2457日目・・・認知症(ボケ)には「緑(?)酸」ではなく「葉酸(ヨウサン・ヴァイタミンM)」がイイらしい・・・「活性酸素を発生させるホモシステインというアミノ酸を抑える」らしい・・・そうです、脳(腦)ミソの「𡿺」、悩(惱)みの「𡿺」・・・「邕=巛+口+巴」のカンジにもコダワル・・・「邕」、洪水で押し流された「邑=阝=むら=村」なのか、温泉が噴出した「邑=阝=むら=村」なのか、「邕」の字形は「巛(カワの水流が)+口(河口で)+巴(トグロのような渦をまいている)」ような形象の様に思えるが・・・「α+𡿺(巛

 「脳(ノウ)=月(肉)+⺍+凶=腦=月(肉)+巛+囟
        異体字は腦・匘・堖・脑・𠜶・𠟞・𡍗・𦛁
            𦛳・𦛴・𦝶・𦞄・𦠊・𦠤・𦭣・𩩀」
 「ノウ」・・・異体字がアリすぎ・・・
 「囟=頭(あたま)の鉢(はち)の形」・・・
 「囟=ノ+龱」・・・
 異体字=𠈀・𠔋・𠙷・𠚁・䏤・𦞤・𩒦・䪿・𩔙・顖・𩕄・𦥓
 声 符は「囟」・𠈈・𨑋・𥿳・𢍱・䢉・𣳦
 熟 語は「囟上(説文解字)・頭會、匘蓋(ノウガイ)なり
      象形、凡そ囟の屬は皆な囟に従ふ」・・・
 「脳・悩」の「ツ+凶」が「𡿺」なら
 「匈奴」の「匈=勹+凶」と云う漢字は
 「勹+囟(ノ+龱)=ひよめき・シ・ジン」だったかも・・・
ーーーーー
 「蔡邕」って、「蔡倫」の血統?
  ↓↑ ・・・(50年?〜107年?、121年?)
         後漢の宦官・桂陽(湖南省耒陽市)生まれ
         字は敬仲
         後漢外戚と宦官の間で
         国家権力掌握を激しく争い
         鄭衆と蔡倫はその初期の人物
         和帝のとき尚方令 (帝室技芸長官)
         元興一(105)年
         竹木簡、白絹などに代えて
         樹皮、麻頭、魚網、襤褸(ボロ)などから
         紙をつくり献上
      ・・・「和帝(和綴)」に「紙(神)」の
  ↓↑     「献上(権丈)」・・・?
      そもそも「蔡=艹+祭」とは
     「蔡=法則・のり
        占いに用いる大亀(蔡龜)・・・差異の化目
        異体字は𣞖」
     「春秋時代の列国の一
      周の
      武王が弟の
      叔度(シュクタク)を
      ・・・叔(上の亅の八の又)を「度(はかる)」
      蔡に封じた国(河南省上蔡県西南)
  ↓↑  前447年、楚の恵王に滅ぼされた」
 「蔡邕の《独断》の著」には
 「臘は年末の大祭」
 「應(応)劭の《風俗通》」には
 「《礼書》曰く
  臘とは
  もともと
  鳥獣を狩り祖先に捧げ祭る風習」
 「臘は、引き継ぐ時であり
  古きを祭り以前の功を報告し
  新旧を引継ぐ」・・・
  ↓↑
  希臘(ギリシャの漢字名)
  上臘(臈)=ジョウロウ=上蟖・上臘
     安居(アンゴ)の功を積んだ年数を数える語
     蟖を積んだ高僧・位の高い僧
     年功を積んだ地位、身分の高い人
   臘(蟖)=仏教において僧侶が比丘としての
        具足戒を受けてからの年数を数える単位
        夏臘・法臘・戒臘・法歳(ほうさい)とも
     臘=中国において冬至の後の
       第三の「戌の日(臘日)」に
       行なう猟の獲物を先祖百神に供える祭り
      (臘祭)
  蠟石=蝋石
  鑞接(ロウセツ)=金属を接合する方法・熔接の一種
  蜜蝋=蜂蝋=ビーズ-ワックス(Bee's Wax)
   蠟=虫+巤(鼡・鼠)・・・鼡=ツ+几+十+一
                鼠=臼+レ+:+レ+:+レ
      「巤」は鬣(たてがみ)を有する獸が
          タテガミを靡(なび)かせる様
       巤=簡体字は蜡
         異体字は䗶・蝋
         慣用字は蝋
         声 符は巤・儠・䝓・臘・鬣
             擸・邋・㲱・獵・鑞
             鱲(からすみ・リョウ)=魚+巤
              ボラ(鯔)やサワラ(鰆)などの
              卵巣を干した食品
   蝋=年をとること・年寄り
     律令制で61〜65歳まで
     (後、60歳〜64歳まで)の者の称
  蝋=蠟=虫+甾(巛+田・巛+囟)
              巛+囟・・・惱=悩
     =ロウ(ラフ)=みつろう・ワックス
      蝋燭 (ろうそく)・鯨蝋・屍蝋・蠟涙・蠟梅鼡
      封蝋・蜜蝋・木蝋
      蜡人蠟人形
      戸籍法上の字体は「蠟」
  ↓↑
  猎=犭+昔(艹一日)
    鳥獣を捕る、狩る
    打猎・射猎
    あさる・捜し求める
    涉猎
    中国語の猎
    狩猟をする
    猎虎=虎狩り
    打猎的猟師
    狩猟用の猎枪(猟銃)
    猎刀(狩猟刀)
    猎狗(猟犬)
 ↓↑
 「蔡邕」・・・「邕=巛+邑」
 後漢の「蔡邕」
 北方の玄武、
 甲殻類の長
 後漢のころに
 名前は玄武
 領地は北方
 玄武=亀と蛇が交わり武となる
 「蔡邕」の文芸は
 詩・賦・碑・誄・銘・贊・連珠・箴・吊・論議
 に及び
 「独断・勧学
  釈誨・敘楽・・・釈誨・・・知らない者に教える註釈
           誨淫 (カイイン)・教誨・訓誨
  女訓・篆芸」・・女を訓むって、何が記録されてんだかは?
          序文(古事記)の「訓読み」である?
 などの著作
 他に
 「祝文・章表・書記」など
 およそ104篇(後漢書・蔡邕伝)
 蔡邕が収集した漢史の史料
 「李傕の乱」によって多くが失われ
 元々は東観において
 盧植・・・盧(鸕)を植(得重留)・・・鸕野讃良=持統天皇
 馬日磾(バ ジツテイ)・・
 ↓↑  馬の日の磾・・・
      金日磾(キンジツテイ・紀元前134年〜紀元前86年9月)
      字は翁叔・前漢匈奴系の政治家
      匈奴の休屠王の太子
      漢の
 ↓↑   武帝により「金姓」を授けられた?
 ↓↑   馬姓と金姓で「名が同じ」の別人?
 らと共に行われていた
 『漢記』の撰補は戦乱と関係者の死去などで
 中断されていたが
 「建安」年間に入って・・・建の安(案・按)?
 「楊彪」の手により・・・・楊の彪(龍虎)・・・柳拠
 最後の編纂が行われ
 「東観漢記」となった・・・
 後漢末の文化人
 阮瑀・・・阮の瑀・・・阜の元、王の禹(ウ)
 王粲・・・王の粲・・・王の「しらげよね=白飯・飯(いい)」
               搗(つ)いた白米
 路粋・・・路の粋・足の各の純粋・抜粋・・・粋=米+九+十
 などは「蔡邕」の門下生
 ↓↑
 「蔡 邕(サイヨウ)」
 132年or133年〜192年
 後漢末期の政治家 ・儒者・書家
 字は伯喈(ハクカイ)
 兗州陳留郡圉県の人
 父は蔡棱
 娘は蔡琰
 従弟は蔡谷
 外孫は
 「羊徽瑜(西晋の景献皇后)」・・・羊の徽の瑜
 ↓↑
 「羊 祜(ヨウコ)」・・・羊を示す十(拾・足)の口
 ↓↑                竎(ビ)=口+羊・・・
       ヒメ(媛・日女・比売・比竎・姫)
       貴族や領主の女性名に付けられる尊称
       女性首長(酋長)を表す尊称
 ↓↑    竎=miē=擬声語=羊の鳴き声「メエー」
 221年〜278年
 中国三国時代西晋の武将
 字は叔子
 曾祖父は羊儒
 祖父は羊続
 父は羊衜(上党太守)
 母は「蔡邕の娘」
 伯父は羊秘(京兆太守・妻は蔡氏)
 叔父は羊耽(泰山太守・妻は辛憲英)
 異母兄は羊発(母は孔融の娘)
 同母兄姉は
 羊承
 羊徽瑜(司馬師の妻、献皇后)
 妻は夏侯覇の娘
 伯母(一説には母)は蔡琰
 ↓↑
 「陸抗VS羊祜」の関係・・・謙信が信玄に塩を贈る?
 いかなる政治的な先入観にも囚われない?
 「私的な交誼」を表す「羊陸之交」・・・「刎頸之交」?
 「戦争の戦略・戦術=与えるdamage
          =死を賭けている=国家の存亡」としては
 「美談」は「欺瞞」である・・・
 NKもSKも「欺瞞」である・・・Olympicも欺瞞である・・・
 ↓↑
 邕=川+邑(むら)
   雍=亠+幺+隹
     「雝=邕+隹」の略体
     「雝=隹(とり)+邕(ヨウ)」の会意兼形声文字
     「邕=川+邑(むら)」
        川で囲まれた集落
        囲んで家禽を守ること
        平和であること
 ↓↑
 邕
 邑=阝(おおざと・むら)
     ヨウ
   周囲を川や堀で囲まれた都市
   ふさぐ・周囲を囲って封じ込める
   やわらぐ・なごむ
   古の「雍」と同義
     「和睦・和諧」・・・諧謔だろう?
   古の「壅・堵塞」と同義
     ・・・土手(堤)で水害を塞(ふさ)ぐ
ーー↓↑ーー
 「宇文邕=武帝
  ↓↑
 北周の皇帝
 在位期間 560年5月31日〜578年6月21日
 姓・諱は宇文邕
 字は爾羅突・・・ジラトツ・ニラトツ?
 諡号は武皇帝
 廟号は高祖
 大統九年(543年)
  〜
 宣政元年六月一日(578年6月21日)
 父は宇文泰
 母は叱奴太后
 皇后は阿史那-皇后・・・阿史那=あしな=蘆名・足名・葦名
            Athens=アテネ=雅典=当て音
 陵墓は孝陵
 年号 保定=561年〜565年
    天和=566年〜572年
    建徳=572年〜578年
    宣政=578年
 后妃
 正室は「阿史那」皇后
 側室は
    「李皇后・庫汗姫・馮姫・薛世婦
     鄭姫(北斉南陽王、高綽の寡婦
 子は
 宇文贇(宣帝)
 宇文贊(漢王)
 宇文贄(秦王)
 宇文允(魯王)
 宇文充(趙王)
 宇文兌(蔡王)
 宇文元(荊王)
ーーーーー
 ・・・「宇文 化及(ウブン カキュウ)」は「隋」の政治家、軍人・隋末の混乱期に禁軍を伴って宇文智及らと煬帝を弑殺し、独立して皇帝を僭称・「許を建国」・宇文智及、宇文恵及の兄、宇文士及の異母兄」・・・
 「宇文一族とは無関係」?
ーーーーー
 ・・・?
 陳曉東《突然心動》
 MV
 宇文邕 篇
蘭陵王」插曲
 陳曉東
 ↓↑
 突然心動
 電視劇 蘭陵王 插曲
 作詞:二水
 作曲:孔凡東
 編曲:孔凡東
 ↓↑
 一朵夕陽斜斜掛在巷口,・・・朶・垂れさがった枝?
 我俳佪在你家的門口,
 有些話已經蠢蠢欲動,
 我只想你一人懂,
 不想別人在我的眼中。
 ↓↑
 一片落葉落在我的胸口,
 我才知道,已到深秋,
 我一直用心在播種,
 你淺淺的一個笑容,
 讓我魂牽夢繞在其中。
 ↓↑
 我為你心動,被你感動
 你的笑容,像天邊的彩虹,
 我說過永遠,不是衝動。
 我會珍惜關於你的每一分鐘。
 ↓↑
 突然心動,有你不同
 我的天空,過濾掉了傷痛。
 我說過永遠,當然管用
 我讓瞬間停在我心中。
 ↓↑
 我說過永遠,當然管用
 我讓瞬間停在
 我心中・・・
 我心中・・・
 我心中・・・
 u ummmm…….
 我心中・・・
ーーーーー
 初代皇帝
 孝閔帝
 宇文覚は
 補佐役で従兄でもある
 宇文護の専横を排除しようと図って
 廃位され、殺害
 後を継いだ庶長兄の
 明帝
 宇文毓
 も
 宇文護によって暗殺
 明帝の遺言で
 宇文邕(武帝
 が即位
 外交
 南朝の陳とは友好関係
 東の北斉には攻略攻撃
 突厥と同盟し
 北斉を攻撃
 儒教・仏教・道教
 の討論会を数次に開き
 儒者・僧侶・道士の指導者たちに行わせ
 その優劣を競わせていた(三教談論)
 ・・・信長の法華宗日蓮宗の宗教論議・・・
 天和七年(572年)
 長安に戻った
 宇文護を誅殺
 親政を開始
 建徳三年(574年)
 道教、仏教を廃止
 仏教・道教の研究機関としての
 「通道観」を設置し
 120名の
 「通道観学士」を選任
 寺院の破壊と財産の没収
 僧侶の還俗を行って財産を没収し
 税賦を逃れる目的で僧籍に入る者を
 還俗させて税を取ることで
 財政改善を狙った
 (三武一宗の廃仏)・・・奈良時代の僧侶還俗政策
 建徳二年(573年)
 陳の
 宣帝
 陳頊が
 名将
 呉明徹を遣わし
 北斉軍を討ち破り
 寿陽など江北の九郡を奪った
 陳の攻撃で弱った北斉
 武帝
 建徳四年(575年)
 北斉へ攻撃
 建徳五年(576年)
 平陽と晋陽を奪い
 建徳六年(577年)
 首都の
 鄴を包囲
 後主
 高緯や皇族たちは逃亡
 青州で捕虜とし北斉を滅ぼし
 北魏の東西分裂以来
 四十数年ぶりに
 華北統一
 武帝
 最後まで北斉に忠実だった者は厚遇し
 李徳林を法律制度整備に重用
 宗教政策
 旧北斉領内でも仏道二教の廃毀を断行
 武帝親政
 周礼を理想とし
 一方で
 鮮卑への復古も標榜する
 北周朝の政策に則って
 仏道二教を廃止したが
 廃仏により
 仏罰を受けたとする説話が流布
 元来の教団規模が仏教に比して
 小規模であり
 道教教団では
 道教の外護者であり
 通道観においても
 道教の経典研究を行い
 道教典籍を編纂
 「道蔵」中に収録
 『無上秘要』という道教類書

 宣政元年(578年)
 彭城で陳軍を破って
 呉明徹を捕らえ
 武帝は呉明徹を
 懐徳公に封じ厚遇
 同年、突厥に親征を企てたが
 出発後に罹病し崩御
 享年36(満34歳没)。

 阿史那(アシナ)皇后
 551年〜582年
 北周武帝の皇后
 突厥の出身
 突厥
 木汗可汗の娘
 木汗可汗は
 柔然を滅ぼした後
 ゴビ砂漠以北の土地の多くを支配
 西魏
 宇文泰は
 東魏北斉と争うため
 木汗可汗の援助を借りた
 北周
 武帝が即位すると
 北周突厥の間に数回の使者の往来があり
 彼女が
 武帝の許に嫁ぐことが決められ
 565年2月
 北周
 陳国公
 宇文純
 許国公
 宇文貴
 神武公
 竇毅
 南安公
 楊荐
 ら120人が
 彼女を迎えるため
 木汗可汗の牙帳に赴いた
 木汗可汗は
 北斉に対しても娘の婚姻を約束
 宇文純らは信義を説いて
 履行を求めたが
 木汗可汗は履行せず
 たまたま落雷と大風が起こって
 木汗可汗の穹廬を
 突風が吹き飛ばし
 木汗可汗はこれを
 天の譴責であると考え
 礼をもって彼女を送りだした
 568年3月
 彼女は長安に到着
 武帝に迎えられて
 婚儀を挙げ
 皇后に立てられた

 578年5月
 宣帝が即位し
 皇太后に立てられ
 579年2月
 称号を
 天元太后と改められ
 580年2月
 天元上皇太后と改められた
 5月
 宣帝が死去
 静帝により
 太皇太后に立てられ
 582年4月23日
 32歳で死去
 諡を徳(夫の諡を被せて武徳皇后と号)
 隋の文帝は礼をもって
 彼女を葬るよう命じ
 4月29日に孝陵に合葬
ーーーーー
 邕江=広西、チワン族自治区にある川の名
    広西チワン族自治区南寧の別称
    広西南寧の別称
    邕剧広西チワン族自治区
    粤(エツ)語による地方劇
 ↓↑
 邕=巛+邑
   声符「邕」、雝(ヨウ)
   「蔡邕」
   陽嘉一(132)〜初平三(192)
   後漢
   陳留圉(ギョ)県(河南省) の人
   建寧三 (170) 年
   霊帝の郎中
   東観で書物の校定に従事
   熹平四 (175) 年
   諸経の
   文字平定を奏請し
   みずから書して
   石に刻み
   太学の門外に立てた
  「熹平石経 (キヘイセッケイ) →石経」
   のち中傷されて流刑
   大赦にあったが帰らず
   呉に十余年を過した
   中平六(189)年
   董卓(トウタク) に召されて出仕
   侍御史、侍中から左中郎将
   董卓の誅死後、投獄
   獄中死
   朝廷の制度、称呼について記した
  『独断』
   詩文集
  『蔡中郎集』がある
   書法で
  「飛白体」を創始
  娘に詩人の
  「蔡琰(サイエン)」
 ↓↑ 
 字は伯喈(ハクカイ)
 琴の名手
 六経(リクケイ)の文字を校定
 自ら碑に刻した
 飛白(ヒハク)の書体を創始
 董卓(とうたく)の乱に連座し獄死
 著に「独断」など
ーー↓↑ーー
 印刷術は中国に始まった
 木版に文字を彫りそれに墨を塗り
 上から紙をあて〈バレン〉
 で文字を刷りとる方法
 活字印刷に対し
 整版と呼ぶ
 唐代(618〜907)に始まった
 それ以前から
 印刷類似の方法が中国やオリエントで行われていた

 永字八法
 「永」の1字に包含
 「永」字によって運筆法を説いた
 来源には
 張旭説、智永説
 蔡邕
 王羲之説の3通り
 後漢
 蔡邕が嵩山(スウザン)の
 石室で書を学び
 神授された
 蔡邕から
 崔瑗(サイエン)
 張芝
 鍾繇(ショウヨウ)
 王羲之を経
 王羲之七代の孫
 隋の
 智永
 に伝わり
 これを
 虞世南に授け伝わった

 琴操
 琴書
 後漢
 蔡邕(字伯喈、132〜192)著
 古代の琴曲と作者を解説
 50曲の収録曲目
 歌詩五曲
 十二操
 九引
 河間雑歌
 に分け
 失われた4曲を除きすべて
 解題がほどこされている
 作曲年代は
 主として
 春秋戦国時代の作
 孔子や伯牙の作も収められている
 音楽的内容は不明
 《鹿鳴》《将帰操》《拘幽操》
 などは明代以後の琴譜に同名曲が収録

 石経
 儒教の根本聖典である
 経書の本文を
 政府の手で石に刻したもの
 儒教は中国の国教で
 経書科挙の教科書
 太学(中央の国立大学)に立てた
 漢石経
 後漢末に経書本文に関する論争に決着をつけるため
 蔡邕が定本を作り
 文字を書いて石に刻した
 熹平四年(175)
 起工し
 九年目に完成
 熹平石経
 書体は隷書だけで書かれ
 一字石経ともいう

 「蔡琰」
 後漢朝の
 議郎(顧問官)
 蔡邕の娘
 文姫とは字ではなく
 文才のある女性という意
 衛道玠の妻だったが
 董卓の遷都の動乱に巻き込まれ
 後には
 北方の異民族の
 匈奴に連れ去られ
 そこで
 左賢王の妻となり
 二人の子供をもうけた
 蔡琰は
 『胡茄(匈奴の使う 楽器・笛)一八拍』
 という楽曲を作った
ーーーーー
 ・・・???・・・