2381日目・・・登場人物が余りにも多すぎて「演劇(ゑんゲキ)の主役(シュヤク=朱訳?→入朱=添削や訂正で文章に朱を入れること)・主人公(シュジンコウ=取訊稿・諏訊稿?)」がダレなのか、ナニなのか定まらないカンジ・・・「朱=牛(ノ一十)+八=あけ・あか・シュ=橙色に近い赤色・緋色=硫化水銀・紅・赤・辰砂・朱墨・朱筆の略・朱で和歌や俳句に点をつけること・朱で詩文を訂正すること・馬の毛色・blood‐stained(血塗(まみ)れ・血染め」・・・「朱訳→朱子学の翻訳?」・・・「朱(牛+八→捌)に交われば赤(

 「意富比垝=おほびこ=大彦→一人立ノ彡」・・・「一(はじめ・イチ)の人(ひと・ジン・ニン)の立(たつ・リツ)ノ(の・ひく・ヘツ・ベツ・ヘチ・丿)の彡(刷毛、毛羽のあと・サン・セン)」・・・「彡の字は毛髪の飾りの紋様・偏旁の意符で模様や形象、装飾に関し、ひげ(須)のような長い毛に関する・毛飾の畫文」・・・
 意富比垝=意の富を比べる垝(転がった石・落石)・・・「垝=十一が危(あぶ)ない」・・・
ーーーーー
 崇神天皇十年九月九日
 大彦命
 北陸・・・新潟県富山県・石川県・福井県の4県
 ↓↑ 越後  越中  越前  越中北部   
      or
      富山県・石川県・福井県の3県
      高志道前・高志道中・高志道後の3国
      分割された時の「越前国」の領域
      現在の石川県、福井県の北部を含み
      後の
 ↓↑   敦賀郡丹生郡、足羽郡、大野郡、坂井郡
      江沼郡、加賀郡羽咋郡能登郡、鳳至郡
      珠洲
      の十一郡にわたる面積であった
 ↓↑   ↓↑
      天平宝字八年(764年)
      藤原仲麻呂(仲麿・仲丸)は
     「藤原仲麻呂恵美押勝)の乱」で
      再起の拠点とした
 ↓↑   ↓↑
      朝倉義景
      甲斐氏を圧迫し国内をほぼ統一し
      斯波氏に代わって越前国守護になった
 ↓↑   日下部宗高が
      但馬国
      養父郡
      朝倉に住し、
      朝倉氏を称した・・・
      謀反で殺された室町幕府
      第十三代将軍
      足利義輝の弟である
      足利義昭が落ち延びて来ると
      第十一代当主
      朝倉義景はこれを庇護
      義景は浅井長政らと同盟
      信長と戦って
      1573年(天正元年)
      に敗れて一乗谷を焼かれ
      義景は自刃、朝倉氏は滅んだ
      90年間一揆持ちだった加賀国
 ↓↑   ↓↑
      柴田勝家
      天正十一年(1583年)四月二十四日
      北ノ庄城にて
      お市とともに自害
      辞世
     「夏の夜の 夢路はかなき
      跡の名を 雲井にあげよ
      山郭公(やまほととぎす)」
      菩提寺
      福井県福井市
      西光寺
      滋賀県
      高島市
 ↓↑   幡岳寺
 に派遣
 東海に派遣される武渟川別
 西道に派遣される吉備津彦命
 丹波に派遣される丹波道主命
 「四道将軍」(日本書紀
 崇神天皇九月二十七日
 大彦命
 途中の
 和珥(わに)坂・・・和珥(わに)=和邇王仁
              おに・・・鬼
              あに・・・兄
              カニ・・・蟹・可児・梶・楫・鍛冶
         八尋熊鰐(やひろわに)・大鰐(わに)
            鰐魚(わに)・一尋鰐(ひとひろわに)
 (山背の平坂)で
 不吉な歌を詠う少女に会って
 引き返し
 崇神天皇に謀反の報告
 倭迹迹日百襲媛命
 (孝霊天皇皇女=大彦命のおば)
 の占いによって
 第八代
 孝元天皇の子
 武埴安彦命=建波邇夜須毘古命=建波邇安王
   埴=十一直(乚十目)=はに・ショク・ジキ
    =ねばつち・ねんど・埴土・埴生
     埴(はに)・埴瓮・埴猪口(へなちょこ)
     肌理(きめ)細かい黄赤色の粘土
     瓦・陶器・埴輪の原料
     衣にすりつけて模様を表す染料
 (大彦命の異母兄弟)
 とその妻の
 吾田媛
 の謀反が発覚
 五十狭芹彦命(吉備津彦命)が
 吾田媛
 大彦命
 彦国葺=日子国夫玖命(ひこくにフクのミコト)
    =彦訓服命・・・彦(ゲン)訓(クン)の複名
 (第五代
  孝昭天皇皇子の天足彦国押人命
  三世孫 or 四世孫で
  和珥臣(和珥氏)の遠祖
  垂仁天皇朝では五大夫の一人)
 が
 矢の射ち合いで
 武埴安彦を
 射ぬき鎮圧
 後、四道将軍らは
 崇神天皇十年十月二十二日に出発
 崇神天皇十一年四月二十八日に平定報告
 ↓↑
 建波邇安王(武埴安彦命)の鎮圧
 四道将軍としての4人の派遣ではないが
 崇神天皇の時
 大毘古命(大彦命)は
 高志道に
 建沼河別命
 東方十二道に派遣
 大毘古命
 と
 建沼河別命
 が出会った地が
 「相津」
 ↓↑
 河内国皇別難波忌寸条(新撰姓氏録
 崇神天皇の時に
 大彦命蝦夷平定に向かった際
 大彦命
 兎田墨坂(うだのすみさか・奈良県宇陀市榛原萩原)
 で嬰児を拾って育て
 「得彦(えひこ)宿禰」と名付けた(新撰姓氏録
 ↓↑
 埼玉県行田市
 埼玉古墳群
 稲荷山古墳出土の
 鉄剣(稲荷山古墳出土鉄剣)
 銘文
 ↓↑
 乎獲居臣
 (をわけおみ)・・ヲカイ(乎甲斐→蝦夷)の臣
 意富比垝
 (おほひこ)・・・オホヒキ(太日置・多比企)
 多加利
 (たかり)の・・・タカリ(鷹里・高里)
 足尼
 (すくね)・・・・タリネ(多里禰・多利禰)
 弖已加利獲居
 (てよかりわけ)・テイカリカイ(弖→弓一猪狩甲斐→蝦夷
 多加披次獲居
 (たかはしわけ)・タカハシカイ(高橋甲斐→蝦夷
 多沙鬼獲居
 (たさきわけ)・・タサキカイ(多崎・太崎・田崎)甲斐→蝦夷
 半弖比
 (はてひ)・・・・ナカテヒ(中弖→弓一比)
 加差披余
 (かさはよ)・・・カサハレ(塙頗余)
 獲加多支鹵
 (わかたける)・・カガタシル(日加→加賀多子留)
 ↓↑   鹵=しお・ロ・岩塩・鹵石
       奪い取る・鹵獲
       大型のたて(楯)
       鹵簿(ロボ)=儀仗を備えた行幸、行啓の行列
 ↓↑    「狼王ロボ
      (Lobo, the King of Currumpaw)・1896年」
      「白い(blanco・ブランカ)」は
       スペイン語の女性形で
      「雌の白狼」で・・・「雄狼のロボの妻」
       アメリカの博物学
       アーネスト・トンプソン・シートンの物語
 ↓↑    1896年=丙申
       明治二十九年
       6月15日-明治三陸津波(死者2万名)
       8月31日-陸羽地震発生、209名の死者出る
       11月8日-「古事類苑」の刊行はじまる
 ↓↑    8月27日-「宮沢賢治」、詩人・児童文学者
 大王
 斯鬼(しき)・・・シキ(磯城・敷島)・・・卑弥呼の宮?
 の宮
 オオヒコ
 →タカリノスクネ
 →テミカリワケ
 →タカヒジワケ
 →タサキワケ
 →ハテヒ
 →カサヒヨ
 →オワケノオミ
 ↓↑ 
 (表)
 辛亥年七月中記
 乎獲居-臣
 上祖
 名-意富-比垝
 其児
 多加利足-尼
 其児
 名-弖已加利獲-居
 其児
 名-多加披次獲-居
 其児
 名-多沙鬼獲-居
 其児
 名-半弖-比
 (裏)
 其児
 名-加差披-余
 其児
 名-乎獲居-臣
 世々為杖刀人-首
 奉事来至今
 獲-加多支鹵-大王
 寺在-斯鬼宮時
 吾-左治天下
 令作此百練利刀
 記吾-奉事根原也
 ↓↑
 意富  -比垝(ヒキ)
 多加利 -足尼(アニ)
 弖已加利-獲居(カイ)
 多加披次-獲居(カイ)
 多沙鬼 -獲居(カイ)
 半   -弖比(テヒ)
 加差  -披余(ハレ・ワレ)
     -乎獲(ヲケ・ヲカ)
 ↓↑
 大彦命
 (おおひこのみこと・おおびこのみこと)
 「大彦命日本書紀)」
 「大毘古命(古事記)」
 稲荷山古墳出土鉄剣の銘文の
 「意富比垝」・・・?
 ↓↑
 第八代孝元天皇の第一皇子
 第十一代垂仁天皇の外祖父
 阿倍臣(阿倍氏)など諸氏族の祖
 御間城姫
 垂仁天皇(第十一代)の生母
 大彦命はその外祖父
 ↓↑ 
 垝=やぶれる・だい・キ
   dilapidated・ruined
   荒廃した・くずれかかった
   荒れ果てた
   ラテン語
  「石(磐・岩=いし・いわ=違和・伊和・伊波・亥和)
   が転(ころ)がり落ちる」の意
 危=危(あぶ)ない・危(あや)うい
   脅かす・危害を加える・滅ぶ・疑う
   高い山・険しい・正しい・屋根
 危=々+山・儿+山・陒
   危ない・危うい・脅かす・危害を加える
   滅ぶ・疑う
   山などが高い・険しい
   正しい・屋根
   字形
   形声声符は
  「厃(キ)」
  「厃は厂の上で人が跪(ひざまず)く様子」
  「危=厃の下に人が跪(ひざまづ)く姿(㔾)」
  「高きに在りて懼るるなり
   厃に從ひ、
   自ら卪(節)して之れを止む(説文解字・巻九)」
  「卩(㔾、卪)を節(節制・節約)」と解釈・・・
   ↓↑
  意富富杼王
 (おおほどのおおきみ)
 古墳時代の王族
 大郎子(おおいらつこ)
 意富々杼王
 意富富等王
 大大迹王
 とも
 父は
 稚渟毛二派皇子応神天皇の皇子)
 母は
 河派仲彦王の女
  弟 日売真若 比売
 (おとひめまわかひめ
  百師木伊呂弁とも)
 同母妹の
 忍坂大中姫
 衣通姫
 は
 允恭天皇に入内
  ↓↑
 意富々杼王は
 息長坂君(息長君・坂田君)
 酒人君
 三国君
 筑紫
 米多君(めたのきみ)
 などの祖(古事記
 中斯知命
 (なかしちのみこと)を妃として
 乎非王
 (おいのおおきみ)
 を儲け
 その孫が
 男大迹王(袁本杼王)=継体天皇
 (「上宮記逸文」)
 「意富富等
 (オオホド=大ホド)」
 という名は
 「継体天皇」の諱
 「男大迹(オホド=小ホド)」
 と対応・・・
 本来は別人の名で実際は
 「大郎子」と称されていた・・・
 「冨=富の俗字・とむ・とみ・フ・フウ」
    愛媛県に「冨士山(とみすやま)」
    石川県の「冨樫氏(とがしし)」
 ↓↑
 意富本杼王(オホホドノミコ)
 意富斗之地神(オオトノジのカミ)
 意富斗能地神(オオトノジのカミ)
 ↓↑
 使主(おみ)・・・臣(おみ)
 ↓↑
 おみ(使主)
 上代の姓(かばね)の一
 渡来人氏族に多い
 上代の敬称の一
 人名の下に添えて用いた
 「中臣(なかとみ)の
  烏賊津(いかつ)の使主(おみ)」
  ↓↑
 臣(おみ)
 姓(かばね)の一
 姓の中では
 連(むらじ)と並んで高位置
 古くは
 使主とも表記
 「使主」は敬称
 卅七年春二月戊午朔
 遣阿知使主・都加使主於吳、令求縫工女。
 爰阿知使主等、渡 高麗国、欲達于吳。
 則至高麗、更不知道路、乞知道者於高麗。
 高麗王、
 乃副久禮波・久 禮志二人爲導者、由是得通吳。
 吳王於是、與工女兄媛・弟媛・吳織・穴織四婦女。
  ↓↑
 新田部皇女(にいたべのひめみこ)
 ?〜文武天皇三年九月二十五日
   (699年10月23日)
 天智天皇の皇女
 母は
 橘娘(父は阿倍内麻呂
 同母の姉に
 明日香皇女
 699年
 死亡
 葬儀参列の勅
 皇族・臣下、百官の人々が参列
 父=天智天皇
 母=阿倍橘娘(父は阿倍内麻呂
 姉=明日香皇女(忍壁皇子妃)
 伯母=小足媛
 従兄弟=有間皇子
 夫=天武天皇
 子=舎人親王
  ↓↑
 橘娘(たちばなのいらつめ)
 ?〜天武天皇十年二月二十九日
   (681年)
 阿倍倉梯麻呂(内麻呂)の娘
 天智天皇の妃
 明日香皇女
 新田部皇女
 を生む
 姉妹に
 小足媛(孝徳天皇の妃)
 またの名は
 「阿倍夫人」・・・
ーーーーー
 相楽神社
 京都府
 木津川市
 相楽清水
 相楽の読み
 さがら・さわら・さらく
 そうらく・そうら
 あいらく・あいら
 相楽郡(そうらくぐん)
 京都府
 山城国の郡
 京都府
 木津川市
 山城町
 上狛(かみこま)と推定・・・
  ↓↑ 
 氷羽州比売命=比婆須比売命=日葉酢媛
 の娘が
  ↓↑
 垂仁天皇
 追い返された
 円野姫が首を吊った地
  ↓↑
 八幡宮
 「相楽」の地名
 『古事記
 第十一代
 垂仁天皇の時代
 四人の姉妹が
 垂仁天皇に輿入れ
 円野比売命が
 醜女だったので
 実家に戻され
 姫が帰途に首を吊った
 その地が
 「懸木(さがりき)」
 と呼ばれ
 これが
 「相楽(さがら)」になった
 この姫を祀る
 「島懸神社(島縣神社)」
 が境内社としてある
  ↓↑
 「歌姫街道口に鎮座し
  京・奈良を結ぶ街道の入口の
  歌姫街道」の名は
 雅楽寮から由来・・・
 旧
 相楽村(さがなかむら)
 北ノ庄・大里・曽根山
 の三区の
 産土神
 明治十年(1877年)
 式内社に認定
 御祭神は
 誉田別命・足仲彦命・気長足姫命
 の八幡神
 八幡神社八幡宮と呼ばれていた
 奈良時代
 宇佐八幡宮を勧請
 円野姫命を祀る島懸神社の他に
 末社として、
 同じ時期に輿入れした姉で
 垂仁皇后となった
 比波須姫命を祀る
 松枝神社がある
 姉妹である
 歌凝姫命を祀る
 清水谷神社がある
 この姫も
 円野姫命と同様
 醜女として
 垂仁天皇に追い返されたが
 円野姫命のような
 自殺(未遂?)などの逸話はない
 子守神社
 茅比売命を祀り
 四姉妹最後の一人は
 弟比売命・・・同一神?
 豊八稲荷社もある
 飛地境内として
 近鐵山田川駅
 西北方に
 白山神社
 がある・・・
  ↓↑
  旦 波 比古多多須美知 宇斯 王
 (たにはのひこたたすみちのうしのみこ)
 の娘たち
  比婆須比売 命
 (ひばすひめのみこと)
  弟 比売命
 (おとひめみこと)
  歌 凝 比売 命
 (うたこりひめのみこと)
  円 野比売 命
 (まとのひめのみこと)
  ↓↑
  比婆須比売 命
 (ひばすひめのみこと)
  弟 比売命
 (おとひめみこと)
 その妹である
  歌 凝 比売 命
 (うたこりひめのみこと)
  円 野比売 命
 (まとのひめのみこと)
 は、容姿が悪く醜く
 実家に返した
  ↓↑
  円野比売命
 (まとのひめのみこと)
 山代国の
 相楽(さがらか)
 京都府相楽郡
 木津川市辺り
 で
 木の枝に首を吊ろうとしたので
 その地を
 懸木(さがりき)と言うようになり
 地名が
 相楽(さがら)となった
 彼女が
 弟国(おとくに)
 京都府乙訓郡
 長岡京市周辺に着いた時
 深い淵に身を投じて死んだ
 その地を
 堕ち国(おちくに)といい
 弟国(おとくに)となった
  ↓↑
  比婆須比売命
 (ヒバスヒメ)
  弟比売命
 (オトヒメ)
  歌凝比売命
 (ウタゴリヒメ)
  円野比売命
 (マトノヒメ)
ーーーーー
 ・・・
 684(天武十三)年
 姓制度
 真人(まひと)
 朝臣(あそみ)
 宿禰(すくね)
 忌寸(いみき=伊美吉)
 道師(みちのし)
 臣(おみ)
 連(むらじ)
 稲置(いなぎ)
 ↓↑
 忌寸(いみき)
 684年(天武天皇十三年)
 八色の姓
 上から4番目
 直(あたえ)姓の国造
 渡来人系の氏族に与えられた
 ↓↑
 秦忌寸 朝元
 左大臣 橘卿 謔れて云はく
 「歌を賦するに堪へずは、麝をもちてこれを贖へ」
   秦  忌寸 朝元
  (はたのいみきてうぐわん)
 弁正法師は俗姓を秦氏
 性滑稽にして談論によし
 少年にして出家、すこぶる玄学に洪にす
 太宝年中、唐国に遣学す
 時に
 李隆基、竜潜の日に遇ふ
 囲棊を善くするをもつて
 しばしば賞遇せらる
 子に朝慶・朝元あり
 法師および慶
 唐に在りて死す
 元本朝に帰りて、仕えて大夫に至る
 天平年中、入唐判官に拝せらる
 大唐に到りて天子に見ゆ
 天子その父をもつてのゆゑに特に
 優詔して厚く賞賜す
 本朝に還し至す
 尋いで卒す
 ↓↑
 朝元は
 僧弁正の子
 弁正の入唐中に生まれ
 兄、朝慶とあり、
 ふたり兄弟
 母は中国の女性・・・
 父の入唐
 大宝二年(702)
 後
 父と兄が中国で亡くなり、
 ひとり日本に連れられた
 養老二年(718)
 遣唐使の帰国の時・・・
 『続日本紀
 養老三年(719)四月
 「秦朝元に忌寸の姓を賜ふ」
 朝元の日本帰国時は
 14〜15歳・・・
 ↓↑
 養老五年(721)正月
 「百僚の内より学業に優遊し
  師範とあるに堪ふる者を擢して
  特に賞賜を加へて後生を勧め励すべし」
 として、
 「医術の従六位下秦朝元」
 が褒賞
 朝元は医術の専門家
 この時17〜18歳
 中国で医学を学んできた
 天平二年(730)三月
 諸蕃・異域、風俗同じからず
 若し、訳語無くは、事を通すこと難けむ
 仍て
 粟田朝臣馬養
 播磨直乙安
 陽胡史真身
 秦朝元
 文元貞等
 五人に仰せて
 各弟子二人を取りて
 漢語を習はしめむ
 ↓↑
 天平五年(733)
 遣唐使として再び中国に渡航
 父、弁正が囲碁が強く若い頃の
 玄宗皇帝とよく囲碁を打った
 この時
 朝元は玄宗に優遇された
 帰国後
 天平九年(737)十二月
 「外従五位上秦忌寸朝元、図書頭」
 天平十八年(746)三月
 「外従五位上秦忌寸朝元、主計頭」
 漢語、漢字は得意
 意味をなさない漢字を並べた
 万葉仮名で歌を詠むなど・・・どうでもヨカッタ
 ↓↑
 秦 朝元(はた の あさもと)
 奈良時代の官人
 姓は忌寸
 遣唐留学僧
 弁正の子・・・・弁証の使?
 兄は
 秦朝慶
 官位は外従五位上・主計頭
 ↓↑
 僧弁正の子(懐風藻
 母は唐の女性・・・
 兄に朝慶
 『尊卑分脈』では
 女子は
 藤原綱手(広嗣の弟)に娶られ
 菅継をもうけた
 『公卿補任』は
 藤原種継の母を
 「従五位下-秦朝元之女」
 なお秦氏
 秦の始皇帝の末裔・・・渡来系氏族
 『日本書紀』によれば
 応神天皇十四年
 始皇帝の子孫
 弓月君が百二十県の百姓を率いて来朝
 絹・綿・糸などの生産従事の部民を従え
 山背国
 葛野郡に本拠を置いた
 ↓↑
 父弁正は
 702(大宝二)年の遣唐使に伴って入唐
 在唐中に
 朝慶・朝元
 の二子をもうけ
 父と兄は唐で死去
 朝元は
 718(養老二)年
 遣唐使と共に帰朝
 719(養老三)年四月
 忌寸を賜姓
 721(養老五)年一月
 医術の師範として褒賞
 従六位下
 730(天平二)年三月
 通訳養成の任を命じられ
 弟子を与えられ
 翌年一月
 外従五位上に昇叙
 733(天平五)年
 第九次
 遣唐使の判官として入唐
 玄宗皇帝より父の縁故を以て
 厚遇
 735(天平七)年
 帰国
 外従五位上に昇叙
 737(天平九)年
 図書頭
 746(天平十八)年一月
 元正上皇の御在所での肆宴に参席
 三月
 主計頭
 『懐風藻
 父、弁正の小伝が載り
 朝元についても記述
 ↓↑ 
 養老二年(718年)
 第九次遣唐使の帰国とともに訪日
 養老三年(719年)
 忌寸姓を賜与
 養老五年(721年)
 模範とすべき者に対して褒賞
 医術に優れるとして
 吉宜らとともに
 朝元
 の名が挙げられている
 天平二年(730年)
 訳語の弟子二人に唐語を教える
 天平三年(731年)
 外従五位下
 天平四年(732年)
 多治比広成
 を大使とする
 第十次遣唐使節に
 入唐判官
 唐では父・弁正の縁故により
 玄宗によって賞賜
 天平六年(734年)
 帰国
 天平七年(735年)
 入京
 外従五位上
 天平九年(737年)
 図書頭
 天平十八年(746年)
 元正天皇の御所に
 左大臣橘諸兄らとともに参上
 雪景色を和歌に詠むようにとの詔があった
 他の出席者は和歌で応えたが
 秦朝元だけは詠まなかったため
 橘諸兄
 「麝香をもって贖え」
 と言われ、黙り込んだ・・・
 三月に主計頭に任ぜられた
 ↓↑
 父=弁正
 母=不詳
 生母不詳の子女
 男子=秦真成
 男子=秦忍国
 女子=藤原清成
 女子=藤原綱手
 ↓↑
 朝慶と朝元
 717年(養老元)
 第8次遣唐使に同行して入唐してきた
 阿倍仲麻呂
 を
 弁正はその才能を愛し、親身になって世話
 仲麻呂も弁正によった
 日本に渡った
 朝元は
 父の俗姓を継いで
  秦  忌 寸 朝  元
 (はたのいみき・ちょうげん)
 を名乗り朝廷に仕えた
 魚養は、漢字の素養を讃えた
 「朝野 魚養(あさの の なかい)」
 官人・能書家
 氏姓は忍海原連→朝野宿禰
 官位は外従五位下典薬頭
 ↓↑
 ・・・中国名「井真成」という遣唐留学生の墓誌発見・・・
 「西安晩報」で報じた
 39.5センチ四方の石
 12行に171文字が刻
 埋葬者は
 姓を「井」
 字を「真成」
 という日本人の遣唐留学生
 国命により入唐、学問を修め
 正式な官僚として唐朝に仕えた
 開元二十二年(734)正月某日
 急病のため36歳で死去
 万年県の川のほとりに埋葬
 玄宗皇帝は死を悼み
 尚衣奉御(尚衣局の責任者)の位を追贈
 日本名は不明
 ↓↑
 紀元717年
 玄宗皇帝の開元五年
 中国名「井真成」の夢・・・
 在唐17年
 天平五年(733)五月
 遣唐使の一行が長安に入った
 年の暮れに急病で倒れ
 開元二十二年(734)正月
 死亡
 彼の葬儀には同期で入唐した
 阿倍仲麻呂
 第9回遣唐使
 大使
 多治比広成(たじひのひろなり)
 副使
 中臣名代(なかとみのなしろ)
 が参列したかも・・・
 墓誌には
 「形は異土に埋葬されたが、魂は故郷に帰ることを願う」
 と
 第9次遣唐使の一行は
 10月帰国
 彼らに同行し
 下道真備
 玄硃
 理鏡
 などが帰国
 阿倍仲麻呂も帰国を願い出ていが
 唐朝官吏、左補欠の要職
 玄宗の信任が厚く、帰国は許されなかった
 701年(大宝元二)
 第7次遣唐使
 学問僧に
 弁正
 俗姓は秦氏
 渡来系氏族の子孫
 唐に渡った後
 皇太子時代の玄宗の厚遇を受け
 碁を打って楽しんだ・・・
 長安で、彼は唐の女性を愛し、還俗、結婚
 2人の男子が生まれた
 朝慶
 朝元
 717年(養老元)
 第八次遣唐使に同行して入唐してきた
 阿倍仲麻呂
 弁正はその才能を愛し
 世話をし
 仲麻呂も弁正を慕い
 一家の者たちと親しくなった
 長男の朝慶は13、4歳
 次男の朝元は12歳ぐらい・・・
 ↓↑
 在唐、十数年
 弁正は
 第8次遣唐使が帰国するとき
 次男の
 朝元を単身乗船させて日本に渡らせ
 長男の朝慶は父とともに唐土に止まった
 日本に渡った
 朝元は父の俗姓を継いで
 秦忌寸朝元(はたのいみき・ちょうげん)
 を名乗り朝廷に仕えた
 十六年後
 733年(天平六)
 第9次遣唐使が派遣
 朝元は判官として随行
 生まれ故郷に渡った
 父母や兄との再会を果たした・・・
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