2278日目・・・「かながき ろぶん=仮名垣 魯文=カナガキ ロブン)」・・・「仮名を垣根にした魯(愚・おろ)かな文?」・・・以前にも書き込んだ人物だが、「仮の名に、臥(ふせ)て記(しる)し」、「賂(まいなう・まいない・手蔓(づる)を通して人に贈る金品・貨賂・賄賂・金品を贈る・賂遺・賂謝・賄賂・たから(宝)・貨財・金品を人に贈る・こっそり金品を送って頼みこむ)」の「文(あや・もよう・いろどり・もじ・ブン・モン・ことば・文句・金文・邦文・文様・文質・文飾・文字・ことばの綴(つづ)ったモノ・文書・詩文・序文

 ロ=呂・絽・侶
   梠(ひさし・軒)
   莒・筥=円筒状の箱
   閭=さと・むら・むらざと・あつまり・あつまる
     周代で、二十五家の集まり
     村里の門
     周代で二十五家の集まりを「里」として、
     その入り口の門を「閭」といった。
   賂
   輅=大車・くるま・天子の乗る車
     車の「長柄=ながえ=轅」に縛(しば)りつけた横木
     車を引くとき胸にあてる部分
   盧・鸕
   櫨=はぜ・はぜの木・ウルシ(漆)科の落葉高木
     ますがた・柱の上に用いる四角い木
     とがた
   濾・蘆
   魯・櫓・艪
   路
   蕗=ふき=葺き・附記
   露
   鷺=さぎ=詐偽・詐欺・茶木
   炉
   芦=あし・よし=蘆
   録=さかん・とる・しるす・うつす=録音・6音=ラ
     ロク=六=陸・・・・・
ーー↓↑ーー
 仮(かり・カ)    =イ+反(厂又)
 名(な・メイ・ミョウ)=夕+口
 垣(かき・オン・エン)=土(十一)+亘(一日一)
 魯(おろか・ロ・ル) =魚(刀田灬)+日
 文(ふみ・あや・ブン)=亠+乂
ーー↓↑ーー
 「炉火純青(ロカジュンセイ)」
 「炉の火炎が純青になると温度も最高に達する。
  転じて学問や技芸が最高の域に達すること
  名人の域に達するたとえ」
 ???・・・「純青色の炎=高温」・・・青色は熱い・・・
 ↓↑
 ・・・「仮名垣 魯文」=「野崎文蔵」・「字は能連(ノレン)・幼名は兼吉(かねきち・ケンキチ)、また庫七(くらしち)、後に文蔵(ブンゾウ)」・・・別号は、
 鈍亭(ドンテイ)
 猫々道人(ミョウミョウドウジン)
 和堂開珍(ワドウカイチン)
 英魯文(エイロブン)
 戯作書太郎(ゲサクショタロウ)
 野狐庵(ヤコアン)
 俳号は
 香雨亭応一(コウウテイオウイチ)
 狂名は・・・・「眠狂四郎ネムリキョウシロウ」
 ↓↑     「野鵟=のずり」・・・「鵟=狂+鳥」
        「夜鷹=よたか」
 ↓↑     「鵟=のすり・キョウ・ゴウ」
 斜月窗諸兄(シャゲツソウショケイ
       シャヘツソウもろえ)」
 ・・・「窓(宀八ム心)=まど・ソウ
            =窗(宀八)+ 囱(ノ□夂)」・・・
ーー↓↑ーー
 仮名垣 魯文 (かながき ろぶん)
 江戸京橋の
 魚屋・・・・さかなヤ・・・「魯=魚+日」
                  日→曰・白
 ↓↑    まな(真魚)ヤ
 ↓↑    ↓↑
       弘法大師-空海
       幼名は「真魚(まお・まいお・まな)
       俗名は佐伯(さえき)
       法名は教海→如空→空海
       法号は遍照金剛
       諡号弘法大師(921年追贈)
       尊称は弘法大師空海上人
       生地は讃岐国
          多度郡
          屏風浦香川県善通寺市
       没地は高野山
       宗派は真言宗
       父は讃岐国佐伯直氏の長、佐伯-田公
       弟は法光大師-真雅
 ↓↑    甥は智証大師-円珍
 に生まれた
 商家に奉公
 放浪生活ののち作家
 万延元年(1860)・・・万(萬)が延す元の年(念=弐拾)
 滑稽本『滑稽富士詣』・・・滑稽=コッケイ=酷刑
 維新後
 『西洋道中膝栗毛』・・・ひざくりげ=膝栗毛
             膝を・・・類字は「漆(うるし)」
             栗毛の馬の代用に旅をすること
             徒歩旅行・旅
 『安愚楽鍋
 など
 開化期の
 世相風俗を題材にした
 神奈川県庁勤務後・・・神奈川県→「漢名・漢那・換名」撰懸
 『横浜毎日新聞』の記者
 『仮名読新聞』
 『いろは新聞』を創刊・・・伊呂波
 大新聞(おおシンブン・サイシンブン)に対し、
 市井の雑報、・・・市井=いちい=一位・壱位・櫟・移知意
 演劇界
 花柳界
 ゴシップ(gossip)・・・陰口・うわさ話・世間話
 ↓↑          (新聞雑誌にのる名士などに関する)
             うわさ話
             人のうわさをふれ回る人
             おしゃべり(女)
             金棒引き=金棒を突き鳴らして
             夜警や警固などをすること
             ちょっとしたことを
             大げさにふれまわる人
             金棒引き・露払い
             (かなぼうひき・つゆはらい)
             行列の先頭を金棒を突き鳴らしながら
             歩くヒト
 ↓↑          金棒を突き鳴らしながら夜警をする人
 を中心に
 編まれた
 小新聞(ちいさいシンブン・コシンブン)に
 再度(ふたたび)、・・・二旅
 戯文を連載
 際物作家
 享年66歳・・・六拾六・・・陸足陸
 ↓↑
 仮名垣 魯文 (かながき ろぶん)
 1829〜1894
  (文政十二年〜明治二十七年)
 ジャーナリスト
 文明開化の世相を風刺
 毒婦ものが大人気
 本名
 野崎文蔵
 江戸生れ
 1860年(万延元)
 「滑稽富士詣」で売りだし、
 明治維新後は
 「西洋道中膝栗毛
 「安愚楽鍋(あぐらなべ)」
 72年(明治五年)
 敬神愛国などを謳った
 三条の教憲発布の際、
 山々亭有人(ありんど)と
 「著作道書キ上ゲ」を上申、
 以後 戯作者からジャーナリストへ転身
 75年
 「仮名読(かなよみ)新聞」を創刊
 「高橋阿伝夜刃譚(おでんやしやものがたり)」
 などの毒婦・悪婦ものを発表
 ↓↑
1829年 (文政十二年) 江戸大火 0才
1830年 (天保元年) 伊勢御蔭参り 1才
1837年 (天保八年) 大塩平八郎の乱 8才
1839年 (天保十年) 蛮社の獄 10才
1853年 (嘉永六年) 黒船来航 24才
1855年 (安政二年) 安政江戸地震 26才
1858年 (安政五年) 安政の大獄 29才
1860年 (万延元年) 桜田門外の変 31才
1862年 (文久二年) 生麦事件 33才
1863年 (文久三年) 薩英戦争 34才
1867年 (慶応三年) 大政奉還 38才
1868年 (明治元年) 鳥羽伏見の戦い 39才
1869年 (明治二年) 版籍奉還 40才
1871年 (明治四年) 廃藩置県 42才
1871年 (明治四年) 解放令 42才
1873年 (明治六年) 徴兵制布告 44才
1876年 (明治九年)   廃刀令 47才
1877年 (明治十年)   西南戦争 48才
1877年 (明治十年)   東京大学設立 48才
1882年 (明治十五年)  上野動物園開園 53才
1883年 (明治十六年)  鹿鳴館完成 54才
1889年 (明治二十二年) 大日本帝国憲法 60才
1894年 (明治二十七年) 日清戦争 65才
 ↓↑
 仮名垣魯文
 かながきろぶん
 生年月日・・・・?
 1829年1月2日
  〜
 1894年1月2日
 満65歳没
 別号
 鈍亭
 猫々道人(みょうみょうどうじん)
 コピーライターの元祖
 ↓↑
  仮名垣  魯文
 (かながき ろぶん
 1829年2月9日(文政12年1月6日)?
  〜
 1894年(明治27年)11月8日?
 戯作者、新聞記者
 江戸の京橋生まれ
 本名は
 野崎文蔵 字は
 能連
 幼名は
 兼吉、また庫七、後に文蔵と改めた
 別号に
 鈍亭
 猫々道人(みょうみょうどうじん)
 和堂開珍
 英魯文
 戯作書太郎
 野狐庵
 俳号は
 香雨亭応一
 狂名は
 斜月窗諸兄
 ↓↑
 京橋の
 鑓屋町に生まれる
 魚屋を営む父
 野崎佐吉は、
 星窓梶葉という号を持ち
 俳句や狂歌を好み、
 文蔵も戯文や小説を好んで育った
 商家の丁稚となったが、
 人相見に小説家になれば出世すると言われ、
 18の年に
 花笠魯介文京の弟子
 1849年(嘉永2年)
 19歳の時に名弘めの摺物
 「名聞面赤本
 (なをきいておもてあかほん)」
 それに先輩の文人や芝居作家に
 賛助の俳句や短歌を書いてもらったが、
 最後に当時82歳の
 滝沢馬琴に頼んで
 「味噌揚げて・・・・・・・味噌=みそ=御園・見素?
  作り上手になりたくば
  世によく熟れし
  甘口ぞよし」・・・甘口=あまくち・カンコウ
              海女䪼  緘口・箝口・勘考
                䪼=出+頁
                  頬骨(ほおぼね)
                  両頬の突き出た部分の骨
 との狂歌を贈られた。
 自作の執筆の他に、
 先輩の仕事の手伝い様々などをこなし、
 生活のために
 古道具屋を営み、
 黒牡丹という
 丸薬の販売も行った
 ↓↑
 1855年
 安政の大地震で生き埋めになりかけた
 三河屋鉄五郎という版元から
 地震にかかわる
 「安政見聞誌」の執筆を
 十両で持ちかけられ、
 渓斎英泉の弟子の
 英寿が見て回った様子を
 魯文が書いて、
 原稿料を二人で折半
 当時の後援者には、
 榎本総助
 高野酔桜軒
 豪商の
 勝田幾久
 津藤香以山人
 などがいた
 同じ
 香以山人の取り巻きである、
 条野採菊(山々亭有人)
 河竹新七(黙阿弥)
 瀬川如皐
 落合芳幾
 其角堂永幾
 らとも親しくした
 ↓↑
 巻物の
 草双紙や
 滑稽本数十を著し、
 安政年間には名を為し
 1860年(万延元年)
 十返舎一九流の作品
 『滑稽富士詣』
 『荏土久里戯』
 が出版出世作となる
 ↓↑
 筆名は初め
 「英(はなぶさ)」
 または
 「鈍亭」
 としていた
 1873年(明治六年)
 仮名垣魯文
 師の魯と文の字を取って「魯文」
 「仮名垣」は、
 柳亭種彦
 『正本製』三編
 『当年積雪白標紙』
 の登場人物、
 赤本入道仮名垣による
 (歌川豊国による
  入道の挿絵と
  魯文の顔とが似ていたため)
 山々亭有人たちと
 三題噺のグループ
 「粋狂連」を結成
 ↓↑
 明治
 十返舎一九
 『東海道中膝栗毛』をもじって、
 滑稽本の手法で、
 福沢諭吉
 『西洋旅案内』
 『世界国尽』
 を種本にした
 『西洋道中膝栗毛』、
 続いて当時
 牛屋と呼ばれた
 鋤焼きの店を中心に当時の風物描いた
 『安愚楽鍋』を書く
 「八犬伝
 を小形読み本に引き直した
 『仮名読八犬伝
 福沢の科学入門書
 『窮理図解』
 をもじった
 『胡瓜遣(きゅうりづかい)』
 さらに福沢を元にして
 『西洋料理通』
 『世界都路』
 などを執筆、
 明治維新によって
 江戸以来の戯作文芸に批判的な風潮が生まれる中で、
 プロの小説家として活動した数人のうちの一人となる。
 その後も江戸式合巻で
 『松飾徳若譚』
 などを出版
 ↓↑
 1872年(明治五年)
 教部省から
 「三条の教憲」
 が出され、
 愛国や実学志向を
 小説で表現するようにと命じられ、
 条野採菊
 と共に
 「著作道書き上げ」
 と称する文書を提出
 ↓↑
 新聞人
 1973年
 横浜に移って、
 神奈川県庁に
 月給二十円で勤める
 並行して
 『横浜毎日新聞』に寄稿
 1974年
 県庁を辞めて
 横浜毎日社員の雑報記者となり、
 翌年に
 『読売新聞』
 『平仮名絵入新聞』
 と同じように
 庶民向けの新聞として、自ら
 『仮名読新聞』
 を創刊
 その後
 書肆磯部屋などを
 資本主として東京に移した
 芸妓の内幕についての記事
 「猫々奇聞」
 が喜ばれ、新聞で劇評を載せたことの嚆矢
 平仮名中心の紙面は、
 後の口語体新聞の先駆け
 魯文の続き物は
 『花裳柳絮綻
 (はなごろもやなぎのいとのほころび)』
 『夜嵐於衣花仇夢
 (よあらしおきぬはなのあだゆめ)』
 などの実話小説となり、挿絵は、
 猩々亭暁斎
 を名乗った
 河鍋暁斎が描いた
 1979年
 高橋お伝
 の死刑があり、
 魯文はこれを実話小説
 「高橋お伝のはなし」
 と題して
 『仮名読』
 に連載し、
 『高橋阿伝夜刃譚』
 として刊行
 次いで
 『いろは新聞』社長
 1884年
 『今日新聞』
 創刊し主筆
 ↓↑
 晩年
 玩物居士と号して
 古仏像や仏具を蒐集
 骨董にも鑑識眼を持ち、
 書画会を催して収入を得た
 1890年
 文壇退隠
 の
 名納め会を開き、
 所蔵する
 書画、骨董、書翰等一千点を来会者に配った
 その後
 都々逸の選者をしたり、
 狂歌や民謡を作る弟子の集まり
 「いろは連」
 を戯作者など47人で組織
 劇通で 『歌舞伎新報』
 でも記事を執筆
 酒は少しで、
 甘い物も食べず、
 鰻、天麩羅、
 ももんじ屋の猪肉が好物
 芸妓を「猫」、
 九代目
 市川団十郎を「団洲」、
 新史劇を
 「活歴」
 との
 「呼び名付け」の親
 ↓↑
 1894年没
 戒名
 仏骨庵独魯草文居士
 谷中の
 永久寺に葬られた
 ↓↑ 門人
 二世花笠文京(渡辺義方)
 採霞園柳香(広岡豊大郎)
 胡蝶園わかな(若菜貞爾)
 蘭省亭花時(三浦義方)
 二世一筆庵可候(富田一郎)
 野崎左文
 斎藤緑雨
 当時の
 新聞小説家は
 仮名垣派
 と、
 柳亭種彦の門流の
 柳亭派
 に二分
 野崎左文の書いた
 伝記「仮名反故」(『列伝体小説史』所収)がある
 ↓↑
 広告文案・キャッチコピー
 を一万枚以上書いた
 若い頃は
 「案文誂所」
 の看板を掲げていた
 ↓↑
 『魯文珍報』、
 さらに絵師の
 河鍋暁斎と組んで
 『絵新聞日本地』
 という日本初の
 漫画雑誌を刊行
 暁斎は魯文の
 『安愚楽鍋
 の挿し絵も描いた
 ↓↑
 作品リスト
 安政風聞集(1856年)
 仮名読八犬伝(-1867年)
 薄緑娘白浪(1868-1872年頃)
 報讐殿下茶屋聚(1868年)
 西洋道中膝栗毛(1870-1876年)
 安愚楽鍋(あぐらなべ、1871年
   角書に「牛店雑談(うしやぞうだん)」
 松飾徳若譚(1871年
 胡瓜遣(きゅうりづかい、1872年)
   角書に「河童相伝(かっぱそうでん)
 世界都路(1872年)
 西洋器会(1872年)
 倭国字西洋文庫
(やまとかなせいようぶんこ、
 なぼれおんいちだいき、1872年)
 蛸之入道魚説教(1872年)
 黄金花猫目鬘(こがねばなねこめかずら、1872年)
 三教則の捷径(さんきょうそくのちかみち、1873年
 佐賀電信録(1874年)
 格蘭氏伝倭文賞(ぐらんどしでんやまとぶんしょう、1879年)
 高橋阿伝夜叉譚(たかはしおでんやしゃものがたり、1879年)
 葉武列土倭錦絵(はむれっとやまとのにしきえ、1886年)
 毒婦の行末(1889年)
 甲府地名くらべ(出版年不明)
 ↓↑ ↓↑
 仮名垣魯文
 文政十二
 (1829).1.6. 江戸
  〜
 1894.11.8. 東京
 幕末〜明治初期の
 草双紙、滑稽本作者、新聞記者
 本名
 野崎文蔵
 滑稽本
 『滑稽富士詣』 (1860〜61) で認められ
 明治に入って
 『西洋道中膝栗毛』 (70〜76)
 『安愚楽鍋 (あぐらなべ) 』
 などの開化風俗を描く滑稽本の代表作家
 1875年
 『仮名読新聞』 (『かなよみ』)
  を創刊
 ↓↑
 仮名垣  魯文
 かながき‐ろぶん
 1829〜1894
 幕末から明治にかけての戯作者・新聞記者
 江戸の人
 本名、野崎文蔵
 別号、鈍亭など
 開化の風俗を描いた
 「西洋道中膝栗毛
 「安愚楽鍋(あぐらなべ)」
 など
 ↓↑
 仮名垣 魯文
 かながきろぶん】
 戯作者。本名野崎文蔵。江戸生れ
 別号,鈍亭,猫々道人(みょうみょうどうじん)
 花笠文京の門に入り
 初め
 瓦版や流行歌などを書いた。
 「滑稽富士詣」で戯作者として認められ
 維新後
 「西洋道中膝栗毛
 「安愚楽鍋(あぐらなべ)」
 を発表して流行作家となる
 ↓↑
 仮名垣  魯文
 かながき--ろぶん
 1829−1894
 幕末-明治時代の戯作(げさく)者
 文政12年1月6日生まれ
 万延元年(1860)
 「滑稽富士詣」でみとめられ
 明治四年
 「安愚楽鍋(あぐらなべ)」
 を発表
 「仮名読新聞」
 「いろは新聞」
 を創刊
 新聞小説の前身の
 「続き物」にも腕をふるった
 明治27年11月8日死去
 66歳
 ↓↑ 江戸出身
 本名は
 野崎文蔵
 別号に
 鈍亭など
 ↓↑
 「高橋阿伝夜刃譚
 (たかはしおでんやしゃものがたり)」
 など。
 格言
 「貧福は賢愚によらず。
  天の然(しか)ら令(しむ)るところなり(「胡瓜遣」)
 ↓↑
 仮名垣魯文
 生年は
 文政12.1.6(1829.2.9)
 没年は
 明治27.11.8(1894)
 江戸末期から明治初年の
 代表的戯作者のひとり
 本名は 野崎文蔵
 別号
 鈍亭
 猫々道人
 ↓↑
 江戸京橋の魚屋に生まれた
 幼少から奉公に出
 その先で後年の
 大通人細木(津国屋)香以の愛顧を受け
 戯作好きをつのらせ
 花笠文京に弟子入り
 戯作者の道に
 出世作
 万延1(1860)年刊
 『滑稽富士詣』
 この作では
 十返舎一九
 『東海道中膝栗毛
 に倣いながら時勢をあてこみ
 横浜の異国風俗までを盛り込んだ
 『西洋道中膝栗毛』(初編1870年刊)
 『安愚楽鍋』(初編1871年刊)
 刊行
 庶民レベルの文明開化の様相を表現
 明治七(1874)年
 『横浜毎日新聞』 の雑報記者
 翌八年には自ら編集者として
 『仮名読新聞』
 を創刊
 ↓↑
 1829〜1894(文政12年〜明治27年)
 文明開化の世相を軽妙なタッチで風刺
 1860年(万延元)
 「滑稽富士詣」で売りだし
 明治維新後は
 「西洋道中膝栗毛
 「安愚楽鍋(あぐらなべ)」
 ↓↑
 1872年(明治5)
 敬神愛国などを謳った
 三条の教憲発布の際、
 山々亭有人(ありんど)
 と
 「著作道書キ上ゲ」を上申
 以後戯作者からジャーナリストへ転身
 1875年
 「仮名読(かなよみ)新聞」 を創刊
 「高橋阿伝夜刃譚(おでんやしやものがたり)」
 などの毒婦・悪婦
  ↓↑
 仮名垣 魯文
 かながきろぶん
 (1829〜1894)
 戯作者(げさくしゃ)、新聞記者
 文政(ぶんせい)12年1月6日
 江戸京橋に生まれる
 本名は野崎文蔵
 別号は
 鈍亭
 猫々道人(みょうみょうどうじん)
 花笠文京(はながさぶんきょう)の門に入り、
 安政(あんせい)大地震ルポルタージュ
 『安政見聞誌』(1855)
 『滑稽富士詣(こっけいふじもうで)』(1860)
 などの作品により、戯作者として認められ
 明治維新後は、
 十返舎一九(じっぺんしゃいっく)の
 『東海道中膝栗毛
 (とうかいどうちゅうひざくりげ)』を模した
 『西洋道中膝栗毛』(1870〜1876)
 を発表
 弥次喜多(やじきた)の孫が
 世界の田舎(いなか)者として
 港々で失敗を演ずる
 滑稽譚(こっけいたん)の趣向が評判をよんだ
 牛鍋(ぎゅうなべ)
 を楽しむ庶民の生態をスケッチし、
 開化の風俗を活写した
 『安愚楽鍋(あぐらなべ)』(1871〜1872)
 とともに魯文の代表作
 1872年(明治5)
 「三条の教憲」公布後
 執筆を控えていたが、やがて
 『仮名読新聞』
 『いろは新聞』な どを創刊・主宰、新聞記者として活躍
 新聞の続き物を
 草双紙(くさぞうし)化した
 『高橋阿伝夜刃譚
 (たかはしおでんやしゃものがたり)』(1879)
 明治戯作の復活を促した意欲作
 明治27年11月8日没
 ↓↑
 雷門船橋屋の引札
 浅草雷門内に店を構えた船橋
 引札・・・口上
 (ひきふだ・現在でいう広告チラシの類)
 新しい菓子を
 「吟味の上に工夫をこらし」作るので、
 「御賑々敷(にぎにぎしく)
  ご雷駕(らいが)ありて多少にかぎらず
  御求(おもとめ)を主人(あるじ)に代りて願ふ」
 と結んでいる
 雷門と交流のあった文人
 魯文は特に関わりが深かった
 出店の引札や、双六などの景品・錦絵などにも
 文を寄せた
 明治時代になって魯文が発行した
 『魯文珍報』などの雑誌の販売所として
 同店の名前が見え、両者が長く親しくしていた
 ↓↑
 仮名読新聞
 仮名垣魯文の筆による
 「かなよみちんぶん(仮名読珍聞)」
 ↓↑
 ・・・内菓子屋 船橋屋の主人である伊東専三、
 日本橋の羅沙問屋の息子で銀座の分店を持っていた
 ↓↑
 江東区亀戸三丁目、
 亀戸天神のすぐ側
 「船橋屋」
 江戸は文化二年(1805年)
 十一代将軍
 徳川家斉の頃、創業
 船橋屋初代の勘助の出身地は
 下総国(千葉県北部)の船橋で、
 当時、下総国は小麦の産地
ーー↓↑ーー
 ディスリスペクト (dis-respect)
 「リスペクト(respect)=尊敬・重視・敬う・重んじる」
 の対義語で、
 「不」の意味を示す接頭辞の
 「ディス(dis-)」が
 付されてできた言葉
 「無礼・軽蔑・軽視」
 「無礼なことを言う(為る)、 蔑む」
 「愚(おろ)か・鈍い」
 「魯鈍・愚鈍」
 「血の巡りが悪い」
 ↓↑
 「魯」
 「中国の周の時代の国の一つ
  (紀元前1055年〜紀元前249年)
  周の
  武王の弟である
  周公旦(シュウコウタン)が
  領地として与えられた国
  山東省西南部
  都は山東
  曲阜市」
 ↓↑
 「魯西亜(ロシア)=Russia=露西亜
 ↓↑
 「魚」の象形(「魚」の意味だが、ここでは、
 「鹵(ロ)」に通じ、
 「役立たずの愚かな者」と日(口)の象形」
から「鈍い・愚か」を意味・・・
 「鹵」=塩を産出する西方内陸部の塩鹹地
    東方、沿岸部の塩鹹地
    岩塩・鹵石 (ロセキ)
    奪い取る・鹵獲・大型のたて
    鹵簿
    しお・しおち
    アルカリ性の塩分を含んだ土地
    地中から出る天然の結晶を鹵
    海水からとったのを塩
    岩塩
    鹵(しお)=岩塩・海以外から採れる天然のしお
    鹵(しおち)=塩分を含んだ土地
           作物が育たない塩土・塩地
    鹵獲(ロカク)
 「粗鹵」=荒れ地・魯に通じて,おろか
      粗末(そまつ)で役に立たないこと
 「鹵(しお・ロ)」の類字は「歯(は・シ)」   
 ↓↑
 「魯」=大雑把・間抜け
 紀元前十一世紀
 周の
 武王が弟の
 周公旦に与えた領地
 都は山東省の
 曲阜(キョクフ)
 春秋時代から国勢は振るわず、弱かったが
 周の文化を最もよく伝え
 孔子を生んだ
 前249年
 「楚(ソ)に滅ぼされた
 ↓↑
 魯魚の誤り
 書三度写せば
 魯も魚となる
 烏も焉、馬となる
 魯魚亥豕の誤り
 魯魚帝虎の誤り
 魯魚章草の誤り
 焉馬の誤り
 烏焉の誤り
 〔抱朴子 内篇・遐覧〕
 似た字を書き間違えること
 字を写し間違えること
 焉烏(エンウ)の謬(あやま)り
 亥豕(ガイシ)の誤り
 虚虎(キョコ)の誤り
ーー↓↑ーー
 魯
 周代の諸侯国の一
  (前 1055〜249)
 山東省の
 曲阜に都
 周の
 武王の弟の
 周公旦が封じられたのに始る
 任地の
 曲阜におもむいて
 魯侯となったのは
 その子の
 伯禽 (ハクキン)
 以後
 34代 800年あまり続いた
 春秋時代
 14代
 隠公から
 25代
 哀公までのことは
 孔子が編集したという
 『春秋』やその注釈書の
 『左伝』に詳しい
 国内では春秋時代初期の
 桓公の子の
 三桓氏が代々交互に権力を握り
 君主の廃立さえ行い
 前6世紀後半の
 昭公は
 三桓氏に敗れて国外に逃亡
 対外的には
 斉、晋、楚
 の3強国の勢力に左右されていた
 戦国時代
 弱小国
 最後の
 頃公 (ケイコウ) が
 (前 249) 年
 楚の
 考烈王に滅ぼされた
 周王の権力が低下した春秋時代
 周の文化や制度を保持し続けた国
ーーーーー
 魯
 間が抜けている。「魯鈍」
 古代中国の列国の一。「魯論」
 普魯西(プロシア)
 魯西亜(ロシア)
ーー↓↑ーー
 ?〜前249年
 周武王の弟で,
 周王朝創設の大功臣
 周公旦を始祖
 山東省曲阜に都
 春秋時代には
 12の有力諸侯の一つ
 斉、晋、楚などの圧迫を受け
 国内的には
 第15代桓公から出た
 孟孫
 叔孫
 季孫
 の3氏が政治を壟断(ロウダン)
 軍制、租税徴収なども掌握し
 公室は衰え
 戦国時代には小国に転落
 前249年
 楚に滅ぼされた
 春秋末の
 孔子はこの国の人
 彼が編した
 「春秋」によって
 各諸侯国中
 歴代君侯の在位年数が伝えられる唯一の国
ーー↓↑ーー
 魯
 周代の諸侯国の一
 姫姓・・・・・「姫」は禹の姒姓と同祖で、
         黄帝、帝嚳の別姓
         嚳の子孫の
         后稷黄帝の姓
         足跡(あしあと)の意
         姬=ひめ・キ・シン・イ=姫=女+臣(目)
 周の武王の弟で、
 周王朝創建の大功臣である
 周公旦が・・・周(まわ)る公(おおやけ)の旦(あさ)
        「旦=あさ・よあけ・タン・ダン
           女にふんする役者・女形・オヤマ」
 曲阜(キョクフ・山東省曲阜県)
 周辺の地に封ぜられたのに始まる
 ただし、
 周公旦は都にとどまって
 周王を補佐し、
 長子の
 伯禽(ハクキン)が・・・伯禽=白い猛禽=白鷹・白鷲・隼
 封地に赴いた
 その地はもと
 東夷(トウイ)の地であり、
 最初は統治に苦労・・・領土は塩分の多い荒れ地
 春秋時代
 斉(せい)、晋(しん)、楚(そ)
 などの強国の圧迫を受け
 その君主であった
 桓(カン)公の子孫の・・・・桓武天皇
 孟-孫(モウソン)氏・・・・孟(たける)の孫(まご)
 叔-孫(シュクソン)氏・・・叔(わかい)の孫(まご)
             兄弟の序列「伯仲叔季」の三番目
 季-孫(キソン)氏・・・・・季(すえ・おわり)の孫(まご)
                  尾張の真語?
 のいわゆる
 三桓氏が
 国の実権を握って
 公室を三分し、
 季孫氏の臣下の
 陽虎(ヨウコ)・・・陽虎=ヨウコ=煬虎
                (煬帝=隋朝二代皇帝
                    楊広)
         「煬=内を好みて礼を遠ざく
            礼を去りて衆を遠ざく
            天に逆らって民を虐げる」
 に実権を奪われた
 その後、
 孔子が君権の回復を図ったが失敗し、
 戦国時代には国はますます衰え
 紀元前249年
 楚に滅ぼされた
 春秋時代
 周の王室が衰えて以後、
 魯は周の文化をもっともよく伝える国
ーーーーー
 ・・・だから・・・ナニ・・・「仮名垣 魯文」・・・