2371日目・・・「貮阡参陌漆拾壹」比目(比売・比賣)・・・「売り日=近世、遊女が必ず客をとるように決められていた日・物日(ものび→摸之備)・紋目(もんび→意図の文の目=馬・女・埋)」・・・「約定日(訳綴比)は、株式(下部史記・歌舞識)の買い注文や、売り注文が成立した日。受渡日(従訳比)は、売買(葉意這)の決済(決裁)をする日。売買が成立した場合、約定日から起算して四営業日目が受渡日」・・・もう、9月の24日の日曜日ですか・・・20日は隣の街の病院へ朝からバスで通院・・・

 コンピュータで調べて、メモ帳に文字を貼り付けていたら固まってしまった・・・キイボードもマウスも反応はウンともスンとも・・・電源を落とせば、スベテが消滅するのは承知だが・・・
 「リセット(reset)=初期状態に戻す、強制的に再起動させること(システムエラーを起こして画面がハングアップした場合などに使用するがハードディスクのデータなどが損傷する可能性がある)」・・・
 「すべてを元に戻すこと・最初からやり直すこと・状況を切り替えるためにいったんすべてを断ち切ること」・・・
 「reset=置き直す、再び置く、目盛りをセットし直す、はめ直す、組み直す、継ぎ 合わせる、整形する、刃をつけ直す、とぎ直す」ですか・・・
 電源を切れば、「陽侯氏(陽胡氏)=隋王朝煬帝の末裔」の「倭(日本)王朝」に喰い込んでいった状況の「消滅?」である・・・
 元々、記憶力が散漫な「妄想人のブログ日記」・・・過去の経験から同じことの繰り返しは「想定(ソウテイ)内」・・・「装丁=ソウテイ=草薙・叢綴」の内(うち・ナイ・ダイ)の「内裏(ダイリ)」・・・「丙(ヘイ・ヒョウ→豹→彪→虎)=一+人+冂=ひのえ=陽=煬」・・・兎に角、デンキを切らなくちゃぁハジマラナイ・・・で、終(糸+冬)わりの始(女+台→ム口・臺→吉冖至)まり・・・「始=女+臺(十一口冖一ム十一)」・・・政治的リセットって「ムシゴロシ」・・・ダレの「希望=キボウ=鬼謀・既望・公望・喜望」、「喜望峰(Cape of Good Hope・Kaap de Goede Hoop)←嵐の岬」・・・
 「多武の峰=とうのみね・おほのたけるのみね・タブのホウ」・・・

ーーーーー
 中臣鎌子・・・中臣=口+l+匚+¦+コ
 ↓↑     鎌子=金+兼+子
        ↓↑
        中の目を見張っての監視、監督
        中→中大兄の皇子?
        金を兼ねる
        子(一+了)
          始終(シジュウ)
          と
 ↓↑       終始(シュウシ)
 藤原鎌足中臣鎌子)とは異なる人物?で改名(子→足)
      ナゼ、同姓同名なんだか?→鎌で刈る足
                   カマを懸けるアシ
      「カマをカケる」=「囂し(かまし)+引っ掛け」
       相手を引っ掛けコトバで
       誘導し
      「喧(やかま)しく=煩(五月蠅・うるさ)く
       相手に喋(しゃべ)らせ
       ホンネ(本音)を訊き出す意」
      「甑(こしき)や桶(おけ)を作る時に
       寸法を計る道具をカマと呼び、
       カマで寸法を確認することの意で
       相手を自分の思惑に誘導(訊問)し
       白状させるコト」
       ・・・ココは「かま・がま」の同音異字漢字の
      「鎌=かま=釜・窯・罐・缶・嘉麻・蒲・竃」
      「鎌=がま=蝦蟇・臥眞」で、
       動詞の
      「かま・かみ・かむ・かめ・かも」
       の同音の異字漢字のスベテである・・・
 ↓↑
 飛鳥時代の豪族
 中臣真人の子
 中臣黒田の父
 欽明天皇の時代の連
 仏教に強く反対
 ↓↑
 藤原鎌足中臣鎌子・・・ナゼ、
            「中臣鎌子」とは異なる人物なのに
             同姓同名なんだか「?」は
            「カマのアシ」をカケルである
 中大兄皇子の側近
 645年
 大化の改新乙巳の変
 中大兄皇子
 蘇我入鹿を暗殺・・・・入鹿=いるか=海豚
 蘇我蝦夷を討つ・・・・蝦夷=カイ=甲斐・改・解・海・蟹
            蝦夷=毛人=モウジン=盲人
                  けひと=気人   
 ↓↑
 左大臣
 阿部倉梯麻呂・・・阿部の
          倉梯(ソウテイ)麻呂
           梯=木(十八)+弟・・・乙・妹
             おとうと=音(於訳)得訳
           梯=かけはし・懸橋・掛橋・書葉詞
             はしご・テイ・タイ
 右大臣
 蘇我倉山田石川麻呂・・・蘇我
             倉山田(ソウサンタ)
                 総纂(簒)拿(他・多)
             石川(セキセン)
                籍 撰
             麻呂(麿・馬賂)
 と対立
 647年(大化三年)
 新冠位制度で
 大錦冠(ダイキンカン)を授与・・・大=一+人
                  錦=金+白+巾
                  冠=冖+元+寸
 649年(大化五年)
 阿部倉梯麻呂
 蘇我石川麻呂
 が薨去・失脚した後
 654年(白雉五年)頃
 大紫冠(ダイシカン)・・・大
              紫=此+糸
              冠
 に昇格
 669年(天智天皇八年)
 天智天皇が彼の病気を見舞った時
 「生きては軍国に務無し」
 と語った・・・「白村江の戦い」の敗北の言辞?
 「白(しろ・ハク・ビャク)い村(むら・ソン)の戦(いくさ・たたかい・セン)」・・・「百済新羅」の「夢等の移句差」・・・
  白→伯・拍・泊・栢・珀
    ↓↑
  ハク・ヒヤク・ビャク
 をさ・かしら(首長)
 伯氏は一番の兄・長兄
 をぢ(伯父)、父の兄
 をっと(夫)・婦人、其の夫の稱
 五爵位(公・侯・伯・子・男)の第3位
 馬の藭・馬祖・「天駟房星」の藭、其の祭
 白馬・天馬
 太白=タイハク=多井伯=太伯=金星
    李白が生まれた時
    母が懐に
    長庚星(宵の明星・太白)
    が入る夢を見て名づけられた
 伯=みち(道)・ちまた(巷)・陌
 伯趙は鳥の名・伯勞(百舌鳥・鵙・鴃)
        春之在者
        伯勞鳥之草具吉
        雖不所見
        吾者見将遣
        君之當乎婆(作者 不明)
 方伯は州の長・後世は藩司の異稱
 歡伯は酒の異名
 一藝に長ずる者の稱「詩伯・畫伯=画伯」
 はたがしら・諸侯の盟主=霸・五霸、五伯
 侯伯の
 「伯」と紛るるを恐れ、
 「霸」の字を借りて之を別つ
  ↓↑
 方伯(Landgraf、landgrave)
 ヨーロッパで
 封建諸侯に与えられた称号の一つ
 古代中国で諸侯の長
 「千里之外設方伯(礼記・王制篇)」
 王都より千里内は「王畿」
 その外部を「方」
 殷(商)は諸国を
 九州にわけ
 八州それぞれに方伯を置いて諸侯を束ねさせた
 伯=覇で、後の「覇者(諸侯の盟主)」
 「方伯の称は
  漢代の州牧、刺史、
  唐の観察使などの
  雅号として後代まで使用」・・・
 ↓↑
ーーーーー
 藤原鎌足
 天智天皇の払い下げの女性、
 「采女-安見児(やすみこ)」
 を貰って
 「われはもや、安見児得たり・・・吾者毛也、安見兒得有
  皆人の得難にすとふ・・・・・・得難尓為云
  安見児得たり・・・・・・・・・安見兒衣多利」
 と、歓喜したとか・・・「吾者毛也=吾は毛(蝦夷)也」?
            「安見兒得有=八角示を恵有」?
             ↓↑
             八角子(やすみス)
               =乾燥させた
                唐樒(トウシキミ)の果実
             あみじえう=編 字を重烏
 そもそも
 「安見児(やすみこ・あみこ・アンケンジ)」
 とはナニか?・・・・編み拠・案 件の字・・・???
 ↓↑
 「多武峯-縁起-絵巻」・・・多(おおの)武峯(ブホウ)
 鎌足が生まれたときに
 鎌をくわえた
 白い狐が現れ・・・白狐=白拠=ビャッコ=百個・百戸
 生まれた子の
 足元に置いたため・・・足元=拾(十)+元(二儿)
 その子を
 「鎌子」と名づけた・・・鎌子=金+兼ねる+子(始終・終始)
 と描かれ、逸話にちなみ、
 談山神社では鎌を
 銜(咥・くわえ)た・・・銜=彳+金+亍
 ↓↑          咥=口+一+ム+十+一
             加=力+口
             啣=口
               +
               卸(午止卩)
 ↓↑            ↓   ↑  
         卩=割符・セチ・セツ
           異体字は「㔾・𠁾・卪」
       瑞信なり
       國を守る者は玉卪を用ひ
       都鄙を守る者は角卪を用ひ
       山邦に使する者は虎卪を用ひ
       土邦の者は人卪を用ひ
       澤邦の者は龍卪を用ひ
       門關の者は符卪を用ひ
       貨賄には璽卪を用ひ
       道路には旌卪を用ふ
       相ひ合するの形に象る
 ↓↑    凡そ卪の屬は皆な卪に従ふ(説文解字
 白狐のお守りが売られている・・・
 ↓↑
 「多武峰墓=藤原鎌足の墓」?
 阿武山古墳(あぶやまこふん)・・・阿武  の山
                  則天武后の纂(簒)
 大阪府
 高槻市
 奈佐原
 茨木市・・・茨木=いばらぎ=茨城
          茨城=常陸國→水戸藩
                 徳川光圀→「伯夷伝」
                 彰考館
                「大日本史」の編纂
 安威にある古墳
 阿武山の山腹に位置
 被葬者は藤原鎌足中臣鎌足)・・・?
ーー↓↑ーー
 中臣-可多能祜・・・藤原鎌足中臣鎌足)の祖父
ーー↓↑ーー
 中臣御食子・・・・藤原鎌足中臣鎌足)の父
 ↓↑
 父は
 中臣可多能祜
 母は
 那爾毛古娘(山部歌子の娘)
 妻は
 智仙姫(大伴咋の娘)
 子は
 藤原鎌足(614-669)・・・藤原鎌足中臣鎌足
 生母不明の子
 中臣-久多
 中臣-」垂目(八男)
ーー↓↑ーー
 藤原鎌足中臣鎌足)の
 父は中臣御食子・・・御食子(みけこ)
           名は彌気=美気古
           中臣-可多能祜の長男
           冠位は小徳冠
 母は大伴智仙娘
  (大伴囓子の娘)の長子・・・囓子
                齧(かじる・噛)
 正妻は鏡王女(?〜683年)・・・鏡(金立日儿)王女
   (元々、中大兄皇子の妃)
 妻は車持与志古娘・・・車の持を
            与え志(こころざす)古の娘
 長男は
 定恵(真人・644年〜665年・僧侶)・・・定惠(定慧)
 二男は
 藤原不比等(659年〜720年・尊卑分脈
ーー↓↑ーー
 藤原不比等
 母は
 鏡王女(興福寺縁起)・・・
ーー↓↑ーー
 藤原鎌足中臣鎌足
 母未詳の
 娘
 氷上娘(?〜682年)(天武天皇夫人、但馬皇女の母)
 五百重娘天武天皇夫人
      後に
      不比等の妻、新田部親王藤原麻呂の母)
 耳面刀自(弘文天皇夫人、壹志姫王の母)
 斗売娘(とめ・とねのいらつめ)
    (中臣意美麻呂室、中臣東人の母)
ーー↓↑ーー
 藤原鎌足中臣鎌足)の祖は
 天児屋命
(あめのこやねのみこと
 テンジヤメイ=典字哉名)
 天児屋根命とも
 春日権現=春日大明神
  居々登魂命
 (こごとむすび)の子
 妻は
  天  美津玉 照 比売  命
 (あめのみつたまてるひめのみこと)
 天押雲命の父
 岩戸隠れの際
 岩戸の前で祝詞を唱え
 天照大神が岩戸を少し開いたときに
 太玉命とともに
 鏡を差し出した
 天孫降臨の際
  天津彦彦火
  瓊瓊杵(ににぎ)尊
  ↓↑
  天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能
  邇邇芸(ににぎ)命に随伴
 中臣連の祖となった(古事記
ーーーーー
 「陽胡(侯)」はトンボ(蜻蛉)の幼虫「水蠆(やご)」・・・
 「ヤゴ(水蠆)=トンボ目(蜻蛉目)、トンボ亜目(不均翅亜目)の幼虫を指す通称(俗称)・肉食性の水生昆虫・トンボを表すヤンマの子を略してヤゴと称された」
 「成虫とは外見や生態は全く異なるがトンボ目の幼虫」
 「幼虫の期間は数週間のものから数年に及ぶ」
 「トンボ類はよく似た姿で、外見上の差は大きくない・トンボ亜目かイトトンボ亜目は判別できる以外は、変わらない。しかし、ヤゴでは、姿は大きく異なり、分類群的に明確な差がある・ギンヤンマ、オニヤンマ、コオニヤンマを並べると、成虫ではこれらが別の科に属することは分からぬほど似通っているが、幼虫だけを並べて見れば、甚だ異なっている・外見上では、イトトンボ亜目とトンボ亜目との差が大きい。ムカシトンボ類の幼虫は、トンボ目の、特にサナエトンボ類のそれに近い」
 「イトトンボ、カワトンボ類のヤゴは、外見が一般的なヤゴとははっきり異なる。頭は左右に長い棒状で、体は前後に細長い棒状、あるいは管状になっている。短い体のものもあるが、幅広くはならない。足は細長く、それを使って歩くが、全身をくねらせて泳ぐものもある。一般にイトトンボ類は体が細長く、柔らかな感じで、褐色から緑に近い色をしている。カワトンボ類は細いがやや短い体で、がっしりとしており、茶褐色から黒っぽい色をしている。
 特に目立つ特徴は、腹部末端に細長くて扁平な気管鰓があることである。この鰓は背中側に一つ、腹側左右に一つ、合計三つあって、内部には気管が入り込み、細かく枝分かれしている。この鰓は自切することができて、捕まえた時など、たやすく外れてしまうが、幼虫の生存には影響ないようである」
ーー↓↑ーー
 陽胡玉陳
 飛鳥時代の学者
 陽胡(陽侯)氏の祖
 推古天皇十年(602)
 百済から渡来した
 僧観勒(かんろく)に
 暦法をまなんだ
 陽胡氏は
 百済
 楊侯氏を祖とする・・・
 後
 隋王朝
 煬帝
 の子孫と称する
 名は
 王陳
 ↓↑
 陽侯 麻呂(やこ の まろ)
 奈良時代の官人
 姓は史
 官職は大隅国
 陽侯氏(陽侯史・陽侯忌寸)
 隋の
 煬帝の子孫である
 達率
 楊候
 阿子王・・・・・・・「阿児・尼子」のキミ(王)
 の末裔を称する渡来系
 ↓↑
 陽侯氏(陽侯史・陽侯忌寸)
 隋の煬帝の子孫で
 達率
 楊候
 阿子王の末裔を称する渡来系氏族
 楊候・楊胡
 陽候・陽胡・・・陽(阝日一勿)侯(人ユ矢)
                ユ=矢の的・々・仝
                  ひとがしら・やね
        「侯=矦」=王室への邪気の
              侵入をうかがい除く者
              弓を射るときの的(マト)
              まとをうかがい矢を放つ
              弓矢で王を衛る近衛兵
              世襲的な
              封建制(周)、郡県制(秦)
              郡国制(漢)の首長
 とも記される
 文武天皇四年(700年)
 僧侶の
 通徳が還俗して・・・・・・・通じる徳(得・悳)
 陽侯史の
 姓と
 久爾曾・・・久爾=くに・くじ・キュウジ
         曾(ソ・ソウ)=かって=曽て・嘗て
         過去のある時点の事柄、事象
         昔・以前・前に
 の名を与えられ
 勤広肆
 に叙せられた
 ↓↑
 陽侯麻呂
 国司に任命
 大隅国守在任中
 養老四年(720年)
 反乱を起こした
 隼人によって殺害
 2月29日
 大宰府から朝廷に報告され
 戦闘勃発
 ↓↑
 鹿児島県鹿屋市の伝承
 陽侯麻呂が最期を迎えたのは
 鹿屋市永野田町付近
 ↓↑
 大隅国国府国分市にあった
 陽侯麻呂は地方巡検
 現地逗留中に襲撃を受けた
 鹿屋にはかつて国司山(国司城)があり
 そこが官衙の跡であった・・・
 国司山を馬で脱出
 陽侯麻呂は、
 大姶良町横山まで駆け抜け
 名貫川を越え山上で自害を図ったが
 死に切れず
 水を求めて
 泉の「ほとり(畔・辺・邊・滸・滸)」で絶命
        姫=湖畔の巨人の足跡?
          姬姓=禹の姒姓と同祖
             黄帝、帝嚳の別姓
             嚳の子孫の后稷が
             姬を姓とした
 ↓↑ 
 陽侯 令璆(やこ の れいきゅう)
 奈良時代の貴族
 姓は史(毘登)、のち 忌寸
 但馬守
 陽侯真身の子
 官位は外従五位下・豊後介
 「陽侯令璆」
 ↓↑
 天平感宝元年(749年)
 東大寺大仏建立に際して
 陽侯令珍
 ら兄弟3人とともに
 千貫の貢銭を行い
 令璆は従八位上から外従五位下に叙せられた
 ↓↑
 天平宝字三年(759年)
 越後守に任ぜら
 天平宝字四年(760年)
 渤海使
 高南申
 を渤海に送り届けて帰国
 内位の従五位下に叙せられた
 天平宝字七年(763年)
 内匠助
 ↓↑
 後、
 神護景雲二年(768年)
 一族64名が
 毘登姓
 から
 忌寸姓
 に改姓した際
 弟の
 人麻呂が一族の代表とされ
 令璆は兄たちの没後に存命にかかわらず
 一族を代表する立場になく
 加えて位階を剥奪された形跡がある
 淳仁朝から
 称徳朝にかけて政争に巻き込まれた・・・
 宝亀九年(778年)
 外従五位下に復され
 宝亀十一年(780年)
 尾張
 天応元年(781年)
 尾張
 天応二年(782年)
 豊後介
 と
 光仁朝末から
 桓武朝初頭にかけて地方官を歴任
 ↓↑
 陽侯 真身(やこ の まみ/むざね)
 奈良時代の貴族
 官位は従五位下・但馬守
 養老六 年(722年)
 矢集虫麻呂
 らとともに
 養老律令撰修の功労により
 功田を与えられた
 真身の功田は4町
 天平二年(730年)
 通訳養成のために
 粟田馬養
 ら4人とともに
 それぞれ弟子を
 2人取り漢語を教授した
 天平七年(735年)
 外従五位下に叙せられた
 天平十年(738年)
 豊後守
 天平十三年(741年)
 但馬守
 聖武朝後半は地方官を歴任
 天平二十年(748年)
 外従五位上次いで従五位下に昇叙
 ↓↑ 
 東大寺大仏建立に際し
 銭1000貫
 牛1頭
 を献上
 ↓↑
 父は不詳
 母は不詳
 生母不詳の子女
 男子は陽侯令珍
 男子は陽侯令珪
 男子は陽侯令璆
 男子は陽侯人麻呂
ーーーーー
 阿倍大麻呂=阿倍目
 ↓↑
 阿倍 鳥=鳥子
 (あべ の とり)
  父は阿倍大麻
   または
   阿倍目
   母は不詳
   生母不詳の子女
   男子は阿倍内麻呂(?-649)
   男子は布勢耳麻呂
 ↓↑
 阿倍 内麻呂
 ↓↑
 阿倍 内麻呂
 別名
   麻呂(摩侶)
   倉梯麻呂
   大鳥大臣
 ↓↑
 子供は
 阿倍 御主人
 布勢 耳麻呂・・・阿倍の布勢耳麻呂(ふせ の みみまろ)
           阿(阿毎王朝=熊本・肥後)
           邉の伏せ字巻賂?
          和銅元年(708年)三月十三日
          左京大夫
 小足媛
 橘娘
 ↓↑
 阿倍 御主人(あべ の みうし)
 氏は
 阿倍布勢(ふせ)
 阿倍普勢(ふせ)ともされ・・・伏せ・臥せ・附せ
                富施・布施
 ↓↑
 阿倍御主人=阿倍普勢=阿倍布勢(あべのふせ)・・・?
 ↓↑
 推古天皇16年(608年)
 日本に渡来した
 隋使
 裴世清
 に対して
 物部依網抱
 とともに
 導者(案内役)を務め
 裴世清
 から受け取った
 隋の国書を
 大伴咋に伝達した
 推古天皇18年(610年)
 新羅任那の使人が来朝した際に
 大伴咋
 蘇我豊浦蝦夷
 坂本糠手
 とともに
 四大夫の一人として対応
 ↓↑ ↓↑
 阿倍 鳥=鳥子
 推古天皇二十年(612年)
 皇太夫
 堅塩媛(推古天皇の生母)
 を
 檜隈大陵に改葬した際
 軽の街中(奈良県橿原市大軽)
 で誄を奏上
 一番目として
 阿倍鳥
 が天皇への言葉を宣べた
 三番目に
 大臣
 蘇我馬子への言葉を宣べた
 中臣
 宮地烏摩侶
 四番目に
 氏姓のもとについて宣べた
 境部摩理勢
 はよく誄を宣べたが
 「阿倍鳥」のみはうまくできなかった・・・
 ↓↑
 阿倍帯麻呂(あべ の おびまろ)
 奈良時代前期の貴族
 名は
 意比麻呂
 とも記される
 父は
 中務大輔
 阿倍船守
 阿倍仲麻呂・・・唐名を「朝衡・晁衡(チョウコウ)」
 は長兄
 官位は従五位上・美作守
 ↓↑
 阿倍氏同族
 久努・引田
 の諸氏である
 布勢氏の
 布勢臣耳麻呂
 布勢朝臣色布智
 があげられる
ーーーーー
 ・・・???・・・