平七年)・・・新羅が国号を「王城国」と改称
             日本の朝廷は無断で
             国号を改称したことを責め
             新羅の使者を追い返した
 762年
 唐は郡王から国王号を
 大欽茂・・・「大の欽の茂」?
 に与え
 755年〜763年
 安禄山
 史思明
 の乱
 818年
 第十代
 大仁秀・・・「大の仁の秀」?
 が即位
 「渤海
  大仁秀、
  南は新羅を定め、
  北は諸部を略す(遼史)」
 897年
 唐の朝廷で
 新羅と席次を争い・・・・・・「席次を争い」
 渤海王子
 大封裔・・・「大の封の裔」?
 を新羅の上席に着けるよう
 唐に要求
 907年
 唐滅亡
ーーーーー
 727年〜
 第一回
 渤海使
 高斉徳
 一行が来日
 〜919 年まで
 渤海から日本への遣使
 三十四回
 日本から渤海への遣使
 十三回
 758年
 安禄山の乱
 藤原仲麻呂(惠美押勝
 は
 渤海と連携し新羅を討とうとし
 759年6月
 新羅征討を発表したが
 藤原仲麻呂
 764年
 称徳女帝、道鏡との権力闘争に敗れ
 琵琶湖のほとりで敗死
 771年
 大使
 壱万福
 ら
 325人が
 17隻の船で来日
 渤海使
 796年
 渤海が来日の間隔の裁定を日本へ要求
 日本は
 798年
 「六年一貢」を渤海に提示
 渤海は来日の間隔を短くすることを要求
 日本は
 799 年
 「年限を労することなかれ」
 と、来日の間隔の制限を撤廃
 渤海使
 809年・810年・814年・818年・819年
 821年・823年・825年・827年
 と来
 824年
 右大臣-藤原緒嗣
 渤海使
 「実に是商旅にして、
  隣客とするに足らず。
  彼の商旅をもって
  客となすは国の損也」
 と断じたが
 大臣達自身が貿易を率先
 禁止されていた私的交易は空洞化しており
 同年
 「一紀(12年)一貢」に制限
 861年に
 派遣されてきた
 李居正や
 876 年の
 楊中遠
 らは、違期の来日を理由に入京を拒否
 内情は
 「必ず遠物を愛でる」
 とされ
 百姓・王臣家の使者・国司
 らは、渤海からの舶来品を購入していた・・・ 
 渤海使来日の航路
 日本道
 「竜原の東南は海に瀕す。日本道なり(新唐書)」
 日本への渡航起点は
 ロシアのクラスキノ土城・・・
 渤海の都
 上京を出て山中を通り
 東京の竜原府を通り
 クラスキノ土城
 から
 ポシェトラ湾に出
 日本へ
 クラスキノ土城から船出後
 冬期の北西の季節風
 日本海西岸を南下するリマン海流に乗って
 一旦、朝鮮半島の東岸沿いに南下し
 リマン海流から対馬海流に乗り換え
 日本列島に沿って北上し
 能登半島への着岸
 半島着岸に失敗すると
 「夷地-志理波(しりぱ)村」
 とあるような蝦夷地(?)に着いた・・・
 外事、貿易港は「大宰府」で
 朝廷としては
 能登半島、秋田、蝦夷は地理的に不便・・・
 渤海使朝鮮半島北部から出航している例もある
 大宰府に到着困難で
 「越前国加賀に安置」
 石川県辺りに到着が多かった・・・
 34回来日
 前期は一隻二十人前後
 中期に一隻六十人前後
 後期に一隻百人以上
 渤海使の乗る船の大きさを反映
 「則ち送使の数、
  廿を過ぎず。
  茲を以て限と為す(類聚国史)」
 「而るに巨木の棆材の土の長じ難し」
 と、大木の棆材が育たない・・・
 棆材とはクスノキ・・・
 渤海では棆材が育たないため、大きな船が造れず
 来日する使節の人数も当初は20人と少なかった
 823年以降
 100人を超える使節を定期的に派遣できたのは
 渤海で大型船の建造が可能になった・・・
 日本の遣唐使船は
 一艘
 平均140人前後が乗った
 渤海使は後期に
 105人で来日
 日本が遣唐使船の建造知識、技術を
 渤海に教えたか、大型船を与えたか・・・
 815年
 渤海使
 王孝廉ら、帰国に際し乗船が破損
 「越前国に命じ大船を擇(えら)ぶ。
  蕃客を駕するなり(類聚国史)」の記事
 883年
 陽成天皇の勅に
 「能登国をして
  羽咋郡
  福良泊山木を伐損するを禁ぜしむ。
  渤海北陸道岸に著するの時、
  必ず還舶を此の山にて造る」
 とある
 「鳥総立て 船木伐るといふ
  能登の島山 今日見れば
  木立繁しも幾代神びそ(大伴家持)」
 804年
 「比年 渤海国使来着、多く能登国に在り。
  停宿の処踈陋すべからず。
  宜く早く客院を造るべし(日本後紀)」
 「能登客院」が造られた・・・
 762年
 渤海へ派遣された船名は
 「能登」号
 772年
 「渤海使壱万福ら、能登国福良津に安置」
 「松原客館」
 「凡そ越前国松原客館は、
  気比神宮司に検校せしむ(延喜式)」
 石川県
 津幡町
 加茂遺跡出土の
 過所木簡に
 「往還人」の名前
 「路傍の死骸を埋葬して、
  渤海使の入京に備える」
 という史料もある・・・
 日本海を渡った文物
 豹や貂の皮
 727年の第一回渤海使
 聖武天皇に300張もの貂皮を献上
 長屋王邸からも貂皮や豹皮を交易した木簡が出土
 朝鮮人
 蜜蝋(蜂蜜)
 平城宮や京内から
 渤海産の蜂蜜土器類が出土
 仏具
 明日香村の坂田寺跡から出土した
 渤海三彩の獣脚・盤・壺片
 『仁和寺御室御物実録』
 「渤海金銅香鑪一具」の記載
 宇多天皇の愛蔵品の一
 滋賀県大津市石山寺所蔵の
 『仏頂尊勝陀羅尼記』
 渤海使
 李居正が唐から日本にもたらしたと奥書に記録
 江戸時代まで、日本の暦は中国の
 「長慶宣明暦」を使用していたが
 これは平安時代渤海使がもたらした暦
 白居易漢詩集『新楽府』
 ジャコウ鹿から取った麝香
 南方産のウミガメの甲羅で作成した
 玳瑁酒盃
 契丹
 渤海
 日本からの輸出品
 綿、糸などの繊維製品
 舞女として女の人達が渤海に贈られた
 漢詩の交歓
 空海
 渤海大使
 王孝廉
 との詩の交歓
 渤海使の応接には、
 漢文学に優れた者が任ぜられ
 外交使節が詩宴の席で漢詩を詠むことは
 国家の威信を懸けた
 「闘筆」の場
 代表者は
 菅原道真
 渤海大使
 裴頲は
 「七歩あるくごとに詩を一篇賦す」
 とされた
 外交の場で話されていたのは
 漢語、つまり中国語・・・
 「空海の中国語」は渤海人からの習得?
 渤海多民族国家
 共通語として漢字と漢語が使われた・・・
 810年
 高南容
 一行が渤海帰国時
 首領の
 高多仏が使節団から脱走し
 越前国に留まった
 「越中国の史生(書記)
  羽栗馬長と習語生、
  高多仏に学ぶ」と
 高多仏に渤海語を学習させている
 この渤海語は
 高句麗
 あるいは
 靺鞨語などの
 ネイティブな言葉で、
 外交用の漢語ではない・・・
 「高多仏」・・・・・高句麗のオホイのホトケ?
 日本に亡命した渤海人・・・「忌寸」になった?
ーー↓↑ーー
 八色=八種=八草(やくさ)の姓(かばね)
    真人(マヒト)=天渟中原瀛「真人」⇔天武⇔大海人
    朝臣(アソン・アソミ )
    宿禰(スクネ)
   「忌寸(イミキ)」・・・「イミキ=伊美吉」
    道師(ミチノシ)
    臣(オミ)・・・・・・「臣」が第六位
    連(ムラジ)
    稲置(イナギ・ イナキ)
ーー↓↑ーー
 天武十三(684) 年
 「八色の姓」制定・・・
 忌寸=いみき=伊美吉?・・・ナゼ、漢字転換で「伊美吉」
 「日本書紀・天武十四年六月条
  大倭連,葛城連,凡川内連,山背連,
  難波連,紀酒人連,倭漢連,河内漢連,
  秦連,大隅直,書連,
  幷て
  十一氏に,姓を賜ひて
 「忌寸」と曰ふ」
 「忌寸=旧姓は連(むらじ)」
 「忌寸=伊美吉」とも表記・・・
 ↓↑
 文忌寸・・・百済系の渡来氏族
 ↓↑   「本是れ
       後漢霊帝
       曾孫
       阿智王の後なり
       漢の祚、魏に遷れるとき
       阿智王、神牛の教に因りて、
       出でて
       帯方に行きて忽ち
       宝帯の瑞を得たり。
       その像宮城に似たり。
       爰に国邑を建てて
       その人庶を育ふ。後、
       父兄を召して告げて曰はく、
      「吾聞かくは、
       『東国に聖主(応神天皇)有り』ときく
       何ぞ帰従はざらむ。
       若し久しく
       此の処(帯方郡)に居まば、
       恐るらくは覆滅せられむ」
       といへり。即ち母、弟
       廷興徳と七姓の民を携れて
       化に帰ひて来朝せり
       是れ則ち
 ↓↑    誉田天皇応神天皇)の天下治めしし御世なり
       是に阿智王、奏して請ひて曰はく、
      「臣(自分)の旧居は帯方(郡)
       人民の男女、皆、才藝有り
       近者、百済・高麗の間に寓めり
       心に猶豫を懐きて未だ去就を知らず
       伏して願はくは、天恩、使を遣して
       追召さしめたまへ」
       といへり。
       乃ち勅して、臣八腹氏を遣して、
       分頭して発遣せしむ。
       その人の男女、落を挙りて使に随ひて
       尽来たりて、永く公民と為り。
       年を積み代を累ねて今に至れり。
       今諸国に在る漢人
       亦是れ、その後なり。
       臣、苅田麻呂ら、先祖の王族を失ひて、
       下人の卑姓を蒙れり。望み請はくは、
       忌寸を改めて
       宿禰の姓を蒙り賜はらむことを。
       伏して願はくは、
       天恩矜察して、
       儻し聖聴を垂れたまはば、
       所謂、寒灰更煖になり、枯樹復栄るならむ。
       臣、苅田麻呂ら、至望の誠に勝へず、
       輙ち表を奉りて聞す」
       とまうす。
       詔して、これを許したまふ。
       坂上・内蔵・平田・大蔵・文・調
       文部・谷・民・佐太・山口
       等の
       忌寸十姓
       一十六人に姓宿禰を賜ふ。
 ↓↑  (『続日本紀延暦四年六月の条』)
      阿智使主の後として
 ↓↑   忌寸の十姓が宿禰を賜った記事・・・
 ↓↑
 東漢氏系の文直(書直)
 西    文 (書)首
 ↓↑
 天武
 十二年に連
 十四年に忌寸
 上述の
 坂上苅田麻呂の上表で、
 東漢氏系の
 文-忌寸が「宿禰」を賜った
 ↓↑
 西文忌寸は、
 『続日本紀延暦十年四月の条』
 左大史正六位上
 文-忌寸-最弟
 播磨少目正八位上
 武生-連-真象
 ら言さく
 「文-忌寸ら、
  元
  二家有り。
  東文は直と称し、
  西文は首と号す。
  相比びて事を行ふこと、
  その来れること遠し。
  今、
  東文は家を挙りて既に宿禰に登り、
  西文は恩に漏れて猶忌寸に沈めり。
  最弟ら幸に明時に逢ひて、
  曲に察ることを蒙らずは、
  代を歴て後、
  理を申すとも由
  无からむ。
  伏して望まくは、
  同じく栄号を賜はりて
  永く孫謀を貽さむことを」
 とまうす。
 勅有りて、
 その
 本系を責めしめたまふ。
 最弟ら言さく、
 「漢の
  高帝の後ろ
  鸞(ラン)と曰ふ。
  鸞の後、
  王狗(オウク)、
  転りて百済に至れり。
  百済
  久素(クス)王の時、
  聖朝(応神天皇)、
  使を遣して、
  文人
  徴し召きたまへり。
  久素王、
  即ち
  狗が
  孫王仁
  を貢りき。
  是、
  文・武生らが祖なり」
 とまうす。
 是に、
 最弟
 と
 真象
 ら八人に
 姓
 宿禰を賜ふ。
 6年後
 西文氏も
 宿禰を賜った
 文首=西文氏
 文-忌寸-禰麻呂
 と
 文-忌寸-馬養
 の親子は
 西文氏・・・
 ↓↑
 『新撰姓氏録撰』に
 右京諸蕃上に
 「文-忌寸
  坂上-大宿禰-同祖。
  都賀直之後也」
 「坂上-大宿禰
  後漢
  霊帝の男(子)
  延王の後也」
 とあり、
 東漢氏系の文-忌寸は
 書首-根摩呂=ふみのおびとねまろ=文首-根麻呂
 文-忌寸-馬養の父
 文-忌寸-禰麻呂は
 壬申の乱の時に
 大海人皇子天武天皇)に従い東国に向った
 ↓↑
 秦 朝元(はた の あさもと)
 姓は
 忌寸
 遣唐留学僧の
 弁正の子・・・「秦牛万呂」の子
         少年で出家
         玄学(道教)にすぐれていた
         大宝二年(702年)留学僧
         第八次遣唐使
         唐では、
         囲碁の名人として
         李隆基(玄宗)に
         よって賞遇
         後、還俗し唐人の女性と婚姻・・・
         息子は
         秦朝慶・秦朝元
         秦朝元は
         養老二年(718年)
         第九次遣唐使の帰国に従って訪日
         弁正と秦朝慶は唐で没した
        『懐風藻』に弁正による漢詩が記録
         故宮博物館に収蔵されている
        『明皇会棋図』は
         李隆基と弁正の対局の作品
 兄に
 秦朝慶
 官位は外従五位上・主計頭
 唐で生まれ
 養老二年(718年)
 第九次遣唐使の帰国とともに訪日
 養老三年(719年)
 忌寸姓を賜与
 養老五年(721年)
 学業に優れ模範とすべき者に
 褒賞が行われ
 医術に優れるとして
 吉宜
 朝元
 天平二年(730年)
 訳語の弟子二人に唐語を教えるよう命じられ
 翌天平三年(731年)
 外従五位下に昇叙
 天平四年(732年)
 多治比広成を大使とする
 第十次遣唐使節に入唐判官
 唐では父
 弁正の縁故により
 玄宗によって厚く賞賜を与えられた
 天平六年(734年)
 帰国
 翌天平七年(735年)
 入京
 外従五位上に叙
 天平九年(737年)
 図書頭
 天平十八年(746年)
 元正天皇の御所に
 左大臣
 橘諸兄らとともに参上
 雪景色を和歌に詠むように、との詔
 他の出席者は和歌で応えたが
 秦朝元だけは詠まなかった
 橘諸兄
 「麝香をもって贖え」
 と言われ、黙り込んだ・・・
 同年三月に主計頭
 『続日本紀』による官吏履歴
 養老三年 (719年) 四月九日  ・忌寸姓を賜与
 養老五年 (721年) 正月二十七日・見従六位下
 時期不詳             ・正六位上
 天平三年 (731年) 正月二十七日・外従五位下
 天平四年 (732年) 八月十七日 ・入唐判官
 天平七年 (735年) 四月二十三日・外従五位上
 天平九年 (737年)十二月二十三日・図書頭
 天平十八年(746年) 三月十五日 ・主計頭
ーー↓↑ーー
 920年
 最後の渤海使となった
 裴璆が帰国するときに
 四名もの逃亡者が出た・・・脱北者・・・
 渤海が滅亡する時期だった・・・
 宮内庁には
 渤海から送られてきた外交文書が残っている
 写しであるとはいえ、
 現存する日本最古の外交文書
 926年
 渤海が滅亡
 契丹東丹国が成立
 929年
 裴璆が東丹国から再度来日
 日本は
 裴璆を
 「渤海の滅亡を手を拱いて
  契丹の軍門に下った「不忠不義」の使者」
 として追い返した・・・
 で、日本海をめぐる交流も終った・・・ふぅ〜ん・・・
 以上の原文は
 「渤海と古代の日本」
 講師 國學院大學栃木短期大学
 教授 酒寄 雅志 氏
ーー↓↑ーー
 渤海(ボッカイ)
 渤海(ポーハイ)
 中国北部
 遼東半島山東半島の間にある
 内海状の海域
 平均深さ25メートル・・・浅い
 3つの湾
 北部が遼東湾
 西部が渤海湾
 南部が莱州湾
 渤海には
 黄河
 遼河
 海河
 灤河
 などが注いで
 潮の干満の差が大
 ↓↑
 698年〜926年
 日本海西岸にあった国家
 だが
 渤海国は、
 渤海には面していない・・・?
 初代国王
 大祚栄
 渤海沿岸の
 渤海郡王に封ぜられ国号となった
 渤海(698年〜926年)
 満洲朝鮮半島北部
 現ロシアの
 沿海地方にかけて存在した国家
 大祚栄により建国
 唐からも
 「海東の盛国(『新唐書』)」と呼ばれ
 最後は
 契丹(遼)によって滅ぼされた
 『新唐書
 「渤海,本粟末靺鞨附高麗者,姓大氏
 (渤海は、もとの粟末靺鞨で、
  高(句)麗に付属し
  姓は大氏である)と記す」
    「大」氏・・・大野・多・太・青野・・・「意冨」
 ↓↑
 『旧唐書
 と
 『新唐書』では
 渤海
 靺鞨
 の指導者
 大祚栄に関する記述は異なる
 『旧唐書渤海靺鞨伝』
 「渤海靺鞨大祚榮者,本高麗別種也。
  高麗既滅,祚榮率家屬徙居營州。
 (渤海靺鞨の(建国者)大祚栄は、
  もと高(句)麗の別種
  高(句)麗が既に
  滅亡(六六八)してしまったので、
 (大)祚栄は一族を率いて
  営州(遼寧省朝陽市)へ移り住んだ)」
 『新唐書』=「粟末-靺鞨の出」・・・
 粟末靺鞨(ぞくまつまつかつ)
 隋唐時代に中国東北部外満州)に存在し
 農耕漁労民族である
 靺鞨の七部のうちの一部
 大祚栄高句麗 に附いていた
 粟末靺鞨出身者
 高句麗が滅ぶと、家族を率いて営州に移り住んだ
 万歳通天元年(696年)
 契丹首領の
 李尽忠
 孫万栄
 が反乱を起こし
 営府を攻め落としたため
 東突厥可汗の
 阿史那
 默啜
 は周朝に
 契丹討伐を願い出て、これを大破
 この時
 舍利の
 乞乞仲象
 という人物は
 靺鞨酋長の
 乞四比羽
 や
 高句麗の残党たちと東へ逃れ
 遼水を渡って
 太白山の東北に割拠
 武則天は初め
 乞四比羽を封じて
 許国公とし
 乞乞仲象を
 震国公としてその罪を赦したが
 乞四比羽がその命を受けなかったため
 玉袪衛大将軍の
 李楷固
 中郎将の
 索仇を遣わしてこれを攻撃
 乞四比羽
 と
 乞乞仲象
 は斬首され
 乞乞仲象の子である
 大祚栄は余衆を率いて遁走
 李楷固は
 大祚栄らを追撃したが、
 大祚栄
 高句麗,靺鞨
 の兵を使って反撃してきたため敗北
 契丹
 東突厥に附いて
 中国〜靺鞨間の道を遮断し
 周は再び
 大祚栄を討伐することができなくなった
 大祚栄
 乞四比羽の衆を併合し
 震国を建国
 自らを震国王と号し
 東突厥に臣従
 扶餘、沃沮、弁韓
 などの諸国を支配下に置いた
 ↓↑
 中宗(在位:683年〜684年、705年〜710年)の時代
 大祚栄は息子を唐に遣わして
 入侍
 睿宗の
 先天中期(712年〜713年)
 唐は
 大祚栄を拝して
 左驍衛大将軍・渤海郡王・忽汗州都督
 とし
 この頃より
 大祚栄
 靺鞨の号を使わなくなり
 渤海と称す
 『大金国志』に
 女直(女真)は
 粛慎の遺種
 渤海の別種
 (又曰女直、粛慎氏遺種、渤海之別種也)
 と記録
 渤海の風俗
 高句麗契丹と同じ
 (風俗瑟高麗及契丹
 「風俗は高麗契丹に重なり同じくする」)
 「渤海
 遼東半島山東半島の内側にあり
 黄河が注ぎ込む湾状の海域のこと
 初代国王
 大祚栄が、
 この渤海の沿岸で現在の
 河北省南部にあたる
 渤海郡の
 名目上の王(渤海郡王)に封ぜられたことから
 本来の渤海から
 やや離れたこの国の国号となった・・・???
 ↓↑
 勿吉=モツキツ=靺鞨(マッカツ)
 隋・唐代
 満州北東部に拠ったツングース系諸族の総称
 北魏の頃
 勿吉 (モッキツ) に服属
 その崩壊後も自立通貢
 その地の諸部を
 中国では過去の彼らと区別し
 勿吉の同音異字の靺鞨と称した
 濊貊 (ワイパク) 系ツングース
 農業中心の粟末 (ゾクマツ)
 白山の二靺鞨
 純ツングース系で狩猟依存度の高い
 安車骨(アンシャコツ)
 伯咄(ハクトツ)
 払涅 (フツデツ)
 号室
 黒水
 の五靺鞨の
 靺鞨七部が有力で
 おのおの首長が統率し
 内部はさらに
 氏族に細分されていた
 粟末
 白山両靺鞨
 は
 高句麗に服属
 ほかはこれと対立
 総章一(668) 年
 唐は高句麗を滅ぼし
 高句麗
 粟末
 白山両靺鞨人
 を営州に移した
 のち
 靺鞨系の高句麗の遺民が東帰し
 渤海国を建てると
 靺鞨人の多くは
 次第にこれに征服
 ↓↑
 中国東北部朝鮮半島北部に住んでいた
 ツングース系諸族
 七部に分かれ
 一部である
 粟末部は
 渤海国を建国
 黒水部はその支配下に入らず
 後
 女真と称された
 ↓↑
 北魏の頃
 勿吉に服属
 勿吉の崩壊後も
 自立通貢し
 その地の諸部を
 中国では区別し
 勿吉を
 靺鞨と称した
 濊貊 (ワイパク) 系ツングース
 農業中心の粟末
 白山の二靺鞨
 純ツングース系で狩猟依存度の高い
 安車骨 (アンシャコツ)
 伯咄 (ハクトツ)
 払涅 (フツデツ)
 号室
 黒水
 五靺鞨の靺鞨七部
 ↓↑
 靺鞨(マッカツ)
 古代北東アジア沿海州方面に拠った
 ツングース系諸族の称
 勿吉支配下
 六世紀半
 勿吉滅亡後
 その配下の諸族がこの名で呼ばれた
 一部は
 高句麗支配下に入り
 その滅亡後
 698年
 高句麗人とともに
 渤海国を建国
 日本との関係
 「続日本紀・養老四年(720)正月丙子条」
 〈渡嶋
  津軽津司
  従七位上
  諸君鞍男
  等、六人を
  靺鞨国に遣わし
  其の風俗を観せしむ〉
 「渡嶋津軽津司」というものの
 実態は明らかでないが
 阿倍比羅夫
 遠征によって開けた
 本州最北端〜北海道西南端連絡航路
 の
 津軽十三湊
 あたりに駐在した港湾官吏・・・
 「津軽十三湊」は地震で海底に沈んだ
 「渤海」国=海の隆起・・・津波
 「震」 国=地震
 ↓↑
 靺鞨
 六世紀後半から
 中国東北の
 松花江流域
 を中心に
 北は
 黒竜江中・下流
 東は
 ウスリー川流域・・・「烏諏理意・卯諏理意・臼(碓)利意」?
 南は
 朝鮮半島北部
 に勢力を振るった
 ツングース系諸族の一派
 五世紀後半からこの地方にあった
 勿吉人の国が
 六世紀なかばに崩壊
 その服属諸部が自立し
 自立後
 一括して
 「靺鞨」とよばれた
 粟末
 伯咄
 安車骨
 払涅
 号室
 白山
 黒水
 の七部族が有力
 靺鞨七部とよばれた
 高句麗と争い
 粟末、白山の二部は
 高句麗に服属
 高句麗が唐に滅ぼされた(668)後
 高句麗の復興を唱えて
 渤海国が成立(698)
 靺鞨人はその支配下に入った
 黒水部(女直・女真・女眞)だけは独立勢力を保持
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 ・・・勿吉=モツキチ=靺鞨=まつかつ=万通掛通・・・
    母椄吉           太安万侶