2094日目・・・昨日のNHKの「歴史秘話ヒストリア」の「群馬県の保渡田八幡塚古墳(ほどたはちまんづかこふん・八幡塚古墳、二子山古墳、薬師塚古墳の3つの前方後円墳が集積する古墳群)」、古墳は九州と畿内など、「江田-船山古墳(熊本県玉名郡和水町(旧菊水町)・清原(せいばる)古墳群の中で最古・最大の古墳・日本最古の記録文、75文字の銀象嵌銘をもつ大刀が出土」を調べてはいたが、関東や群馬の古墳には疎かった・・・スゴイね、古墳の現代的復元保存。火山灰にウヅまっていたのを復元ですか・・・いつの時代の火山灰なんだろ

 兎に角、「字通部通(じつぶつ)」よりも、「実物(ジツブツ)」を目で確認した方がイイだろうが、それらの情景の「理解説明」は個々人のイメージと、個々人の「認識知識の経験範囲」で様々であろう・・・「事実」を知る為には「タイムマシン」が必要であるが、ムリだろう・・・やっぱ「文字での情報説明」が欲しいが、「文字」以前は「遺された遺物の形(形象)での情報伝達」であろう・・・
 それでも、現在は「視覚と聴覚」の「ビデオ(YOU-TUBE)」での情報であるが・・・「有得註部」であるカナ・・・
 ボクにとって「草書」では「漢文」でも「和文」でも、「和漢混交文」でも解読が難しい・・・
 「草稿の原本(原稿)」は「草書」で、「校正本」は「楷書」で印刷・・・「楷書写本」では「草書の書き手の意味」が「異字体漢字(形態は相似)」だったモノが「楷書の漢字転換」で異なったの意味の「楷書文字」になる・・・
 「楷書」でも「細かい漢字」は老眼になってしまっては「読み辛い」から「ヨメない」・・・でアルなッ・・・「滝沢馬琴」さん・・・
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 「南総里見八犬伝」の
 「曲亭馬琴滝沢馬琴=瀧澤興邦
  幼名、春蔵、倉蔵
  通称、左七郎、瑣吉(さきち
  号に著作堂主人
    笠翁(リツオウ)
    篁民(コウミン)
    蓑笠漁隠(サリツギョイン)
    飯台陳人(ハンダイチンジン)
    玄同(ゲンドウ)など
  明和四年六月九日(1767年7月4日)
  〜
  嘉永元年十一月六日(1848年12月1日)
  長女
 「幸(さき)」の
  婿養子は、
  吉田新六(清右衛門)
  ↓
  67歳の馬琴
  右眼を失明
  左眼もかすむ
  73歳で失明
  ↓
  息子の
 「宗伯」の妻の
 「お路」が口述筆記
  馬琴の妻の
 「お百(会田氏の娘)」が嫉妬
 「お百」は
  天保十二年(1841年)に死没
  子供
  幸、祐、興継(宗伯)
  渥美氏に嫁した
  鍬
  嫁は
  興継の妻
  「みち(土岐村路)」
  その子供に
  太郎、つぎ、ちさ
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  馬琴のペンネームは
 『十訓抄(野相公=小野篁)』
 「索婦詞」
 の一節
 「才非馬卿弾琴未能
 (才、馬卿(司馬相如)に非ざれば、
  琴を弾くこと未だ能わず)」
 から」採用した・・・とか・・・
 ・・・「侖(liuan-luan、リン-ロン)」が「短冊を揃えた」から「そろえたモノ」の象形文字ですか・・・なるほど「倫理・倫敦」は人間関係、「論理・言論」はコトバの関係、「告諭(喩)・揶揄・愉快」は気持ち、「経綸」はお経の教え・「車輪・競輪」はクルマの両輪の関係・・・「音符」に相当する漢字と、意味の類別を表す「意符」が組み合わさった「形声文字」が形成され、一文字漢字の「音素・単音」の漢字が少ない・・・秦の始皇帝が「字体統一」・・・
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 亀甲獣骨文字(甲骨文字)→金文文字(青銅器などへ刻文)
   小篆
   ↓
  →篆書体文字
   →隷書文字
    →草隷(隷書の走り書き、崩し書き文字)
     →楷書(隷書を直線的に書いた文字)
      →行書(楷書の崩し書き文字)
       →則天文字(則天武后の創作文字)
        →宋朝体(木版技術の楷書の印刷書体)
         →明朝体文字
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 歴代王朝の科挙試験、国家組織では
 「正字=楷書」漢字だったが、
 一般庶民では「通字」や「俗字」と呼ばれる漢字が使われた・・・
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 「説文解字
 最古の
 部首別漢字字典
 後漢
 許慎(キョシン)の著作
 和帝
 永元十二年(西暦100年)成立
 建光元年(121年)
 に許慎の子の
 許沖(キョチュウ)が
 安帝に奉った
 本文十四篇
 叙(序)一篇
 の十五篇
 小篆の見出し字
 9353字
 重文(古文・籀文および他の異体字
 1163字
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 漢字書体
 篆書・隷書・草書・行書・楷書
 楷書の印刷書体=明朝体
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    →片仮名(日本)文字
    →平仮名(日本)文字
    →国字の漢字(日本)文字・・・
    →常用「新漢字」文字
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 ・・・「日本の文字」は「江戸時代〜明治」の知識人の脳ミソを踏まえる必要があるのでは・・・?
 「ロウガン」から・・・また、とんでしまった、「バキン」さん・・・楷書漢字の「かくりつ=確立=化句理通(椄)?」・・・そして「日本の国字は約1,500」・・・
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 「卑彌呼」と「壹與」・・・
 「倭人」は「俀人」、「和人」、「日本人」になったのか?・・・
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 「麻氐(弖)良布(須)・・・草書では「布と須」は類似
 (まて   らふ(す)
  アサテラフ=あまてらす
  アサテラス)」神社
 「朝倉・浅倉・麻倉=あさくら」神社・・・
  チョウソウ・センソウ・マソウ・・・字句等・・・?
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 「卑弥(彌)呼」=「俾彌呼(三国志・魏書帝紀)」
          「卑・鬼」→「甶(フツ)
                 囟(ひよめ・シン)」
                 は
                 写本版本には「田」
                「囟」は頭蓋骨
                 細思偲鰓などが類字漢字
            卑=甶+ノ+十
              鬼卑胄冑甹
              由+ノ+十
              曳
            卑=ノ+田+ノ+十
              畀界異里畠雷
              苗葍奮番
              冨富(とみ・フ)
              當(あてる・トウ・当てる)
              罍(もたい・ライ・酒樽・酒壜)
              纍(つづる・ライ・ルイ・累)
              翼
              胃甼男毘累勇
              思(恩)=因+心→囟=心?
                (原)因+心
 「おど」=「入江」=「へそ(毘・𦜝)」・・・
 「日向(ひゅうが・ひむか)」・・・
 「夜須=やす=安=靖=野洲=康」・・・靖国神社
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 本を読むよりも個々人の脳ミソにとっては「youtubeの映像と音声」が手っ取り早いカモ・・・
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 草書体で解く邪馬台国の謎(井上悦文 久留米地名研究会)
https://www.youtube.com/watch?v=U1D0EURZBpY
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 歴史探訪・邪馬台国を追って (ハイビジョン編集)
https://www.youtube.com/watch?v=yetoX6MC63U
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 保渡田古墳群(群馬県高崎市
https://www.youtube.com/watch?v=RkxLxVRI358
 群馬県
 榛名山の南麓の
 保渡田・井出の地
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 八幡塚古墳
 前方部前面の
 中堤上に
 円筒埴輪列で方形に区画された部分から
 人物類、
 ウマ(馬)
 ニワトリ(鶏・雞)などの家畜
 イノシシ(猪)
 水鳥(鵜・鸕・鴨)
 狩猟鳥獣の
 形象埴輪が出土
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 保渡田・・・・・・・・・保(たもつ・ホ)
             渡(わたる・ト)
 ↓↑          田(た  ・デン)
 八幡塚古墳
 鵜(鸕)形埴輪が出土
 首を高く上げ
 口に
 魚を・・・・・・・・作掛名・・・うお・まな→真名=漢字
 銜(くわ)え、・・・句和得
 首に
 鈴のついた
 首紐(くびひも・シュチュウ)
 が付けられた
 鵜(う・鸕)の姿
 鵜(鸕)を用いて
 川漁を行う鵜飼は
 文献史料では
 古代中国の
 「隋書」
 「古事記
 「日本書紀
 などに記録・・・「銅鐸(袈裟襷文銅鐸・伝香川県出土)」
          にも描かれている足長の鳥




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 二子山古墳・・・・・・二語・二古・弐語・双子
            ふたご=双生児=創生異字
 墳丘部が三段築成
 周濠は
 馬蹄形で
 二重
 内濠部に
 後円部を囲むように
 くびれ部
 斜面側後方部分に中島を4基配置
 墳丘・中島・中低部とも
 川原石
 葺石としている
 埴輪円筒列を巡らしている
 丘北側の中堤部分の一角から
 外濠西北隅の外側部分に
 人物埴輪
 飾馬(馬具を装着した馬)
 猪(いのしし)
 犬(イヌ・狗・戌)
 盾(たて)
 蓋(きぬがさ)
 家(いえ)
 などの
 形象埴輪を・・・・情報物体を
 配置した・・・・・葉位置(意知)
 区画・・・・・・・くかく・クガ
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 薬師塚古墳・・・・ヤクシジ→訳詞字
 天和三年(1683年)
 発掘されたとされる
 凝灰岩製の
 舟形石棺・・・・・ふながた・ふねがた→附音臥他
 (長さ2.9メートル)
 が
 後円部頂部に保存
 その時に出土した
 仿製(ボウセイ)内行花文鏡
 鋳銅製馬具類
 玉類が
 西光寺に伝来・保管



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 ・・・「邪馬台国」、「邪靡台国」、「邪馬臺国」、「邪馬壹(壱)台国」・・・記録的には「銅鏡」だが、「銅鐸」の記録は無い・・・「銅鐸」は「さなぎ(蛹・佐名木・真木・佐薙・佐柳)=かいこ(蚕)=さらぎ(蛇穴・沙羅祁・沙良祇・佐良ぎ・咲良ぎ」と呼ばれていたのカモ・・・
 「大仏=大佛(だいぶつ、おさらぎ)」とは、「若木」=「大仏」で、「おさなぎ」→「おさらぎ」になった・・・
 「オホ(大)サラギ(新参者)」であった・・・
 寺院に関係しない「山の斜面」などに散見される地名のひとつ。
 大和言葉の「オホ(大)ソレ(焼畑)キ(場所)」の変化で、山地の焼畑のあった場所を指す言葉が転じた・・・
 「大仏(だいぶつ、おさらぎ)」は、日本各地にある地名・・・
 「ほのか(かすか)」、 「物事の正しい道筋」・・・
 「煩悩の 結び目を「解く=ほどく」という意味から・・・
 あるいは仏教が伝来した欽明天皇のときに
 「ほとほりけ(ホトボリ気)」、すなわち「熱病」が流行したためにこの名がある・・・「ホトボリが冷める」、「ほとぼり」は「余熱(熱)」で、「ほ( 火)」+「とほり(通り)」から、「火(ほ)点り(とぼり)」で「余熱」・・・?
 「ホトほり」が醒めるとは、「交具合(まぐあい・性交・情交)」のヨイン・・・
 「ほと」は古い日本語で女性器の外陰部・御陰、陰所、女陰の字を宛てる」、転じて「女性器の外陰部のような形状、 形質(湿地帯など)、陰になる場所の地形」をさす地名・・・
 「伊邪那美イザナミ)は、女陰(ホト・蕃登)を産んだ息子に焼かれて死んだ」、
 「三輪山の大物主の大蛇の姿をみた娘は箸で突いて死んだ」、
 「機織り女の巫女はホトを杼(ひ)で突いて死んだ」、
 「照大神の服織姫は女陰(ホト)を杼で突いて死んだ」、
 「倭迹迹日百襲姫が箸で女陰をついて死んだ」、
 「素戔烏に皮を剥いだ馬(駒・こま=狛・高麗)を投げ込まれ、杼でホトを突いて死んだ」、
 「天の機織り女、おカイコの機織部で、呼は蚕の意味」・・・
 「ホトケ=仏像」は金銅の鋳物で、「銅鐸」も「銅鏡」も鋳物である。鋳物には火で熔解した胴を流し込む「カナガタ(金型)」が必要である・・・「さなぎ」とは「蚕(かいこ・サン)」のカナガタだが、糸をツムグ前に「蛹(さなぎ)」の中の生きている「蚕」を「熱湯で殺す」のである・・・ホトリが冷めた段階で、紡ぎの作業が始まる・・・
 「つむぐ(紡ぐ)」
 名詞「つむ(錘)」の動詞化
 「綿 や繭 (まゆ) を
  錘 (つむ) にかけて繊維を引き出し、
  縒 (よ) りをかけて糸にする」・・・
 「眉輪(目弱)の皇子」は「つぶら(圓・円)の大臣(おみ)」の屋敷に逃げ込んで「雄略天皇」に殺された・・・
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 「虫祭り」は「旧6月24日」である・・・
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 「秦河勝
 「山城国葛野の出身。聖徳太子の側近として活躍した。また、富裕な商人でもあり朝廷の財政に関わっていたといわれ、その財力により平安京の造成、伊勢神宮の創建などに関わったという説もある[要出典]。
 「秦河勝
 用明天皇二年(587年)
 「丁未の乱」で
 物部守屋の追討戦に従軍
 厩戸皇子を守護し
 守屋の首を斬った
 推古天皇十一年(603年)
 聖徳太子より
 弥勒菩薩半跏思惟像を賜り、
 蜂岡寺を建てそれを安置
 推古天皇十八年(610年)
 新羅使節を迎える導者として
 土部菟とともに当る
 皇極天皇三年(644年)
 駿河国
 富士川周辺で、
 「大生部多」の
 常世
 (害虫・投機的なニセ蚕の養蚕)・・・明治の群馬の養蚕
                   事業が投機的に
                   なった事件があった
                   群馬県富岡製糸場
             小田村伊之助(楫取素彦)は
             久坂玄瑞の妻となった吉田の妹
             杉文(楫取美和子)と再婚
 を崇める集団を追討
 赤穂の坂越で死没
 生島には秦河勝の墓
 坂越湾に面して
 秦河勝を祭神とする
 大避神社が存在・・・ダビデ?が鎮座」
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 「大仏次郎(おさらぎじろう)」とは
 「大佛次觔」
 1897年(明治30年)10月9日
   〜
 1973年(昭和48年)4月30日)
 小説家
 野尻 清彦(のじり きよひこ)
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 「鞍馬天狗とは倉田典膳(繕)君、君のコトだな」
 「いかにも、君は新撰組の局長、近藤勇か」
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