2474日目・・・「カメルーン」の調査だったのに・・・もう、今日は2月7日・・・外はお天気だったが・・・

 「カメルーン」の植民地支配の国の変遷だったカナ・・・
 「葡萄牙ポルトガル)=艹匍艹匋牙」の「葡萄(ぶどう)」は「艹」を除いたら「匍匐(ホフク)」に似ているカンジ、「匍匋」・・・
 独逸国→仏蘭西国→英吉利国→独立国・・・
 独逸=犭中ム免辶・・・・・・・・・努何時・度伊豆・土肥通
 仏蘭西=イム艹門東一儿口・・・・・腐乱州・夫羅武素・府亂州
 英吉利=艹央(冂一人)士口禾刀・・意義理州・異議理州
ーーーーー
 爾(なんじ・おまえ・二人称の代名詞・爾汝(ジジョ)・汝(ジョ)・それ・この・これ・しかり・そのとおり・そのように・助字・のみ・だけ・自(おのずから・みずから)」・・・「爾来也」、「自来也」・・・「三竦(すく)み」?・・・蝦蟇、蛞蝓、大蛇・・・
  ↓↑
 自来也
 感和亭鬼武(かんわてい おにたけ)
 による読本
 『自来也説話』(文化三年。1806年刊)
 義賊
 正体は
 三好家の浪士
 尾形周馬寛行(おがた しゅうま ひろゆき
 蝦蟇の妖術を使って活躍
 「自来也
 宋代の中国に実在し
 盗みに入った家の壁に
 「我、来たるなり」と書き記した盗賊
 「我来也・(沈俶『諧史』所載)」
 を元にし、歌舞伎や浄瑠璃に翻案
  ↓↑
 児雷也
 『自来也説話』を元にし
 美図垣笑顔(みずがき えがお
 らによって書かれた
 合巻『児雷也豪傑譚』
 (天保十年・1839年明治元年・1868年)まで刊行。未完)
 登場する忍者
 肥後の豪族の子
 尾形周馬弘行(おがた しゅうま ひろゆき)が
 越後妙高山に棲む
 仙素道人から教えられた
 蝦蟇の妖術(大蝦蟇に乗る、または大蝦蟇に変身する術)
 妻は蛞蝓(なめくじ)の妖術を使う
 綱手(つなで)
 宿敵は青柳池の
 大蛇から生まれた
 大蛇丸(おろちまる)
 児雷也大蛇丸綱手
 による「三すくみ」の人物設定
  ↓↑
 「児雷也
 河竹黙阿弥による
 『児雷也豪傑譚話』(嘉永五年・1852年)
 などの歌舞伎に脚色翻案
 1921年公開の
 牧野省三監督の映画
 『豪傑児雷也』は
 初の特撮映画
 主演の
 尾上松之助の代表作
  ↓↑ 
 『児雷也豪傑譚』(じらいやごうけつものがたり)
 天保十年(1839年)〜明治元年(1868年)
 刊行された合巻
 作者は戯作者の
 美図垣笑顔(みずがき えがお
 全編つうじて
 和泉屋市兵衛から出版
  ↓↑
 主人公は児雷也
 江戸時代後期
 天保十年(1839年)〜明治元年(1868年)
 刊行、43編からなる長編の合巻作品
 4代にわたり
 美図垣笑顔
 一筆庵(浮世絵師の渓斎英泉)
 柳下亭種員
 柳水亭種清
 の順で書き継がれた
 挿絵は
 歌川国貞ら浮世絵師が担当し
 計七人
  ↓↑ 
 感和亭鬼武
 文化三年(1806年)に刊行した
 読本『自来也説話』(じらいやものがたり)
 が設定の基礎
 一筆庵が作を担当したシーズンから
 カエル・ヘビ・ナメクジ
 の三すくみを配した
 登場人物の関係が設定され物語の幅が拡大
 一年ごとに同時発売される
 二〜三編ごとによって
 世界設定やこまかい展開に
 若干の差異や錯誤
 主人公
 肥後国で栄えた豪族の子孫
 尾形周馬弘行(おがた しゅうま ひろゆき
 信濃国で育つ
 その後、
 雷獣を退治
 後、
 蝦蟇をあやつる妖術を身につけ
 児雷也を名乗り、各地で活躍
 のちに
 ナメクジをあやつる術者
 綱手(つなで)
 蛇を自在にあやつる
 大蛇丸
 が登場し
 三すくみの展開
 児雷也綱手たちは一時、
 大蛇丸に敗れるも戦闘を続ける。
 後半は
 柳下亭種員の遺稿を受けつつ
 柳水亭種清によって
 43編までが執筆されたが
 明治維新をはさむなどして以後は
 合巻として続編が出版されることはなく
 未完となった・・・
ーー↓↑ーー
 ・・・「乳母(めのと)」・・・
  ↓↑
 媽=女+馬
   異体字は「妈=女爲
   馬(まぁ)・碼・瑪・褭・禡・㾺・䣕
 ↓↑
 「小馬命婦」が二人?
 ↓↑
 上東門院
 小馬命婦
 (じょうとうもんいん-こまのみょうぶ)
 ↓↑
 為家朝臣
 物言ひける女にかれがれに成りて後、
 みあれの日暮にはと言ひて、
 葵をおこせて侍ければ、
 娘に代はりて詠み侍りける 小馬命婦
 「その色の 草ともみえず 枯れにしを
  いかに言ひてか 今日はかくべき」
 ↓↑   
 誕生の「誕=言+延=物言ひける女に
       かれがれに成りて」だろう・・・?
 ↓↑
 小馬命婦(こうまのみょうぶ・こまのみょうぶ)
 円融朝の女流歌人
 馬古曽(むまこそ)とも呼ばれた
 「わづらひける人のかく申し侍りける
  読人しらず
  ながらへむ
  としも思はぬ
  露の身の
  さすがに
  消えむことを
  こそ思へ」
 「返し
  露の身の消えば
  我こそ先だため
  後(おく)れむものか
  森の下草(新古1737)」
 「伊勢にくだり侍りける男の、
  とふ(問う)事は
  絶え絶えなるを
 「鈴鹿
  音なきにのみ
  嘆かるるかな」
  と申し侍りける
  返しに
 「数ならぬ身は
  はしたか(箸鷹?・婢(ハシタか)の
  鈴鹿
  とはぬに
  何の音を
  かはせむ(玉葉1568)」
 ↓↑
 小馬命婦=馬古曽(むまこそ)?
 は
 関白
 藤原兼通
 及び
 藤原媓子
 (兼通の娘・円融天皇皇后)
 に女房として仕える
 天元二年(979年)
 媓子が崩御した後、出家
 元良親王
 藤原高遠
 紀以文
 清原元輔・・・娘は
 ↓↑     清少納言
        孫は
 ↓↑     上東門院-小馬命婦清少納言の娘)
 らと交流があった
 家集に
 「小馬命婦集」があり
 「拾遺和歌集新古今和歌集
 などの勅撰和歌集
 七首入集
 「数ならぬ身は はしたかの
  鈴鹿
  とはぬに
  何の音をかはせむ(玉葉和歌集1568)」
ーーーーー
 江戸時代の
 命婦は四、五名
 女蔵人(にょくろうど)
 御差(おさし)
 とともに構成した
 御下(おしも)
 と呼ばれる下級女房層を構成した
 三職を合わせ定員七名
 命婦の上首は
 「伊予」の名称で呼ばれ・・・なんで、「伊豫」なんだか?
 命婦のみならず
 御下全体を統括する役目を担い
 江戸時代には
 壬生官務家出身者が選ばれる例となり
 次第に形式的化
 次席は
 「大御乳人(おおおちのひと)」
 と呼ばれ
 本来は当代の
 天皇の乳母を務めた人に対する待遇
 後には熟練の女官として
 掌侍の上首である
 勾当内侍・・・「勾当内侍」?・・・「勾践」、「勾玉」
 ↓↑     (こうとうのないし)
         南北朝時代の女性・本名は不詳
         公家の世尊寺家の一族
         一条経尹 or
         一条行尹の娘 or
         一条行房の娘
         もしくは妹
後醍醐天皇に仕え
勾当内侍 (天皇に仕える女官
掌侍(ないしのじょう)
  四人中の首席者・長橋の局とも
              奏請・伝宣を司る)
         天皇への奏請の取り次ぎ、勅旨の伝達者
         長橋 (ながはし) の局 (つぼね)・長橋殿
         ・・・大統領女性広報官・・・
        『太平記』に
         はじめ後醍醐天皇の女御、後
         新田義貞の妻の一人として登場
         義貞の戦死後、琵琶湖に投身、or 出家・・・
         勾当=役所・役職
         役所の事務を、専門に担当して処理する人
         清麻呂を遣はしてその事を勾当せしめ
         〈続紀延暦
         律令制
         大蔵省の率分所・長殿・記録所などの職員
         摂関家の侍所・別当の下で事務を執った
         真言宗天台宗などで寺の事務を執る役僧
         盲人の官名の一
         検校(ケンギョウ) ・別当の下位、座頭の上位
 ↓↑     「勾当内侍 (こうとうのないし) 」の略
 を補佐し
 宮廷内外と
 勾当内侍
 との間の取次や事務処理を行った
 大御乳人の出身も
 局務家である
 押小路
 上北面である
 松室家
 下鴨社社司である
 梨木家
 の3家出身者が占めるようになった
 大御乳人は
 当代の天皇との関係で任命され
 天皇が代替わりをすると
 「伊予」は職に留まるが
 大御乳人は職を退いた
 それ以外の命婦
 上野・越後・能登
 といった国名で呼ばれ
 伊予や大御乳人を補佐
 命婦の職務であった
 朝の天皇御座所の
 清掃、天皇の食事の補助
 夕の天皇皇后の
 入浴補助を行った
ーー↓↑ーー
 枕草子
 「上にさぶらふ
  御猫は、
  冠にて
  命婦
  おもととて、
  いみじうをかしければ、
  かしづかせ給ふが、
  端に出でて臥したるに、
  乳母の馬の命婦
 「あな、まさなや。入り給へ」
  と呼ぶに、
  日の射し入りたる
  眠りて居たるを、
  嚇すとて、
 「翁丸(おきなまろ)、いづら。
  命婦のおもと食え」
 といふに、 誠かとて、
 痴者は走りかかたれば、
 怯え惑ひて御簾の内に入りぬ。(『枕草子』第九段)
 ↓↑
 橘則光
 「清少納言」が
 定子に仕える前の最初の夫
 子供、橘則長を産んだ後
 離婚
 ↓↑
 「小馬命婦」は
 「清少納言」が
 定子に仕えた後
 再婚した夫
 藤原棟世との間の娘で
 彰子に使えた小馬命婦
 ↓↑
 円融帝の時代
 后である堀川の中宮に仕えた女房
 小馬命婦
 ↓↑
 大弐三位紫式部の娘で
 名を賢子といいます
 ↓↑
 命婦律令時代の婦人の称号の一
    五位以上の位階を有する婦人を内命婦
    五位以上の官人の妻を外命婦(げみようぶ)
    後
    中級の官位の女官や中蟖(ちゆうろう)の
    女房の総称
 ↓↑
 葛の葉(くずのは)=稲荷の牝狐
 安倍晴明の母
 ↓↑
 メイフ(命婦
 福岡県久留米市
 福岡県大牟田市
 福岡県久留米市三潴町田川
 江戸時代の天皇である
 光格天皇の勅命により
 1788年(天明八年)に賜ったと伝える
 命婦(ミョウブ)
 飛鳥時代からの律令制
 従五位下以上の女性の呼称
 ↓↑
 みょうぶ=みやうぶ=命婦
 律令制
 婦人の称号の一
 五位以上の位階を有する婦人を内命婦
 五位以上の官人の妻を外命婦(げみようぶ)
 平安中期頃から
 中級の官位の女官や
 中蟖(ちゆうろう)の女房の総称
 この種の命婦
 父や夫の官名によって
 靭負(ゆげい)の命婦
 大輔(たいふ)の命婦
 などと呼ばれた
 ↓↑ 
 中世
 稲荷(いなり)の神の使いである
 狐(きつね)の異名
 ↓↑
 命婦(みょうぶ)
 律令制下の王朝で
 従五位下以上の位階を有する女性
 ないし
 官人の妻の地位を示す称号
 ↓↑
 馬郎婦(めろうふ)=魚籃観音(ぎょらんかんのん)
 馬郎婦観音
 馬郎婦観音(めろうかんのん)
 女性の観音
 人の心を開き教え諭すため
 婦人となった観音様・三十三観音の一
 ↓↑
 万葉集
 百八十二
 遊行女婦
 「遊行女婦=ウカレメ・アソビメ」
 「アソブ(遊ぶ)=鎮魂、招魂のために
         歌と舞を演じる儀礼のこと」
         とされ祭祀の関係者?
         ・・・申女・宇受女・巫女
        「関わりがあった言葉」なら「阿蘇」である?
 大宝令における貴婦人の称
 五位以上の婦人を内命婦
 五位以上の官人の妻を外命婦 (げみょうぶ)
 命婦には一定の
 職掌はないが
 朝廷に参入し
 朝廷の儀式に参加
 後
 中臈 (ちゅう ろう) の女房をも称した
 ↓↑ ↓↑
 「猫が登場する段が二つ」
 「上(一条天皇)にさぶらふ御猫は・・・」
 ↓↑
 「上にさぶらふ御猫は、
  冠にて命婦のおもととて、
  いみじうをかしければ、
  かしづかせ給ふが、
  端に出でて臥したるに、
  乳母の馬の命婦
 「あな、まさなや。入り給へ」
  と呼ぶに、
  日の射し入りたる
  眠りて居たるを、
  嚇すとて、
 「翁丸、いづら。命婦のおもと食え」
 といふに、
 誠かとて、
 痴者は走りかかたれば、
 怯え惑ひて
 御簾の内に入りぬ。
(『枕草子』第九段)
 ↓↑
 「命婦のおもと(母猫)」が
 「子猫を産んだ」時の記録(藤原実資の日記『小右記』)
  ↓↑
 「内裏の御猫、子を生む。
  女院左大臣・右大臣の産養ひの事有り。
  …猫の乳母、
   馬の命婦なり。
  時の人これを咲(ワラ)ふ云々。
  奇怪の事なり。
  …未だ禽獣に人乳を用うこと聞かざるなり。
  嗚呼。
 (『小右記』長保元年九月十九日条)
  長徳の後、寛弘の前
  999年〜1003年
  までの期間
  「長保元年令(ちょうほがんねんれい)
   長保元年七月二十七日(999年9月9日)
   新制として出された太政官符・全十一条
   新制そのものの最古は
   天暦元年(947年)とされているが
   中世における新制の基本的要素の
   神社仏寺・過差停止・公事催勤
   の3つの項目が揃った最初の法令」
 「天人相関(テンジンソウカン)説」
 「天と人とに密接な関係があり
  相互に影響を与えあっているという思想
  前漢儒学者
  董仲舒
  『春秋繁露』
  で森羅万象と人の営みには
  密接な関係があるとし
  それを一年の月数は
  人体の十二節に
  五行は
  五臓
  昼夜の
  覚醒と睡眠に対応すると論じ
  天文で人の運命を読むのも
  即ち
  天人が相関関係にあるがゆえであり
  帰する所
  人体は全宇宙の縮図にして
  小宇宙であると説いた
  天子が行う政治も天と不可分のものであり
  官制や賞罰も天に則って行うべき」・・・
  天子の所業(善政・悪政)は
  自然現象の「災害・瑞祥」にあらわれる・・・
  権力者はこれの「災害」を惧(おそ)れ
  「徳政・恩赦」を執行・・・
  だが、
  「天人相関説」は俗信化・・・
  「占卜の域」で政治権力の掌握に利用された・・・
  後漢
  「王充」・・・建武三年(27年)〜?)
   ↓↑    文人・思想家
         字は仲任
         会稽郡
         上虞の出身
         虚妄的な儒学の尚古思想を一蹴
         旧伝などの
         非合理を批判し
         合理的なものを追求した
         著書は
   ↓↑   『論衡(全三十五巻八十五篇)』
  により
  「天文は純然たる気の運行にすぎず」
  として批判・・・
  だが、
  宇宙に於いて相互に影響し合わないモノは無い、だろう・・・
 ↓↑
 ・・・古典の研究者はスゴイねッ・・・
 史料を何処で手に入れるんだか・・・
 ボクの「日記内容」は
 2001年頃からはホトンドが
 インターネットからの検索で拾った
 「マゴの孫の混(ま・交・須)語びき」の「コトバ」です・・・
 ↓↑
 ネコは人間と同じように産養いが行われ
 乳母が付けられた(助産と養育)
 「産養い」
 赤子の将来の多幸を祈念するため
 誕生の
 三・五・七・九日目
 に催される祝宴
 それを
 東三条院-詮子(一条天皇の母)
 左大臣-藤原道長
 右大臣-藤原顕光
 などの人物によって執り行なわれた
 小野宮流の
 有職故実の大家
 「藤原実資」はこの異常ぶりを
 日記に記録し歎いた・・・
 ↓↑
 乳母を付けられた猫は
 「冠にて=五位の位」を与えられた
 内裏の殿上の間に登れるのは
 五位以上の貴族
 「命婦のおもと」=「命婦=五位以上の女性」
 「命婦殿=猫」を
 一条天皇は「いみじうをかし=とても可愛がっていた」
 ある日、部屋の端っこに出て寝ていたのを
 乳母の「馬の命婦」が見て
 「お行儀が悪い」と注意したが動かないので
 「犬の翁丸」をけしかけられ
 怯えて逃げ去ってしまった・・・
 「朝餉の御前に、上おはしますに、
  御覧じて
  いみじう驚かせ給ふ。
  猫を御ふところに入れさせ給ひて、
  男ども召せば、
  蔵人忠隆、なりたか、参りたれば、
 「この翁丸、うち調じて
  犬島へ遣わせ、ただ今」
  と仰せらるれば、
  集まり狩り騒ぐ。
  馬の命婦をも苛みて
 「乳母、替へてん。
  いと後ろめたし」
  と仰せらるれば、御前にも出でず。(枕草子・第七段)
 徳川吉宗が象を輸入し天皇がご覧になるために
 象に五位を与えた・・・
  「猫は、
   うへの限り黒くて、
   腹、いと白き(枕草子・第五十二段)」
ーーーーー
 ・・・爾来・・・自来・・・おのずからクル・・・小野図(豆)からカム(come)・・・豆腐=トウフ=訳得符・・・納豆・・・