2113日目・・・「千早(ちはや)ぶる」が、ナゼ「荒(あら・コウ)ぶる」なのかは「千早(センソウ→撰想・撰叢・撰奏→千艘・千層・戦争)」であるからだ・・・「神無月とよ」は「じゃがたら-おハル」にある文だが、「神(かみ)が、無(いない・存在しない)、月(つき・ガツ・ゲツ)・肉(にく・ジク)・舟(ふね・ソウ)」である。神無月(かんなづき・かみなしづき)は、旧暦十月の異称である。ブログ辞典などで調べたら「醸成月」の説や、沖縄では「飽果十月」であるらしいが、「太陰太陽暦(旧歴)は月の日数が(大の月30日、小の月

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 ↓↑
 慶応三年(1867年)十月三日
 土佐藩
 山内豊範
 は単独で
 「大政奉還の建白書」
 を
 将軍・徳川慶喜に提出
 10月13日
 徳川慶喜
 京都・二条城に上洛中の
 40藩の重臣を招集・・・・欠席した人間はいるのか?
 ↓↑         「諏訪の守」かも?
            「諏訪忠誠(すわ ただまさ)」
             譜代大名、老中
             信濃諏訪藩(高島藩)
             第九代藩主?
 ↓↑          明治元年(1868年)
             戊辰戦争で新政府軍に与し
             甲州勝沼の戦い
             北越戦争
             会津戦争に参戦
 ↓↑          ↓↑
             重臣
             諏訪図書家(二之丸家)断絶
          ・・・ナゼ、図書家(二之丸家)なのか?
             千野家(三之丸家)
 ↓↑          千野家(御櫓脇家)???
 ↓↑           ↓↑
             真田家松代藩
             新政府に恭順姿勢
             戊辰戦争
             官軍として
 ↓↑          奥羽戦線で戦功をあげた・・・
 大政奉還を諮問
 10月14日(11月9日)
 「大政奉還上表」を朝廷に提出
 摂政の
 二条斉敬ら朝廷の上層部は困惑し
 薩摩藩
 小松清廉
 土佐藩
 後藤象二郎
 らの働きかけで
 翌15日
 徳川慶喜を加えた
 朝議で勅許が決定
 大政奉還勅許の
 沙汰書を授けられ成立
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 ↓↑
 で、
 神無月・・・神奈川(神奈河・神名川・上無川・三浦半島・横須賀・横浜・相模)・・・神流川(かんながわ・利根川、荒川の水系)・・・「難名臥話」である・・・
 「カンナ(Canna)=檀特(ダンドク)の花。開花時期、6/20〜10/10頃」は
 ケルト語で「アシ(葦)のCan」
 ギリシア語で「アシ(葦)のKanna(葉)」
 を意味するって、「Can na」・・・
 「I can na(not available, not aplicable)」、
 「could be nah」、
 「na=natron=曹達(ソーダ)=ドイツ語の元素記号 Na
        炭酸ナトリウム
        炭酸ソーダソーダ灰・炭酸塩
ラテン語(natron)」
 ・・・漢名で、「鉋(かんな)」は梳る、「銫(セシウム)」は元素、「寛和(985年〜987年・花山天皇一条天皇の年号」で、「寛和の変(かんなのへん)=寛和二年六月二十三日(986年7月31日)、花山天皇の退位、出家、及びそれに伴う政変)」・・・今上の「民主主義天皇の譲位」も「自由が無く」大変である・・・「象徴」は「日本国憲法の人権庇護」に反して矛盾している・・・
 ↓↑
 で、
 上旬にある弦月(半月)を上弦の月
 下旬の弦月を下弦の月
 十日夜月(とおかんやのつき)・・・訳於巻哉の椄記?
                  投函也の解通?
 午後に昇り、
 日没ごろ東の空に見え、
 夜に入って一番高くなり、
 未明に沈む
 上弦の月より膨らんだ焼き餅形の月?
 旧暦十月の十日に「十日夜」と呼ばれる
 観月の慣習もあった
 ↓↑
 十八夜月・・・?「おはこヤのつき」だけれど、出番
 居待月(いまちづき)
 夜に入って昇り、
 未明に一番高く、
 日の出前は
 西の空にあり、
 午前中に沈む
 下弦の月より膨らんだ焼き餅形の月?
 ↓↑
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 「在原業平」が詠んだ和歌は、
 「神代もきかず」、
 「龍田川」、
 「からくれなゐ=唐紅(韓紅)→もみじ=栬・紅葉・椛→揉観字・摸見字」に、
 「水(みず・スイ・氵=さんずい→纂髄(瑞・隋)・推(スイ)」、
 「くくる(括る・摎る・撿る・操る(傀儡=カイライ・くぐつ・推古)」
 で、
 「てくぐつ(手傀儡)=手であやつる人形・あやつる芸」は、
 「八千独楽 (やちこま) 、
  蟾舞 (ひきまひ)をアヤつる」
 ↓↑
 「くくる=矩句留→九九留=八十一)」・・・海女が「潜(くぐ)る」は「もぐる」でもあり、鳥居を「潜(くぐ)る」は「潜(くぐ)り抜ける」でもある・・・
 この和歌の「くくる」は「絞(しぼ)り染める」が現代語(?)訳らしいが、「搾(しぼ)り初め」はどうか?・・・搾るとは菜種油か、年貢である・・・この「唐紅=韓紅=からくれない=紅葉」が字面どうり「赤紅色」で、「濃い紅色・深紅色」、口紅。「韓紅」ならば「中国→朝鮮→日本」へヤッテきた「紅」で唐辛子の色?・・・辰砂は「赤丹(あかに)」で、水銀の丹(タン)ならば「血の色」である。「たったがわ」は「血の色」に染まったのである・・・多分、和歌の裏は美辞麗句の賛美ではない。怨み、恨みの歌かも?・・・作者は「在原業平平城天皇の孫・贈 一品・阿保親王の五男・六歌仙三十六歌仙の一人・別称は在五中将・略無才学、善作倭歌)」→「ザイゲンゴウヘイ・ザイゲンギョウヘイ」の「朝臣(あそん・チョウシン)」の「十七番・古今和歌集に三十首」である・・・「ありはら之なりひら」、「罪の源の業」を「平ら」にするって・・・彼の経歴は、縁戚も、事件も、数字も、ボク的には「そんな奴がいたのか?」である・・・
 ↓↑
 「蟾舞 (ひきまひ・センブ)」の「蟾(セン)」とは、「蟾蜍(ひきかえる・センヨ)=蟇蛙(バクア)」であり、「かえる(蛙)」の名詞である・・・「蝦蟇(がまかえる・カバク)・雨蛙(あまかえる・ウア)」も「かえる」である・・・
 同類の漢字は、「贍(たす・すくう・たりる・たすける・めぐむ・贍給・たりる・ゆたか・富贍・セン)」で、「瞻(みる・みあげる・セン)」でもあった・・・
 ↓↑
 「龍田川」にある「龍田神社奈良県生駒郡斑鳩町)=崇神天皇時代の創立?法隆寺の鎮守・風の神」は「持統天皇」が頻繁に参拝していた場所である。「元々の社名は、龍田-比古・龍田-比女-神社・大正十一年三月に龍田大社より独立」・・・
 薬師寺の東塔の銘文「東塔檫銘(とうとうさつめい)」に・・・
 「天武天皇の発願から持統天皇天武天皇の遺志を継いで寺を完成させた」・・・
 「日本書紀」には
 「天武天皇が美濃王と佐伯廣足を派遣し、龍田の立野に風神を祀らせた」、
 「天武天皇四年(676)四月癸未・祠風神于龍田立野・天武天皇は十九回、持統天皇は十六回、遣使奉幣」・・・
 「壬申の乱日本書紀巻二十八(壬申紀)」に
 「天武天皇元年6月24日〜7月23日、
 (ユリウス暦
  672年7月24日〜8月21日)」、
 「天武天皇死亡」
 は
 「朱鳥元年九月九日
 (686年10月1日)」
 であり、
  ↓↑
 壬申の乱・・・・・「人臣(大海人皇子)の乱」?
 672年7月24日〜8月21日
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 「則天武后」は
 「唐の第三代皇帝、
  高宗の皇后に就き、
  監禁していた
  王氏(前皇后)
  と
  蕭氏(前淑妃)を処刑
  高宗死亡後、
  国号を
  周とし、
  女帝
  (在位 690〜705)に就任・・・
  ↓↑
  天武天皇
  壬申の乱
  672年7月24日〜8月21日
  ↓↑
  676年
  龍田神社へ参拝
  天武天皇持統天皇
  ↓↑
  武側転
  武則天
  則天武后
  父は
  利州都督
  ↓↑
  武士彠(尋+蒦・艹+隻)
  武士彠
  ↓↑
  則天武后
  姓名は
  武照(曌=明+空)
  幼名は
  媚娘
  武則天
  狄仁傑・・・・狄仁傑・・・テキジンケツ?
  を宰相」
  ↓↑
 「686年10月1日」は
 天武天皇の死亡であった・・・
  ↓↑
 「665年
  唐使
  劉高徳・・・・・劉高徳
  郭務悰・・・・・郭務悰
  来日
  ↓↑
  667年
  唐送使
  司馬
  法聡・・・・・法聡
  が
  遣唐使を送って来日
  ↓↑
  671年
  百済鎮将
  劉仁願・・・・・劉仁願
  が
  李守真・・・・・李守真
  らを
 (日本)に派遣
  ↓↑
  壬申の乱
  天武天皇元年6月24日〜7月23日
 (ユリウス暦
  672年7月24日〜8月21日)
  ↓↑
  779年
  唐使
  孫興進・・・・・孫興進
  秦怤期・・・・・秦怤期
  来日
 (帰国する
  遣唐使一行の船に同乗、
  中使
  趙宝英・・・・・趙宝英
  は遭難死)
  ↓↑
  780年、唐使 ...」
 「天智四年(665)九月〜12月
  唐が
  朝散大夫
  沂州司馬
  上柱国
  劉高徳・・・・・劉高徳
  右戎衛郎将
  上柱国
  百済弥軍
  朝散大夫
  柱国
  郭務悰・・・・・郭務悰
  254人を派遣
  7月末に
  対馬に至り、
  9月下旬に
  筑紫に到着
  10月11日
  莵道で閲兵」
  ↓↑
 「686年10月1日」は天武天皇の死亡で
 その死亡後の
 「龍田(リュウデン)神社(ジンジャ・シンシャ)」
 の役割は
  ↓↑  
 「劉仁願(リュウジンガン)」
 の
 進駐、駐屯司令部だった・・・?
  ↓↑
 なんせ、「龍神に願う」である・・・
  ↓↑
 「金春秋」
 武烈王(602年?〜661年)=太宗-武烈王
 新羅の第29代の王(在位、654年〜661年)
 姓は金
 諱は春秋
 父は
 第25代
 真智王の子の
 伊飡(二等官)の
 金龍春(龍樹・文興葛文王)
 母は
 第26代
 真平王の長女
 天明姫(文貞太后
 王妃は
 金舒玄の娘の
 文明夫人(文姫)
 655年1月
 高句麗・靺鞨・百済の連合軍(麗済同盟)
 に北部辺境の33城をが奪われ
 唐に救援を求め
 唐は営州都督
 程名振
 右衛中太将
 蘇定方
 を派遣して高句麗を攻撃
 659年
 百済が攻め込んでき
 唐に出兵を求め
 660年3月
 唐は
 百済討伐の出兵
 左武衛大将軍
 蘇定方
 を
 神丘道行軍大縈管とし、
 劉伯英将軍に
 水陸13万の軍を率いさせ、
 新羅も従軍
 ↓↑
 副大縈管は
 唐に宿衛していた
 武烈王の息子の
 金仁問とし
 新羅王に
 嵎夷道行軍縈管とする勅命
 唐と新羅との連合軍で
 百済討伐
 同年
 7月18日
 義慈王
 百済は滅び、
 11月
 武烈王は凱旋し、
 論功行賞を行なう
 ↓↑
 661年
 斉明天皇、邦の津で急死
 中大兄皇子は称制
 朴市
 秦造
 田来津
 を司令官に任命
 倭国軍は
 三派で朝鮮半島南部に上陸
 第一派
 1万余人。船舶170余隻
 安曇比羅夫
 狭井檳榔
 朴市秦造田来津。
 第二派
 2万7千人
 上毛野君稚子
 巨勢神前臣譯語
 阿倍比羅夫(阿倍引田比羅夫)
 第三派
 1万余人
 廬原君臣
 (廬原国造の子孫)
 ↓↑
 661年5月
 第一派倭国軍出発
 安曇比羅夫
 狭井檳榔
 朴市秦造田来津
 豊璋王を護送する先遣隊で、
 船舶170余隻、兵力1万余人
 ↓↑
 662年3月
 第二派倭国軍出発
 上毛野君稚子
 巨勢神前臣譯語
 阿倍比羅夫(阿倍引田比羅夫)
 ↓↑
 663年(天智2年)
 百済
 豊璋王
 が
 鬼室福信
 と対立、惨殺
 百済復興軍は、
 百済南部に侵入した
 新羅軍を駆逐
 ↓↑
 唐は
 劉仁軌
 率いる水軍7,000名を派遣
 唐・新羅軍は、
 水陸併進し
 陸上部隊は、
 唐の将
 孫仁師
 劉仁願
 新羅王の
 金法敏(文武王)が指揮
 劉仁軌
 杜爽
 ↓↑
 元百済太子
 扶余隆の
 170余隻の水軍は、
 熊津江に沿って下り、
 陸上部隊と会合し
 倭国軍を挟撃
 ↓↑
 倭国百済連合軍
 白村江への到着が
 10日遅れ
 唐・新羅軍の
 白村江河口に対して突撃
 海戦
 倭国軍は三軍編成
 4度攻撃
 火計、干潮の時間差などで
 唐・新羅水軍に大敗
 ↓↑
 663年(天智二年)8月
 白村江の戦い
 (はくすきのえのたたかい
  はくそんこうのたたかい)
 ↓↑
 壬申の乱・・・・・「人臣(大海人皇子)の乱」?
 672年7月24日〜8月21日
 ↓↑
 676年
 「天武天皇四年(676)四月癸未
  祠風神
  于
  龍田立野
  天武天皇は十九回
  持統天皇は十六回
  遣使
  奉幣」
 ↓↑
ーーーーー
 じゃがたら オハル
 じゃがたら
 追放後に
 ジャカルタから故郷の人々に宛てた
 ↓↑
 千はやふる、・・・・千早ぶる=荒ぶる
           神代も
           きかず 龍田川
           からくれなゐに=紅葉で
           水くくるとは=ミズを絞り染め
           在原業平朝臣
           (十七番・古今集
 神無月とよ、
 うらめしの嵐や、
 まだ宵月の、
 空も心もうちくもり、
 時雨とともにふる里を、
 出でし
 その日を
 かぎりとなし、
 又、
 ふみも見じ、・・・・・・フミ、モミジ・・・?
 あし原の、・・・・・・・蛙詞葉等之?
 浦路はるかに、・・・・・有等字
 へだゝれど、
 かよふ心の
 おくれねば、
 おもひやる
 やまとの道の
 はるけきも
 ゆめに
 まちかく
 こえぬ夜ぞなき
 ・・・略・・・
 あら日本
 恋しや、
 ゆかしや、
 見たや 。
     じゃがたら
     はるより
 ↓↑
 「千はやふる、・・・千早(センソウ=撰想・撰叢・撰奏
           千艘・千嫂・千層・船倉
              戦争)
              ↓↑
           センソウ フ     ル
           戦 争、 負(フ・附)る
           戦(いくさ)
               者(は・もの・シャ)
                負(まけ・フ)る  
           戦争負(フ・附)留
           戦者(は・もの・シャ)也、
              風(フ)に留(ル)る
           戦頗(は・かたよる
              よこしま・すこぶる)
              家(いえ・ヤ)
             (斁・邪・鰥)破流
             「斁」=いやになる=厭(嫌)
                 エキ・セク・ト・ズ
             「邪」=「耶」・・・ム=私
             「鰥」=魚+眔(トウ)
                  眔=目から流す涙
                    死者の胸元に
                    眔(なみだ)する
                 妻のいない男
                 男やもめ
                「鰥寡(カンカ)」
                 鰥=カン・ケン・コン
                「矜寡(カンカ)」
                「孤独鰥寡」
やもめ=鰥夫・寡婦
                「矜持(キンジ)=あわれむ
  神無月・・・・神なんかは
         無(イナイ)、
         つき=通飢・椄記(紀)
  とよ     とよ=臺與・・・壹與?
            登与
            利世
            豐代・・・豊後・豊前・豊國の代
            豊與
           「〜だとよ」
            他からの伝聞
            揶揄(やゆ)する意
            …と、いうことだよ(な)
            …だ、そうな
            …で、あるらしいな
  ・・・
  あら日本・・・・荒(あら)、日の本 
  恋しや、・・・・故意詞邪(耶・哉・埜・也)
  ゆかしや、・・・有化史也(邪・耶・埜・焚)
  見たや、
  見たや」
 ↓↑
 と結ばれた手紙文・・・?
ーーーーー
 ・・・と、いうことだよ(な)・・・