2223日目・・・「新潟県糸魚川市の火災被害」の皆さん、お見舞いいたします。昔からの「南風には気をつけろ」の過去の遺訓と御近所の助けあいが命を繋いだらしい・・・もし、大雪の中での火災なら逃げ場ない。日本の住宅は木造だから「マッチ一本」が大火事の延焼・・・「無差別な国際テロ」のコトを考えると「マッチ一本」が武器。戦時中、あんなに「焼夷弾」を落され、無差別に殺されていった「日本人」だが、同じ場所に「蟻さん」のように家を建て、町を築いて住んできた。古代文明のように「石の廃墟」とはしなかった。みんな「アルゼンチ

 ここ北海道は大荒れ、吹雪、大雪、玄関も、その通路も塞がった。雪投げ、「懐炉(カイロ)」が必要だ・・・「待てどもカイロ(海路・回路・Cairo=改羅・開羅・該禄・喀愛羅・詼祿・海樓・海樓・海羅・介爾阿)からの便りはなし」、みんな、ピラミッドとスフインクスを見学してるんだろうなッ・・・「江戸幕府、第一次遣欧使節団(1864年・フランスへの池田長発が率いる横浜鎖港談判使節団)」・・・「懐(いだく)・懐(おもう)・懐疑(カイギ)・懐旧( カイキュウ)・懐郷(カイキョウ)・懐剣(カイケン)・懐古(カイコ)・懐紙(カイシ)・懐柔( カイジュウ)・懐石(カイセキ)・懐胎(カイタイ)・懐中(カイチュウ)・懐妊(カイニン)・懐抱(カイホウ)・懐裏・懐裡(カイリ)・懐香(カイコウ・くれのおも)・懐(なつ)かしい・懐(なつ)かしむ・懐(なつ)く・懐(ふところ)・懐刀(ふところがたな)・懐手(ふところで) 」・・・時刻は12月23日金曜日の午後13時・・・「citi-zen=シチ-ズン=cite=city⇔civis=citizen=市民=出生、帰化による法的に保障された市民権利をもつ公民・国民・人民」・・・「シチズン」=「七亠務」=「漆(うるし)の音(おと)に務(つと)む」・・・「シチズン時計」が「チクタク、チクタク」、「ボ〜ン、ボ〜ン」・・・
 またまた、以前に書き込んだモノと同じことを、書き込みそうだが・・・同類の「ブログ記事」がワンサと増えている・・・ボクが映画監督になって、「シナリヲ」を書きたいのは「文久二年(1862年)1月22日〜元治元年(1864年)2月23日」の「石のライオン」と云うタイトルの物語だが・・・「文明開化の夜明け前」である・・・
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 文久二年
 (1862年)1月22日
 竹内下野守保徳を正史
 文久遣欧使節
 イギリス軍艦
 オーディン号で
 品川港出航
 ↓↑
 文久二年(1862年)1月22日
 竹内下野守保徳
 38名
 ヨーロッパに派遣
 竹内下野守使節
 江戸・大阪の開市、兵庫・新潟
 の開港延期の交渉団
 ↓↑
 元治元年
 (1864年)2月23日
 第二次幕末
 遣欧使節
 池田筑後守一行
 エジプト国王を訪問
 ↓↑
 文久三年十二月二十九日
 (1864年2月6日)
 前後5回にわたる使節団の
 第3回
 池田筑後
 遣欧使節団一行
 総勢34名、
 通訳
 フランス人
 ボレックマン
 横浜を出航
 ↓↑
 横浜鎖港談判使節
 横浜鎖港談判使節
 池田長発(筑後守)正使
 河津祐邦(伊豆守)副使
 河田熙(相模守)目付
 文久三年十二月二十九日
 1864年2月6日
  〜
 元治元年七月二十二日
 1864年8月23日
 第2回遣欧使節
 池田使節
 とも呼ばれる
 使節団の目的
 開港場横浜の再度閉鎖交渉
 文久三年五月十日(1863年6月25日)
 孝明天皇が攘夷勅命
 下関戦争
 薩英戦争
 フランス士官
 カミュ殺害事件
 幕府は攘夷派を懐柔する為、
 横浜の閉鎖計画
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 ・・・以上も以下も「文久遣欧使節団・第2回遣欧使節、池田使節団」に関する「ブログ記事」からの参考、参照で、「引用」抜粋し、興味のある部分を「行の頭出し」として添付したものです・・・「原文」は「文久遣欧使節団・池田使節団」の文字を検索すれば「即座」にみれます・・・勝手に「添付」、御容赦ください、ゴメンなさい・・・
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 金山佐輔(かながみさすけ)・・・「カナヤマ」ではない?
                 「キンのヤマ」でもない?
                 だが「佐輔(サホ)」?
 会津
 会津若松
 馬場町に生まれた(天保七年・1836)・・・「天を保つ七年」?
 正使池田筑後守に学問の賓師
 従者で同行
 佐原盛純(さわらもりずみ)
 と改名
 会津中学校などで教鞭
 「少年団結す白虎隊」・・・・・「白い虎」は「白い獅子」か?
 の漢詩の作者
 金山は
 明治37年10月
 このときの旅行日記を
 出発から帰国まで克明に謄写
 「航海目録(全4巻)」
 と名づけて
 子孫に遺した(会津図書館蔵)
 「航海目録」
 一行が
 「三角山(ピラミッド)」・・・三角山=金字塔
 「首石(スフインクス)」・・・首の石
 見物に出かけた
 文久四年二月二十八日・・・・・西暦1864年4月4日月曜日
                甲子年丁卯月己亥日大安
 日本では二月二十日火曜日・・・二解通・弐重(拾)の比?
                甲子年丁卯月癸巳日大安
 (一行がカイロに到着(壬辰)した翌日)
 に
 「元治」と改元・・・・・・・・摸訳の字
                元の水のム口
                元の字・源の字
 1864年4月4日・・・・・・・・・西暦1864年4月4日月曜日
 カイロのホテルに居残って
 ピラミッド見物に行かなかったのが
 副使の
 河津伊豆守・・・・・・・・・・河津=かわづ=蛙(かえる)
 田辺太一・・・・・・・・・・・田の辺の太の一
                傳 変 タイ(臺)のイチ(壹)
 金山自身も含めて
 七名だった・・・・・・・・・・「七の名」=シチ捨務?
 スフインクス
 の前で写真を取った
 日本人サムライは27名・・・・・三九=二十七
                  =弐を拾う七(漆=うるし)
 ブレックマン
 の計28名・・・・・・・・・・・四七=二十八=宿曜経の宿数
 ↓↑
 田辺太一の娘
 竜子(たつこ)・・・・・・・・龍(辰)の子?
 は
 三宅雪嶺・・・・・三宅花圃(かほ)のペンネームで作家・歌人
 に嫁ぎ
 スフインクスの下にて
 一行の撮影した写真を
 三宅雪嶺氏が所蔵
 ↓↑
 「池田使節団」・・・・・池(水也)の田(た・かる・デン)?
              みず哉
 長州藩の下関における
 フランス通報艦
 キンシャン号砲撃事件
 に関する謝罪
 同年の
 文久三年九月二日(1863年癸亥
           10月壬戌
           14日丙午
           水曜日・仏滅→部通目通?)
 横浜港郊外
 井戸ヶ谷・・・・・・緯度のケの谷(八Λ口)→他の似?
 で起きた
 フランス陸軍中尉
 アンリ・カミュ殺害事件・・・カミュ=異邦人→彙報訊?
         アルベール・カミュの小説・1942年刊
 の謝罪
 ↓↑ 
 使節団は
 34人
 体調不良等で
 ピラミッド、スフィンクス
 視察に参加できなかった
 7人を除く
 27人のサムライ(侍)が写っている
 写っていない7人の中の
 横山敬一(当時38歳)は・・・横(十八)の山の
               敬うの一(はじめ・イチ)
 黄熱病に罹患
 その後、
 マルセイユで死亡・・・・・・Marseilles・丸(麻呂)施喩?
 マルセイユ
 サン・ピエール墓地に眠る・・・簒、比重得留?
 館員は
 万聖節(11月1日)・・・・万世説・壱拾壱解通意知比(似知)?
 に
 彼の墓参りが慣例・・・
 ↓↑
 遣欧使節団の目的
 下関事件や薩英戦争(1863年
 朝廷の攘夷・・・・・・・・上の意・譲る位?
 ↓↑
 中国(清国の上海)
 ベトナム=越南・(サイゴン=Saigon=柴棍・西貢)
 セイロン=錫蘭・(ゴール=Galle)
        ・・・正(政・世)論のgoal(終着点)?
 ↓↑
 フランスは
 ナポレオン3世時代・・・名補例音簒所為?
         ・・・奈破翁・那破崙・拿破崙・拿勃翁
 「夜でもガス燈に照らされて昼のように明るい大通り」
 「巨大な軍艦が十数隻も停泊している軍港」
 「蒸気を利用した巨大な製鉄所や綿織物の工場」
 「マルセイユに残した
  横山敬一の容態がパリまで瞬時に伝えられる電信技術」
 ↓↑
 独断でパリ約定を締結
 長州藩によるフランス船砲撃の賠償金支払い、
 馬関海峡(下関)の自由航行の保障
 などの締結
 西欧各国歴訪予定を
 フランスだけで取り止め、
 8か月で帰国
 帰国後
 池田筑後守は、
 攘夷は不可能であり、
 開港を維持しながら
 国力の増強に専心すべきと進言
 池田筑後守は蟄居処分
 幕府はパリ約定を破棄
 その数日後
 イギリス、フランス、アメリカ、オランダ
 の連合軍が
 長州港を攻撃
 「四国艦隊下関砲撃事件(1864年)」
 1時間で長州軍は撃破
 ↓↑
 エジプト(埃及
 エジプト州という
 オスマン帝国
 の属州の一
 ムハンマド・アリー
 1805年に総督就任し
 ムハンマド・アリー朝として継続
 ↓↑
 灌漑への改造
 ↓↑
 アメリカで南北戦争(1861〜65年)
 アメリカから
 大量の綿花を輸入していたイギリスは、
 綿花の輸入ができなくなり
 イギリスはエジプトに綿花栽培を拡大
 ↓↑
 使節団が訪れた前年に
 5代目の総督
 イスマーイール・・・・・・意素磨蛙意意留?
 は、パリで学んだ親欧派
 イギリスの提案を受けて、
 綿花の栽培に尽力
 建設当時世界最大の堰
 カイロ近郊の
 デルタ・バラージュも
 使節団が訪れる3年前に完成
 カイロ周辺でも
 ナイル(Nile)川の・・・・・尼羅・尼児
               名(按・那・納)意留?
 水位は既にかなり安定
 サムライ達も
 カイロの周辺には
 一面の
 綿花畑が・・・・・・・・メンカ・話多葉名秦家(波田家)?
 広がっていたと記録
 使節団は馬車で
 ナイル川を渡り、
 ピラミッド、
 スフィンクス・・・・・スフィンクス(Sphinx)
           「獅身人面像・獅身女面像」
 に向かい
 その途中の様子を
 「ナイル溢れる時、・・・名(按・那・納)意留
  水の満ると云う・・・・見ず
  川の中を通れり。・・・撰(戦・晋・遷・泉・潜)の中?
  常に水、少しもなし」
 と記録・・・
 イスマーイールは、
 ナイル川沿いの土地を開発
 パリを
 モデルにした近代的な街づくりを進め
 カイロから
 ギザ(Giza=アルギザ・ギゼー・ギゼー・エル-ギザギーザ)
       ギザギザの刃は「鋸(金+居=のこぎり)の刃」?
       尖った岩石の岩波の山々
       ・・・猫(根子・子拠)耳の山なみ=根子岳
       熊本県阿蘇郡高森町の山=阿蘇五岳の一
       猫岳=七面山

       長野県上田市菅平高原と須坂市の境にある山

 のピラミッドまで続く
 観光用道路の建設にも着手
 使節団の5年後に開通
 大規模な工事、活気に満ちた
 カイロ周辺の様子を記録
 ↓↑
 エジプト
 その後、綿花を大幅に増産・輸出
 イスマーイールの過度の欧化政策などに伴う
 出費が巨額の対外債務となり
 1870年代に南北戦争終結した
 アメリカから
 大量の綿花が国際市場に流入
 エジプト財政は破綻
 財政部門は列強の管理下に置かれるが
 イギリスの保護国へ・・・
 ↓↑
 当時のエジプトは
 日本よりもはるかに工業化が進んでいた
 ↓↑
 使節団の記録に
 道端の不衛生な屋台で食品が売られていること、
 物乞いがしつこく追いかけてくること、
 2人のサムライが
 現金や脇差しを盗まれてしまったこと
 も記録されている・・・
 ↓↑
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 ・・・???・・・「石のライオン」は「メス」?・・・スフィンクスSphinxギリシャ語「絞め殺す者」の意?) は、ギリシャ神話では「ライオンの身体、人間の女性の顔、鷲の翼を持つ+蛇の尻尾」・・・「一つの声、朝には四つ足、昼には二本足、夜には三つ足で歩くものは何か?」・・・「オイディプスの生涯」・・・ナゼ、「埃及」に・・・「イシス=イシュタル」の「母のモノガタリ」・・・???・・・