2266日目・・・タケシのTV番組で「1616年」の「シエクスピアの墓(ウィリアム・シェイクスピア(William Shakespeare・1564年4月26日(洗礼日)〜1616年4月23日(グレゴリオ暦5月3日)=沙吉比亜・莎士比亞・沙翁」・・・昨夜はTVで「メアリー・トッド・リンカーン (Mary Todd Lincoln 1818年12月13日〜1882年7月16日)=エイブラハム・リンカーン第16代アメリカ合衆国大統領の妻」・・・事件の共通項は「16=十六=拾六=十陸=足六」・・・「1+6」=

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 で、問題は共通項の「16=十六=拾六=十陸=足六」だった・・・トドのツマリは「陸奥(むつ)」で、「睦」か・・・
  ↓↑
 「足助(あすけ)=あすけ(花・不)金銭のこと・お金=おあし」
 「足助(あすけ)=愛知県東加茂郡にあった町、足助町
 「足助素一=明治〜昭和期の出版者
       明治十一(1878)年1月1日
         〜
       昭和五(1930)年10月29日
       出生地岡山県
       札幌農学校(明治三十七年)卒
       札幌農学校在学中に
       有島武郎らの
       土曜会に参加
       大正七年、出版社の叢文閣を創業」・・・
       ナゼか、
       桃太郎・・・「吉備津彦
       吉備国の餅菓子、吉備(黍・稷)団子で
       キジ(雉)、サル(猿)、イヌ(犬)
       キジ=生地・木地・記事
       サル=猨・狙・猴・作留・詐留
       イヌ=狗・戌・獒・意縫
              獒(犬)と樹の郷=獒樹面
                      忠誠心の強い犬
          獒(犬)
          チベタン・マスティフ (Tibetan Mastiff)
          チベット高原を原産地とする超大型犬
          チベット
       を味方にして
      「鬼が島」の
      「温羅(うら・オンラ)=鬼」退治、
      「阿曽媛(あそひめ)=温羅の妻
                 阿曽郷
                (総社市奥坂)の祝の娘」
      「王丹(おに)=温羅の弟」
      「吉備津の釜御釜祓い、釜占い」等の
      「鳴釜神事(なるかましんじ)」
      「岡の山の県(懸)」で
      「足(あし・たり・ソク)の助(たす・ジョ)け
       の
       素(もと・しろ)の一(はじめ・イチ)」
       なんだか・・・札幌農学校・・・
  ↓↑
 「助六(すけろく)
  いなり(稲荷)寿司と・・・意(い・異・医)なり
                (依名理・鯔里)
                 「鯔=ぼら・いな・とど
                    シ(呉音・漢音)
                   「いなせ=鯔背」
                 「とどのつまり=鯔の詰まり」
                 と書く 
  のり(海苔)巻きの・・・・埜理(のり・糊・規矩)巻き
  詰め合わせのこと
  ↓↑
  歌舞伎の演目の一つ
  江戸の古典歌舞伎の代表
  助六の着る紙子
  和紙で作った服なので破れやすい、
  もし、やぶれば勘当という意味
  助六の着る紙子は
  上方版の助六を茶化したもの
  ↓↑
  歌舞伎の形式上(曾我もの)の演目
  モデルは
  江戸浅草の米問屋、
  魚問屋の大店に
  大捌助六(おおわけ すけろく)、
  戸澤助六(とざわ すけろく)、
  遊び人の
  大口屋暁雨(治兵衛)=英    分身  曾我
            (はなぶさ ぶんしん そが)、
  大坂の大店
  萬屋よろずや)の若旦那の助六
 ・・・がモデル?
  ↓↑
 「助六(すけろく・ジョロク・ジョリク?)」が
 「曽我モノ」・・・
 「素懸録(スケロク)?」は・・・「素懸鹿(賂句)」?
                    鹿=しか・ロク=王
 古代史の「蘇我モノ」?・・・
 「歌舞伎のタイトル(title・演目)」って・・・?
 「蘇我一族の物語」なのか、
 「曽我(曾我)兄弟の仇の物語」なのか・・・
 ・・・「石舞台」で踊ったのはダレなんだか・・・
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 曾我兄弟の仇討ち
 建久四年五月二十八日(1193年6月28日)
 源頼朝が行った
 富士の
 巻狩りの際に、
 曾我祐成・・・幼名は「一萬丸」
 と
 曾我時致・・・幼名は「箱王丸(筥王丸)」
 の兄弟が
 父親の仇である
 工藤祐経
 を討った事件
ーー↓↑ーー
 赤穂浪士の討ち入り・・・「忠臣蔵
 元禄十五年十二月十四日の晩
 (15日の午前4時頃、14日深夜)
 赤穂浪士四十七名が
 吉良上野介邸に押し入り、
 上野介を殺害
ーー↓↑ーー
 伊賀越えの仇討ち・・・「荒木又右衛門」
 鍵屋の辻の決闘
 (かぎやのつじのけっとう)
 寛永十一年十一月七日(1634年12月26日)
 渡辺数馬
 と
 荒木又右衛門が
 数馬の弟の仇である
 河合又五郎
 伊賀国上野の
 鍵屋の辻(三重県伊賀市小田町)で討った事件
 ↓↑
 「曾我=ソガ=蘇我」兄弟の仇討ち
 建久=ケンキュウ=研究?
 四(肆)年
 五(伍)月
 二十八(弐拾八・二足捌・念捌)日?
     20=「念=今+心」     
 ↓↑
 曾我祐成
 承安二年(1172年)
  〜
 建久四年五月二十八日(1193年6月28日)
 鎌倉時代初期の武士
 河津祐泰の長男
 曾我五郎時致の兄
 曾我十郎・・・・・・・ちはやぶる 神の誓ひの 違はずは
 ↓↑         親の敵に 逢ふ瀬結ばん
           (曾我十郎祐成)
         ・・・「ちはやぶる」は
            「神」、「宇治=うじ=氏・右治・蛆」
             に懸かる・・・?
         ・・・「ちはやぶる(枕詞)
             神代(かみよ)も聞かず
             竜田川(たつたがは)
             韓紅(からくれなゐ)に
             水くくるとは(在原業平)」
 ↓↑      ・・・「千早振る(ちはやぶる=ちはやふる
         古典落語の演目の一
         別題は「百人一首
        「無学者」で、
         隠居が短歌にいい加減な解釈を加える話
         原話は、安永五年(1776 年)に
         出版された笑話本、
        「鳥の町」の一篇
         山東京伝
        「百人一首和歌始衣抄(1787年)」
         にも類話。
         初代
        「桂文治」の作・・・
 ↓↑      ↓↑  ↓↑
         ・・・「夢ならで またも逢ふべき
             身ならねば 見るおもかげに
 ↓↑          袖朽ちぬべし(箱根の別当)」
 ↓↑
 とも称される
 五歳
 実父の
 河津祐泰
 安元二年(1176年)に
 一族の
 工藤祐経に暗殺
 後、母の再嫁先である
 相模国
 曾我荘(神奈川県小田原市内)の領主
 曾我氏において養育され、
 曾我氏を称す
 元服
 鎌倉幕府執権
 北条時政の庇護
 建久四年(1193年)
 富士の
 巻狩が行われた際、
 弟の時致とともに
 父の敵
 工藤祐経を殺害し、
 仁田忠常に討たれた。
 弟の時致は
 将軍源頼朝の宿所を襲おうとし
 捕らえられ処刑・・・
 ↓↑
 曾我時致
 承安四年(1174年)
  〜
 建久四年五月二十九日(1193年6月29日)
 曾我十郎祐成の弟
 曾我五郎・・・・・・・天くだり 塵に交はる 甲斐あれば
            明日は敵に 逢ふ瀬結ばん
           (曾我五郎箱王丸)
         ・・・地理に交わる甲斐=カイ=蝦夷
 とも称される
 三歳
 実父
 河津祐泰
 安元二年(1176年)
 一族の工藤祐経に暗殺
 領主
 曾我氏において
 兄の祐成とともに養育され、
 曾我氏を称す
 元服
 鎌倉幕府執権
 北条時政の庇護
 建久四年(1193年)
 兄の祐成とともに父の敵
 工藤祐経を殺害
 兄は
 仁田忠常に討たれ、
 時致は将軍
 源頼朝の宿所を襲おうとし捕らえられ
 翌日、頼朝の取調べを受けた際、
 仇討ちに至った心情を述べて
 頼朝は助命を考えたが、
 祐経の遺児の要望により処刑
 ↓↑
 曾我氏
 相模国を発祥
 桓武平氏
 千葉氏の支流
 平常信の子
 祐家が、
 相模国曾我荘(神奈川県小田原市周辺)
 を本拠として
 曾我大夫を称した
 祐家の子、
 祐信は、
 仇討ちで有名な
 曾我兄弟の養父で、
 鎌倉幕府御家人
 実子の祐綱も功を立てて
 土佐国に地頭職
 ↓↑
 伊東祐親の孫である曾我兄弟
 兄の
 一萬丸は
 曽我家を継ぎ
 曾我十郎祐成と称した
 曾我兄弟は、
 1193年5月28日
 遊女と寝ていた
 工藤祐経の寝所を襲撃、暗殺
 ↓↑
 仇討ちから、百年ほどたった
 十三世紀初期に作成された
 曽我物語(漢文の真名本)が原本
 伊豆国河津祐泰の子の仇打ち
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 ・・・以上も以下も、原文、原語は「ウイキッペデア」より、参考、参照して抜粋添付して少々改作したモノ・・・
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 助六
 歴代の市川團十郎
 『助六』が歌舞伎十八番で第一
 ↓↑
 「曾我もの」の一
 「花館    愛護  櫻
 (はなやかた あいごの さくら)」
 上演
 正徳三年 (1713)、山村座
 助六=二代目市川團十郎
 詞章=半太夫節(江戸半太夫
 江戸での初演
 これを契機に
 二代目團十郎
 曾我兄弟崇拝を始める
 ↓↑
 「式 例  和   曾我
 (しきれい やわらぎ そが)
 上演
 正徳六年 (1716)、中村座
 助=二代目團十郎
 詞章=半太夫節(江戸吉太夫
 江戸で大人気だった
 「曾我もの」の中に取り込まれ、以後、踏襲
 「花戸川助六実ハ曾我五郎時致」
 の設定もこのときから
 詞章の江戸吉大夫は江戸半太夫の高弟
 ↓↑
 「英    分身  曾我
 (はなぶさ ぶんしん そが)
 上演=享保十八年 (1733)、市村座
 助六=四代目市村竹之丞
 詞章=河東節(十寸見河東
 この上演から河東節を使用
 「出端の唄」の曲名が
 「所縁江戸櫻(ゆかりの えどざくら)」
 この唄はこれ以後、
 四代目市村竹之丞
 改め
 八代目市村羽左衛門
 座元として所有するこの
 市村座助六を演じるときのみに使われた
 歴代の
 市村羽左衛門にも継承され、
 河東節
 「所縁江戸櫻」は
 70年以上にわたって
 羽左衛門占有の曲となった
 ↓↑
 「初   鬙  通  曾我
 (はつもとゆい とおし そが)」
 上演=元文四年 (1739) 市村座
 助六=三代目市川團十郎
 詞章=長唄松島庄五郎
 團十郎助六長唄を使った
 ↓↑
 「聞    昔 曾我 物語
 (むかしに きく そが ものがたり)
 上演
 延享三年 (1746)、市村座
 助六=初代尾上菊五郎
 詞章=豊後節宮古路文字太夫
 ↓↑
 「男  文字 曾我 物語
 (おとこもじ そが  ものがたり)
 上演
 寛延二年 (1749)、中村座
 助六=二代目市川海老蔵(二代目團十郎
 詞章=河東節(十寸見河東)。
 61歳になった
 二代目海老蔵(二代目團十郎)は
 33年ぶりに
 若衆の助六を演じた
 この興行で衣装の拵えが
 「二重の小袖に紅裏、
  浅葱無垢の下着を一つ前、
  紫縮緬の鉢巻、
  腰に一つ印籠と鮫鞘」
 のかたちに整う
 蔵前の札差・大口屋暁雨
 出で立ちをモデルにした・・・
 ↓↑
 「江戸 紫    根元  曾我
 (えど むらさき こんげん そが)」
 上演
 宝暦十一年 (1761)、市村座
 助六=市村亀蔵
 詞章=河東節(十寸見河東
 江戸では
 「花戸川助六大口屋暁雨」という構図が定説
 助六の鉢巻きが
 大口屋が好んだという
 江戸紫に染め直された
 市村座座元の
 市村亀蔵(九代目羽左衛門)が
 河東節「所縁江戸櫻」を使ったのを最後に、
 以後はこれがもっぱら歴代の
 市川團十郎によって使われる
 ↓↑
 「重  重   歌  曾我
 (かさねがさね うたの そが)」
 上演
 天明五年 (1785)、桐座
 助六=五変化舞踊
   「春昔由縁英(はるはむかしゆかりのはなぶさ)」
    のひとつ
    女助六(女伊達)を含めた
    五役の所作事を
    三代目
    瀬川菊之丞が務めた。
 「女伊達もの」の嚆矢。
 ↓↑
 「御江戸  花  賑   曾我
 (おえどの はな にぎわい そが)」
 上演
 文化二年 (1806)、河原崎座
 助六=初代市川男女蔵
 詞章=河東節(十寸見河東
 助六市村羽左衛門市川團十郎
 以外の役者が演じた舞台で
 河東節「所縁江戸櫻」が使われた唯一の例
 六代目市川團十郎
 七回忌追善興行の演目として上演
 ↓↑
 「助六所縁江戸櫻
 (すけろく ゆかりの えどざくら)」
 上演
 文化八年 (1811)、市村座
 助六=七代目市川團十郎
 詞章=河東節(十寸見河東
 初めて舞台一面から
 花道にかけて桜の造花が飾られ、
 芝居小屋そのものを
 吉原に見立てる
 外題に「助六」が入るのもここから
 現行の『助六』はすべてこの版を原型
 ↓↑
 「宿   花  女  雛形
 (やよいのはな おんな ひながた)」
 上演
 文政二年 (1819)、中村座
 助六=三代目尾上菊五郎
 詞章=半太夫節(江戸半太夫
 半太夫節の曲名が
 「曲輪菊(くるわの ももよぐさ)」
 ↓↑
 「宿   花  千人   禿
 (やよいのはな せんにん かむろ)
 上演
 文政二年 (1819)、玉川座
 助六=七代目市川團十郎
 詞章=河東節(十寸見河東
 市村座以外で
 河東節「所縁江戸櫻」が使われた初例
 ↓↑
 「助 六  櫻   二重 帯
 (すけろく さくらの ふたえおび)」
 上演
 文政五年 (1822)、河原崎座
 助六=五代目松本幸四郎
 詞章=半太夫節(江戸半太夫)。
 ↓↑
 「助 六  所縁  江戸 櫻
 (すけろく ゆかりの えど ざくら)
 上演
 天保三年 (1832)、市村座
 助六=七代目市川團十郎改メ五代目市川海老蔵
 詞章=河東節(十寸見河東
 七代目の倅
 八代目市川團十郎の襲名披露興行で、
 八代目は外郎売で登場
 はじめて
 「歌舞妓狂言組十八番之内」
 の表現が使われる
 後の「歌舞伎十八番
 ↓↑
 「助 六  所縁  江戸 櫻
 (すけろく ゆかりの えど ざくら)」
 上演
 安政四年 (1857)、角の芝居
 助六=幡谷重蔵(七代目團十郎
 詞章=長唄
 天保の改革のあおりで
 江戸所払いになった
 七代目が
 「幡谷重蔵(はたや しげぞう)」
 の名で大坂・角の芝居の舞台にたって演じた
 市川宗家助六長唄を使った
  ↓↑
 「黒 手 組   曲輪 達 引
 (くろて ぐみ くるわの たてひき)」
 上演
 安政五年 (1858)、市村座
 助六=四代目市川小團次
 小團次と提携して
 二代目
 河竹新七(黙阿弥)が
 書いた一群の作品の一つ
 「江戸櫻清水清玄(えどざくら きよみず せいげん)」
 二番目・世話場面で、
 いわば「我流の助六
 小團次は常々『助六』をやりたいと思っていたが、
 小柄な自分では偉丈夫な助六がさまにならない。
 そんな愚痴を聞いた
 黙阿弥は、
 鮮やかな衣装、
 派手な隈取、
 艶やかな舞台、
 粋なセリフ、
 派手な喧嘩
 などといった『助六』の随を凝縮
 「黒手組の助六
 に書き換え
 原版が全一幕で
 上演時間が3時間という冗長な演目だったのに対し、
 新作は
 全三幕で上演時間は原版の約半分という簡潔
 ↓↑
 「助 六  所縁  八重 櫻
 (すけろく ゆかりの やえざくら)」
 上演
 明治六年 (1873)、市村座
 助六河原崎三升(九代目團十郎
 詞章=河東節(十寸見河東
 九代目は明治六年〜七年にかけ
 養家の河原崎家から
 生家の堀越家に戻る際、
 「河原崎三升(かわらざき さんしょう)」
 という名跡を10ヵ月間だけ名乗っていた。
 そこに
 歌舞伎十八番の代表格である
 「助六」をぶつけた
 「江戸櫻」を
 「八重櫻」に替えたのは、
 遷都後日も浅い東京に腰を据えた
 新政府をはばかって
 「江戸」の
 二字を避けた・・・
ーーーーー
 ・・・ナニを「助・六」したいんだか・・・とどのつまり=鯔の詰まり・・・「足助=蛙素懸」・・・