2092日目・・・「日本の高校生が「殻無しの卵からヒナを誕生」させた!千葉県の高校生物部の研究が世界で話題に」・・・「カミさま」の「ワザ」であるカナ・・・復活・・・「太陽黄経15°→三月節→清明→4月4〜5日」・・・

  ↓↑
http://youpouch.com/2016/06/15/361839/
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・・・鶏(にわとり・ケイ)の卵(たまご・ラン)からの孵化・・・「鮒(ふ)椄(っ・殱)掛(か)通(つ)差(さ)異(い)」・・・復活の差異?・・・フッカツサイ・・・
 「Ego」の始まりは「egg」・・・?
 「殲=つくす・ほろぼす・セン・殺しつくす・滅ぼす・殺し尽くす・皆殺し・殲滅」・・・「殱」は俗字・・・
 「歹(もとる・カツ・ガチ・いちたへん・かばねへん)」
  +
 「韱(やまにら・セン・人人韭戈)」・・・韭=にら=韮
     「韭=非+一」→韭→业→並→丵(ほる・はり・サク)
               业→並→丵
                   丵(削)岩機
 ・・・繊維(糸+韱+糸+隹)、「より糸」の象形+「刃のついた矛の象形と人の象形(みじん切りにする)と、地上に群がり生え揃った、韮(にら)の象形」、「微塵(みじん)切りにしたような山韮(やまにら)」から、「細く弱々しい糸」の意。
 「繊維」の「繊=糸十业戈」は「纖=糸人人非一戈」の略字・・・
 「籖(くじ・セン)=かずとり・数をかぞえるときに使う棒
          「宝籤・抽籤・当籤・便箋(籤)」、
          「籖」は「籤」の俗字・・・
          「人人」→「十」
  ↓↑
 「キリスト」死期の
 三日目に生き返えった
 「復活祭(Easter)」
 「春分の日の・・・・・・・・・3月20-21日後
  後の最初の満月の・・・・・・の満月(十五夜)の
  次の日曜日に祝われる」・・・次の日曜日・・・?
  ↓↑
 「春分(vernal equinox)」
 は、
 「二十四節気の第四」
 「昼の長さと夜の長さがほぼ等しくなる」
 実際には昼の方が14分ほど長い
  ↓↑
 旧暦(陰暦)二月の内
 定気法
 太陽が春分点を通過した瞬間
 太陽黄経が0度となったとき
 暦ではその瞬間が属する日
 春分日(春分の日
 その国・地域の時差によって
 1日の違いが出る
 日本では
 3月20日
 または
 3月21日
 になることが多い
 恒気法では
 冬至から
 1/4年(約91.31日)後の
 3月23日ごろ
 期間としては
 この日から、
 次の節気の
 「清明」前日まで
 西洋占星術では
 春分
 白羊宮(おひつじ座・牡羊座)の始まり
 ↓↑
 二十四節気
 当初、
 冬至を計算の起点にして、
 1太陽年を
 24等分した
 約15日ごとに設けられた
 これを
 平気法や恒気法または時間分割法という
 地球の軌道は
 円ではなく
 楕円であるため、
 太陽の黄道上での
 運行速度は一定ではなく
 中国では
 清朝の時憲暦から、
 日本では
 天保暦から、
 黄道春分点を起点とする
 15度ずつの24分点に分け、
 太陽がこの点を通過する時を
 二十四節気とすることにした
  ↓↑
 太陽黄経
 ↓↑ 季節 節月 グレゴリオ暦 日本   中国
 315°春 一月節
立春 2月4-5日  2月4日  2月4日
 330°一月中 雨水 2月18-19日 2月19日  2月19日
 345°二月節 啓蟄 3月5-6日  3月5日  3月5日
 0° 二月中 春分 3月20-21日 3月20日  3月20日
 15° 三月節 清明 4月4-5日  4月4日  4月4日
 30° 三月中 穀雨 4月20-21日 4月20日  4月19日

 45° 夏 四月節
 立夏 5月5-6日 5月5日 5月5日
 60° 四月中 小満 5月21-22日 5月20日 5月20日
 75° 五月節 芒種 6月5-6日  6月5日 6月5日
 90° 五月中 夏至 6月21-22日 6月21日 6月21日
 105°六月節 小暑 7月7-8日  7月7日 7月7日
 120°六月中 大暑 7月22-23日 7月22日 7月22日

 135°秋 七月節
立秋  8月7-8日  8月7日 8月7日
 150°七月中 処暑 8月23-24日 8月23日 8月23日
 165°八月節 白露 9月7-8日  9月7日 9月7日
 180°八月中 秋分 9月23-24日 9月22日 9月22日
 195°九月節 寒露 10月8-9日 10月8日 10月8日
 210°九月中 霜降 10月23-24日 10月23日 10月23日

 225°冬    十月節
立冬 11月7-8日  11月7日 11月7日
 240°十月中 小雪 11月22-23日 11月22日 11月22日
 255°十一月節 大雪 12月7-8日  12月7日 12月7日
 270°十一月中 冬至 12月21-22日 12月21日 12月21日
 285°十二月節 小寒 1月5-6日   1月6日 1月6日
 300°十二月中 大寒 1月20-21日  1月21日 1月20日
  ↓↑
 イースター島
 火山島
 現地語名は
 ラパ・ヌイ(ラパ・ヌイ語: Rapa Nui)
 正式名は
 パスクア島(スペイン語: Isla de Pascua)
 「Pascua」はスペイン語
 復活祭(イースター
 モアイの建つ島
 ポリネシア・トライアングルの東端
 最も近い有人島まで
 直線距離2000km余
 周囲には島が存在しない絶海の孤島
南緯27度7分
 西経109度22分
 「ラパ・ヌイ」とは
 ポリネシア系の先住民の言葉で
 「広い大地(大きな端とも)」
 かつては、
 「テ・ピト・オ・ヘヌア(世界のへそ)」
 「マタ・キ・テ・ランギ(天を見る眼)」
 などと呼ばれた
 名前は、
 19世紀の後半に実際に島に辿り着けた
 ポリネシア人が付けたもの・・・
 1722年4月5日(享保七年二月二十日)
 壬寅(己・丙・甲)
 甲辰(乙・癸・戊)
 乙亥(戊・甲・壬)
 日曜日
 先負
 復活祭(イースター)の夜、
 オランダ海軍提督
 ヤーコプ・ロッヘフェーン
 が発見
 1000体を超えるモアイと、
 火を焚き地に頭を着けて祈りを捧げる島人の姿
 を目の当たりにする
 1774年
 イギリス人探検家の
 ジェームズ・クック
 が上陸
 島のモアイの半数ほどがまだ直立していた
 伝承では
 1840年頃に最後のモアイが倒された・・・
 「北海道・蝦夷地」が描かれていない日本地図

 ↓↑


 「イースター島」の地図は「北海道・蝦夷」の形、魚の「カスベ・エイ」に似ている・・・
 ↓↑
 「復活」で
  ダレが救われたのか?
 「マリヤ・マリア・メリー・メアリー」
 である・・「お雪(マリア)」は・・・「ウイリアム・アダムス(三浦 按針)」の妻で「馬込勘解由」の娘であった・・・
 ↓↑
 ウィリアム・アダムス(William Adams
 1564年9月24日〜1620年5月16日(元和六年四月二十四日)
 甲子       三合壬    庚申(傷官)
 癸酉(傷官・食神)三合辛    辛巳(食神)
 己卯       支合丁    壬戌(正財)
 木曜日      土曜日  
 仏滅       大安
 ↓↑
 江戸時代
 徳川家康に外交顧問として仕えた
 イングランド人航海士・ 水先案内人・貿易家
 三浦 按針(みうら あんじん)
 ↓↑
 生誕 1564年9月24日
 イングランド王国・ケント州・ジリンガム
 1620年5月16日
 肥前国平戸(長崎県平戸市)で死没
 配偶者 お雪(マリア)
 ↓↑
 12歳
 ライムハウスに移り、
 船大工の棟梁
 ニコラス・ディギンズに弟子入り
 1588年に奉公の年限を終え
 海軍に入り
 フランシス・ドレーク
 の指揮下にあった貨物補給船
 リチャード・ダフィールド号の船長として
 アルマダの海戦に参加
 1589年
 メアリー・ハインと結婚
 娘デリヴァレンス
 息子ジョン
 を儲けた
 バーバリー商会ロンドン会社
 の航海士・船長として
 北方航路やアフリカへの航海
 ↓↑ 
 ロッテルダムから極東を目指す航海のために
 ベテランの航海士を募集
 弟の
 トマスら
 と共にロッテルダムに渡り志願
 航海は5隻からなる船団で行われた
 ↓↑
 リーフデ号の航海
 ホープ号(希望・旗艦)
 リーフデ号(愛)
 ヘローフ号(信仰・ロッテルダムに帰還した唯一の船)
 トラウ号(忠誠)
 フライデ・ボートスハップ号(良い予兆・陽気な使者)
 ↓↑
 司令官
 ヤックス・マフは
 アダムスをホープ号の航海士として採用
 1598年6月24日
 ロッテルダム港を出航
 ↓↑
 マゼラン海峡を抜けるまでは
 ウィリアムとトマスの兄弟は
 リーフデ号に配置転換
 トマスが最初乗船していた
 トラウ号は
 東インド諸島でポルトガルに拿捕
 フライデ・ボートスハップ号は
 スペインに拿捕
 ヘローフ号はロッテルダムに引き返した
 生き残った2隻で太平洋を横断中
 ホープ号沈没
 極東に到達目的を果たしたのは
 リーフデ号1隻
 食糧補給のために寄港した先々で
 赤痢壊血病が蔓延
 インディオに襲撃され
 トマスは殺害
 出航時に110人
 日本漂着までには24人
 ↓↑
 1600年4月29日(慶長五年三月十六日)
 三合会局水・壬←正財←己卯
 庚子(傷官)刑←己卯
 庚辰(傷官)害←己卯
 庚申(傷官) ←己卯
 土曜日
 赤口
 リーフデ号は
 豊後臼杵
 黒島に漂着
 臼杵城
 太田一吉の出した小舟で日本上陸
 太田は
 長崎奉行
 寺沢広高
 に通報し
 寺沢は
 アダムスらを拘束
 船内の
 大砲や火縄銃、弾薬などの武器を没収
 大坂城
 豊臣秀頼
 に指示を仰いだ
 この間に
 イエズス会の宣教師たちが訪れ、
 オランダ人やイングランド人を
 即刻処刑するように要求
 ↓↑
 五大老首座の
 徳川家康が指示し、
 重体で身動きの取れない船長
 ヤコブ・クワッケルナックに代わり、
 アダムス
 ヤン=ヨーステン・ファン・ローデンスタイン
 メルキオール・ファン・サントフォールト
 らを大坂に護送
 併せて船も回航
 ↓↑
 5月12日(慶長五年三月三十日)
 家康が彼らを引見
 イエズス会士の注進で
 リーフデ号を海賊船だと思い込んでいた
 家康だが、路程や航海の目的、
 オランダやイングランドなど
 プロテスタント
 と
 ポルトガル・スペインら
 カトリック国との紛争の説明を
 アダムスとヤン=ヨーステンから訊いて
 誤解を解き
 しばらく乗組員たちを投獄したものの、
 処刑を要求する宣教師らを黙殺し、
 幾度かにわたって引見した後に釈放し、
 江戸に招いた
 ↓↑
 三浦按針
 アダムスは帰国を願い出たが、
 家康は米や俸給を与えて慰留し、
 外国使節との対面や外交交渉に際して
 通訳を任せたり、・・・・?この時期、アダムスは
 助言を求めたりした・・・日本語は理解してたのか?
             英語を理解出来る日本人は?
             通訳は英語と日本語を理解する
             スペイン人orポルトガル人?
 ↓↑
 この時期
 幾何学や数学
 航海術などの知識を
 家康以下の側近に授けた・・・「幾何学・数学」でアル
 1602年頃
 日本橋
 大伝馬町の名主で
 家康の御用商人でもあった
 馬込勘解由の娘、・・・・・・「馬込勘解由」でアル
 お雪(マリア)と結婚・・・・「雪=マリア」でアル
 彼女との間には、
 息子、ジョゼフ(ヨセフ)・・「Joseph・寄せ附」?
 娘、スザンナ(スーザン)・・「Susan・数得算」?
 が誕生
 ↓↑ 
 江戸湾に係留されていた
 リーフデ号沈没
 ↓↑
 家康の
 西洋式の帆船建造の要請で
 アダムスは、当初は固辞したが
 伊東に日本で初めての
 造船ドックを設け
 80tの帆船を建造・・・・・・八十遁?
 1604年(慶長九年)に完成
 家康は更に大型船の建造を指示
 1607年
 120tの船舶を完成
 この船は
 1610年に
 房総の御宿海岸で遭難し
 地元民に救助された
 前フィリピン総督
 ロドリゴ・デ・ビベロに
 家康から貸し出され、
 サン・ブエナ・ベントゥーラ(幸運)号
 と名付けられた
 ↓↑
 慶長十八年(1613年)
 慶長遣欧使節
 仙台藩
 伊達政宗
 フランシスコ会宣教師
 ルイス・ソテロを正使、
 支倉常長を副使として、
 スペイン国王
 フェリペ3世
 ローマ教皇
 パウルス5世のもとに派遣
 1611年12月2日(慶長十六年十月二十八日)
 慶長三陸地震津波
 2年後の
 1613年に
 「月の浦」から
 サン・ファン・バウティスタ(洗礼者)号が出帆
 ↓↑
 スペイン人の
 ビスカイノ提督の協力で
 陸奥国領内
 「桃生-水浜」で建造した
 ガレオン船(西洋型軍船)
 サン・ファン・バウティスタ(洗礼者)号
 約500トン級
 ↓↑
 「伊達貞山治」家の記録に
 建造船に関して
 将軍
 秀忠付きの船手頭
 向井忠勝から
 御内衆や
 公儀大工が派遣された・・・アダムスが1607年に
              120tの船舶を完成させた時の
              船大工か・・・?
 ↓↑
 家康は、
 アダムスを
 250石取りの
 旗本に取り立て、
 帯刀を許し
 相模国・・・・・・「さがみに、かみにかみて(古事記)」
 逸見(へみ)・・・「逸=それる・はやる
             ある場所からさっと抜け去る
             逸出・逸走・後逸
             横にそれて逃れる
             抜けて見えなくなる
             逸脱・散逸
             世間に知られていない」
          「逸事・逸聞・逸話・逸文」を見る
 に采地も与えた
 三浦按針の名乗りを与えられ、
 日本の武士となった
 のち、
 所領は息子の
 ジョゼフが相続し、
 三浦按針の
 名乗りも
 ジョゼフに継承された
 ↓↑
 1613年
 東インド会社
 クローブ号・・・・クローブ(Clove)=フトモモ科の
          植物チョウジノキの開花前の
          花蕾を乾燥させた香辛料の名
          原産地はインドネシアのモルッカ群島
          漢名=丁子(ちょうじ)
             丁香(ちょうこう)
 が交易を求めて日本に来航
 一行に付き添い、
 家康らとの謁見を実現させ、
 貿易を許可する
 朱印状を取りつけるなどの手助けをした
 1614年
 クローブ号帰還の際には、
 一緒に帰国できる許可が
 日英両方から出たが、
 同船司令官
 ジョン・セーリス
 と「馬が合わず」、帰国を見送った
 セーリスは何事も
 日本式のアダムズが気に入らず、
 アダムズは
 セーリスを
 無礼な青二才として嫌っていた
 一行が去ったあとは、
 それまで手伝っていた
 オランダ商館から
 母国
 イギリス商館に移る
 ↓↑
 1616年(元和二年)4月
 家康死亡
 徳川秀忠が将軍
 貿易を
 平戸のみに制限
 按針の立場は不遇となり
 按針の役目は
 「天文官」だけとなり、・・・・「天文官」に専念でアル
 幕臣や次期将軍候補の
 徳川家光らに
 警戒されながら、・・・・・・・・「?」
 1620年5月16日(元和六年四月二十四日)
 平戸で死没
 享年55歳
 ↓↑
 「鈴木かほる(?)」氏によれば、
 徳川家康
 ウィリアム・アダムスを
 外交顧問として雇用した理由は、
 自領の関東
 浦賀湊に
 スペイン人鉱夫を招聘し、
 スペイン領メキシコで行われている
 画期的な
 金銀製錬法
 「アマルガム法」を導入するためであり、
 その交渉に
 アダムスをあたらせたという新説・・・
 その理由として、
 アダムスは家康と謁見した際、
 日本との
 通商を請うたにもかかわらず、
 オランダとの通商が成立したのは
 アダムスの日本来航から
 9年後の
 慶長十四年(1609年)七月
 アダムスの母国
 イギリスとは
 慶長十八年(1613年)八月で、
 スペインのように
 家康からの働きかけではなく、
 両国の
 東インド会社使節が派遣され
 アダムスの斡旋により成立
 家康にとっては受け身で
 家康が浦賀湊の入港を指定したのは
 スペイン商船のみで、
 そのために
 三浦郡
 浦賀
 と
 逸見村
 の采地を与えた
 浦賀湊に
 スペイン商船が入港する都度、
 西国から商人が浦賀に急行し、
 浦賀は国際貿易港として賑わっていた・・・
 ウィリアム・アダムス
 の
 マニラ(スペイン領)交渉により
 浦賀フランシスコ修道院が建立され、
 江戸の修道院とともに
 関東における
 キリスト教伝播の起点となった
 ウィリアム・アダムスが
 外交顧問としてその本領を発揮したのは
 このマニラ渡海である・・・
ーーーーー
 ・・・カラの無いタマゴの復活・・・