2119日目・・・ポケモン騒動・・・ポケモン(ポケットモンスター・POCKET MONSTERS)はナニを望んでいるのか・・・「収集、育成、対戦、交換」の要素って、ナニなんだか?・・・ボクにとってはどうでもイイけれど、知っている「ポケモン情報」とは、むかし、ニュースでTVアニメをみていた子供達が「癲癇状態」になって病院に搬送されたとかだったが・・・「光過敏性発作(Photosensitive epilepsy)で、TV画面から視覚に飛び込んできた光に異常反応する症状らしく、「ポケモンショック」=「光過敏

 ソレを知らずして生きていけるか、死んでいけるか・・・「理不尽」な状況は、今現在変えれないカモだが、せめて、その「理不尽の根拠」ぐらいは知っておきたいのが人間だろう・・・起こってしまった過去の「事故・事件」はどうするコトも出来ないが、ナゼ、そうなったのかを知りたいと考えるのは「人間の本質」ではないのか・・・
 それを知って反省し、生き方を変えるかどうか別だが、自分自身の納得ができないでは「生きていけない、死にきれない」だろう・・・
 ・・・だから「生きる」ってか?・・・そんなコト考えないでも生きて行くヒトビトは生きて行く・・・大きなお世話かも・・・



 以下、ウイッキペデアからのコピペ・・・
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 1868年・慶応四年
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 エドワード・ガントレット
 (George Edward Luckman Gauntlett)
  1868年12月4日〜1956年7月29日
 イギリスのウェールズ出身の語学者、音楽家
 1941年、日本に帰化
 ウェールズスウォンジ生まれ
 父親は英国国教会の牧師
 大叔父に「ダビデの村に」を作曲した
 ヘンリー・ガントレット
 ロンドンの音楽学校に進学し、
 建築学、工学、美術等を学んだ
 20歳でアメリカに渡り、
 その後
 カナダに移り、教会に属し、
 そこの宣教師として
 1890年に来日、
 1919年から英語教師
 東京商科大学、第六高等学校、
 山口高等商業学校などで
 英語・ラテン語などを教える
 日本での
 パイプオルガン普及、
 エスペラント語普及に努めた
 日本メソジスト教会郷中央会堂の
 聖歌隊を指導
 日本人の音楽家を育て
 「東京行進曲」を歌った
 佐藤千夜子さんはその一人
 山口県秋芳洞を学術調査
 Royal Geographical Societyの会員として
 海外へ初めて紹介
 妻は
 山田耕筰の姉の
 山田恒(恒子)
 ガントレット恒の名で
 日本キリスト教婦人矯風会の主力メンバー
 2人の間には
 6人の子供
 長男のジョン・オーエン
 (進駐軍の教育部に技術顧問)
 英語に関する著書多数発刊
 長女フランセス(カナダ留学後帰国)
 次女キャスリン(英国の修道院附属学校教師)
 次男トレバー(記者)
 三女ウィニー(旧華族の土井家に嫁ぎ、英語教師)
 四女ベアトリス・エイミー
 (宣教師の夫とともに
  夫の故郷の
  南アフリカヨハネスバーグや日本で教会活動)
 日本に残った子孫に
 Jackie, David, Saiko
 など・・・
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 慶応二年
 五稜郭完成
 慶応三年
 ええじゃないか起こる
 10月14日、大政奉還 の上奏
 12月9日、王政復古の大号令
 慶応四年1月
 戊辰戦争
 5月、北越戦争
 慶應義塾が芝新銭座へ移転
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 慶応四年(1868)
 1月3日
 鳥羽伏見の戦い
 旧幕府軍が敗退
 1月4日(1868年1月28日)
 阿波沖海戦
 日本史上初の近代軍艦による海戦
 旧幕府軍側が勝利
 だが江戸に撤退
 1月8日
 徳川慶喜大阪城を出て江戸に戻る
 1月11日
 神戸事件。岡山藩兵、神戸でフランス人を殺傷
 2月9日
 新政府、有栖川宮熾仁親王を征東大総督
 2月13日
 徳川慶喜寛永寺で謹慎
 2月15日
 堺事件。土佐藩兵、堺でフランス人を殺傷
 3月6日
 新選組甲陽鎮撫隊を組織
 甲斐の柏尾で新政府軍に敗退
 3月13日
 勝海舟西郷隆盛、会談
 3月14日
 日明治天皇五箇条の御誓文を発する
 4月2日
 甲陽鎮撫隊近藤勇、新政府に投降
 4月11日
 江戸城無血開城
 4月25日
 元新選組局長・近藤勇、斬首
 4月
 福沢諭吉慶応義塾を開塾
 閏4月8日
 近藤勇の首級が京に晒される
 閏4月17日
 新政府、浦上キリシタンを弾圧
 5月3日
 奥羽越列藩同盟を締結
 5月15日
 彰義隊、上野で新政府軍に敗退
 7月17日
 江戸を東京と改称
 8月19日
 旧幕府海軍総裁
 榎本武揚ら、軍艦八隻を率いて北海道へ
 8月23日
 新政府軍、会津若松城を攻撃、白虎隊自刃
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 10月23日
 (慶応四年九月八日=明治元年9月8日)
 元号が慶応から明治に改元(一世一元の詔)
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  ↓↑
 五榜の掲示(ゴボウのケイジ)
 慶応四年三月十五日
 (1868年4月7日)
 太政官が立てた五つの高札
 太政官(明治政府)が
 民衆に対して出した
 最初の禁止令
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 前日に
 五箇条の御誓文が発出
 施政方針は公卿や大名に示され、
 都市で発売されていた
 太政官日誌に布告されるのみ
 五榜の掲示は、
 全ての国民を対象に、
 全国各地の高札場で掲示
  ↓↑
 五榜の掲示
 民衆への新政府の姿勢表明
 第一札から第三札は
 「永世の法」
 第四札から第五札は
 「万国公法の履行」と
 「外人殺傷の禁。並びに脱籍浮浪化の戒め
 五榜の掲示の内容
 君主や家長に対する忠義の遵守
 集団で謀議を計ること
 徒党・強訴・逃散の禁止、
 キリスト教邪宗門の信仰の禁止
 江戸幕府の政策を継承
 同時に旧幕府時代の高札の廃棄
 五榜の掲示
 第三札(切支丹邪宗門の禁制)は
 慶應四年(明治元年閏4月4日=1868年5月25日)
 「切支丹宗門」
 と
 「邪宗門」を別条で禁じ、
 密告褒賞を削除
 明治四年十月四日
 1871年11月16日
 には、
 第五札が除却
 873年(明治六年)2月24日
 高札制度が廃止され
 同時に
 第一札から第四札も除却
 五榜の掲示に示された各条は
 事実上廃止
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 五榜の掲示
 第一札:五倫道徳遵守
 第二札:徒党・強訴・逃散禁止
 第三札:切支丹・邪宗門厳禁
 第四札:万国公法履行
 第五札:郷村脱走禁止
  ↓↑
 第一札
   定
 一 人タルモノ五倫ノ道ヲ正シクスヘキ事
 一 鰥寡孤獨癈疾ノモノヲ憫ムヘキ事
 一 人ヲ殺シ家ヲ焼キ財ヲ盗ム等ノ惡業アル間敷事
       慶應四年三月 太政官
 第二札
   定
   何事ニ由ラス宜シカラサル事ニ大勢申合セ候ヲ
   徒黨ト唱ヘ徒黨シテ強テ願ヒ事企ルヲ
   強訴トイヒ
   或ハ申合セ居町居村ヲ立退キ候ヲ
   逃散ト申ス堅ク御法度タリ
   若右類ノ儀之レアラハ
   早々其筋ノ役所ヘ申出ヘシ
   御褒美下サルヘク事
       慶應四年三月 太政官
 第三札
   定
 一 切支丹邪宗門ノ儀ハ堅ク御制禁タリ
   若不審ナル者有之ハ
   其筋之役所ヘ可申出
   御褒美可被下事
       慶應四年三月 太政官
  ↓↑
 閏4月4日改正
 先般御布令有之候
 切支丹宗門ハ年來固ク御制禁ニ有
 之候處其外邪宗門之儀モ總テ固ク
 被禁候ニ付テハ混淆イタシ
 心得違有之候テハ不宜候ニ付
 此度別紙之通被相改候
 條
 早々制札調替可有掲示候事
  (別紙)
 一 切支丹宗門之儀ハ是迄御制禁之通固ク可相守事
 一 邪宗門之儀ハ固ク禁止候事
       慶應四年三月 太政官
  ↓↑
 第四札
   覚
 今般 王政御一新ニ付
 朝廷ノ後條理ヲ追ヒ
 外國御交際ノ儀被
 仰出諸事於
 朝廷直ニ御取扱被爲成
 萬國ノ公法ヲ以條約御履行被爲在候ニ付テハ
 全國ノ人民
 叡旨ヲ奉戴シ心得違無之樣被
 仰付候
 自今以後
 猥リニ外國人ヲ殺害シ
 或ハ
 不心得ノ所業等イタシ候モノハ
 朝命ニ悖リ御國難ヲ醸成シ候
 而巳ナラス一旦 御交際被 
 仰出候各國ニ對シ
 皇國ノ御威信モ不相立次第
 甚以不届至極ノ儀ニ付
 其罪ノ
 輕重ニ随ヒ
 士列ノモノト雖モ
 削士籍至當ノ典刑ニ被處候條銘々奉
 朝命猥リニ暴行ノ所業無之樣被
 仰出候事
    三月 太政官
  ↓↑
 第五札
   覚
 王政御一新ニ付テハ
 速ニ天下御平定萬民安堵ニ至リ
 諸民其所ヲ得候樣
 御煩慮被爲
 在候ニ付此折柄
 天下浮浪ノ者有之候樣ニテハ
 不相濟候
 自然
 今日ノ形勢ヲ窺ヒ
 猥ニ士民トモ本國ヲ脱走イタシ候儀
 堅ク被差留候
 萬一脱國ノ者有之不埒ノ所業イタシ候節ハ
 主宰ノ者落度タルヘク候
 尤此御時節ニ付無上下
 皇國ノ御爲
 叉ハ
 主家ノ爲筋等
 存込建言イタシ候者ハ
 言路ヲ開キ
 公正ノ心ヲ以テ
 其旨趣ヲ
 盡サセ依願
 太政官代ヘモ
 可申出被
 仰出候事
 但今後
 總テ士奉公人
 不及申農商奉公人ニ至ル迄
 相抱候節ハ
 出處篤ト相糺シ可申
 自然
 脱走ノ者
 相抱ヘ不埒出來御厄害ニ立至リ候節ハ
 其主人ノ
 落度タルヘク候事
    三月 太政官
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