2202日目・・・23時4分、福島県、東北地方で地震、震度5.7・・・「天国の崩壊、崩落」、「地上の崩落、崩壊、陥没」、「海底の隆起陥没、海上の隆起陥没、渤海、津波の水走り、河川の逆流の水走り」・・・「憲法の枠内」でのデモも、警護、警備もその法的秩序が護られているなら、まだ「平和」であるカモ・・・対外的にも、国内的にも「憲法の枠外」の「武器の使用」には・・・双方の「命の覚悟」が前提だが、「武士の覚悟の時代」ではない・・・相手次第でもあるが・・・「現実的な支配権力秩序」の崩壊の予兆でもある・・・「国家権力

 現在的にも、未来的にも資源も科学技術も期待できる・・・今現在の人口数も「生産物」の「均等配分」さえあれば、養っていける・・・
 「日本国憲法国家」、
 外国の諸国家が
 「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼」
 出来ないならば、
 「ガラパゴス化(Galapagosization)」である・・・グローバルな金融、為替相場、国際商品市場、国連(未だ日本国家は聨合国家の敵対国家である)を断ち切り、「鎖国」で、「密貿易」するのが上策かも・・・だが、地球規模の温暖化対策はどうする・・・日本列島を原水爆にも破壊されない硬化ガラスの巨大ドームを被せる・・・だが、地震、噴火はどうする・・・それらの犠牲は自然災害として諦めるのが日本古来からの「国民性」である・・・?
  ↓↑
 「瓦礫の山」・・・「甍(いらか)」・・・「高くとがっている部分の意の苛処(いらか)」・・・「屋根を葺(ふ)いた棟瓦(むねがわら)」・・・「切妻屋根の三角形の部分」・・・「瓦と夢」を合体させた漢字?じゃぁないだろう・・・「甍=艹+罒+冖+互+ゝ(ヽ)」の「互」は、「相互・互角」の「互(たがい・ゴ)」である。その中に「ゝ・丶・ヽ・々(踊り字・躍り字・一の字点・繰返し記号・約物=繰り返し符号、重ね字、送り字、揺すり字、重字、重点、畳字)」で、ヨミと意味は「ゝ(ともしび=灯火・チョン・ぽち)・丶(てん・チュウ・くの字点下)・々(おなじ・ドウ・同・仝)」である・・・
 どの様に「記号・文字・ことば」を理解するかは「各(おのおの=各々)」「屡(しばしば)」勝手であると思うが、協同体で協働体の生活、相互関係には「共通意義」が前提である・・・独りで妄想世界に浸って「自己納得」していても生きてはいけない・・・喰う為には相互の「能力、体力レベル」を踏まえ、寿命が来るまで相互に生きて行かなくちゃぁ〜ネッ・・・「人間」を忘れた「国家の枠内」での「国民・市民」じゃぁ、現実状況では無理かも・・・単なる「地球人」になりたいヒトはダレも居ないようだし・・・渡り鳥にも、鯨(鯢)にも「国境」なんてモノは無縁だけれど・・・人間との生活圏が重なって、行き場の無いヒグマも、蝦夷鹿も、ニャンコもワンコも生き延びるのは大変だ・・・
 「いらか=甍・瓦」は「切妻造や入母屋(いりもや)造などの屋根の妻側(棟の端)において合掌形に付けられた板、あるいは、その板を組んだ部分。搏風とも書き、甍(いらか)」・・・「roof tile(ルーフ タイル)」 ・・・
 今現在、雪の振る11月23日で、冬の魚なら「鮗(このしろ・鰊目ニシン科・鰶・鯯・鱅)=飯代魚(このしろ・児の代)」で、古名は「都奈之(つなし)」だったらしい。なぜ、「都奈之」の漢字を「大伴家持(?)」が当てたんだか、「出世魚」・・・「奈(大+示)=一+人+二+亅+八=柰(木+示)=十+八+二+亅+八=ナ・ダイ・ナイ」が「唐梨子=紅林檎」ですか・・・「奈何(いかん・どうしようか)」なぁ〜・・・「奈良」、「奈井江」・・・「奈翁(ナポレオン)=奈破翁・那破崙・拿破崙・拿勃翁」・・・
 そして、漢字なら「鱈(魚+雪)=たら=鰔(魚+咸=みな・カン・ゲン・ハム=口を封じる、口を閉ざす」だろうが、斑模様の皮で「マダラ」の「マ」が脱落した?、ではないであろう、「大口を叩くな、ダマ(黙)レ」である・・・
 「鱈(たら)=魚+雪(雨ヨ)」は和製漢字で、一般的には
 「スケトウダラ(介党鱈・鯳)」=「Alaska pollock=オットセイ(膃肭臍)の餌となる真鍮色の模様の魚」=「介宗鱈・助惣鱈・佐渡・メンタイ、ミンタイ(明太)」・・・
 「雪女」は「宗祇-諸国物語」を下敷きにした「小泉八雲ギリシャ系)=パトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn) 」の「怪談」のモノガタリだが・・・「宗祇(応永二十八年・1421年〜 文亀二年七月三十日・1502年9月1日)・室町時代連歌師・号は自然斎、種玉庵・姓は飯尾(いのお・いいお)・生国は、紀伊、or 近江」が越後で視たらしいハナシだが、八雲自身が「東京・大久保家の奉公「お花と宗八」から聞いた話らしいとも・・・宗祇、宗八で、「介宗鱈」・・・
 モモちゃん、雪の下だね・・・ボクはほとんど「ユキオトコ」・・・「雪の下=コジソウ(虎耳草)」・・・



 「Alaska」=アレウト(Eskimo-Aleut・イヌイット=Inuit)語の「アラクシャク=広大な土地・認められた土地・半島=Alyeska」・・・Alex?・・・Inuit(犬意訳?)・・・アイヌ・・・?
 「鱈(たら)=魚+雪」が冬の吹雪で、「冬の地震の地走り」には如何(どう)しょうもない・・・
 「忍者武芸帖(白土三平)」では「地震感知、予兆に鼠の大群が走るのが地走り」であったカナ・・・ブログで調べていたら「鳶職(とびしょく)の鉄骨建方」では「地走り=下まわり(地上で上階に建築物を上げる為の安全確保の段取り)」とあった・・・ナルホド「鳶職」である・・・鳶(とび)が天空で円を描いて地上の獲物を狙って飛ぶのは、「地上の生き物の危険」である・・・
 「瓦礫の山」、「甍(いらか)」がまた、トンでしまったが、
 五月は
 「コイのぼり・鯉幟(魚+里+巾+音+戈)」の歌、
 「甍(いらか)の波と 雲の波 重なる波の 中空(なかぞら)を 橘(たちばな)かおる 朝風に 高く泳ぐや 鯉のぼり(文部省唱歌(作詞不詳)、作曲は弘田龍太郎」・・・「はた=幟・幡・旗・幢」である・・・
 北海道の屋根は一般的には
 「ブリキ(tin plate)=錻力・鉄葉=錫メッキの薄い鉄板」
 で
 「オランダ語のBlik=Blikje」、
 「ドイツ語のBlech(薄鉄板)」、
 「波板のトタンの屋根(tin、iron roof)」・・・
 「語源はポルトガル語
  Tutanaga(亜鉛)=亜鉛鉄板・亜鉛鍍鉄板」
 ・・・鎖国以前の外来語かも?・・・
 「現在的なポルトガル語
  亜鉛はイタリア語と同じZinco(英語はzinc)
  tutenagaはポルトガル語にとっても外来語で、
  一説では
  ペルシャ語=tutanak=錫、鉛や銅の合金」・・・?
 「途端(ちょうどその時・はずみ・ひょうし・瞬時に)」
 「塗炭」
 じゃないけれど、
 「塗炭の苦しみを舐(なめ)る」って、
 「泥水、炭火」の中の苦痛・・・
 「臥薪嘗胆」の「嘗める」・・・?
 「ペルシャ語=tutanak」って「鍍金(トキン・めっき)→滅金」?・・・「女通金」=「女真・女直」の「金王朝満州国」だろう・・・?・・・
ーーーーー
 で、「アレキサンダー3世(マケドニア)」と「ダリウス3世(ペルシャ)」の「ヘレニズム文化」の東方への伝播であるが・・・
 「始皇帝
 (紀元前259年10月〜前210(辛卯)年9(丁酉)月10(丙寅)日
                  7(乙未)月22(丙子)日
  戦国時代の
  秦王→始皇帝
 (在位は紀元前246年〜紀元前221年)
  姓は嬴(エイ)、氏は趙(チョウ)、諱は政(セイ)」
 以前の「103年前」で、
 アレクサンダー3世(Alexander lll)
 紀元前356年7月20日・乙丑年7(癸未)月20(戊子)日
 紀元前323年6月10日・戊戊年6(丙午)月10(辛丑)日
 以後で、「103年後」である・・・時系列は
 アレクサンダー3世→始皇帝前漢→新→後漢三国時代
                  新王朝
        前漢元始元年(西暦1年・辛酉・2月節分以降)
          元始四年(西暦4年・甲子・2月節分以降)
        王莽
        太傅(摂政)・安漢公
        孝平皇帝13代皇帝
        劉箕子→劉衎
        没年
        元始五年十二月十八日
        元始五年(西暦  5年 1月 1日
              甲子年丙子月庚子日
               鼠  鼠  鼠
              甲子年丙子月戊戌日ユリウス暦
                     犬(狗)
  ↓↑   ↓↑ ↓↑ ↓↑
(西暦5年  12月  18日
              乙丑年・戊子月・辛卯日)
牛   鼠   兔(兎・菟)
            (西暦6年   2月   6日
              丙寅年・庚寅月・庚辰日
                       龍
              丙寅年・庚寅月・戊寅日ユリウス暦
               虎   虎   虎=トラ=彪
        ↓↑
        王莽・・・莽=艹(艸)+犬(大ゝ)+廾
        字は巨君・・・・巨君→巨勢(こせ)?
        生年紀元前
           45年
        在位 08年
           〜
        没年 23年10月6日       
  ↓↑
 である・・・
  ↓↑  ↓↑  ↓↑
 アレクサンダー3世の父、
 「ピリッポス2世」
  ↓↑  ↓↑  ↓↑
 Alexander3世
  ↓↑
 ピリッポス2世・・・比律賓(Philippines)時世?
           比理椄補素似所為?
 と
 エペイロスの王女
 オリュンピアス
 との間に生まれた
 ピリッポス2世は
 ヘーラクレース(ヘラクレス)を祖
 オリュンピアスは
 アキレウス(アキレス)を祖
  ↓↑
 Alexander3世は
 13歳・・・・・13歳は卑弥呼の宗女「壹與・臺與」
 都ペラ・・・・・箆=竹+亠+冂+人+上+匕=へら・ハイ・ヘイ・ヒ
         篦=竹+亠+凵+メ+上+匕=へら・ハイ・ヘイ・ヒ
         ヘラ(Hērā)、イオニア方言はHērē ヘーレー
         ギリシア神話の最高女神で牝牛の眼を有し
         象徴の鳥は「郭公」
         ゼウス(Zeus)の妹で、妻
         夫婦喧嘩で
         キタイローン山に隠れたがヨリを戻した
         ヘレナ(Helena)・ヘレン(Helen)は同義名
         アルテミス(Artemis)は、月の女神
         セレーネー
         ヘカテー
         ダイアナ(Diana)
         ルーナーなどの女神と習合された
           ↓↑
         須佐之男(すさのお・弟)
         と
         天照(あまてる・姉)の逆転関係
         だが、右目から生まれた
        「月読命」もいる・・・多分、女神である
        「木花之佐久夜姫」も重なる・・・
 から離れた
 「ミエザ(Μίεζας・Mieza)の学園」で
 アリストテレス・・・・マケドニア
            スタゲイラ生まれ
 (BC384年〜322年)
 の講義を受けた
  ↓↑
 紀元前338年
 アレクサンドロス
 軍将として
 父の
 ピリッポス(Φίλιππος Β')2世
 フィリップ(Philippe・Philip・Phillip・Philipp
       Filippo=フィリッポ・Felipe)
 に従い
 ギリシアの南部に出兵
 カイロネイアの戦いで
 アテナイ・テーバイ連合軍を破る
 アレクサンドロス
 騎兵を率いて
 アテナイ・テーバイ軍を
 霍乱(壊乱)させ、
 マケドニアの勝利に大きく貢献
 父ピリッポス2世は
 ギリシア諸ポリスに
 コリントス同盟
 (ヘラス同盟)を締結
 全ギリシアの覇権を握る
 紀元前336年
 護衛の
 パウサニアス
 に暗殺された
  ↓↑
 アレクサンドロス
 20歳
 マケドニア王を継承し
 国内の敵対者
 (ピリッポス2世の7番目の妻、
  クレオパトラ=Cleopatra Eurydice)の縁者を
 排除し
 マケドニアを掌握
 トラキア人・・・・・・・虎記亜-訊?・・・天武天皇
 (Thracia・Trakya)・・・Turkey(土耳古)?
 と戦うために
 イストロス川方面に遠征
 反旗を翻した
 テーバイを破壊し、
 父王暗殺後に混乱に陥っていた
 全ギリシアの覇者になるべく
 ギリシアの諸ポリスを制圧し
 マケドニア本国を
 重臣
 アンティパトロスに任せた
 「アレクサンドロス」の名は
 ペルシャ、アラブ、インド、東南アジアで
 「イスカンダル(イラン語)」として拡大・・・
  ↓↑
 紀元前333年(戊子年)・・・・333=9、333=27
 アレクサンドロス
 アンティオキアの北西
 イッソス
 ダレイオス(Darius・ダリウス)3世
        ・・・ダリ-ウス・・・拿例於素?
           拿理-臼=うす=堆(タイ)
           有珠=宇受→小堆命=倭男具那
           倭男具那=倭建命(やまとたける
 の
 ペルシア(Persia・波斯)軍10万と遭遇し
 イッソスの戦いでは
 騎兵と近衛兵、徴募兵を指揮し
 ペルシア軍を敗走させ、
 ダレイオスの母・妻・娘を捕虜にした
 和睦の申し出を拒否し進軍、追撃
  ↓↑
 「アレクサンドロス東征記(Anabasis Alexandri)
 (Alexándrou anábasis)=内陸への遠征」は
 2世紀に
 アッリアノス
 により書かれたモノで
 プトレマイオス1世
 (Πτολεμαῖος・Ptolemaeus)
 の書いた
 「アレクサンドロス大王伝」などを資料にして記録・・・
  ↓↑
 アレクサンドリア図書館
 (Bibliothḗkē tês Alexandreíās)
 蔵書はおよそ
 巻子本で70万巻
 炎上で喪失・・・
 ナイルの戦い (紀元前47年)
 ユリウス・カエサル(シーザー)
 の侵攻時に港の
 艦隊の火災が延焼して焼失・・・
 後ローマ帝国の下で復興したが
 270年代の
 アウレリアヌス帝時にも被害
 4世紀末以降のキリスト教徒による
 継続的な攻撃、
 5世紀
 キリスト教大司教
 ヒュパティアの虐殺(415年)で
 大図書館やムセイオンをも破壊
 アレクサンドリア図書館の分館
 ラコティス地区の
 セラピス神の神殿(セラペイオン、セラペウム)に
 分館が存在していたが、
 391年
 異教徒の集会所とされ
 神殿もろとも破壊された・・・
  ↓↑
 アレクサンダー3世は
 シリアでは
 反ペルシアの都市で歓迎されたが、
 フェニキア
 抵抗する
 ティール(Tyre・ティルス)・・・ティール→tail?尻尾?
                 tell・tall
toll(徴税小屋)?
 を屈服させ
 南下してエジプト(埃及)に侵入
  ↓↑
 紀元前343年(戊寅年)
 エジプトは
 アルタクセルクセス3世
 によって征服されていたが
 ペルシアの統治が弱く、
 アレキサンドロスが占領
 紀元前332年(己丑年)
 エジプト人
解放者として迎え入れられ・・・ナゼ、
                解放者なのか?
                米軍の民主化・・・
 ファラオとして認められ、
 「メリアムン・セテプエンラー」
 (メリ・アメン=アメン神に愛されし者)
  ミリアム(Miryam・Miriam)=マリアは
                モーセとアロンの姉)
 の
 ファラオ名を得て、
 アメン神殿にその像を祭られた
 西部砂漠の
 シワ・オアシスにある
 アメンの聖地で
 自らをアメンの子とする神託を得
 後
 ナイルデルタの西端に都市を建設し
 アレキサンドリアとした
  ↓↑
 ペルシア王国への遠征再開
  ↓↑
 「ガウガメラの戦い」・・・ガウ-ガメ(亀)-ラ?
 「ペルシス門の戦い」
 紀元前331年
 アレクサンドロス軍47,000は、
 チグリス川上流の
 ガウガメラ・・・・がう-がめら→画有-カメ覶?
 で
 20万〜30万の
 ダレイオス3世指揮下の
 ペルシア軍を破った
 ダレイオスが
 カスピ海東岸に逃れると、
 ペルシャ王国の中枢に乱入し
 バビロンや
 スーサの主要都市を略奪、
 ペルセポリス
 では一般民衆に対しても
 凄惨な虐殺と強姦、
 徹底的に破壊、焼き払った・・・?
 この破壊は、
 ペルシア戦争時に
 ペルシアが
 アテナイ
 アクロポリスを焼き払った復讐・・・?
 ペルシアの中枢を占領した後も、
 ダレイオスを追った
  ↓↑
 翌年、紀元前330年(辛卯年)
 ダレイオス3世が
 ベッソス
 によって暗殺
 ベッソスは
 ペルシア国王
 アルタクセルクセスを自称し
 抗戦
 ベッソスの
 不義不忠を糾弾し攻め
 ベッソスは、
 スピタメネスと
 オクシュアルテスに捕えられ
 エクバタナで公開処刑
  ↓↑
 ソグディアナ方面・・・シルクロード
            東西交易で活躍した
            灌漑農耕民=ソグド人
            ・・・日本にも渡来した波斯人・・・
 の占領
 中央アジア方面へ侵攻
 再び反乱を起こした
 スピタメネスを中心とする
 ソグド人
 による激しい抵抗に直面
 紀元前329年〜紀元前327年
 ソグディアナ
 と
 バクトリア
 で
 Siege of the Sogdian Rock=包囲作戦
 を強いられ
 遊牧民である
 スキタイ人
 も攻撃を仕掛けてきたが、
 大王の部下の
 クラテロス
 は勝利
  ↓↑
 紀元前328年(癸巳年)
 大王は
 帰順したこの地方の有力者、
 オクシュアルテスの娘
 ロクサネ(光)・・・ロクサーネとの間に男の子がいたが
           大王死後の紀元前310年に暗殺された
            ↓↑
           ソグド人の「安-禄山(ロクサン)」は
           サマルカンド出身のソグド人
           紀元755年(乙未年・天平勝宝七年)
          「安-禄山」は洛陽を陥落させ、
           聖武皇帝・・・「聖武天皇」?
           と名乗り、
           国号を
          「燕」とした(安史の乱
          「燕」=女真渤海・粛慎・挹婁
              清・満州
           長安を奪い、
           玄宗皇帝と
           楊貴妃(胡女?)は
          「蜀」へ逃亡・・・玉蜀黍?        
 を妃とした
  ↓↑
 インド遠征
 インドへの遠征を開始
 紀元前327年〜紀元前326年
 スワート渓谷
 コフェン戦争
 アオルノス包囲戦
 紀元前327年〜紀元前326年
 紀元前326年
 インダス川を越えて
 パンジャブ地方に侵入
 5月に
 ヒュダスペス河畔の戦いで
 パウラヴァ族の王
 ポロスを破った
 後も周辺の諸部族を平定、進軍
 カタイオイ人も制圧
 部下が進軍を拒否し・・・厭戦は兵士、防人(さきもり)
             の願望?・・・南スーダン派遣?
 兵を返すことにした
  ↓↑
 11月から
 Hydraotes川(ラーヴィー川)を南下
 全軍を3つに分割し
 クラテロス
 と共に残存する
 敵対勢力(Jat people系族のMalhi)を
 駆逐(Mallian Campaign)し、
 インダス川を南下し
 Patala(タッター)に出た。
 ゲドロシア砂漠
 (パキスタンバローチスターン州)
 を通って
 カルマニア
 (イランケルマーン州)に向かい、
 紀元前324年
 スーサに帰還
 この際、部下の
 ネアルコ
 に命じて
 インダスからペルシア湾を通って
 ユーフラテス川の河口までの航海を命じた
 この探検航海によりこの地方の地理が明らかになり
 ネアルコス・・・・ネ-アル-コス?
 の残した資料は
 後世散逸したものの
 ストラボン
 などの地理に引用された
 紀元前324年
 スーサ
 の合同結婚式が行なわれた
  ↓↑
 バビロン帰還
 バビロンで
 帝国を
 ペルシア、
 マケドニア
 ギリシアコリントス同盟)
 の3地域に再編
 同君連合の形
 ペルシア人を積極的に登用
 ペルシア人マケドニア人の融和を進めた
 ペルシア帝国の後継者を宣し、
 ペルシア王の王衣を身にまとい
 ペルシア風の平伏礼などの儀礼や統治を
 導入し
 専制君主化したと
 マケドニア人(兵士?)の反発を招いた
  ↓↑
 バビロンに戻り
 アラビア遠征を計画
 が、
 蜂に刺され、・・・・ハチに刺されたって?
 祝宴中に倒れた
 10日間高熱に浮かされ
 「最強の者が帝国を継承せよ」
 と遺言し、
 紀元前323年6月10日
 34歳で死去
  ↓↑
 死因は
 毒殺説、
 熱病(マラリア)説
 癲癇発作
 アレクサンドロス3世は
 虹彩異色症・・・だった?
  ↓↑
 大帝国の遺将たちが
 バビロン会議、
 トリパラディソスの軍会
 協定によって安定化を目指したが
 「最強の者が帝国を継承」で
 アンティゴノス、
 セレウコス
 プトレマイオス
 他の諸将による
 ディアドコイ戦争
 分裂
 紀元前3世紀
 アンティゴノス朝マケドニア
 セレウコス朝シリア、
 プトレマイオス朝エジプト
 の
 ヘレニズム三王国が出現
 三国鼎立で落ち着いた
  ↓↑
 紀元前168年(癸酉年)
 アンティゴノス朝が滅び
 西方は順次ローマに併合
 ヘレニズム諸三国は
 ローマに滅ぼされた
 東方はパルティアが勃興
 セレウコス朝の領土の大部分を奪い、
 東方領はマケドニア人の手を離れた
 以後東地中海から中央アジアに至る地域は
 イスラーム帝国の出現まで
 大統一を見なかった
 アレクサンドロスの遺体は
 ペルディッカス
 が
 バビロンから
 王都ペラへ移送途中に
 プトレマイオスに強奪され、
 ミイラ(木乃伊)・・・・観意等(覶・蠃)?
 としてエジプトに埋葬された・・・
  ↓↑
 アレクサンドロス大王の一族は
 ディアドコイ戦争中に殺害され、
 大王の血統は断絶
  ↓↑
 サンドロコットス
 プルタルコスなどによれば、
 アレクサンドロスがインドに侵入した時、
 マケドニアの陣営に1人の若者が訪れて
 インド東部への道案内を申し出た
 若者の名は
 サンドロコットスといい、
 彼がのちの
 チャンドラ(月神)グプタであるとした・・・
ーーーーー
  ↓↑
 前336年
 フィリッポス2世(父)・・・隻眼?
 古都アイガイの劇場で
 パウサニアスに暗殺された・・・
 47歳
  ↓↑
 暗殺は
 フィリッポス2世
 第7王妃の
 クレオパトラ
 VS
 第5妃の
 オリュンピアス(母)
 や
 アレクサンドロス(息子)
 の
 王位継承問題の
 確執と怨恨が原因・・・?
  ↓↑
 前337年秋 
 フィリッポスが
 7人目の妻を
 マケドニア貴族
 アッタロスの姪
 クレオパトラと結婚
 婚礼の場で
 アッタロス
 が王国の正統な後継者が
 クレオパトラから
 生まれるようにと祝辞
 これに
 アレクサンドロス
 が激怒して
 アッタロスに杯を投げつけ
 フィリッポス
 剣を抜いて
 アレクサンドロス
 に襲いかかった
 アッタロスは
 アレクサンドロスを妾の子と
 侮辱した・・・
 直後に
 オリュンピアス(母)・・・5番目の妃
 と
 アレクサンドロス(息子)
 は
 エペイロス(母の地元)
 へ逃げた・・・
  ↓↑
 トラキア
 からは
 6番目の
 メーダ
 も嫁いでいた・・・
 フィリッポスの政略結婚・・・
 これまでの結婚で
 生まれた息子
 アリダイオス
 は知的障害があり・・・?
 後継者は
 アレクサンドロス
 のみであった・・・
  ↓↑
 別説・・・
  ↓↑
 フィリッポス暗殺の実行犯
 パウサニアス
 は
 フィリッポスの寵愛を受けていたが、
 同名の別人
 パウサニアス
 に寵愛が移ると、
 彼を侮辱したが
 イリュリア人との戦争で
 フィリッポス大王
 をかばい戦死
 彼の友人
 アッタロスが
 復讐で
 宴会で
 パウサニアスを酔わせ
 ラバ追い達に暴行させた
 パウサニアスは
 この仕打ちを
 フィリッポスに訴え出たが
 アッタロスを罰せず
 パウサニアスを
 王の側近護衛官にし
 彼の怒りを和らげようとした
 だが、
 パウサニアス
 の怒りは
 アッタロス
 から
 フィリッポスに向けられ
 アイガイの劇場で
 パウサニアスは
 フィリッポスを暗殺
 王の暗殺後
 アッタロスは
 アレクサンドロスより殺害
  ↓↑
 その後
 7番目の妻
 クレオパトラ
 オリュンピアスにより
 自殺に追い込まれ、
 生まれたばかりの娘は
 オリュンピアスにより
 殺害された
 ・・・???・・・
 ↓↑
 フィリッポス2世は
 紀元前382年
 マケドニア
 アミュンタス3世
 と妻の
 エウリュディケーの
 第三王子・・・兄は
        アレクサンドロス(1世?)
        ペルディッカス=ペルディッカス3世
 幼少期に
 将軍エパメイノンダスの
 テーバイの人質
 兄ペルディッカス3世の死後
 紀元前359年
 甥
 アミュンタス4世の摂政
 後、
 紀元前359年に即位
 マケドニアのバシレウスに即位
 バシレウス(Βασιλεύς; Basiléus)=君主の称号
 「王」を意味し、
 ラテン語の「rex」・・・ア-レックス=A-lex
 全ギリシア
 オリュンピア大祭に参加
 戦車競技の種目で優勝
 アレクサンドロス3世の出生と同時期でもあり、
 オリンピック優勝を喜び
 幼名であった妻の名を
 オリュンピアスとし
 マケドニア人で
 オリンピックに参加した
 アレクサンドロス1世・・・
 ↓↑   ペルシアは
 ↓↑   パイオニア人を征服した後、
      アミュンタス1世の支配する
      マケドニア王国へと
      ペルシアへの服従を迫る使者を
      送った。
      アミュンタスはそれを受け入れ、
      宴が催された席で
      ペルシアの使者たちが
      マケドニアの女性たちに対して
      狼藉を働いたため、
      王子のアレクサンドロス1世は
      怒り、
      女装させた青年を差し向けて
      使者たちを殺した・・・
 ↓↑   ・・・「ヤマトタケルが女装」して
 ↓↑       熊襲タケルを殺したハナシ・・・?
 ↓↑
 の名前を
 子供に付けた・・・アレクサンドロス3世
 ↓↑
 フィリペイオン
 ↓↑
 フィリッポス2世の
 妃
 アウダタ
 フィラ
 ニキシポリス
 ピリンナ
 オリュンピアス
 メデア(Meda)・・・トラキアからの輿入れの妃
 ↓↑         ↓↑
 ↓↑        トラキア(トラケー・Θράκη
           Thrākē・Thracia)・・・虎記亞?
           小部族に分かれていたが、
           南のギリシアから様々な影響を
           受けて国家を形成・・・
           ブルガリア領内で
           トラキア時代の遺跡発掘
           大量かつ精巧な金細工が発見
           紀元前6世紀頃
           トラキア地方に
           ギリシア人の植民都市が建設
           ペルシアのアケメネス朝の
           支配下に入った
 ↓↑        紀元前4世紀に
           西のマケドニア王国に征服され
           4世紀から
           トラキアの東端部の
           ビュザンティオンが
           ローマ帝国の新首都になり
           コンスタンティノポリスとなった
           東ローマ帝国
           トラキア地方における中心都市の
 ↓↑        アドリアノープルは
           オスマン帝国の都エディルネとなった
           1878年
           オスマン帝国の衰退で
           北部に東ルメリ自治州がおかれ、
           1886年
           オスマン帝国から独立していた
           ブルガリア公国に併合
           大部分はオスマン帝国支配下
           20世紀初頭の2度の
           バルカン戦争
           第一次世界大戦により、
           エディルネ以北はブルガリアに、
           エヴロス川以西はギリシャ王国に
           割譲され、
           残る部分はトルコが確保し
 ↓↑        3か国に分断・・・
 クレオパトラ・エウリュディケ
 ↓↑
 フィリッポス2世の
 子女
 キュナネ
 ピリッポス3世
 アレクサンドロス3世・・・
 クレオパトラ・・・・・・
 テッサロニカ
 エウロパ
 カラノス
ーーーーー
 キラ(デルフォイから数キロの湾岸都市)
 ボクは
 デルフォイにも
 トラキアにも行ったけれど・・・モザイク画は「虎」?
ーーーーー
 紀元前343年
 トラキアを制圧したマケドニア軍が
 ボスボラス海峡に面した
 ピュザンティオン(イスタンブール)を攻囲
 アテナイも艦隊出撃
 アテナイ海上戦力で
 マケドニア軍は苦戦
 ピュザンティオンの攻略に失敗
 ↓↑
 アテナイ
 デモステネスは
 反マケドニアの勢力を結集
 アテナイ
 テーバイを陣営に引き込み
 アテナイ
 ペルシア戦争時の
 ギリシア同盟の再現をもくろみ、
 ペルシア戦争
 プラタイアの戦い
 (紀元前479年。ギリシア同盟軍はペルシア軍に勝利)
 の再現を狙い
 カイロネイアの会戦へ
 ↓↑
 紀元前338年
 ボイオティアへ侵攻した
 マケドニア軍を迎え
 アテナイ・テーバイ同盟軍は
 カイロネイアに布陣
 マケドニア軍は
 歩兵3万2千
 騎兵2千程度
 アテナイ同盟軍は
 歩兵3万5千
 同盟軍の重装歩兵(ポプリタイ)軍団は
 大きな円形の盾(ポプロン)
 長槍
 でファランクス(密集方陣
 機動力は鈍く、投射武器に弱い
 ギリシア軍は重装歩兵以外の
 軽装歩兵や騎兵、弓兵は弱く
 フィリッポス2世の
 マケドニア軍は
 軽歩兵、騎兵を
 独自の戦闘陣形を編み
 盾持ち兵と散兵という軽装の兵士で
 騎兵の突撃で敵を粉砕
 18歳の
 アレクサンドロスは騎兵部隊を指揮
 斜線陣で
 アテナイ軍と友軍とを分断
 フィリッポス2世が
 歩兵部隊を前進させ
 アテナイ軍は、崩壊敗走
 この勝利によって、
 マケドニア
 全ギリシアの覇者となって
 コリントス同盟の盟主となった
 ↓↑
 ペルシア侵攻
 紀元前336年
 暗殺後
 アレクサンドロスが即位
ーーーーーー
 「稗田の阿礼」のモノガタリ・・・「古事記」は「亞歴山」の・・・「亞の歴の纂」を下敷きにした?・・・
 ・・・「雪の下=コジソウ(虎耳草)」・・・