2279日目・・・「魯=魚+日」にコダワル・・・「魯」は魚(さかな)の種類の「名前(なまえ・ながさき・メイゼン・ミョウゼン)」の漢字ではない。「魯」は、「魚扁」が「日」の横に並ぶ合字ではなく、「日」の上に載る「魚冠」の漢字である・・・「魯=魚(まな→真名=漢字)+日(ひ・び)=まなび」?・・・「初めにナマ-エありき」ではなく、「初めにナマ-エを付けるモノがあり、それらにナマ-エを付ける人がいた」・・・「ナマ(名真)のエ(重)」?・・・旧約聖書の「モーゼ・出エジプト記、第16章のマナ(Manna)」は天か

  ↓↑
  孔安国(コウアンコク・生没年未詳)
  魯(山東省・曲阜)の人
  前漢代の学者
  字は子國
  孔子十一世の孫・・・・十一=イチ拾壱
  父は
  孔武・・・・・・・・「孔(あな・孑+乚)」は「武」
  呉音で
  「クアンゴク」とも読む
  申公(魯国の人)について『魯詩』、
  「伏生=伏勝」
  について『尚書』を学ぶ
  漢の武帝の時に
  諫議大夫に任ぜられた
  臨淮の太守にいたって没した
  孔子の旧宅から発見された古文の経書を研究し
  古文の家学を起した
  ↓↑
 「伏生=伏勝」・・・伏せて生きる?
  ↓↑       伏して勝つ?
           臥薪嘗胆の
           第六代呉王
           闔閭(コウリョ・コウロ)
           の後継者の
           呉王の夫差
           と敵対者
           越王の句践
    「闔」=「閉じる」・「閭」=「門・町の一区画」
    「開闔(カイコウ)=開閉
              朝廷の記録所
  ↓↑          鎌倉、室町幕府の職名
  ↓↑
 「済南の出身、もとは秦の博士
  漢の文帝の時に『尚書』を良く知る者を求め、
  伏勝の名があがったが
  彼は90歳の老人で召すことができず
  文帝は
  太常に詔して、
  掌故である
  鼂錯を伏勝のところへ行かせて学ばせた
  秦代の
  焚書坑儒のさい、
  伏勝は
 『尚書』を壁に埋めておいたが、
  漢代に掘り起こしたときには数十篇を失い、
  29篇を得た
  伏勝はこれを
  斉・魯で教え、
  済南の
  張生
  と
  欧陽生
  がその教えを
  児寛
  に伝えた
  これを
 『今文尚書』と称する」・・・?
 ・・・
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 ・・・又又、またトンだ・・・
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 「天文瓊統(テンモンケイトウ)」
 元禄十一年(1698)
 渋川春海 写本六巻
 「春秋述暦」
 寛文九年(1669)
 安井算哲 松田順承 著 刊本1冊
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 「春秋述暦」
 中国の春秋時代(紀元前770〜403)の長暦
 中国の魯国について書かれた歴史書
 「春秋」に注釈をつけた書
 「春秋左氏伝」
 の記事にある暦に関する記述から、
 授時暦で推算して
 242年間をまとめたもの・・・
 松田順承(生没年不詳)は、
 春海が、十代のころ暦学について学んだ師
 春海(この書物では安井算哲)は
 この後も
 「春秋杜暦考(1670)」
 「書詩禮暦考(1671)」を著し、
 「日本書紀暦考(1676)」
 「本朝古今交蝕考(1676)
 「日本長暦(1680)」
 などをまとめた
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 安倍泰福(やすとみ)
 (1655〜1717)
 陰陽寮天文博士
 安倍晴明の末裔
 天和二年(1682)に
 陰陽頭となり、
 翌年
 天和三年(1683)
 全国の陰陽師を統括する勅許を得た
 春海の神道の師
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 春海は貞享の改暦の功により、
 幕府より
 初代天文方に任ぜられた
 後、暦の天文学的な基本部分を
 江戸の天文方が作成し、
 京都の陰陽寮で占いなど暦注をつけて
 天文方が確認し、これを元に
 幕府の認可をうけた者だけが
 暦を刷って売ることができるようになった
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 「貞享暦」元禄十一年(1698)
 渋川春海 写本七巻七冊
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 『魏志倭人伝』に
 肥前国
 松浦郡(末魯国)の・・・魯の末の国?
 東南陸行五百里
 末魯国〜伊都国に対し
     伊都国〜奴国〜不彌国・・・不彌=ふみ=文?
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 「曲阜」は、
 黄帝の出身地
 春秋戦国時代
 魯国の都として
 800年間存在
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 曲阜市(キョクフ-シ)
 中華人民共和国
 山東
 済寧市
 に位置
 省都・済南からは約130kmに位置
 泗河(泗水)が東から西へ流れている
 周・春秋時代
 魯国の故地
 孔子の生地
 北緯35度36分
 東経117度02分
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 三皇五帝の内の
 炎帝(神農氏)
 黄帝
 とその子
 少昊
 が
 曲阜の地を都に定めた
 夏の時代は
 奄国に属していた
 周の
 武王
 が周王朝を開いたとき
 その弟で建国の功臣
 周公旦
 がこの地に分封
 魯公を称した
 ただし
 魯の国は息子の
 伯禽
 に任せ、
 周公本人は
 朝廷にいて
 武王亡き後の不安定な政治を補佐した
 この時以来、この地は
 873年の長きにわたり
 魯国の都城
 当時の曲阜は
 城壁の長さが約12kmで
 四面に各3つずつ城門
 城の西南は
 宮殿や祠・廟など
 王の建築群がある内城
 城の西は
 陶を作る地区
 城の北は
 冶金工業の地区
 城の東は
 軍営
 残りは
 市民の住居や市場
 城は
 周礼の規範を遵守し
 「左壇右社」
 「面朝後市」
 の通り整えられ
 「礼儀の邦」の顕著な模範となっていた
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 戦国時代末期
 楚国によって滅ぼされ
 楚はこの地に
 魯県を置いた
 前漢
 皇族をこの地に封じて
 魯王とし、
 魯国とした
 三国時代には
 魯県が置かれ、
 魯郡を統治する中心地となった
 隋になって
 「城の東に阜(おか)有り、
  委曲して長さは七八里」
 という由来から名を
 「曲阜県」と変え
 兗州(エンシュウ)に属した
 明清や近代まで孔家の本拠
 新中国建国で
 孔家の直系子孫は台湾に逃れた
 1982年に国家歴史文化名城に指定
 1986年には曲阜県は廃止され曲阜市となり
      済寧市の管轄下におかれた


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 阿蘇山  32度53分
 上海   31度10分
 会稽東治 31〜32度
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 会稽山
 地理位置
 「山海经·海经第八卷·海内东经」曰
 「会(kuai)稽(jī)山、在大(楚)[越]南。
  会稽山 在绍兴城南六公里,
  是大禹娶妻、封禅之地,大禹陵所在。
  会稽山与我国古代开国圣君、
  治水英雄大禹有着不解的渊源,
  蛇是大禹娶妻、封禅的地方,
  同时也是大禹的陵寝所在地,
  顾恺之说
  会稽山
 “千岩竟秀,万壑争流,
  草木蒙笼其上,若云兴霞蔚”。
  晋朝  贵族王羲之、谢安等定居绍兴。
  南朝诗人王藉咏会稽山的诗句
 “蝉噪林逾静,鸟鸣山更幽”
  传诵千古。
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 「魯」
 「愚鈍な生き物である魚の物言いのことと
  説文解字等に説かれる所であり、
  論語にも、
  弟子の欠点を並べる箇所で
 「參也魯(曾参は魯なり)」とある
 周代の最有力国に
 『魯』の名称が採られ、古くは佳字で
 元は
 「純朴な・人が良い」の意味だった・・・?
 「孔子」の現実を揶揄した意味になったんだろう・・・?
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 山東省(Shandong)
 中華人民共和国の省の一
 略称は周代の国名より
 魯
 山東とは
 「太行山脈」の東方の意・・・「太の行の簒脈」?
                太安万(萬)侶
 北には渤海、 東には黄海
 黄河下流に位置
 省都は済南
 他に
 青島
 泰安
 などの主要都市がある
 北緯36度5分
 東経120度20分
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 山東半島
 渤海
 と
 黄海に突き出し
 遼東半島
 と相対している
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 黄河
 山東省西部を貫き
 山東省の北部で
 渤海流入
 多くの土砂を運ぶ
 黄河は自然堤防を形成し
 天井川と化している
 山東省で黄河に入る支流はない
 このため
 山東省は黄河を境に
 北は海河流域
 南は淮河流域
 となっている
 黄河
 と
 長江
 を結ぶ大運河も省内を
 北西から南東に貫いている
 南西端の
 微山湖は
 南北120km
 面積1,266平方km
 の華北最大の
 淡水湖
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 青島
 山東半島
 南海岸の
 膠州湾の東側に
 小さく突き出た
 半島の先端に位置
 北東は
 煙台市
 西は
 濰坊市
 南西は
 日照市・・・・・・・日照?→天照大神
 とそれぞれ接する
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 魯甸県(ロデン-ケン)
 中華人民共和国
 雲南省
 昭通市に位置
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 行政区画
 下部に
 10鎮
 2民族郷
 鎮
 文屏鎮、竜頭山鎮、水磨鎮、小寨鎮、江底鎮
 火徳紅鎮、竜樹鎮、新街鎮、梭山鎮、楽紅鎮
 民族郷
 桃源回族
 茨院回族
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 ウルムチ
 烏魯木斉
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 中国新疆 (シンキョウ)
 ウイグル自治区の区都
 天山山脈の北麓
 古くは天山北路の要衝
 1763年
 清が築城
 迪化(テキカ) と命名
 ウルムチ
(烏魯木齊市・Ürümqi)
 新疆ウイグル自治区に位置する
 地級市、自治区首府
 自治区人民政府が設置されている
 中国西部最大の都市
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 魯国故城
 周代の国都の遺跡
 紀元前1045年
 周が商を滅ぼし
 武王の弟
 「周公姫旦」が
 曲阜に封ぜられ
 魯国となった
 子の
 伯禽が代理として封ぜられ
 25世代にわたり
 34人の君主が続いたき
 紀元前249年
 楚に滅ぼされた
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 魯国の都は四角形
 城壁周囲の長さは
 11771m
 西周初年に着工
 中央に宮殿
 周囲を壁で囲み
 宮殿の
 前面に朝廷
 後方に市街
 左に祖廟
 右に社禝
 という、
 周代の儀礼「周礼」
 に従ってつくられた
 都には、
 東西と南北に
 各五本ずつ、
 計十本の道路が走り、
 南北方向の真ん中の一本は、
 都の中心線とし、
 宮殿から
 東南門を通って
 高台に達する
 魯城は西漢の後期まで使用され
 別に
 漢城が建てられ
 魯城の南壁、西壁の一部は使われていた
ーーーーー
 ・・・???・・・
ーーーーー
 名前(なまえ・希=όνομα・羅=nomen・英=name)
    name=なめ・ナメ?
 物や人物、土地、場所に与えられた言葉
 それらの対象を区別して呼んだりする際に使用
 名称、
 名=物、動植物や人、場所、地域を
   識別・呼称するために使う固有名詞
   人名のうち、
   家庭・家族(family name)を表す姓・名字
   に対して、
   家庭内や親族などで個人を識別する名
   日本人では「下の名前」
   「ギブンネーム (Given name)」
   欧米人などでは
   「ファーストネーム(First name)」
   名(ミョウ)=平安時代から
          中世の国衙領や荘園において
          徴税のために設けられた単位
          名に編まれた田地を名田と称し、
         「名=名田」
 名詞
 名(な)=人、物又は事を他の人や事物と
      区別するため言語を用いて、
      概念を代表して標識としたもの
      名前・名称・呼称
      「名(な)」=ほまれ・名誉
      「メイ(接尾辞的に)」〜の名前
 接頭辞
 名(メイ)=特別に秀でた・有名な・非凡な・偉大な
       名人・名解答・名シーン・名奉行
 接尾辞
 名(メイ)人数を数える時の助数詞
 ↓↑         
 名前をつけることを
 「名付ける・命名(メイメイ)する」という
 名前=名詞
 名前=人名、物名
    人名のうち、
    家族を表す
    姓(名字)でない個人を識別する名を指す
    姓を指して「名前」と呼ぶこともある
 ↓↑
 「名=夕(暮れ)+口」に(呼ぶ)からとする説
    「口(神器)+夕(肉)」を供える儀式とする説
    「ナマエ」の「ナ」は「ネ(音)」とも・・・
 ・・・「タ+口(箱・匣・函・笥・簏・筺・筥・凾)」
 ↓↑ 
 「前」=「止+舟+リ」=「歬+刀」
 「舟の進む前方」を「止=阻」むを意味し
  これに「刀」を添えて
 「先を切り裂きながら進む」の意味
  後に
 「歬=止+舟」の字が失われ、
 「前」は前方の意味だけが残り、
 「切り裂く刀」に「力」を添えた
 「剪=前+力」の「きる切りそろえる・セン」になった
 「揃える」は「一人前・腕前=能力」などが
 「整った・完成した」の意・・・
 ↓↑
 「名前」は「整えられた名・完全な名・正式な名」
  という意味になる・・・
 ↓↑
 未知な対象事象には名を付け
 その存在の在り方を
 認知、記憶、思惟、認識理解し、
 それらの認識手段として名を付与する・・・
 ↓↑
 個人名
 「氏・姓・名・字・諱・諡」
 「氏・姓・名」=家系(family name・last name・surname)
         を表すのに使われる。
 ↓↑
 「氏(うじ・シ)」
 「姓(かばね・セイ)」
 血族や一族を表し
 氏姓制度は上位権力による統制に利用
 「名(な・ミョウ・メイ)」
 中世で
 田堵が自分の所領を区別して呼んだ名田に由来
 ここから
 「名字・苗字」が生じた・・・
 「字(あざな・ジ)」
 「渾名(あだな・とおりな・nick name)」
 個人を特定するために通常使われる呼び名
 「通名元服前の幼名(おさなな)」もこれ
 「諱(いみな・忌み名)」
 元服によって附けられ、
 本名(given name・first name)」とされ
 本人が使う
 これらを全て並べて用いることを
 複名
 徳川家康=源・朝臣・徳川・次郎三郎・家康
 個人が死亡した後には
 「諡(おくりな・贈り名・戒名)」
 や
 「謚号」が附く
 徳川家康
 神号・東照大権現
 院号・安国院殿
 道号・徳蓮社崇譽
 名号・道和
 位号・大居士
 朝廷からの
 正一位・大相國一品」が贈位
ーーーーー
 ・・・「名の前(さき)」って「苗字」で「姓」・・・「前(まえ)の名」って、結婚前の実家の名・・・?・・・