2340日目・・・「つつみ=堤・堿・陂・坡・塘・包」・・・漢字を検索して居て、偶々、目に就いたので調べていたら・・・1619(元和五)年、福島正則、本拠広島城の無断修築をめぐる武家諸法度違反で所領を没収され、信濃川中島4万5000石に移封」、「徳川家康重臣・本多正純の謎の失脚、語り継がれる宇都宮釣り天井事件」、「本多正純=江戸幕府の老中・下野国小山藩主、同宇都宮藩主(第二十八代宇都宮城主)・本多正信の長男で正信系本多家宗家二代・徳川家康の側近・徳川秀忠の代に失脚」・・・
あまり面白くもないYouTubeの映画、「宇都宮釣り天井の謎 1996.4.30ABC松竹」、「大型時代劇スペシャル・市川染五郎・南野陽子・田村英里子・宇津井健・平幹二朗・花沢徳衛・石橋蓮司・蟹江敬三・真弓明信(阪神)・ 丹波哲郎・金田龍之介」などの懐かしい役者名が出てきた・・・
で、「忍者がえし・水の城」をみてしまったが、みんな呆れるほどの「大根演技」・・・
「二代将軍徳川秀忠の時代、信濃に追放された福島正則の世継・正勝が、館に侵入した忍者に殺され、暗殺の黒幕は福島家の没落を計る本多正純。正勝の近習・高月彦四郎は敵襲に備え、館を改築、"水の砦"を建設。敵方は執拗に来襲。正則は本田を失脚させるため、将軍秀忠の暗殺を決意、彦四郎が豊臣秀吉の実子であることを打ち明ける(以上、時代劇専門チャンネル広報資料より引用の更なる孫引・第5回時代小説大賞受賞作品のドラマ化」・・・???
人間関係って、複雑で奇妙、奇天烈・・・以下、ボクが「元和五年=1619年」に混乱し、検索した記録を添付したモノ・・・
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元和五年=1619年・・・日本年号
↓↑
「元和郡県志(ゲンナグンケンシ)」
元の
和(倭・やまと)の
郡(訓)の
県(懸)の
志(個々賂指示)?
↓↑
「元和郡県志」は
唐代の地理書
現存する唐の全国的な地誌としては
敦煌から発見された残巻を除くと唯一のもの
宰相の
李吉甫(リ-キッポ・李 徳裕の父)
が撰述し
元和八年(813年)・・・元和八年(813年)
憲宗
に進上
はじめの書名は
『元和郡県図志』
47の鎮ごとに図が附属していたが
図は後に失われた
もと40巻(および目録2巻)
うち34巻が現存
↓↑
元和郡県図志・巻第1〜40・李吉甫 撰
序
孫星衍
巻第19,20,23,24,35,36を欠く
唐装印記
支那銭恂所有銭恂旧蔵附
元和郡県
図志闕巻逸文
元和郡県補志1〜9(厳観輯)
巻第1〜4・関内道1〜4
巻第5〜11・河南道1〜7
巻第12〜15・河東道1,3〜5
巻第16〜18・河北道1〜3
巻第21〜22・山南道2-3
巻第25〜30・江南道1〜6
巻第31〜33・劒南道上,中,下
巻第34,37〜38・嶺南道1,4〜5
巻第39〜40・隴右道上,下
↓↑
元和郡縣圖志
作者 李吉甫
成書年代 唐
版本 暫缺
↓↑
地理志・季漢書
巴郡
後漢の頃
巴東、巴郡と合わせて巴郡
興平二年
趙韙の献言により
巴を分割
墊江以北を巴郡
龐羲を
太守に任じて
安漢・・・・・・安漢→安韓→安加羅?
にて治めさせた
江州より臨江にいたるまでを
永寧郡に
朐忍から魚復に至るまでを
固陵郡とした
後、
建安六年
魚復の・・・魚の復(かえる・かえす・また・フク)
蹇胤の提案で
巴を巴西
永寧を巴郡
固陵を巴東郡に改名
巴を三巴と呼ぶ
巴郡は
東南は涪陵に接し
北は巴西、広漢に接す
東は巴東、西は江陽に接す
↓↑
巴子の時代
江州を治所
或いは
墊江、平都を治所とすることもあった
沮(低湿地)で牧畜が行われ
沮は東突薢の下にある
枳には先王の諸陵墓がある。
江州
郡治
漢の時代
郡治は
巴水の北に置かれ
巴水北の旧城には
柑橘官が置かれていた
後に、南岸に移った
李厳は城を修築し
これ以降、
長く郡治は
李厳城に置かれ続けた
李厳の江州城
県の北には
稲田
茘枝園
があった
大姓は
波
詵・・・詵=言+先=とる・シン・セン
詵詵(シンシン)=数が多い
多くの人が集まるさま
毌、謝、然、蓋
楊
白、上官、程
常・・・常陸=ひたち=日立
常識=ジョウシキ=定式
↓↑
墊江
江州の西北四百里
諸水の交わるところ
桑畑があり
養蚕
牛馬を産
大姓は
黎、夏、杜
の三姓
↓↑
臨江
枳の東四百里にあり
朐忍と接している
王莽
が
監江と名を改め
後漢に至り
臨江に戻った
↓↑
塩官があり
監、塗
二渓があり
一郡の仰ぐところ
富豪の家にも塩井があった
塗渓は県の東南八十里にある
塗山より来ている
東晋の頃に
臨江の全ての
塩井を
官の支配下に入れられていなかった
大姓は
厳・・・・・・・・・厳島(いつくしま)?
甘、文、楊、杜・・・甘(あまい)?
文(あや・ふみ)?
↓↑
羅憲が永安に包囲された時
囲みを突破した参軍の
楊宗
呉に仕えた
甘寧は・・・・・・・甘寧・・・安寧・丁寧・叮嚀?
この臨江の大姓
↓↑
枳=木+只(口八)・・「からたち・キ・シ
木の名
蜜柑(みかん)科の落葉低木
橘(たちばな)に似て
棘(とげ)が多く、秋に実をつける
未熟の実は薬用
江州の東四百里にあり
涪陵水の合流点
土地は痩せているが
人士は多かった
大姓として
章、常、連、黎、牟、陽・・・・連=むらじ
陽=煬・・・「煬帝」
郡の冠族であった
↓↑
平都
季漢
が置いた県
延熙・・・年号
↓↑ 三国時代、蜀の君主
↓↑ 劉禅の治世で使用
元号238年〜257年
延熙十二年
麴山の戦い
曹爽の失脚
夏侯霸の来降
247年丁卯
魏=正始八年 少帝・曹芳
蜀=延熙十年 後主・劉禅
呉=赤烏(セキウ)十年 大帝・孫権
二月
庚午の日(一日・朔、日食)?
↓↑ ↓↑
247年丙寅(己・丙・甲)?
002月辛丑(癸・辛・己)?
003日庚辰(乙・癸・戊)?
↓↑ ↓↑
247年2月1(己卯)日・月曜日・先負
神功皇后47年1月9日
庚辰の日(247年2月2日)火曜日・仏滅
↓↑ ↓↑
正始八年春二月朔
西暦247年3月24日(ユリウス暦)の日食
が三國志と晋書に記録
「正始八年春二月朔
日有蝕之
(『三國志』巻四 魏書四「三少帝紀」)
(『三國志』巻十四「程郭董劉蒋劉伝」)
是時,曹爽專政,丁謐,眷菫等輕改法度.
會有
日蝕變
詔羣臣問其得失
濟上疏曰
「昔大舜佐治
戒在比周=周公輔政
慎于其朋=齊侯問災
晏嬰(アンエイ)
・・・晏=日+宀(ヽ冖)+女
嬰=貝(目ハ)+貝(目ハ)+女
對以布惠=魯君問異
臧孫答以緩役
應天塞變,乃實人事
↓↑ ↓↑
247年丁卯(甲・ ・乙)
003月癸卯(甲・ ・乙)
024日庚午(丙・ ・丁)水曜日・友引
「西暦247年3月24日の日食は
北九州でも深食
北九州市や北九州沿岸の島では
皆既の可能性
(国立天文台報 第14巻・15〜34(2012))」
↓↑ ↓↑
西暦 247年(ユリウス暦)=卑弥呼が
狗奴国王
卑弥弓呼と戦う
西暦 247年(ユリウス暦=魏志)
神功皇后47年閏2月1日
↓↑
魏の正始十年正月
司馬懿・・・懿徳天皇=第四代天皇
大日本彦耜友尊
(おおやまとひこすきとものみこと)
安寧天皇の第二皇子
の政変で
曹爽
何晏(カアン)らは族滅
↓↑・・・何の晏?
後漢の大将軍、何進の孫
字は平叔
母の尹氏(曹操の妾)
曹操の娘
金郷公主を娶った
↓↑ 晏=日+宀(ヽ冖)+女
年間に廃止
大姓は
殷、呂、蔡氏
↓↑
楽城県
州の西三百里にある県
季漢が置いたが
延熙十七年
↓↑ 第二次北伐
↓↑ 張嶷の帰還
李簡の降伏
延熙十七年春正月
姜維が成都へ と帰還
越嶲太守
張嶷が十五年間の任を終えて
成都に帰還
盪寇将軍を拝命
↓↑ 北伐の是非についての議論
に省かれる
↓↑
陽関
江州の東
塗山に置かれた関
劉備が要衝として設けた
東に銅鑼峡
劉備は関を置いて守りとした
督江州
蠟芝
は、
この陽関に駐屯
ーー↓↑ーー
陳寿
『三国志』
(蠟艾伝
鍾会伝
後主伝
諸葛亮伝
姜維伝
蠟芝伝)
常璩
『華陽国志』(蜀志)
房玄齢
『晋書』(地理志上)
顧祖禹
『読史方輿紀要』(巻六十七、七十三)
↓↑
李吉甫
『元和郡県図志』(巻三十二)・・・元の和の郡の県の図志?
↓↑
酈道元
『水経注』(巻三十三)
↓↑
郫県で出土した
景耀四年製の銅弩機には
「十石機」という銘が刻まれ
季漢で 用いられた強弩が十石の強さであった
李吉甫
『元和郡県図誌』(巻三十三)・・・元の和の郡の県の図志?
曹操は、
杜濩を巴西太守
朴胡を巴東太守
袁約を巴郡太守
にした
ーー↓↑ーー
元和 (漢)=後漢の章帝
劉炟時代の元号
(84年〜87年)
元和 (唐)=唐朝の憲宗
李純時代の元号
(806年8月〜820年12月)
元和 (日本)=後水尾天皇時代の元号
(1615年7月13日〜1624年2月30日)
ーー↓↑ーー
元和偃武(エンブ)=元和一(1615)年
大坂の陣が終り豊臣氏の滅亡後の平和
偃武=武器を伏せること・軍事衝突の終了
周書・武成篇の
「王来自商、
至于豊。乃偃武修文。
(王
自(おのずから・みずから)
商(あきない)
来たり
于豊に至る・・・・・于
乃ち武を偃(ふ)せて文を修む」
武器を偃(ふ)せて武器庫に収める事
偃(エン・ふす)=イ+匚+日+女
ふす(臥)
たふる、たふす(僵・仆)
なびく、なびかす(靡)なびき伏す
したがふ(服)
いこふ(息)
やすむ(休)
ふせる(伏・臥)
やむ(止・已)
おごる(驕)
せく・ゐせき(堰)・・・堰=十一匚日文
かはや(廁)
むぐらもち・どぶねずみ・もぐら(鼹)
↓↑
「元和郡県誌」には
「梁は汶川県を置き、
県は西の汶水=岷江により名を為す」
「汶水= 岷江(ミンコウ・ビンコウ)
=長江の支流で、岷江と金沙江が合流し長江が始まる」
「戦国時代末期に
秦によって建設された
水利施設・都江堰(トコウエン)があり
岷江の水を...
ーー↓↑ーー
レファレンス事例集(長野県)より抜粋、添付
県立長野図書館
↓↑
『長野県上高井郡誌』(上高井郡教育会編 千秋社
1999上高井郡教育会刊・1914( 大正3)年の復刻)
「高井村 福嶋城址」の項目に
「大字高井字堀之内にあり。
元和年中、・・・・・・・・・元の和の年中?
福嶋正則の築く處なり。
始め回字形を為して、
四壁に高塁を築き
塁上に...
↓↑
福島正則が
元和(げんな)元年・・・・・・・元の和の元の年?
信州川中島へ
改易配流された際
居住した屋敷の
場所
形態
答
『日本歴史地名大系 20 長野県の地名』
(平凡社 1979)[N290.3/54]881pに
「福島正則屋敷跡」の項目
現在の
上高井郡高山村高井堀
形態
『長野県指定文化財調査報告 第5集』
(長野県教育委員会編・刊 1974)[N709/24/5] 20pの
「福島正則屋敷跡」に
「この史跡は
福島正則がその晩年の
↓↑
元和五年〜寛永元年まで約五年間・・・元の和の五の年?
↓↑
幕府の監視のもとに配流に近い生活をした屋敷で
・・・その規模は県道須坂山田線に添い
東西一〇四、五メートル(五七、五間)、
南北七二、七メートル(四〇間)、
面積七六アール(七反六畝)
もと四方に高い土塁を築き
その上に松・竹・桜等を植え、
塁の外には空堀をめぐらしてあった」
↓↑
福島正則
が
高井郡へ改易されたのは
元和五年=1619年・・・・壱千陸百壱拾玖のネン
↓↑
『長野県百科事典 補訂版』
(信濃毎日新聞社開発局出版部編
信濃毎日新聞社 1981)[N030/2A]
『長野県歴史人物大事典』
(神津良子編 郷土出版社 1989)[N283/13]
などで
福島正則
『長野県百科事典 補訂版』(前掲)693pに
「1619(元和五)年・・・・・・壱拾陸、壱拾玖
武家法度にそむいたかどで
所領は没収
津軽4万5000石に転封を命ぜられ
改めて
越後
魚沼郡に2万5000石
高井郡に2万石を給せられた
配流に近い生活を
高井野の居館に送り」
「高井野
『日本歴史地名大系 20 長野県の地名』(前掲)881pに
福島正則屋敷跡の項目
現在の上高井郡高山村高井堀の内
『長野県上高井郡誌』
(上高井郡教育会編 千秋社
1999上高井郡教育会刊
1914(大正三)年の復刻) [N214/89]731p
「高井村 福嶋城址」の項目に
「大字高井字堀之内にあり
元和年中・・・後水尾天皇
将軍は徳川秀忠、徳川家光
慶長の後、寛永の前の日本年号
1615年〜1624年の期間
福嶋正則の築く處なり
始め回字形を為して
四壁に高塁を築き
塁上に
松柏桜等を植ゑ
塁外に空濠を鑿ち
門外に馬場を構へたり
東西七十間南北四十間あり」
とある・・・
改易の年
元和五年=1619年
↓↑
・・・「大久保長安(慶長十八年(1613年)四月二十五日死亡」後の事件は「大久保忠隣改易」も含め家康の意志ではなく「本多正信・正純」の讒言・・・「福嶋正則(元和五年・1619年)」の改易も・・・?
ーー↓↑ーー
紅花染めの用いられた正倉院染織品
唐代編纂の
『大唐六典』
『通典』
↓↑
『元和郡県図志』・・・元の和の郡の県の図の志
↓↑
宋代編纂の
『新唐書』では
唐代中国内の
紅花・・・紅花=キク科の越年草・高さ約1メートル
↓↑ 葉は堅くてギザギザ
互生
夏、アザミ(薊・阿左美)に似た頭状花
鮮黄色から赤色に変わる
花を乾かしたものを
紅花(コウカ)=婦人薬・口紅や染料の紅
赤い色の花・ベニバナの花を乾燥させたモノ
漢方=腹痛・月経不順・浄血などに用いる
紅花緑葉=紅色の花と緑色の葉
彫漆(チョウシツ)技法の一
朱漆と緑漆を交互に塗り重ね
朱漆の層に
雅称=末摘花(すえつむはな)・・・源氏物語
紅色染料や食用油の原料
エジプト原産
日本にはシルクロードを経て
↓↑ 4〜5世紀ごろに渡来
の産地として
興元府(梁州)、蜀州、漢州、霊州、青州が挙げられ
唐の領土内において
紅花は広範に栽培されていた・・・
↓↑
青森県立図書館
青森県教員録
明治十三年十二月届 木村良臣
1881(国立国会図書館)
『青森県職員録 』
青森県(国立国会図書館)
1936(国立国会図書館)
『七和村誌 : 御即位記念』
青森県北津軽郡-七和村・・・七和村?
1928(国立国会図書館)
『西津軽郡誌』 島川観水編
青森県西津軽郡 1916(国立国会図書館)
「青森県鉱泉誌」
青森県警察部衛生課 1920(国立国会図書館)
『青森県誌:県史名勝旧蹟現況』 西田源蔵編 成田書店
1926(国立国会 ...
↓↑
『福井県史』通史編3 近世一
若狭での本格的な地誌は
歌人でもあった
小浜藩士
牧田忠左衛門近俊が
元禄六年頃に著した
「若狭郡県志」である
「雲の浜聞見録」は、
見聞記的で、
江戸において召し抱えられた
藤林誠政が
享和元年(1801)から翌年にかけて
藩主
酒井忠貫
に従って小浜を訪れた折に見聞した記録
ーー↓↑ーー
晏(やすらか・おだやか・おそい・アン・エン)
「家の屋根・家屋」
と
「両手をしなやかに重ねひざまずく女性」
の合体象形・・・
(家の中で 女性がやすらぐ、やすらかの意)
「穏やかな日・晴れ
太陽が西に入って落ち着く夕暮れ」
ーー↓↑ーー
「晏嬰=晏平仲」とも呼ばれ、「質素倹約を心掛け、国の繁栄の為のみ」に尽力(?)する私心の無い姿から、「晏子」の尊称で呼ばれる・・・字(あざな)は平仲・・・霊公、荘公、景公の三代に仕えた・・・「斉国の宰相」、「莱の夷維の人」・・・「越石父(エツセキホ)」って?「石の父を越える」・・・
越石父は賢人であったが、
囚人(奴隷)の身となっていた
晏子が外出した途中で
越石父と遭遇し
乗っていた
三頭立て馬車の
左の馬を売って、
越石父の身を自由にし
馬車に同乗させ、帰宅したが、
越石父には挨拶もせずに部屋に入っていった
コレを越石父は無礼と云って
奴隷に戻るとゴネタ・・・?
↓↑
晏子は旅行途中で
囚人の越石父と出会い
彼の罪を
馬車の
左の馬の添え馬で贖罪し
越石父を自由にの身にし
越石父を同乗させ帰宅したが
越石父には
挨拶もせずに奥へ入ってしまった
コレを
越石父は晏嬰の無礼であると怒り
奴隷に戻るとゴネタ・・・?
非を悟った晏嬰は
石父を上客としてもてなした?・・・
↓↑
・・・厭なヤツだけれど、儒学者よりは使い道があったんだろう・・・
ーーーーー
・・・???・・・