2257日目・・・三猿の「悪を見るな、悪を聞くな、悪を言うな」の「悪」ってナニ(何)?・・・「非礼勿視、非礼勿聴、非礼勿言、 非礼勿動(論語)」、「不見・不聞・不言」・・・「瓊瓊杵尊=ににぎのみこと=瓊々杵尊=邇邇芸命」の「天孫降臨」の時の「さるたひこ・サルタビコ=猿田毘古→彦(产彡=立ノ彡=彥=文厂彡=亠乂厂彡)=エンデンゲン」は裏切りなのか、降伏なのか・・・「諺(ことわざ・ゲン)=言+彥(彦)」・・・「彦=彥(繁体字・旧字体)」・・・「降伏=コウフク=幸福・香福・公福・降服・口腹」・・・「降伏=コウ


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 「守庚申」
 『柏崎物語』
 によると
 織田信長
 柴田勝家
 ら重臣20余人が揃って
 「庚申の酒席」を行った・・・
 度々途中で厠に立った
 明智光秀
 を鎗を持って追いかけ、
 「いかに、金柑(きんかん)頭、なぜ中座したか」
 と責めたと・・・?
 ・・・「猿=さる=申・狙・猨・猴・沙流」なら「(太閤)豊臣秀吉木下藤吉郎」である・・・織田信長に対する「告げ口」の怖れが、権力を握った「日吉丸」に移ったからで、太閤の周辺の「御伽衆」が、情報と、助言で太閤を動かしたからであろう・・・豊臣秀吉は「針鼠(はりねずみ)」の綽名(渾名・仇名・婀娜名)で信長から呼ばれていたが、秀吉の正妻(高台院)は「おね(ねね・おね・祢(ね)・寧(ねい)・寧子・子為(ねい)」と表記されたらしい・・・「ONE=ワン=おね」・・・「北の政所」の場所の象徴は「子・鼠」である・・・権力者の妻女には媒介的、間接的に「情報」が集中するのがアタリマエである。朝廷との交渉、諸大名の人質として集められた妻子の苦情、監督をした・・・秀吉死後は徳川家康への情報提供者だった・・・なるほど、「阿(おもね)る・佞(へつらう・侫・諛)」で、松井大阪府知事は「善良な忖度(他人の心をおしはかること)」で、「善良な斟酌(思いを汲み取る)」で、「法の枠内」で「便宜」をハカルですか・・・「侵スベカラズ」って?・・・バッタ商品の販売・・・大量余剰商品の安売り在庫処分・・・激安商品販売・・・商品の格安販売・・・叩き売り・・・資本主義の鉄則?・・・商品市場の「需要供給」での価格決定は「売り手と買い手」の「気分、思惑」次第・・・イワユル、「博打=ばくち=葉句値」・・・
 「情報提供」で権力者の側近、幇間(ホウカン・太鼓持ち→他意拠摸知?)は利用されるが、利用もする・・・だが、罠(わな)にハマって自滅する人物もいる・・・「罠=わな=和名」である・・・独裁者は「情報」を独り占めにするが、「限界」があるのは当然である・・・
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 「守庚申」は、
 「庚申待(こうしんまち)」となり
 一般の夜待と同じように
 会食談義を行って徹宵する風習となった。
 「庚申待」とは、
 「庚申祭」
 「庚申を守る」の訛ったものとか、
 「日待・月待」
 といった行事と同じく、
 夜明かしで神仏を祀ることから
 「待」といった・・・
 「庚申待」
 15世紀の後半
 「守庚申」の際の勤行や功徳を説いた
 『庚申縁起』が僧侶の手で作られ、
 「庚申信仰」は仏教と結びつき
 諸仏が本尊視され
 行を共にする
 「庚申講」が組織化され、
 講の成果として
 「庚申塔」の前身にあたる
 「庚申板碑」が造立され
 「日吉(ひえ)山王信仰
 とも習合することにより、
 室町時代の後期から建立が始まる
 「庚申(供養)塔、碑」には、
 「申待(さるまち)」
 「山王の神使」である
 「猿」を描くものが著しくなった・・・

 庚申信仰は、
 神仏習合の流れの中で、
 猿を共通項にした新たな信仰へと変化
 江戸時代は、
 「庚申信仰」が最も多彩かつ盛んになり
 大正時代以降は急速にその信仰が失われた・・・
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 青面金剛・・・猿田彦神
 庚申信仰では
 青面金剛と呼ばれる神体を本尊とする
 庚申信仰猿田彦神
 「猿」の字が
 「庚申」の「申」に通じ
 「猿田彦」が
 「塞の神」とも同一視され、
 これを
 「幸神(コウシン)」と読んだ・・・
 庚申信仰では
 猿が「庚申の使い」とされ、
 青面金剛
 庚申塔
 に
 「見ざる、言わざる、聞かざる」
 の
 三猿が描かれた・・・
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 塙 保己一(はなわ ほきいち)
 延享三年五月五日
 (1746年6月23日)
   〜
 文政四年九月十二日
 (1821年10月7日)
 国学者 幼名は丙寅にちなみ
 寅之助(とらのすけ)、
 失明後に
 辰之助(たつのすけ)と改名
 多聞房(たもんぼう)とも名乗る
 雨富検校に入門してから
 千弥(せんや)
 保木野一(ほきのいち)
 保己一(ほきいち)
 と改名
 『群書類従
 『続群書類従』の編纂者
 総検校。贈正四位
 子に
 伊藤博文と山尾庸三に
 暗殺された
 国学者
 「塙忠宝」がいる・・・伊藤博文もテロリストだった・・・
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 武州
 児玉郡
 保木野村(埼玉県本庄市児玉町保木野)に生まれた
 「塙」は
 師の
 「雨富須賀一」の本姓を用いたもの
 荻野(おぎの)氏の出自
 近世に帰農した、百姓の家系
 父は宇兵衛、
 母は藤木戸村(加美郡木戸村)の
 名主
 斎藤理左衛門の家の娘
 「きよ」
 弟は
 「卯右衛門(うえもん)」
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 五歳のときに疳(かん)の病気(胃腸病)で
 目痛や目やにの症状が出て
 視力が弱って、
 七歳の春に失明
 虎之助のことを聞いた
 修験者が生まれ年と名前の
 両方を変えなければ
 目が治らないと進言し、
 名を
 辰之助と改名、
 年を二つ引いたが
 視力が戻らなかった
 修験者の
 正覚房に弟子入り
 多聞房という名をもらい
 手のひらに指で字を書いてもらい、
 文字を覚えた
 また、
 手で形をさわったり
 「鼻」で匂いを嗅いだりして・・・ハナでニオイをカグ?
 草花を見分けた。
 和尚や家族から聞いた話を忘れることはなく、
 物覚えが良かった
 十歳江戸で学問を学びたいと考え悩む
 宝暦七年(1757年)六月十三日
 母きよが死去
 形見として
 きよのお手縫いの
 巾着(キンチャク)をもらう
 巾着には23文入っていた
 宝暦八年(1758年)
 絹商人に
 「太平記読み」で暮らしている人の話を聞いた
 宝暦十年(1760年)
 十五歳(年を二つ引いて13歳)
 江戸に出、
 永嶋恭林家の江戸屋敷のもとに身を寄せる
 約3年間を
 「盲人(めくら)」としての修業に費やし、
 十七歳(二歳引いて15歳)
 盲人の職業団体である
 当道座の
 雨富須賀一検校に入門
 名を
 千弥と改め、
 按摩・鍼・音曲などの修業を始めたが
 保己一は、
 雨富検校に学問への想いを告げ
 「三年の間たっても見込みが立たなければ国元へ帰す」
 という条件付きで認められた。
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 国学・和歌を
 萩原宗固(百花庵宗固)に、
 漢学・神道
 川島貴林に、
 法律を
 山岡浚明に、
 医学を
 品川の東禅寺に、
 和歌を
 閑院宮
 に学んだ。
 塙保己一
 人が音読したものを暗記して学問を進め
 旗本の
 高井大隅守実員の奥方に、
 『栄花物語』40巻をもらい、
 初めて書物を所有
 雨富検校の隣人の旗本
 松平織部正乗尹
 (まつだいらおりべのかみのりただ)が
 講義を受けていた
 萩原宗固の講義をともに聞くことになった。
 乗尹は保己一に系統立てた学問をさせる必要を
 雨富検校に説き、
 萩原宗固の門人として教えを受けた。
 宗固の勧めで漢学や神道
 川島貴林(たかしげ)に、
 同時に
 律令
 山岡明阿(みょうあ・山岡浚明)
 に学んだ。
 宝暦十三年(1763年)
 衆分(盲官のひとつ)になり、
 名を
 保木野一と改めた
 明和三年(1766年)
 雨富検校より旅費をうけ、
 父と一緒に
 伊勢神宮に詣で、
 京都、大阪、須磨、明石、紀伊高野山など
 六十(六拾・陸拾)日ほどにわたって旅
 明和六年(1769年)
 に晩年の
 「賀茂真淵」に入門し、
 『六国史』などを学ぶ。
 十月に真淵が死去
 安永四年(1775年)
 衆分から
 勾当に進み、
 「塙」姓に改め、
 名も
 「保己一(ほきいち)」と改名
 安永八年(1779年)
 『群書類従』の出版を決意
 検校の職に進むことを願い、
 心経百万巻を読み、
 天満宮に祈願
 天明三年(1783年)
 検校
 天明四年(1784年)
 和歌を
 日野資枝(ひのすけき)に学ぶ
 寛政五年(1793年)
 幕府に土地拝借を願い出て
 和学講談所を開設
 会読を始める
 ここを拠点として記録や手紙にいたるまで
 様々な資料を
 蒐集し、
 編纂したのが
 『群書類従
 歴史史料の編纂にも力を入れて
 『史料』としてまとめた
 『史料』編纂の事業は
 東京大学史料編纂所に引き継がれ、
 現在も続けられている。
 同所の出版している
 『大日本史料』がそれである
 寛政七年(1795年)
 盲人一座の
 総録職
 文化二年(1805年)
 盲人一座十老となる
 文政四年(1821年)二月
 総検校
 9月に76歳で死去
 四男
 忠宝が跡を継いだ。
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 墓所は東京都新宿区若葉の愛染院
 豊臣秀吉を尊敬・・・・豊臣秀吉=サル・ハリネズミ
 平田篤胤
 安藤野雁
 も、
 保己一の門下
 日本外史を著した
 頼山陽
 も保己一に教えを請うた
 保己一の弟子
 中山信名(なかやまのぶな)
 石原正明(いしはらまさあき)
 屋代弘賢
 松岡辰方(まつおかときかた)
 長野美波留(ながのみはる)
 など・・・
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 『群書類従』666冊が完成・・・666・六六六=悪魔の数字
 保己一が74歳のとき
 34歳のときに決心してから41年後
 『続群書類従』1885冊を編纂
 生前は版は未完
 保己一の死から100年余りが過ぎた
 1922年
 続群書類従完成会が設立
 『続群書類従』出版事業が始まった
 続群書類従完成会は、
 江戸時代の出版物の復刻を手掛けていた
 「国書刊行会(1905年創業)」
 『群書類従
 『続群書類従
 『続々群書類従』、
 『史料纂集』の刊行を行っていたが、
 2006年9月閉会(倒産)。
 同会の出版事業は
 2007年6月より
 八木書店に引き継がれ、
 続群書類従完成会発行の書籍も
 八木書店から発売
 嘉永四年(1851年)
 保己一が編纂した
 『令義解』に
 女医の前例が書かれていることを
 根拠に女医の道が開かれ、
 荻野吟子が
 日本初の国公認の
 「女医第一号」となった
 1921年
 昭和天皇が皇太子であったころ、
 ケンブリッジ大学を訪問した記念に
 『群書類従』を寄贈することを約束され、
 実弟である秩父宮が届けた。
 その他、『群書類従』は、
 ドイツの博物館、 ベルギーの図書館、
 アメリカの大学等にも贈られた。
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 ヘレン・ケラーは幼少時より
 「塙保己一を手本にしろ」
 と母親より教育されていた
 昭和十二年(1937年)四月二十六日
 ケラーは渋谷の温故学会を訪れ、
 人生の目標であった
 保己一の座像や保己一の机に触れた・・・
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 『花咲伝』・・・ハナがサク伝 or ハナがワラウ伝?
 は
 44歳のとき、
 「新葉集」を拠所として、
 長慶天皇・・・「南北朝時代の第98代天皇
         南朝、第三代天皇
        (在位:正平二十三年=応安元年
         1368年)三月
          〜
         弘和三年=永徳三年(1383年)冬
         諱は寛成(ゆたなり)」
 の即位がなかったことを「論証」した書籍・・・?
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 天皇の在位・非在位の議論
 林春斎 (『日本王代一覧』他)
 榊原忠次(『新葉和歌集作者部類』)
 徳川光圀(『大日本史』)は在位説
 新井白石(『読史余論』)
 前田綱紀
 塙保己一(『花咲松』)は非在位説
 ↓↑
 明治
 黒川真頼
 菅政友
 谷森善臣
 らは非在位説を論じた。
 ↓↑
 大正
 八代国治・・・在位論(『長慶天皇御即位の研究』)
 武田祐吉・・・『耕雲千首』古写本の奥書から
        「仙洞並当今」、
        すなわち上皇天皇
        元中六年(1389年)に並存
        後村上天皇崩後のこの時期に
        「仙洞」の資格があるのは
        「長慶上皇」しか存在しないとして
        八代の見解を補強
        大正十五年(1926年)十月二十一日
        皇統加列の詔書発布
        長慶天皇は正式に
        第九十八代天皇として公認
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 仙源抄=『源氏物語』の辞書形態の注釈書
     内容がさまざまに異なる写本が存在し、
     表題も
     『源氏いろは抄』
     『源氏物語色葉聞書』
     『源氏秘抄』
     『源語類集』
     などのものが存在する・・・
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 『仙源抄』・・・・・・・仙=イ(人)+山
 (せんげんしょう)・・・撰(潜)現象?
  ↓↑         腺(泉)現象?
             宣言・・・本居宣長
             浅間・・・木花之佐久夜姫
             選言・千元・千言・壱千元
  ↓↑         泉源
 1381年
 長慶天皇の著作の
 『源氏物語』の注釈書
 『源氏物語』の語句
 約一千についての説明
 それまでの『源氏物語』の
 ほぼ全ての注釈書が
 『奥入』のように、
 写本に
 書き添えられた
 注釈が増え
 やがて
 別に綴じられるようになった
 経緯で生み出されてきた
 巻序を追ってさまざまな事項に
 説明を加えていたのに対して、
 本書では説明する事項を
 「いろは」順に並べ、
 辞書形態の注釈書と呼ばれている
 『源氏物語』の
 辞書形態の注釈書としては最古のもの・・・
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 南北朝時代
 南朝は、
 北朝に対して
 政治的・軍事的側面からの
 優位性を示そうとしただけでなく、
 正当な皇位の継承者にふさわしい
 文化的な側面からの優位性を示すことに熱心
 宮中では
 天皇臨席の下で
 歌会や古典の講義を行った
 本書のような
 実用的な著作が
 天皇自らの手によって成立したことは、
 そのような状況を背景にしている・・・
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 『水原抄』
 『紫明抄』
 『原中最秘抄』
 の
 「河内方三抄」と呼ばれる
 注釈書の内容を中心にして、
 『奥入』などに見える
 藤原定家の説を比較し、
 さらには
 後醍醐天皇
 後村上天皇
 の説などを批判統合し、
 自説も
 「愚案」
 として記録・・・
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 ・・・???・・・「愚案」です・・・なんで、『源氏物語』は、時代ごとの「注釈書」が必要なのか・・・「平安王朝の言語」が理解出来なかった?・・・「源字の物述べの語、or 仏の語」が理解出来なかったのか?・・・
 忖度(ソンタク)・・・立身(忄)の弁の度数・・・斟酌(シンシャク)・・・甚だしく斗(はかる・たたかう・ト・ツ)、酉(とり)の勺(シャク・シャク・勹の丶)=西方の訳(厄・釈・借)・・・?
 「丶」=「主=しるし・チュ・點・ともし火(燭)、燈火の象形・主宰の主の古字」・・・