2178日目・・・ヤッタねッ、大谷165㌔、中田ホームラン、岡2点タイムリー、栗山監督Fighters(17時15分)!!・・・アキラメナイ・・・今年はTV噛り付き促成、俄か「districtist、countrist、localist、Ezo-Hokkaidou regionist」?でした。まだ、敵がいる・・・広島の鯉(Carps)・・・「伊藤博文」は怒って「森有礼」文部大臣を詰責したらしいが、結局、官僚「西村茂樹」に丸め込まれ、のせられた?・・・「和魂洋才=日本古来の精神を大切にしつつ、西洋からの

 「福田 恆存」がナニか理窟を捏ねて云っていたらしいが・・・「和魂洋才」・・・?
 「新井白石」はシドッチと面談して、西洋宗教(マリアの処女懐胎・キリストの蘇り)と、西洋科学(合理的知識)のドし難い乖離を指摘していたが・・・当然であるカナ・・・白石の現実的な対象認識、エネルギーの発現は物質根拠のある「五行思想(擬似的認識科学)」であり、それを根拠とした「人間生活」であるが、白石にとっては、シドッチの「神の愛(人間の社会的な生活の倫理・道徳の在り方の思想)」は理解しえたとしても、彼の「形而上學(神)」と「形而下學としての合理的認識(科学)」の接点が見いだせない奇妙さの「奇蹟信仰」であった。
 「唯一絶対神」の存在信仰とは唯々、信じるのみで、理窟は無用らしいが・・・現代的には「処女懐胎体外受精」はあり得るカモだし、クローンも、iPS細胞での部分再生、蘇生も可能だが・・・まだまだ「自然界の存在の仕組み」は不可解で、「ナゼ存在するのか?」の答えは無い・・・「アルものはアル」である・・・
 それ以前に織田信長の「無神論」である?・・・彼の「無神」とは宣教師がもたらした「唯一絶対神」に対してである。彼は「法華経である仏教組織」を否定するコトはなかったらしい。
 「1579年(天正七年)、安土城下の浄厳院で仏教論争(浄土宗の僧の玉念、貞安、洞庫等と、法華僧の日著・日諦・日淵等の間で行われた・法華宗は敗れて処罰者を出し、以後、他宗への法論を行わないことを誓わされた」らしいが、論争敗者個人を処罰したが、「宗教組織」の破壊はしなかった。そもそも「仏教教学」の「方座第四(蔵・通・別・円)」の「円教=妙」を巡っての知っているか、いないかの知識、記憶の問題であったらしい。「信仰」での救われるか、どうかの論争ではなかった。で、「妙」とは「華経成立前の概念(人知では計り知れないモノの象徴?・不可思議なるもの)」であるらしいが、これは「ワッからない」と云うコト?、あるいは「円の教え=妙=円周率=π」で「無理数複素数の無限配列の3.1415...」の「方便自体のコト」なのか?、数列の無限(∞・8の横書き)だから「譬(喩・例)」え様もなく(奇)妙ではある・・・比喩するモノがない、コトバでは意云えない、わりきれないモノ・・・デスか・・・「南無-妙法-蓮華-経」ならば、「蓮華・睡蓮・蓮の花・荷のハナ」の漢字の意味で、その「妙法は南(小乗)には無い」である・・・
 そして信長は
 「1569(永禄十二)年
  フロイス
  と
  日蓮宗の僧、
  朝山日乗との
  宗義論争
 (キリスト教イエズス会
  と
  天台宗の論争
  ルイス・フロイスと日乗の宗義論争
 (フロイス・1569/6/1日付書翰、著書の「日本史」)」
 を開催させ、その論争の論理的是非を判定?したらしい・・・
 「朝山日乗とは
  尼子国主に叛逆し、
  山口の国(周防)に逃亡。
  毛利元就の庇護を受けた人物」
 らしいが・・・
 以上も以下も
 「左往来人生学院・れんだいこの歴史学院」さんの「フロイスと日乗の宗義論争」からの部分引用であるが・・・
 ↓↑
 信長「フロイスらは神や仏を敬うか」
 ロレンソ「神仏はどちらも私達と変わらない人間であり、
      妻子を持ち、生まれ死ぬ人間であるので敬いません。
      神仏は自身を死から救い解放することができず、
      故に人間を救うことはより不可能なことです。
      私どもはもっと価値の高い
      ゼウス様を信仰しております」
 (ロレンソ修道士はフロイス宣教師の部下)
 ↓↑
 多分、信長が納得できたのは、「釈迦」も「キリスト」も「ロレンソ」が答えた人間として捉えていた「神仏」としてで、「唯一絶対神」ではないだろう・・・信長は現実的な「軍事的政治家」であったから、いずれの「宗教」も、その権力と権勢拡大の利用の道具でしかなかったろう・・・
 で、又々トンでしまった・・・
 「和魂洋才」は明治のダレが言い出したのか?、ブログで調べたら「森鴎外の『なのりそ』という芝居の台詞が初出」らしいが「海藻のホンダワラ」で「莫告藻=なのりそ=神馬藻・陣馬藻・馬尾藻」の当て字があり、万葉集、和歌で「な告(の)り-そ」の意に掛けて用いられたり、「名告るを導く序詞を構成したりする」らしい・・・「告げないでください」の意味で
 「とこしえに 君も会えやも
  いさな取り
  海の浜藻の 寄る時々を
 (衣通郎姫 日本書紀 巻十三 第三話)」
 この歌に対して
 「第19代天皇允恭天皇」が
 「是の歌、他人、あたしひとにな、聆(き)かせそ
 (この歌は他人には言ってはならない。
  皇后に聞かれたら恨まれるだろう」
 と言ったコトから、浜藻を名付けて「なのりそ藻」と呼ぶようになった」・・・ナルホド、云っちゃぁいけない、禁句(な〜そ)なんだ・・・「衣通郎姫」。じゃぁ「ホンダワラ」と云えば
 「神功皇后三韓征伐のために九州から渡航するとき
  馬秣(馬のエサ)が 不足したときに
  海人族の勧めでホンダワラをとり、馬を飼った」
 のが由来で「馬の尾の形の藻」は解るが
 「ホンダのワラ」は神功皇后の息子の
 「第十五代応神天皇天皇」の
 「誉田別命(ほんだわけのみこと)
  誉田別尊(ほむたわけのみこと)」
 だろうが、「本は他(多)の記録として別ける」の示唆だろう。別の記録とは、
 「垂仁天皇の第一皇子」で、
 「母が狭穂姫命(さほひめのみこと)=沙本姫」
 が産んだ
 「誉津別命(ほむつわけのみこと)
  誉津別命
  本牟都和気命
  本牟智和気命」
 である・・・要するに書籍の記録の改竄の示唆である・・・
 ・・・兎に角、四文字熟語の
 「和魂洋才」の「漢字」には弱かった・・・
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 「西村茂樹」は「和魂洋才」に咬みついたのか?
 「極端な欧化主義的風潮を憂慮し日本道徳の再建の方途として、「儒教を基本とし西洋の精密な学理を結合させるべき」・・・「国家の根本は制度や法津よりも国民の道徳観念にあるとした」のは儒教国家主義者としての「西村茂樹」としては当然であった。
 「勤勉・節倹・剛毅・忍耐・信義・進取・愛国心天皇奉戴
  の
  八条を国民像の指針として提示」
 したのだ・・・
 これは、プロイセン・ドイツと重なったが「キリスト教カトリックプロテスタント)」とは重ならなかった・・・だが、当時の日本教養人は「唯一神の存在」ではなく、「天国・地獄」でもなく、「キリストの教え=隣人愛=神の下(社会的)での平等としての倫理、道徳」に共感したのである・・・
 「和魂」は「唯一絶対神の宗教精神」ではない・・・「現人神」は「祭られるべき人間」としての「崇拝、畏怖されるべき精神的対象」であった・・・
 「西村茂樹」の「和魂」とは「日本神話のタマシイ」ではなく、「儒教道徳と倫理」であった。
 少なくても室町、戦国末期〜江戸時代〜明治初期の「日本知識人、技術者の脳ミソ」は現実生活で「知恵・知識・技能・技術」と密着した「合理的精神」に富んでいた。彼らにとっては「神仏」とは、祈ればナントカしてくれる存在でもなかった。特に個々人の現実の生と死は現前に存在したが、自然と対峙、観察して生きてきた人間とっては「転生輪廻」での「消滅と発生、再生、そして消滅」の繰り返しは「自然」であったろう。その個々の存在の発現と再生のパワーを「自然」に潜(潛・ひそ)む「神々=精霊の力」としたのだ・・・
 「天国、地獄の神仏信仰」とは「釈迦自身やキリスト自身」も、その思想からは一線を画していたに違いない。
 「天国、地獄」を望んでいる者はダレだったのか・・・現実に最下層で生きて飢えいる人々と、階層にかかわらず病に罹った人々か、現実的に不幸である、と思っている人々である。「天国、地獄」があれば救われると思っている人々である・・・「釈迦やキリスト」の「天国、地獄の世界」は「比喩」であった。だが、虐げられていた彼らにとっては「救われる=救われない」場所であったのだ・・・そして「煩悩」も「原罪」も実存する普遍的な人間意識に根ずく「自然に生きていく為のエゴ」であった・・・「殺生無しでは生きられない存在」なのに・・・「煩悩」を祓え、「原罪」を懺悔せョ、と云われてもねッ・・・
 「釈迦やキリスト」は現世で生きていくコノことには充分すぎるほど自覚していたのだ。
 問題は組織として生きていく「弟子たちの(狡)賢さ」である・・・「奇蹟の発明」での「食い扶持」である・・・
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 「八十万神(やそよろずのかみ)、八百万神(やおよろずのかみ)」は、「森羅万象の発現現象」であり、それらのパワーを認めるコトバである。「自然法則性」と一体化した「多神教の神々」である。そして「ギリシャ、エジプト神話」の神々は人間生活の知恵の指針を示し、諭し、技能、技術を教えてくれる。これらは「人間自身が対峙する自然との時間的な経験知」と同根である。そこには「神々の失敗、エゴ、慈愛、憎悪、嫉妬、落胆」、すなわち、喜怒哀楽と、その恐怖の根元的な発現の神々なのである。
 「人間の対自然現象に於ける経験知であり、未知の部分存在」であり、結果として「畏怖の対象」となった「観念的存在」であった。現実事象からマッタク乖離した「唯一絶対神」では無い。古代エジプトの「一神教」は確実に存在する、肌身、五感で感知できる「太陽の崇拝」であった・・・
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 「内閣法制局長官(Director-General of the Cabinet Legislation Bureau)は、内閣法制局の長である特別職の国家公務員である」らしい・・・「あらゆる種類の核使用がおよそ禁止されているとは考えていない」と云った「横畠裕介(1951年・昭和26年10月12日)氏は、官僚、検察官で、現在、第2次安倍内閣内閣法制局長官」らしいが・・・
 「あらゆる種類の核兵器使用がおよそ・・・」の主語はナンなんだか?・・・
 昨夕(15日土曜日)のTVニュースでは生々しい「南スーダン」の「政府軍」の「ホテル襲撃とレイプ、その被害者のインタヴュー」が映し出されていたが・・・「稲田」も「阿倍」もTVなんかのニュースを観ているヒマはない?・・・
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 「日本の自衛隊PKOに参加する南スーダンでは、国連職員や外交官、援助職員らが政府軍に襲撃される事件が相次いだ」
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http://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2016/10/post-6012.php
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 南スーダンで狙われる国連や援助職員
  |ワールド|最新記事| ニューズ ...
 NewsWeek(ニュズウィーク日本版)
 南スーダンで狙われる国連や援助職員
 South Sudan’s Attacks
  on U.N. Could Imperil Future Peacekeeping
 2016年10月12日(水)19時30分
 「7月7日のハレド襲撃は、南スーダン政府軍による一連の外国人襲撃事件の端緒を開い た。1時間後には、南スーダン大統領サルバ・キールの警護隊が、外での食事から戻るところだった米外交官7人と南スーダン人の運転手に向けて発砲」、
 「7月7日、南スーダンユネスコ(国連教育科学文化機関)職員トップだったサラフ・ハレドは、首都ジュバの繁華街で開かれた自分の送別会に参加していた。すると突如、街の反対側から爆発音と銃声が響いた。政府軍と反政府勢力との間で散発的に行われていた戦闘が首都全体に広がるのではないかと考え、ハレドらは出口へと急いだ。
 エジプト人ハレドは、国連のマークが入った白のトヨタ・ランドクルーザーに乗り込むと、滞在先のエジプト大使館へ急いだ。時刻は午後8時15分を過ぎたところ。外は雨が降っている。大使館へと続く最後のでこぼこ道に入ると、暗闇の中を行き交う歩行者を避けるため、車は速度を落とした。
 大使館の入り口まで約25メートルの地点まで来たとき、通りの向かいのパノラマ・ホテルに設けられた軍検問所から、私服の男が突進してきた。車の助手席側から銃弾が浴びせられ、ドアや窓を貫通する。銃弾4発の欠片がハレドの左脚や腕、手に突き刺さった」
 「アクセルを踏み込み、なんとか大使館の入り口ゲートをくぐり抜けた。車内には割れたガラスが散乱していたが、これでひとまず安全だ。しかしその後2時間、検問所の南スーダン治安部隊はハレドの救護に駆け付けた国連の救急車に銃を向けて追い返したり、PKO部隊がジュバ中心部にある国連施設内の診療所にハレドを運ぼうとするのを妨害した。南スーダンの大統領警護隊が介入し、治安部隊を説得してハレドを診療所に運ばせてくれたのは、夜も10時を過ぎてからだ」
 ハレドが生き延びたのは「奇跡だった」と、ある国連職員は言う。
 この事件は地元メディアで報じられたが、
 駐米南スーダン大使は知らないと回答。
 ユネスコは事件の容疑者についての推測を差し控え、
 調査中だと米フォーリン・ポリシー誌に語った。
 だが、ある米国務省当局者と国連当局者は、
 南スーダン政府軍が
 ハレドを銃撃したのは間違いないと述べている。
 7月7日のハレド襲撃は、
 南スーダン政府軍による一連の外国人襲撃事件の端緒を開いた。
 1時間後には、
 南スーダン大統領サルバ・キールの警護隊が、
 外での食事から戻るところだった米外交官7人と南スーダン人の運転手に向けて発砲。
 ハレド救護のために検問所の治安部隊と交渉したのと
 同じ大統領警備隊が、である」
 「さらに4日後、80〜100人の南スーダン政府軍がジェバのテレイン・ホテルを急襲し、同国のジャーナリスト1人を処刑、5人の援助団体職員を集団レイプした事件があった。アメリカ人が選び出されたという。
 国連安保理の専門家パネルが先月まとめた報告書は、
 「(テレインでの)襲撃を境に、南スーダン兵士による国際援助団体職員攻撃の残忍さが増した」と結論付けている。
 「犯人らはよく組織されており、偶発的な暴力・強盗とは考えられない」
 「国連にとって厳しい現実を象徴する事件だ。2011年7月にスーダンから分離独立した、世界で最も若い国家である南スーダンが内戦に陥ったのは3年前。以来、国連と南スーダンの関係は日増しに緊迫したものとなってきている。国際援助団体の職員や外交官らが今、まさに南スーダン政府軍の主要な攻撃対象となっているのだ。
 政府軍と反政府勢力との戦闘が再燃し、事態が緊迫化した今夏以降、アメリカなど各国が和平を実現しようとしてきた。
 しかし紛争当事者である
 南スーダン政府が外国勢力に敵意を向け、
 最近ではPKO部隊や外交官を攻撃対象としたことで、
 戦闘終結は一層困難になっている」
 「危険の及ぶ範囲が国連や国際機関で人道支援を行う職員まで広がり、被害件数も増加。暴力の度合いも増している。サルバ・キールを含む南スーダン政府の高官は、国連や国際社会に対して民衆の敵愾心を煽るレトリックを強めている」・・・
 「中国のPKO隊員も犠牲に
 もっとも当の国連も、武力衝突が起きた最中に市民の保護を怠ったとして、痛烈な批判を浴びている。7月に大規模な武力衝突が起きた際、中国のPKO部隊は数千人の市民が避難していた国連の保護施設の持ち場を放棄して逃走した」
 【参考記事】住民に催涙弾、敵前逃亡、レイプ傍観──国連の失態相次ぐ南スーダン
 「7月にテレイン・ホテルで援助職員が南スーダン兵士に襲撃された事件では、現場から何度も救助要請を受けたにも関わらず、中国とエチオピアPKO部隊が出動を拒んだ。南スーダンにおける国連の活動状況について調査した米NGO「紛争地域民間人センター(CIVIC)」が、今月5日に公表した調査報告書で明らかにした。
 南スーダンは、キール大統領派と当時のリヤク・マシャール副大統領派の内戦が4月に収まったばかりだったが、7月には早くも戦闘が再燃した。
 7月10日には、国連が保有する装甲車の近くで対戦車用兵器グレネードRPGが爆発し、数人の隊員が負傷、中国のPKO隊員2人が死亡した。CIVICの報告書によると、1人の中国人の死因は出血多量だった。重傷者の処置のため現場から16キロ離れた国連の医療施設へ搬送したいと要請したが、政府軍が拒んだためだ。
 送別会に出ていたハレドが聞いた銃声はグデレという町のもの。反政府勢力が政府の検問所を銃撃、少なくとも4人の政府軍兵士を殺した」
 ↓↑
 ・・・「かけつけ警護」の答弁は「形語・掲語・恵語」なのか、悪意に、善意に「コトバ」を解釈し、振り撒くヤツ等から「殺傷・暴力」がハジマル・・・
 以下はウイッキペデアからの原文を参照、参考して添付・・・・
ーーーーー
 横畠裕介
 司法修習修了後
 1976年(昭和51年)4月
 東京地方検察庁任官
 法務省刑事局付検事
 いくつかの
 地方検察庁に勤務
 1993年(平成五年)7月
 内閣法制局参事官(第二部)
 1998年(平成十年)7月
 より1年1ヶ月
 法務省刑事局刑事法制課長
 後
 再び内閣法制局に戻り、
 第一部中央省庁等改革法制室長
 などを歴任
 2004年(平成十六年)8月
 第二部部長
 2010年(平成二十二年)7月
 第一部部長
 2011年(平成二十三年)12月
 内閣法制次長に就任
 第2次安倍内閣では
 日本国憲法第9条に反するとされてきた
 集団的自衛権行使を可能とするよう
 憲法解釈を
 変更するため、
 これまでの慣例を打ち破り、
 行使容認派であり
 外務省国際法局長等
 を歴任したフランス大使
 小松一郎を2013年(平成二十五年)8月
 に長官に任命し、
 横畠は次長を続投
 2014年(平成二十六年)1月
 小松が腹部の腫瘍のため入院
 横畠は
 長官事務代理に就任
 小松は退院後に
 国会答弁で
 集団的自衛権行使容認の
 閣議決定に道筋を付け
 同年5月に長官を退任(6月23日に死去)
 第2次安倍内閣
 後任として
 横畠を次長から長官に昇格
 2016年3月18日
 参議院予算委員会
 “憲法上、他国で核兵器が使用できるか”
 の質問に対し
 “防衛のための必要最小範囲に限る”
 と前置いた上で
 「あらゆる種類の核使用が
  およそ
  禁止されているとは
  考えていない」
 と答弁
ーーーーー
 西村 茂樹(にしむら しげき)
 1828年4月26日(文政十一年三月十三日)
  〜
 1902年(明治三十五年八月十八日)
 啓蒙思想家、教育者。文学博士
 道徳振興団体
 「日本 弘道会(東京修身学社)」創設者
 1876年におこした修身学社を
 1887年に日本弘道会と改め
 皇室中心主義の国民道徳普及につとめた
 別名は
 平太郎、芳在、鼎
 号は
 泊翁・樸堂・庸斎
 ↓↑
 幕末に
 佐倉(千葉県)藩士として
 藩主
 堀田正睦の側近となって藩政に参画
 明治維新
 佐倉本藩の
 年寄、執政
 廃藩置県
 1872年(明治五)
 45歳で上京して私塾を開いた
 翌年
 森有礼の要請で
 福沢諭吉
 等とともに
 明六社の創立に参画
 開明的な啓蒙活動を行う
 1875年5月
 文部省に出仕し、
 宮中侍講(じこう)を兼ねた
 文部省編集局長
 (編集課長、編集局長、報告局長、再編集局長を歴任)
 教科書の編集を担当
 『古事類苑(こじるいえん)』
 などの編纂(へんさん)に尽力
 ↓↑
 嘉永三年(1850)家督を継ぐ
 儒学・砲術を学び、
 蘭学・英学
 も学ぶ
 明治六年(1873)
 文部省に出仕
 編書課長として
 教科書や辞書の編纂を計画
 明六社創設にも中心的役割
 ↓↑
 佐倉藩支藩であった
 佐野藩
 堀田家に仕える
 西村芳郁の子
 江戸の
 佐野藩邸に生まれる
 通称は平八郎
 名は芳在、後に茂樹と改名
 十歳で佐倉藩の藩校である
 成徳書院(千葉県立佐倉高等学校の前身)に入り
 藩が招いた
 儒学者
 安井息軒から儒学を学び
 洋学を
 佐久間象山
 木村軍太郎
 らに学び
 英学を
 手塚律蔵
 に学んだ
 ↓↑
 1853年(嘉永六年)
 ペリー艦隊の来航に衝撃
 佐倉藩主の
 堀田正睦に意見書を提出
 老中の
 阿部正弘
 に海防策を献じた
 堀田正睦
 積極的に海外へ進出して貿易を行うべきと意見書を提出
 1856年(安政三年)
 堀田正睦
 老中首座・外国事務取扱となり
 貿易取調御用掛に任じられ、
 外交上の機密文書を担当
 ↓↑
 1873年(明治六年)
 福澤諭吉森有礼西周中村正直加藤弘之
 らと
 明六社を結成
 1874年
 漢字廃止論者として
 『開化ノ度ニ因テ
  改文字ヲ発スベキノ論』
 を発表
 1875年
 大槻磐渓、依田學海、平野重久
 らと、漢学者の集まりである
 洋々社を結成
 ↓↑
 東京学士会院会員
 貴族院議員
 宮中顧問官
 文部省編輯局長
 として
 教科書の編集や教育制度の確立に尽力
 修身の必要性を訴え、
 1876年
 修身学社(社団法人日本弘道会)を創設
 1879年
 官撰百科事典
 「古事類苑」
 を発案
 ↓↑
 1887年
 『日本道徳論』刊行
 西村は、
 首相・伊藤博文をはじめとする
 極端な欧化主義的風潮を憂慮
 日本道徳の再建の方途として、
 伝統的な儒教を基本とし
 西洋の精密な学理を結合させるべきと説き
 国家の根本は
 制度や法津よりも
 国民の道徳観念にあるとし
 勤勉・節倹・剛毅・忍耐・信義・進取・愛国心天皇奉戴
 の8条を国民像の指針として提示
 文部大臣の
 森有礼はこれ賛成
 伊藤首相
 は新政を誹謗として怒り
 文部大臣を詰責
 ↓↑
 宮本百合子(小説家)は孫
 西村勝三は弟で
 製靴業の父・・・
 ↓↑
 訳書
 『万国史略』 吉野屋仁兵衛ほか、1869年(明治2年5月)一-三
 『泰西史鑑』 求諸己斎、1869年(明治2年7月)上編一-十
             1872年(明治5年10月)中編一-十
 『泰西史鑑』 玉山堂、1875年12月〜1881年8月上編一-下編十
 『西史年表』 日新堂、1871年(明治三年)上・中・下
 『農工卅種 家中経済』 貨殖斎、1873年上・下
 『求諸己斎講義 修身学部』 稲田佐兵衛、
              1874年一
              1877年4月二-四
 『経済要旨』 文部省、1874年6月上・下
 『経済要旨』 今井英二郎、1879年4月
 『教育史』 文部省、1875年2月上冊・下冊
 『教育史』 老鶴圃、1883年8月上下合巻
 『教育史』 小笠原書房、1883年11月上下合巻
 『教育史』 国書刊行会〈明治教育古典叢書〉1980年11月
 『百科全書 天文学』 文部省、1876年11月
 『百科全書 第一冊』 文部省・有隣堂
 『百科全書 上巻』 丸善商社出版1884年1月
          ゆまに書房1985年2月
 文部省編 『文部省百科全書 1』 青史社1983年4月
 『西国事物紀原』 西村茂樹
          1879年1月元・亨
          1879年10月利・貞
 『殷斯婁道徳学』 修身学社、1882年5月
 ↓↑
 編書
 『校正 万国史略』 西村茂樹
          1873年1月一・二
          1874年3月三・四
          1875年1月五・六
          1875年9月七・八
          1876年8月九・十上・十下
 『輿地誌略』 修静館、1877年2月十一上・十一下
            1880年10月十二
 『小学修身訓』 文部省編輯局
         1880年4月波号巻一
         1880年5月波号巻二
 宮田丈夫編著 『道徳教育資料集成 1』
         第一法規出版、1959年12月
 海後宗臣編纂 『日本教科書大系
         近代編第二巻 修身(二)』
         講談社1962年3月
 前掲
 『小学修身訓 読書次第』
 『新撰百人一首 附畧解并小伝』 開成堂1883年9月
 『婦女鑑』 宮内省1887年7月一-六
 『教育勅語渙発関係資料集 第一巻』
          国民精神文化研究所、1938年3月
ーーーーー
 ・・・アレレレッ、もう、17日の朝の5時半・・・