2413日目・・・2017年11月22日・水曜日・・・「都々逸・都都逸」=「都々逸(どどいつ)=江戸末期に初代の都々逸坊扇歌(1804年〜1852年)によって大成された、口語による定型詩。七・七・七・五の音数律に従う」

 「元来は、三味線と共に歌われる俗曲で、音曲師が寄席や座敷などで演じる出し物であった。主として男女の恋愛を題材として扱ったため情歌とも呼ばれる」
 「七・七・七・五の音数律に従うのが基本だが、五字冠りと呼ばれる五・七・七・七・五という形式もある」
 「逢うて別れて 別れて逢うて(泣くも笑うもあとやさき) 末は野の風 秋の風 一期一会の 別れかな(井伊直弼 茶湯一会集)」
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 「ド・ト =ものさし・長さの基準・度量衡
       のり・きまり・さだめ・制度・法度
       ほどあい・限度・程度
       めもり・数・量
       大きさなどを表す単位・濃度・角度
       たび・回数・度数・頻度
       人がら・ようす・器量・度量・態度
       わたる・越える・類渡」
       仏教で、さとりの世界や仏の世界へ導き入れる
       すくう・済度・得度
       タク・はかる・おしはかる・みつもる
      「忖度(ソンタク)」
 緯度(イ ド)・温度(オン ド)・角度(カクド)・過度(カド)
 感度(カンド)・強度(キョウド)・極度(キョクド)
 経度(ケイド)・限度(ゲン ド)・高度(コウド)・済度(サイド)
 湿度(シツド)・尺度(シャクド)・純度(ジュンド)
 深度(シンド)・進度(シン ド)・震度(シンド)・制度(セイド)
 精度(セイド)・節度(セツ ド)・鮮度(センド)・速度(ソクド)
 態度(タイド)・丁度(チョウド)・調度(チョウド)
 程度(テイド)・適度(テキ ド)・得度(トクド)
 年度(ネンド)・濃度(ノウ ド)・頻度(ヒンド)
 法度(ホウド・ハット)
 密度(ミツド)
 用度(ヨウド)
 支度(したく)
 度徳量力(タクトクリョウリキ)
 度(たび)
 度重なる(たびかさ−なる)
 度外視(ドガイシ)
 度肝=度胆(ドぎも)
 度胸(ドキョウ)
 度数(ドスウ)
 度僧(ドソウ)
 度外れ(ドはずれ)・度忘れ(ドわすれ)
 度量(ドリョウ)
 度量衡(ドリョウコウ)
 度る(はかる)
 度度(よりより)
 「ド=鴑・蕽・胴・硇・瑙・潼・巎・峱・榒・蕺」
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 ドイツ=独逸・独乙・徳意志・都逸・岱枝
     独乙都蘭度・度逸都蘭土
     独徳(→独逸&徳川幕府?)
     紱國・紱意志(→徳川の意志?)
   ・・・「徳」が「紱(糸+犮)=紱(ひも・フツ)」
     に文字化け?・・・
    「犮(ハツ)=ナ+乂+ヽ」=走る犬・・・
    犮(ハツ・バツ)=犬+ノ=犬部・犬を犠牲とした象形
    「犬+ノ」=犬に「ノ」をつけて犠牲(殺す)
    犬を犠牲にして神に供え、災いを取り除く意
    「祓=はらう・フツ=示+犮」の原字・部首は犬部
    「お祓い・お払い・御祓い」
 独逸(German・Preussen・Prussia
    プロシア=普魯西)
      ・・・普(奈良部)魯の西(にし)
    普=並+日=あまねく・あまねし・フ
          広く行き渡る・普及・普遍
          なみ・ふつう・普通・普段
          普及
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 逸=免+辶=はしる・にげる・にがす・イツ・イチ
   逸機・後逸・奔逸
   かくれる・しなう
   世に知られない
   逸事・逸書・隠逸
   それる・はずれる
   ある場所からさっと抜け去る
   逸出・逸走・後逸
   わがまま・みだら
   逸脱・淫逸・放逸
   足がはやい・抜きんでている・すぐれる
   逸材・逸出・逸足
   逸=イツ・イチ
     それる・横にそれて逃れる
     抜けて見えなくなる
     逸脱・散逸
     世間に知られていない
     逸事・逸聞・逸話
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 アレレレレッ、「白鵬(白い朋=たから・貨幣に用いた5個1組、or 2個1組の貝)の鳥」・・・朋友=同朋・・・山が載ると「崩(くず)れる」・・・「白鳳文化=645年(大化元年)〜710年(和銅三年)」・・・「和銅元号慶雲元号の後、霊亀元号の前・708年〜715年までの期間・天皇は女帝元明天皇」・・・
 712年=壬子年=和銅五年は太安万侶が編纂した「古事記」を元明天皇に献上した年・・・「唐の年号は景雲三年、太極元年、延和元年、先天元年」・・・養老四年(720年・庚申年)は「日本書紀」完成・・・
 執拗(しつこ)く、昨日の続きの重複・・・「弐千壱拾七年壱拾壱月弐拾弐日」だから・・・
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 興行相撲
江戸、京都、大坂に
 相撲の集団
 当初は朝廷の権威、大商人の財力によって
 看板力士を多く抱えた
 京都、大坂相撲
 江戸相撲をしのぐ
 興行における
 力士の一覧と序列を定めた番付の
 木版刷りが始まった
 最古の木版刷りの江戸の番付は
 1757年のもの
 京都や大坂では
 それよりも古いものが残されている
 江戸相撲
 1789年11月
 司家の吉田追風から
 二代目
 谷風梶之助
 小野川喜三郎
 への横綱免許を実現
 征夷大将軍徳川家斉観戦の
 1791年
 上覧相撲を成功させる
 雷電爲右衞門
 江戸相撲が京都や大阪へ出向いて
 合併興行(大場所)も恒例化、毎年開催
 1827年
 江戸幕府
 「江戸相撲方取締」役を
 江戸相撲吉田司家に認めた
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 幕末に
 「相撲VSレスリング」
 「相撲VSボクシング」
 の異種試合が行われた
 アメリカ合衆国海軍
 マシュー・ペリー提督
 が黒船で来航した
 1853年6月11日に
 雷權太夫
 玉垣額之助
 ら年寄総代は文書により
 攘夷協力を番所に申し出
 翌年
 ペリーが再来日して条約を締結した際
 米国へ返礼として贈られた
 米200俵を
 江戸相撲の力士たちが軽々と運び
 米軍人を驚嘆させた。
 1863年6月3日
 大阪北新地で
 壬生浪士組新選組)と
 死傷事件を起こした
 大坂相撲の力士で死亡したのは
 中頭の
 熊川熊次郎(肥後出身)
 事件の手打ちとして
 京都での興行では京都、大阪の両相撲が協力
 力士の中には
 後に勤皇の志士となった者もいた
 ↓↑
 大坂相撲・小野川部屋に所属した元力士
 熊本県肥後国出身
 地位は中頭(関取)、前頭七枚目
 ↓↑
 京都から淀川を下り
 大坂に遊ぼうとした
 往来において
 酔った力士に遭遇し
 道を譲る譲らないで悶着
 この時、
 芹沢が鉄扇で力士を打擲したとも、
 刀で浅傷を負わせた(または斬殺)ところ
 引き金になり乱闘に発展
 その後
 壬生浪士組の8人は
 北新地の住吉楼(吉田屋とも)に
 上がり楽しんでいたところ
 角材を持った
 熊川はじめ
 小野川部屋の力士たちが押しかけ乱闘
 この時、
 熊川は沖田に角材を受け止められ
 芹沢に脇腹を突き刺され
 それが元で翌日に出血多量で死亡
 熊川は
 沖田と永倉の両名に斬られた・・・
 乱闘での死者は熊川1人とも、5人とも・・・
 「新選組顛末記」、「島田魁日記」
 「京都守護職への届出」、「大坂東町奉行所への届出」
 「浪士文久報国記事」
 によって、
 経緯、新選組側、力士側、死傷者数
 熊川の死亡日が異なる
 その後、
 大坂西町奉行所の与力
 内山彦次郎と現場に居合わせなかった
 新選組
 近藤勇の間で遺恨が生じた・・・
 熊川の経歴は全く不明
 事件後の場所の番付に名がある・・・
 ↓↑
 「壬生浪士=精忠浪士」は
 「新選組」の前身集団
 ↓↑
 近藤勇
 1834年 甲午(丙・ ・丁)
 0011月 乙亥(戊・甲・壬)
 0009日 庚子(壬・ ・癸)辰巳=空亡
  ↓↑
 1868年 戊辰(乙・癸・戊)
 0006月 丁巳(戊・庚・丙)
 0017日 癸卯(甲・ ・乙)
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 土方歳三
 1835年 乙未(丁・乙・己)
 0005月 辛巳(戊・庚・丙)
 0031日 癸亥(戊・甲・壬)子丑=空亡
  ↓↑
 1869年 己巳(戊・庚・丙)
 0006月 庚午(丙・ ・丁)
 0020日 壬午(丙・ ・丁)
 ↓↑
 鳥羽・伏見の戦いで敗れ
 幕府軍が大坂から江戸へ撤退後
 近藤勇は大久保大和・・・・大窪の大倭(やまと)
 土方歳三は内藤隼人・・・・名井等の隼人⇔熊襲
 と変名、
 甲斐国に向かう
     ・・・甲斐國=松平容保
        1836年2月15日〜
        丙申(己・壬・庚)癸巳(戊・庚・丙)
        庚寅(己・丙・甲)癸亥(戊・甲・壬)
        癸未(丁・乙・己)丙子(壬・ ・癸)
        申酉=空亡
        ↓↑
        保科正之・・・第二代将軍
               徳川秀忠落胤
               第三代将軍、家光の異母弟
        父は徳川秀忠
        母は浄光院
        養父は保科正光
        養母は見性院
        兄弟
        長丸、徳川家光、徳川忠長、保科正之
        義兄弟
        保科正貞、保科正重
        正室菊姫(内藤政長の女)・・・?
        継室は於万(藤木弘之女・聖光院)
        側室は牛田氏、沖氏、沢井氏
        子
        幸松、正頼、将監、正経、正純、正容
        媛姫(上杉綱勝室)
        摩須(前田綱紀室)
        石姫(稲葉正往室)
        ↓↑
        信濃高遠藩主
        出羽山形藩
        を経て
        1643年
        徳川秀忠の子
        保科正之が入封
        会津松平家の祖
        ↓↑   
        1876年(明治9年)8月21日
        若松県
        福島県(1876年以前)
        磐前県
        の3県が合併されて
        福島県
 三月六日
 甲州勝沼の戦いで敗戦
 歳三は戦争前に
 援軍要請へ向かったが成功しなかった
 その後
 流山で再起を図り
 四月三日
 新政府軍に包囲され
 近藤勇が投降
 このとき
 土方歳三
 近藤の切腹を止めて
 投降を勧めたとも、
 投降に反対したとも・・・
 歳三は江戸へ向かい
 勝海舟らに直談判し
 近藤の助命を嘆願したが実現せず
 慶応四年(1868年)四月二十五日
 近藤は板橋刑場で処刑(斬首)
 ↓↑
 芹沢鴨
 らは
 新選組を結成
 新選組となる以前の
 壬生浪士たちは身なりの貧しさから
 「みぼろ(壬生浪=みぶろ・みぶろう)」
 と一部の京の人たちに揶揄
 女性隊士もいた・・・?
 ↓↑
 「天狗党の乱」・・・・天狗=猿田彦
 元治元年(1864年
 筑波山で挙兵した
 水戸藩内外の
 尊王攘夷派(天狗党)によって起こされた一連の争乱
 「元治甲子の変」とも・・・
 ↓↑
 清河 八郎
 文政十三年十月十日
 (1830年11月24日)
   〜
 文久三年四月十三日
 (1863年5月30日)
 庄内藩山形県)出身の志士
 田中河内介とともに
 九州遊説をし
 尊王攘夷派の志士を京都に呼び寄せ
 一方で浪士組を結成し
 新選組・新徴組への流れを作り
 「虎尾の会」を率いて
 明治維新の火付け役となった・・・
 ↓↑
 1830年 庚寅(己・丙・甲)
 0011月 丁亥(戊・甲・壬)
 0024日 甲午(丙・ ・丁)辰巳=空亡
 ↓↑
 幼名は元司
 諱は正明
 号は旦起・木鶏
 本名は齋藤正明
 清川八郎と改名したのち
 清河八郎を名乗った
 山形県庄内町
 清河神社に祭神として祀られている
 位階は贈正四位
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