2155日目・・・164キロ(投速=移動距離・時速・時間→速度=距離÷時間)の「大谷」と、打者の「糸井」の息詰まるような対決・・・「速度=距離÷時間」の割り算の「商」ですか、「球速=マウンド→ホームbaseの距離÷時間」・・・逆転した・・・20時30分、8回表4-2・・・TV中継が結果を報じずに途中で終わった・・・勝った・・・「丙申ー丁酉―戊戌」・・・旭川で殺人事件・・・台風も連発で襲ってくるらしい・・・「歌うのはデーモン閣下、『toi toi toi』とは、ドイツに伝わる幸運を呼ぶ小さなおまじないの言

 ナルホド、日本語での同音のコトバは「問い=とい=訪い・樋・土居・土肥」で「訳意(とイ)」であるかな。ナニを「問うのか?」って、割り算の「商」であるが・・・
  ↓↑
 その「商=ショウ=背負う(?)」は「古代中国の商王朝」?・・・「周王朝は先代の王朝名として殷(イン)を用い、殷後期の首都は出土した甲骨文字では商(ショウ)」と呼ばれたらしい。「商年うくるか・・・」の「甲骨文字が殷墟で発見され、殷(イン)を商(ショウ)と呼んでいた」らしい・・・「商」は「割り算・分轄」の「答え」である・・・商殷(ショウイン)・・・
 松陰・・・承引・・・勝因・・・証印、樟蔭・・・吉田寅次郎・・・「寅(とら・イン)の次の郎(侍郎・尚書郎・次官)は卯(う・ボウ)」?、「虎(とら・コ)の爾漏」であるかな・・・
 「郭務悰(忄+宗)…唐の使節で位は朝散大夫(文官)」、
 じゃぁ「郎」は、
 「百済鎮将の
  劉仁願(右衛将軍・魯城県公)=郎將=蘇定方の配下の武将」
 「檢校帶方州刺史の
  劉仁軌」
 「左衛中郎將の
  王文度」
 「右威衛将軍の
  孫仁師」・・・
 「白水郎(あま)」・・・海女・海人・贏
             海部→阿部・阿毎(王朝)
 「郎子(いらつこ)・郎女(いらつめ)」
 「いらつめ=郎女・女郎・娘子」
 「郎=中央の中級役人
    地名は春秋時代
    魯の近郊の邑・山東省」
 「菟道稚-郎子(うじのわき-いらつこ)」→「王仁
 「王仁応神天皇時代に百済より論語千字文を伝来」
 ・・・クサカぁ〜・・・
  ↓↑
 「商」は領土を分割、分与、分奪(ブンダツ)したんだろう・・・モチロン、「財産、領民」も・・・
 「分奪(ブンダツ)」?・・・文脱(ブンダツ)?・・・「脱文(ダツブン)は抜け落ちた文句・文章」・・・「平文 (ヒョウもん・ひらもん)」の一つ・・・
 「脱文(ダツブン)=平文(ヒョウブン)・評文
  平脱(ヘイダツ)=平文 (ヒョウもん)の一つで
  中国での呼称
  ↓↑
  漆器の加飾法の一
  金銀などの薄板を文様に切って漆面にはり、
  漆で塗り埋めてから、
  その部分を研ぎ出し文様を表す
  奈良時代に唐から伝わり、平安時代に盛行
  ひらもん・・・」
 「装束に用いた、
  彩色や刺繍 (シシュウ) による
  種々の色の組み合わせ文様」
  ↓↑
 「秦(シン)には
  殷(イン)墟」の伝承があり、
  西方の周に急襲され、
  牧野で敗れて壊滅・・・・「商=殷」は最近の語
 「三監
 (サンカン・サンケン)の乱」
  ↓↑ ・・・監(カン・ケン)→藍(あい・ラン)
        肝心な処、日記の更新で
       「監≠ラン」を修正しなかった・・・
        監=監督の「監=カン・ケン」です
  ↓↑    ↓↑
        藍山蜂起(ラムソンほうき)
        黎利(レ・ロイ)による
        中国明朝からのベトナム独立の
        1418年から1428年にかけての闘争
        ↓↑
        宇和島藩八代藩主
        藍山=伊達宗城・・・「藍山公記」
        明治十六年(1883年)12月26日
        修史館副総裁に就任
  ↓↑    ↓↑
        1869年(明治二年)
        明治政府は
       「修史の詔」を発し
       「六国史」を継ぐ
        正史編纂事業の開始
        旧和学講談所内に
        史料編輯国史校正局が設置
        国史編輯局
        太政官歴史課を経
        1875年修史局と改称
        史料の収集と
       『復古記』
       『明治史要』の編纂を行い
        1877年
  ↓↑   「修史館」と改称・・・修史=改竄・・・?
  後、
 「殷人が全国に分散し、
  互いの居住地を行き来し
  物々交換を始め、
  商人・商売・商業の名の語源になった」、
 「詩経の商頌」篇には
  始祖
  契(セツ)・・・・・・契約の「契」である・・・
  の事績が記されている
  周王朝初期にはこの王朝の名が
 「商」であった」・・・
  ↓↑
ーーーーー
 周公旦(シュウコウタン)?〜前249年
 中国周王朝の一族
 「爾雅(辞書)」の著者
 「爾疋(ジガ)」とも書く
  「爾=邇は、近の意
   雅=疋は、正の意
     五経を読むための字書・・・
 姓は姫
 諱は旦
 周の
 西伯昌(文王)
 の四男
 母は太姒・・・・・太姒=「太+女+以」→似=イ+以
 武王の弟
 ↓↑
 武王が・・・武王
 ↓↑    初代周王
       諱は発
       文王の長子
       姜子牙(太公望呂尚)を師父とし
       紂王の東征に乗じて
       朝歌を攻略し
       牧野で紂王を撃滅
       戦後、洛邑を行宮として
       東方の鎮撫に注力
       殷の遺民に対しては
       紂王の遺児の
       武庚を
       朝歌に封じ
       弟の叔鮮・叔度を管・蔡に封じて
       武庚の監国とし
       姜子牙と甥の伯禽を
       斉・魯に封建して
       東夷・淮夷を警戒
 ↓↑    が、3年程で病死・・・
 殷を滅ぼした後
 周公旦は
 魯に封じられ
 首都
 鎬京にとどまり・・・鎬=しのぎ・なべ・コウ
             刀剣で、刃と峰との間に
             刀身を貫いて走る稜線・鎬筋
             鎬を削る
 武王を助け
 次代の
 成王
 即位後は
 摂政とし、国事にあたった・・・
 「周公」は称号
 公旦は周の故地である
 岐山に封じられて
 周の公(君主)となった
 ・・・「織田信長」の
     岐阜の名称由来?・・・
 ↓↑
 三監の乱・・・監(カン・ケン)→藍(あい・ラン)
        肝心な処を修正しなかった・・・
 を鎮定し
 封建制度を確立
 東方経営に力を注ぎ
 洛邑に東都成周を建設
 ↓↑
 魯
 周公旦が始祖
 山東
 曲阜(キョクフ)に都
 初代の
 「公」・・・・・公=ハ+ム
 である
 伯禽の父・・・周公旦は都、鎬京で摂政
 呂尚太公望・姜子牙=キョウシガ)
    ・・・尖閣列島で釣り?・・・
 や
 燕の
 召公奭
 など
 周建国の功臣の一人
 ↓↑
 周建国後
 殷の
 帝辛の子の
 武庚(禄父)は
 周公旦の
 三兄の
 管叔鮮
 と
 五弟の
 蔡叔度
 八弟の
 霍叔処
 ら
 三監
 に監視されていたが
 霍叔処を除く
 二人は
 公旦が成王の摂政に就いたのは
 王権簒奪の目論見とし
 武庚を担ぎ、反乱
 公旦は
 武庚と
 同母兄の
 管叔鮮を誅殺
 同母弟の
 蔡叔度は流罪
 霍叔処は庶人に落とし、
 蔡叔度の子の
 仲胡に
 蔡の家督を継がせた
 ↓↑
 7年後
 公旦は
 成王に政権を返し
 臣下の地位に戻った
 後、
 雒邑(洛陽)を
 周の副都とした
 ↓↑
 「殷の王族」
 王の選出資格を持つ
 十干に対応した
 十氏族の連合によって構成
 「干内婚と族外婚の禁止」
 によって純血を保ち、
 殊に甲・乙・丁族が有力だった・・・?
 系譜上の血縁は、
 甲骨文の解釈によれば
 部族全体を一家族と見做した
 ↓↑
 周初に興殷を唱えた「三監の乱」
 遺殷勢力の呼応で容易に鎮圧されず、
 戦後に
 殷の遺民は
 王族の
 微子と、
 周の王族の
 康叔に分割支配
 ↓↑
 康叔は
 即位当初は素行がワルく
 伊、尹によって
 湯王の殯宮である
 桐宮に放逐され、
 改心し3年後に復位・・・
 ↓↑
 周初に興殷を唱えた
 三監の乱・・・監(カン・ケン)→藍(あい・ラン)
        肝心な処を修正しなかった・・・
 武王は東方支配の
 洛邑(洛陽市西郊)を
 建設しようとしたが果たせず
 鎬京に帰還し死亡
 位を継いだ
 成王が幼少のため
 叔父の
 周公旦(武王の弟)が摂政政治
 殷の監視のため東方に派遣されていた
 管叔(武王弟)らが
 周公旦が王位を奪うと疑って反乱を起こし
 殷の旧領を支配していた
 紂王の子の
 武庚
 が加担し大動乱
 周公旦はこれを鎮圧
 殷の残存勢力を一掃
 ↓↑
 戦後に殷の遺民は
 殷王族の
 微子と、
 周王族の
 康叔に分割支配
 周の支配を拒む勢力は定住せずに
 交易=行商に従事
 商人の語源になった・・・あきんど・・・
 ・・・まるで、「旧約聖書」の丸写し・・・?・・・
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 で、「デーモン閣下」・・・「toi toi toi」・・・
 英語では「toy(トイ)=玩具(ガング)・おもちゃ・役に立たない、使いものにならないモノ・つまらないモノ・toysは学校などで使用する机・勉強部屋の小部屋」であるらしいのだが、「玩具(ガング)」、「玩ぶ=もてあそぶ=弄ぶ」、「愚弄(グロウ)」・・・「悲しき玩具→仮名詞記玩具」は「石川啄木の個人歌集(明治45年(1912)刊)」・・・モテアソブのコトバ・・・樋は雨樋・・・空が泣いたナミダ(涙・泪・涕)・・・
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http://www.aozora.gr.jp/cards/000153/files/815_20544.html
 ↓↑
 一握の砂以後・・・いたく錆(さび)しピストル出でぬ
          砂山の砂を指もて掘てありしに
       ・・・かなしきは
          飽(あくな)き利己の一念を
          持てあましたる男にありけり・・・
 ↓↑
 ・・・
 ボロオヂンといふ露西亜(ロシア)名が、
 何故ともなく、
 幾度も思ひ出さるる日なり。
 いつとなく我にあゆみ寄り、
 手を握り、
 またいつとなく去りゆく人人!
 友も妻もかなしと思ふらし――
 病も猶(なほ)、
 革命のこと口に絶たたねば。
 やや遠きものに思ひし
 テロリストの悲しき心も――
 近づく日のあり。
 かかる目に
 すでに幾度会へることぞ!
 成るがままに成れと今は思ふなり。
 月に三十円もあれば、
 田舎(ゐなか)にては、
 楽に暮せると――
 ひょっと思へる。
 今日もまた胸に痛みあり。
 死ぬならば、
 ふるさとに行きて死なむと思ふ。
 いつしかに夏となれりけり。
 やみあがりの目にこころよき
 雨の明るさ!
 病やみて四月(しぐわつ)――
 そのときどきに変りたる
 くすりの味もなつかしきかな。
 病みて四月――
 その間まにも、猶、目に見えて、
 わが子の背丈のびし、かなしみ。
 すこやかに、
 背丈のびゆく子を見つつ、
 われの日毎にさびしきは何なぞ。
 まくら辺べに子を坐らせて、
 まじまじとその顔を見れば、
 逃げてゆきしかな。
 いつも子を
 うるさきものに思ひゐし間(あひだ)に、
 その子、五歳になれり。
 その親にも、
 親の親にも似るなかれ――
 かく汝(な)が父は思へるぞ、子よ。
 かなしきは、
 (われもしかりき)
 叱(しか)れども、
 打てども泣かぬ児の心なる。
 「労働者」「革命」などといふ言葉を
 聞きおぼえたる
 五歳の子かな。
 時として、
 あらん限りの声を出し、
 唱歌をうたふ子をほめてみる。
 何思ひけむ――
 玩具(おもちや)をすてておとなしく、
 わが側(そば)に来て子の坐りたる。
 ↓↑
 インターネットの図書館、青空文庫
 http://www.aozora.gr.jp/
ーーーーー
 ・・・ムムム、ムッ・・・